大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
京都府宇治市五ケ庄に大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠がありました。

▲公園に遺る火薬庫防爆土堤の隧道
【探索日時】
平成20年10月5日、11月1日、平成22年10月30日、平成23年3月30日
【改訂情報】
平成30年5月6日
当地は平成20年10月5日、11月1日、同22年10月30日、同23年3月30日に探索しました。
(10月5日、10月30日は宇治駐屯地創立記念行事)

<宇治市五ケ庄周辺の陸軍施設>

▲現在の地図に施設を転写
① 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
② 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 分工場
③ 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 射場
④ 芝東借上地
⑤ 木幡駅借上地
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
⑦ 高射砲陣地
※緑文字が当記事の紹介施設
<要目・製造品目>
用地 : 245061.2㎡(74,131坪)
乾燥火薬庫 : 17棟
清涼火薬庫 : 12棟
水蓄火薬庫 : 3棟
建物 : 9棟
用途 : 乾燥、水蓄火薬の貯蔵
<遺構について>
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
明治4(1871)年、兵部省は五ヶ庄黄檗山麓に宇治火藥庫を開設、明治8(1875)年2月8日、砲兵第二方面本署、明治30(1897)年9月15日、大阪陸軍兵器本廠、明治36(1903)年4月14日、大阪陸軍兵器支廠、昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍兵器補給廠の管下になり、大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠に改称し、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦後、米軍の接収を経て大蔵省に返還され、宇治分廠跡の北側は宇治市に払い下げられ、昭和37(1962)年、北側に市営黄檗総合運動公園に、南側は京大運動場として造成され現在に至ります。

▲『大阪陸軍兵器支廠宇治火藥庫圖』(昭和9年12月3日調製)

▲遺構の配置

▲現在の宇治分廠正門付近
A 十六號清涼火藥庫隧道
有名な遺構で、この先にあった十六号清涼火薬庫の防爆土堤にあった隧道です。


▲内部
当時は軽便軌条が敷かれ中央に排水暗渠がありました

▲土堤の跡の公園
B 鉄線柵支柱
プールの脇にコンクリート製支柱が遺ります。

C 倒壊した鉄線柵
この辺りの林の中に点々とコンクリート基礎が遺ります。

D コンクリート製構造物
公園脇の道路から南側の茂みに入った場所にある池に桟橋状に突き出していますが、用途不明です。
上記『火藥庫圖』では名称が記載されていませんが、この池は当時からあり消火栓の水路が繋がっている様なので、消火栓の取水用の施設かも知れません。

E 排水溝
コンクリート製の排水溝が遺ります。
当時はこの池の南側にも小さな池があり、その池から東側にある新田川に放水していた様です。

▲排水口
北側の池に繋がっています

▲内部
F コンクリート橋
池の東側に流れる新田川に架かっています。

G 石段
新田川を上記Fコンクリート橋を渡った正面にあります。
上記『火藥庫圖』に載っており、六十六號清涼火薬庫の土堤に登る石段と思われます。

▲分かりにくいですが、石段があります
上のコンクリート塀は戦後の少年院のもの
H コンクリート橋
上記Fコンクリート橋のすぐ南側にあり、同じく新田川に架かります。

I コンクリート橋
上記Fコンクリート橋から川沿いに林を南下すると見えてきます。
同じく新田川に架かります。
上記の橋と比べると大きな物です。

▲遠景

▲近影
ア 陸軍省
異常にきれいな境界石標で、萬福寺駐車場の入口にあります。
下部は埋まっており、刻字は不明です。

イ 陸軍省所轄地 ・ 陸軍用地二一 ・ 鉄線柵支柱
バイパス東側の斜面上に3本が固まってあります。
向きから陸軍省所轄地は宇治分廠、陸軍用地と思われる低い石標は隣接する宇治製造所 射場の物と思われます。

▲陸軍用地?二一、陸軍省所轄地、鉄線柵支柱

▲陸軍用地?二一と陸軍省所轄地
ウ (陸軍用?)地
道路際にあり上部が欠損しています。

エ 陸軍用地?
水路の際にありフェンスで囲まれていて近づけません。

オ 陸軍用地
民家の玄関先にあります。
カ レール?
(財)青少年文化研修道場の建物脇に置いてあります。
分廠に敷かれていたレールでしょうか?

写真を取り忘れましたが、道場の駐車場に境界石標と思われる石標が転がっていました。
<大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠 略歴>
明治2(1869)年5月22日、戊辰戦争が終結、7月8日、官制改革により軍事防衛を管掌した軍務官が兵部省に改編され、兵部卿に旧軍務官海陸軍務總督・小松宮彰仁親王が就任、実務は次官の大輔・大村益次郎永敏卿が執行しました。
大村卿は西国での士族の反乱に備え、大阪に兵器製造を管掌する大阪造兵司、士官養成を管掌する兵學寮を設置するなど近代軍制建設を推進します。
8月13日、大村卿は伏見練兵場の操練を検閲、宇治の火薬庫予定地を視察し、20日、大阪城内の上記軍事施設、天保山の海軍施設を検分、9月5日、京都に戻った際、元長州藩士等に襲撃され重傷を負い、11月5日、大阪において死去してしまいます。
大村卿は火薬庫用地として人家密集地から離れ、宇治川、淀川の水運により大阪造兵司と連絡が容易な京都府久世郡宇治郷と宇治村五ヶ庄を選定、幕府と密接な関係にあった萬福寺領や禁裏御料が多く収公に適していた事から五ヶ庄に火薬庫設置を決定します。
明治4(1871)年、兵部省は五ヶ庄黄檗山麓の萬福寺領86,706坪を収公し宇治火藥庫を開設(通称「山の火藥庫」)、明治5(1872)年5月、従来の火薬庫である奈良県葛城郡衣笠山、旧軍務官淀出張庁船倉から第一便が移送されてきます。
明治5(1872)年2月27日、兵部省は廃止され、陸軍省が新設されます。
明治7(1874)年10月、陸軍省は黄檗山一帯の萬福寺領49,989坪(明治8年、移転料1,998円)、明治8(1875)年、柳大明神(許波多神社)の境内地1,010坪、及び山林35,547坪(移転料384円を受領し岡屋村の御旅所に移転)を収公、4棟の乾燥火薬庫を築造します。
2月8日、『砲兵方面本支廠條例』(陸軍省達第四十五號)により宇治火藥庫は砲兵第二方面本署の管下になります。
明治18(1885)年、陸軍省は南東外縁の山林11,209坪を買収します(当時の火薬庫は12棟)。
明治30(1897)年9月9日、『兵器廠條例』(勅令第三百四號)により、15日、砲兵方面本署及び支署は陸軍兵器廠に改編され、宇治火藥庫は大阪陸軍兵器本廠の管下になります。
明治36(1903)年4月14日、『陸軍兵器廠條例』(勅令第七十八號)により大阪陸軍兵器本廠が大阪陸軍兵器支廠に改編され、宇治火藥庫は大阪陸軍兵器支廠の管下になります。
明治41(1908)年、水蓄火薬庫を含め火薬庫は25棟に、大正5(1916)年、27棟(60,032坪)に、昭和9(1934)年、32棟(74,131坪)に増築されます。
昭和15(1940)年4月1日、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍兵器廠と陸軍造兵廠が統合し陸軍兵器廠に改編、兵器支廠は兵器補給廠に改称したのに伴い宇治火藥庫は大阪陸軍兵器補給廠の管下になり、大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠に改称します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い宇治分廠は機能を停止、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、10月10日、米軍130名により宇治製造所とともに接収され、火薬の処分が開始されます。
11月9日、勅令第六百三十一號『臨時陸軍殘務整理部令』が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍兵器補給廠令』は廃止され、大阪陸軍兵器補給廠は陸軍兵器行政本部殘務整理部大阪出張所(八幡鉦二大佐)と改称、残務整理を実施します。
その後、宇治分廠は大蔵省に返還され(時期、全面かどうか詳細は不明)大阪財務局の管理下に置かれ、昭和22(1947)年、事務所等管理区域は引揚者住宅に転用、また萬福寺は華僑の共同墓地用地として返還を申請しますが、宇治分廠跡はの北側は宇治市に払い下げられ、昭和37(1962)年、宇治市営黄檗総合運動公園、南側は京大運動場として造成され現在に至ります。
<主要参考文献>
陸上自衛隊宇治駐屯地彰史館展示
「砲ニヨリ宇治火薬庫地所増地ノ件ニ付伺」(明治18年4月6日 アジ歴)
『歴史地理教育 636』(平成15年3月)
『宇治市史 4』(昭和53年2月 宇治市)
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▲公園に遺る火薬庫防爆土堤の隧道
【探索日時】
平成20年10月5日、11月1日、平成22年10月30日、平成23年3月30日
【改訂情報】
平成30年5月6日
当地は平成20年10月5日、11月1日、同22年10月30日、同23年3月30日に探索しました。
(10月5日、10月30日は宇治駐屯地創立記念行事)
<宇治市五ケ庄周辺の陸軍施設>

▲現在の地図に施設を転写
① 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所
② 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 分工場
③ 東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 射場
④ 芝東借上地
⑤ 木幡駅借上地
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
⑦ 高射砲陣地
※緑文字が当記事の紹介施設
<要目・製造品目>
用地 : 245061.2㎡(74,131坪)
乾燥火薬庫 : 17棟
清涼火薬庫 : 12棟
水蓄火薬庫 : 3棟
建物 : 9棟
用途 : 乾燥、水蓄火薬の貯蔵
<遺構について>
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠
明治4(1871)年、兵部省は五ヶ庄黄檗山麓に宇治火藥庫を開設、明治8(1875)年2月8日、砲兵第二方面本署、明治30(1897)年9月15日、大阪陸軍兵器本廠、明治36(1903)年4月14日、大阪陸軍兵器支廠、昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍兵器補給廠の管下になり、大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠に改称し、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦後、米軍の接収を経て大蔵省に返還され、宇治分廠跡の北側は宇治市に払い下げられ、昭和37(1962)年、北側に市営黄檗総合運動公園に、南側は京大運動場として造成され現在に至ります。

▲『大阪陸軍兵器支廠宇治火藥庫圖』(昭和9年12月3日調製)

▲遺構の配置

▲現在の宇治分廠正門付近
A 十六號清涼火藥庫隧道
有名な遺構で、この先にあった十六号清涼火薬庫の防爆土堤にあった隧道です。


▲内部
当時は軽便軌条が敷かれ中央に排水暗渠がありました

▲土堤の跡の公園
B 鉄線柵支柱
プールの脇にコンクリート製支柱が遺ります。

C 倒壊した鉄線柵
この辺りの林の中に点々とコンクリート基礎が遺ります。

D コンクリート製構造物
公園脇の道路から南側の茂みに入った場所にある池に桟橋状に突き出していますが、用途不明です。
上記『火藥庫圖』では名称が記載されていませんが、この池は当時からあり消火栓の水路が繋がっている様なので、消火栓の取水用の施設かも知れません。

E 排水溝
コンクリート製の排水溝が遺ります。
当時はこの池の南側にも小さな池があり、その池から東側にある新田川に放水していた様です。

▲排水口
北側の池に繋がっています

▲内部
F コンクリート橋
池の東側に流れる新田川に架かっています。

G 石段
新田川を上記Fコンクリート橋を渡った正面にあります。
上記『火藥庫圖』に載っており、六十六號清涼火薬庫の土堤に登る石段と思われます。

▲分かりにくいですが、石段があります
上のコンクリート塀は戦後の少年院のもの
H コンクリート橋
上記Fコンクリート橋のすぐ南側にあり、同じく新田川に架かります。

I コンクリート橋
上記Fコンクリート橋から川沿いに林を南下すると見えてきます。
同じく新田川に架かります。
上記の橋と比べると大きな物です。

▲遠景

▲近影
ア 陸軍省
異常にきれいな境界石標で、萬福寺駐車場の入口にあります。
下部は埋まっており、刻字は不明です。

イ 陸軍省所轄地 ・ 陸軍用地二一 ・ 鉄線柵支柱
バイパス東側の斜面上に3本が固まってあります。
向きから陸軍省所轄地は宇治分廠、陸軍用地と思われる低い石標は隣接する宇治製造所 射場の物と思われます。

▲陸軍用地?二一、陸軍省所轄地、鉄線柵支柱

▲陸軍用地?二一と陸軍省所轄地
ウ (陸軍用?)地
道路際にあり上部が欠損しています。

エ 陸軍用地?
水路の際にありフェンスで囲まれていて近づけません。

オ 陸軍用地

民家の玄関先にあります。
カ レール?
(財)青少年文化研修道場の建物脇に置いてあります。
分廠に敷かれていたレールでしょうか?

写真を取り忘れましたが、道場の駐車場に境界石標と思われる石標が転がっていました。
<大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠 略歴>
明治2(1869)年5月22日、戊辰戦争が終結、7月8日、官制改革により軍事防衛を管掌した軍務官が兵部省に改編され、兵部卿に旧軍務官海陸軍務總督・小松宮彰仁親王が就任、実務は次官の大輔・大村益次郎永敏卿が執行しました。
大村卿は西国での士族の反乱に備え、大阪に兵器製造を管掌する大阪造兵司、士官養成を管掌する兵學寮を設置するなど近代軍制建設を推進します。
8月13日、大村卿は伏見練兵場の操練を検閲、宇治の火薬庫予定地を視察し、20日、大阪城内の上記軍事施設、天保山の海軍施設を検分、9月5日、京都に戻った際、元長州藩士等に襲撃され重傷を負い、11月5日、大阪において死去してしまいます。
大村卿は火薬庫用地として人家密集地から離れ、宇治川、淀川の水運により大阪造兵司と連絡が容易な京都府久世郡宇治郷と宇治村五ヶ庄を選定、幕府と密接な関係にあった萬福寺領や禁裏御料が多く収公に適していた事から五ヶ庄に火薬庫設置を決定します。
明治4(1871)年、兵部省は五ヶ庄黄檗山麓の萬福寺領86,706坪を収公し宇治火藥庫を開設(通称「山の火藥庫」)、明治5(1872)年5月、従来の火薬庫である奈良県葛城郡衣笠山、旧軍務官淀出張庁船倉から第一便が移送されてきます。
明治5(1872)年2月27日、兵部省は廃止され、陸軍省が新設されます。
明治7(1874)年10月、陸軍省は黄檗山一帯の萬福寺領49,989坪(明治8年、移転料1,998円)、明治8(1875)年、柳大明神(許波多神社)の境内地1,010坪、及び山林35,547坪(移転料384円を受領し岡屋村の御旅所に移転)を収公、4棟の乾燥火薬庫を築造します。
2月8日、『砲兵方面本支廠條例』(陸軍省達第四十五號)により宇治火藥庫は砲兵第二方面本署の管下になります。
明治18(1885)年、陸軍省は南東外縁の山林11,209坪を買収します(当時の火薬庫は12棟)。
明治30(1897)年9月9日、『兵器廠條例』(勅令第三百四號)により、15日、砲兵方面本署及び支署は陸軍兵器廠に改編され、宇治火藥庫は大阪陸軍兵器本廠の管下になります。
明治36(1903)年4月14日、『陸軍兵器廠條例』(勅令第七十八號)により大阪陸軍兵器本廠が大阪陸軍兵器支廠に改編され、宇治火藥庫は大阪陸軍兵器支廠の管下になります。
明治41(1908)年、水蓄火薬庫を含め火薬庫は25棟に、大正5(1916)年、27棟(60,032坪)に、昭和9(1934)年、32棟(74,131坪)に増築されます。
昭和15(1940)年4月1日、『陸軍兵器廠令』(勅令第二百九號)により陸軍兵器廠と陸軍造兵廠が統合し陸軍兵器廠に改編、兵器支廠は兵器補給廠に改称したのに伴い宇治火藥庫は大阪陸軍兵器補給廠の管下になり、大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠に改称します。
昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦に伴い宇治分廠は機能を停止、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により陸軍施設は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、31日、連合軍は全陸海軍用地の接収を示達して来ます。
9月21日、ハイライン大佐以下の調査団が京都に到着、25日、米第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、日本國際航空工業㈱に進駐、大建ビル(四条烏丸)を接収し司令部を開設、10月10日、米軍130名により宇治製造所とともに接収され、火薬の処分が開始されます。
11月9日、勅令第六百三十一號『臨時陸軍殘務整理部令』が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍兵器補給廠令』は廃止され、大阪陸軍兵器補給廠は陸軍兵器行政本部殘務整理部大阪出張所(八幡鉦二大佐)と改称、残務整理を実施します。
その後、宇治分廠は大蔵省に返還され(時期、全面かどうか詳細は不明)大阪財務局の管理下に置かれ、昭和22(1947)年、事務所等管理区域は引揚者住宅に転用、また萬福寺は華僑の共同墓地用地として返還を申請しますが、宇治分廠跡はの北側は宇治市に払い下げられ、昭和37(1962)年、宇治市営黄檗総合運動公園、南側は京大運動場として造成され現在に至ります。
<主要参考文献>
陸上自衛隊宇治駐屯地彰史館展示
「砲ニヨリ宇治火薬庫地所増地ノ件ニ付伺」(明治18年4月6日 アジ歴)
『歴史地理教育 636』(平成15年3月)
『宇治市史 4』(昭和53年2月 宇治市)
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