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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

長宗我部元親史跡地図、高知市が製作

高知市が長宗我部元親関連の史跡を紹介した『長宗我部元親史跡地図』を作製しました。






数年前までは「高知県と言えば坂本龍馬」の印象が強烈で、長宗我部元親の名前が出てくる事は殆どありませんでした。


しかし、ここ数年ゲーム等の影響もあり、元親もかなり名前が知れるようになってきました。
それにより長宗我部史跡巡りをする人も増加、関連の史跡も整備されつつあり、例えば居城の岡豐城址にありながら長宗我部関連の展示は僅少だった県立歴史民俗資料館には個別の展示室ができるなど、古くからの長宗我部ファンとしては嬉しい限りです。

高知市は、こうした観光客を意識した史跡地図約8千部を作製し、同市内の観光案内所などで無料配布しているそうです。
この地図は高知市のサイトからもダウンロード(PDFファイル)できます。
→→→長宗我部元親史跡地図
この地図には

高知市周辺
①土佐神社
②大高坂城址
③伝・吉良親実邸跡
④吸江庵跡
⑤朝倉城址
⑥吉良城址
⑦吉良神社
⑧大津天竺城址
⑨県立歴史民俗資料館

長浜・桂浜周辺
①長宗我部元親初陣銅像
②若宮八幡宮
③戸の本古戦場跡
④雪蹊寺
⑤長宗我部信親墓
⑥秦神社
⑦長浜城址
⑧愛馬の塚
⑨長宗我部元親墓
⑩一領具足の碑・六体地蔵
⑪浦戸城
⑫戎神社


が紹介されています。
有名所をしっかり押さえている感じです。
ただ、紹介されている史跡のすぐそばにある史跡が書かれていなかったり、地図かなり大雑把なので有名所なら問題無く行けると思いますが、無名な場所はロスなく訪問するには事前調査が必要になります。

僕が初めて高知を訪ねた平成13年は元親の知名度もまだ低く、史跡も地元の方が細々と管理している状態でした。
今ほどネットもまだ発展しておらず情報も少ないなか手探りで数点の史跡を訪ねました。

2度目に訪ねた平成20年はゲームの影響でかなり知名度が上がり、史跡も整備されつつあり、事前にかなりの情報をネットで入手することができました。
それでも細かい場所が不明で現地で地元の人に聞いたりして探しました。
2度の土佐訪問で僕が訪ねた長宗我部家関連史跡を紹介します。

岡豊城周辺
岡豊城址 【場所】
鎌倉初期に長宗我部家初代・能俊が土佐に下向し築城、天正19(1591)年、19代・元親が浦戸城に移るまで長宗我部家の居城でした。
現在は発掘調査により、中世城郭の特徴的な縄張りがかなり良好な状態で保存されています。
詰 礎石建物跡1
~詰(本丸)礎石建物跡
 ここには望楼型の櫓が建っていたと言われます。

詰下段
~詰下段

三ノ段 西部
~三ノ段

この岡豊城のある岡豊山の一画に県立歴史民俗資料館が建てられています。

伝・香川親和墓所 【場所】
香川親和公の墓(歴史民俗資料館、山道)~土佐・長宗我部
~伝・香川親和墓所
 
親和は元親の次子で、讃岐平定戦時に西讃岐守護代・香川信景の養子となり、香川家を継ぎました。
その後は讃岐衆を率い、元親の四国平定に尽力します。
天正14(1586)年、豊後・戸次川の合戦で長兄・信親が戦死すると豊臣秀吉から一次後継の朱印状が下だされますが、元親は末弟・盛親に亡き信親の娘を娶らせ後継とします。
信親は程なく病没します。家督相続の可能性が無くなった事を悔いて絶食の後死去、または主家を考慮して断食、自害したとも言われます。
非業の最期を遂げた信親は累代の墓では無く、岡豊山の中腹に重臣・国吉親繁、幸親とともに葬られています。

上村(国吉)甚左衛門(親繁)、五左衛門(幸親)墓
~国吉(上村)甚左衛門(親繁)、五左衛門(幸親)墓

香川親和、国吉親繁、幸親の墓所は看板は立っているものの、荒地のような場所にあり荒廃しています。

長宗我部家累代の墓所 【場所】
長宗我部一族墓所(岡豐山西麓)~土佐・長宗我部

場所は民家の脇を抜け、納屋の裏を通った薄暗い森の中のひっそりした場所にあります。
上段には元親の父・国親もしくは、長子・信親のものと言われる墓があり、下段に累代の墓が建っています。

殆ど整備されておらず、場所も分からなかったので県立歴史民俗資料館の方に聞いてやっとたどり着きました。
どれが誰の墓かも不明で、四国の覇者としては非常に寂しいものです。

比江山神社(比江山城址) 【場所】
比江山神社(比江山城跡)全景~土佐・長宗我部
~比江山神社

私有地のような山の中にひっそりとあり、比江山親興と妻をお祀りしています。
社殿のある高台が詰だったようです。
比江山親興は元親の従兄弟(父・国親の弟・国康の次子)で若年寄衆筆頭ですが、信親戦死後の後継問題で長幼の序を守ることを進言し、元親の不興を買い自害を命じられます。
妻と5人の子は従者とともに新改村の長福寺に逃れ匿われますが、討手により斬殺されます。

津野親忠墓所(津野神社) 【場所】
津野神社~土佐・長宗我部
~津野神社社殿

津野親忠は元親の3子(信親、親和の弟、盛親の兄)でしたが、家督が盛親に決まった後も元親に疑われ霊厳寺(後、孝山寺と改称)に幽閉されます。
元親の死の直後に起こった関ヶ原の合戦で盛親は心ならずも西軍に着き敗退、家康に恭順の意を表すべき上洛直前、土佐半国が家康と親密な藤堂高虎と親しい親忠に与えられるとの噂が広がり、盛親によって討手が向けられ親忠は自害します。
遺体は霊厳寺の一角に葬られた後、墓石を移転し墓の上に親忠をお祀りする津野神社拝殿が建てられます。

津野神社・津野親忠公の墓~土佐・長宗我部
~移転した津野親忠墓石 【場所】

長宗我部一門の墓所の中で最も荒廃しています。
非業の最期を遂げているだけに、死後の安住の地くらいは何とかして欲しいものです。

この付近には元親初期の智将・吉田孝頼の居城・吉田城址もありますが時間がなく行けませんでした。

大高坂(おおたかさ)城(高知城)周辺
高知城 【場所】
高知城
~現存12天守の1ッ「高知城」天守

現在は長宗我部家に変わり土佐に入封した山内家の居城です。
高知城は元々大高坂城と言い、長宗我部家の仇敵・本山家の家臣・大高坂氏の居城でした。
永禄末年、本山親茂が長宗我部元親に降ると、城主の大高坂経之も降伏します。
天正15(1587)年、元親は大高坂城に居城を移しますが、家臣の移住が進捗せず、また治水に失敗したことから再び岡豊城に戻ります。

現在、三の丸に長宗我部時代の石垣が発掘展示(平成17年)されているようですが、未訪問です。

伝・吉良親実邸跡(葛岡神社(吉良神社)跡) 【場所】
小高坂更生センターの敷地にひっそりあります。
案内板も無く、非常に分かりにくいです。
吉良親実公慰霊碑~土佐・長宗我部
~葛岡神社由来碑

吉良親実は元親の甥(元親の弟・親貞の長子)で、父・親貞に似た猛将で、家中の信望も扱ったようですが、信親戦死後の後継問題で比江山親興とともに長幼の序を守ることを進言し、元親の不興を買い自害を命じられます。

土佐出雲大社 【場所】
境内に比江山親興がお祀りされています。
霊験として「裁判訴訟の無実を助く」とあります。まさしく!!
出雲神社内の比江山神社~土佐・長宗我部

要法寺 【場所】
長宗我部家最後の居城・浦戸城の城門が移設されています。
要法寺・浦戸城城門(移築現存) 内側~土佐・長宗我部
~浦戸城城門

浦戸城周辺> 【場所】
月の名所は桂浜~♫の桂浜、坂本龍馬の巨大な像、坂本龍馬記念館で有名な浦戸です。
浦戸城は桂浜西側の山上に築かれていました。
山祇神社が建つ辺りが天守台と言われています。
城跡詰の段には残念ながら国民宿舎が建てられているため、遺構は殆ど破壊されています。
国民宿舎北側、南側に移設復元された石垣や説明板がありますが、駐車場の際にあり駐車している車で隠れている事が多々あります。
浦戸城天守台跡 全景~土佐・長宗我部
~この山に天守がありました。

浦戸城は長宗我部家に変わり土佐に入封した山内家により、城下町建設に狭隘なことから廃されました。

石丸神社・南浦地蔵尊 【場所】
石丸神社~土佐・長宗我部
~石丸神社

南浦地蔵尊(六体地蔵)~土佐・長宗我部
~南浦地蔵尊(六体地蔵)

関ヶ原敗戦後、浦戸城接収に抵抗し殺害された一領具足(長宗我部軍の中核をなす半農半兵の下級武士)をお祀りしています。

定説では長宗我部家の改易は、盛親が関ヶ原敗戦後に恭順の意を示すべく上洛する際に、実兄の津野親忠を殺害したことに家康が激怒したためと言われてきました。

しかし、平井上総氏(北大助教)によれば「この時期、家康はまだ覇権を確立していた訳では無く飽くまで豊臣政権に臣下的立場であり、同じ豊臣政権下の大名を個人的な感情で改易すことはできないのでは?」とし、「また土佐帰国後、徹底抗戦の準備をしていた盛親が何の保障もなく突然上洛したわけではなく、家康に直接謝罪することで御堪忍分(減転封)を得る約束がされており、家康もまた軍事行動を起こすより減転封で懐柔する方が得策と考えていたのではないか」と。

「しかし、家康が派遣した井伊家の浦戸城接収の使者に対し、竹内惣右衛門らの一領具足が激烈に抵抗したため家康が他大名への影響を考慮し戦略的、政治的判断として長宗我部家への「御堪忍分」を取り消し、改易という重い処分を下したのではないか」(『日本歴史 718号』)としています。

確かに平井説に則れば盛親が関ヶ原からの退却中に素早く側近を家康の窓口とも言える井伊直政の元に派遣して手を打っている事や、土佐全土に軍事動員をかけている盛親が突如家康に謝罪に上洛している事、浦戸城開城に久武親直や桑名吉成、吉田貞重らの重臣が積極的だったことも納得が行きます。
この論文を読んだ時は目からウロコでした。

浦戸一揆については穏健派と急進派の対立、土佐半国を盛親に残す事を要求、土着で他家への仕官が無い一領具足と(既得支配権の保障)、他家への仕官が可能な重臣との対立と言われてきましたが、平井説では断片的な史料しか無く推測としながらも、徹底抗戦の準備をしていた最中の当主不在(上洛)で急進派の統制が取れなくなり蜂起、要求として土佐半国を求めたかは不明ながら盛親の処遇に関するモノも含まれ、盛親転封後の自身たちの身上安堵も要求したものであったとし、さらに一揆の参加者に長宗我部荘家によって取り潰された吉良、津野両家の旧臣が多く含まれており、宗家の両家取り潰し後の領地政策に不満を持つ遺臣の暴発でもあったのではないかとしています。

従来は一領具足の忠義心から発生した一揆と言われていましたが、実際は自身の既得権益の保護要求が最悪の結果を招いてしまったとの見方ができるようです。

長宗我部元親墓所(天甫山) 【場所】
長宗我部元親公墓~土佐・長宗我部
~長宗我部元親墓

慶長4(1599)年5月19日、元親は上方で発病し伏見の邸において61歳で死去します。
遺言により遺骸は天龍寺で荼毘にふされ、遺骨は土佐に送られ長浜の天甫寺に埋葬され、雪蹊恕三大禅定門と謚されました。

現在は寺はありませんが、天甫山と呼ばれる山の中腹に元親の墓が三谷家墓(「元親公に仕え二番家老にて千五百石を給う」とありますが、詳細不明)と並んであります。

元親の諡が「雪蹊恕三大禅定門」、信親の諡が「天甫寺常舜禅定門」であること、元親の菩提寺が雪蹊寺であるにも拘わらず数キロも離れた天甫寺に葬られたのか疑問ということから、両者の墓は実は逆で天甫寺=信親、雪蹊寺=元親とも言われています。

麓には戸次川の合戦で戦死した兵を弔う兵士の塚、秀吉から拝領した元親の愛馬「内記黒」の墓と言われる愛馬の塚があります。

兵士の塚~土佐・長宗我部
~兵士の塚

愛馬の塚(内記黒の墓)~土佐・長宗我部
~愛馬の塚 【場所】

内記黒は戸次川の合戦時に島津勢に包囲された元親のもとに現れ、包囲を突破して戦場を離脱しました。

若宮八幡宮 【場所】
若宮八幡宮(長浜城攻めの際、陣を敷き必勝祈願をした出蜻蛉式社殿)~土佐・長宗我部
~拝殿

元親が初陣である本山茂辰との長浜の戦いに挑むにあたり、戦勝祈願をしたことで知られます。
秀吉麾下部隊として九州征伐に挑む際にも戦勝祈願をしますが、軍旗鳥居に引っかかり倒れる凶事に見舞われます。戸次川の合戦で大敗、長子・信親を始め多くの武将を失った元親は不吉として鳥居を撤去、以降当神社に鳥居がありませんでしたが、江戸時代の地震の際に鳥居の基礎が地表に出てきた事から吉兆として再び鳥居が造られます。

若宮八幡宮の参道には凛々しい長宗我部元親公初陣像があります。 【場所】
長宗我部元親公初陣像 正面~土佐・長宗我部
~長宗我部元親公初陣像

周囲には戸次川の合戦で戦死した長宗我部家臣を記した銘板などがあります。
戸次川の合戦は大友家救援のため秀吉によって派遣された四国勢(長宗我部元親、信親、十河存保ら)と九州制覇を目指す島津家(島津家久)との間に戦われた合戦です。
秀吉軍の軍監・仙石秀久が功を焦り長宗我部元親、信親、十河存保らの反対意見を退け暴走、島津軍得意の釣り野伏せにかかり大敗、秀久は真っ先に逃走、信親、十河存保は戦死、元親はからくも撤退しました。
将来を期待された信親の戦死により元親は人が変わり、後継に4子・盛親を指名、反対する一門、重臣を粛清するなど家臣団の弱体化を招き、結束を崩壊させるなど長宗我部家滅亡の発端になります。

戸の本古戦場跡(戸の本1号公園) 【場所】
戸の本古戦場跡(戸の本1号公園)「古墳なり、こぼつなかれ」の碑~土佐・長宗我部

元親の初陣である本山茂辰との長浜の戦いの一部である戸の本の戦いが行われた古戦場です。

碑には「古墳なり、こぼつなかれ」と刻まれています。
合戦で出た多数の戦死者を埋葬していましたが、後に干拓された際に骨が多数出たことから注意喚起するために建てられた碑です。

雪蹊寺 【場所】
雪蹊寺~土佐・長宗我部
~雪蹊寺本堂
四国八十八箇所霊場の第三十三番札所にして、長宗我部元親の菩提寺です。

本堂と右側にある大師堂の間を進み、本堂の裏に行くと長宗我部信親、戸次川の合戦の際の戦没者供養塔、元親に請われ住職となり、浦戸一揆の際も開城に尽力した月峰和尚の墓があります。
ちなみに月峰和尚は香宗我部親泰の側近・中山田泰吉の子です。

雪蹊寺・長宗我部信親公墓~土佐・長宗我部
~長宗我部信親の墓 【場所】
 先述したように元親の墓とも言われています。

秦神社 【場所】
秦神社 拝殿 別角度~土佐・長宗我部
~秦神社拝殿

明治3年、雪蹊寺が廃寺になったのに伴い、ご本尊の元親木造などを遷座しお祀りしています。
ご祭神は長宗我部元親、信親、戸次川合戦戦死長宗我部家臣、長宗我部氏の祖先・秦家代々の霊です。

吉良神社 【場所】
吉良神社 拝殿~土佐・長宗我部

元親の継嗣問題で元親に度々諫言をしたため不興を買って死を命ぜられた元親の甥・吉良親実と同時に死を命ぜられ或いは上意討ちにあった親実の親族、家臣をお祀りしています。
ご祭神は吉良親実、宗安寺如淵(親実の弟)、永吉飛騨守(以下親実の家臣)、勝賀次郎兵衛、吉良彦太夫、城ノ内太守坊、日和田与左衛門、小島甚四郎です。
高知県に伝わる怨霊話「八人みさき」の元になっています。

なお、通説では元親に吉良親実、比江山親興を讒言し殺害、津野親忠を殺害し長宗我部家改易の発端を造ったのは久武親直と言われていますが、後世の軍記物にしか見えず創作です。
土佐人にとって長宗我部元親は「絶対的な英雄であり、汚れた部分は無い」といった心情から、負の部分を全て側近の親直に被せた結果親直=佞臣といった形になったと思われます。
このような例は秀吉側近の石田三成、武田勝頼側近の長坂釣閑斎、跡部勝資にも見られます。

以上、僕が訪ねた長宗我部家関連遺構を紹介しましたが、高知県内にはまだまだ関連史跡があります。
近年の長宗我部人気も手伝い、徐々に整備されてきてはいますが、現状では元親関連のみに留まっている印象です。
今後、元親のみではなく子供や甥、家臣の墓や城も整備していってほしいものです。
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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