当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第四師團司令部(中部軍、第十五方面軍・中部軍管區司令部)

我が大阪の象徴である大坂城本丸に『鉄道唱歌』において「三府の一に位(くらい)して 商業繁華の大阪市 豐(ほう)太閤のきづきたる 城に師團はおかれたり」と歌われた第四師團司令部がありました。

のちに第四師團司令部は二之丸に移転、庁舎は中部軍第十五方面軍中部軍管區司令部として使用されます。
また隣接して第三十五航空情報隊本部がありました。
①司令部庁舎 (2)(大阪陸軍遺構)
▲現在も偉容を誇る第四師團司令部庁舎
  拙ブログのトップ画像も勿論、大阪の誇り第四師團司令部庁舎です!

【探索日時】
地元のため随時

【改訂情報】
平成23年11月18日・・・内部特別公開時の様子追加
平成25年9月20日・・・自動車庫の遺構追加
大阪城 陸軍 師団 第四師団 第4師団 司令部 航空情報隊 防空情報隊 女子通信 ミライザ大阪城 MIRAIZA OSAKA-JO





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
大阪陸軍造兵廠200525(大阪陸軍遺構)
▲昭和20年5月25日 米軍空撮

昭和20(遺構)(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に軍事施設を転写
① 第十五方面軍司令部・中部軍管區司令部(旧第四師團司令部)
② 第三十五航空情報隊 本部
③     〃     宿舎

④ 大阪師管區司令部 (旧留守第四師團司令部)
⑤ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
⑥ 大阪陸軍兵器補給廠
⑦       〃      城内西兵器庫
⑧       〃      城内北兵器庫
⑨       〃      青屋口門兵器庫
⑩       〃      玉造門兵器庫
   大阪師管區経理部 玉造門前倉庫
⑪ 大阪城南陸軍射撃場
⑫ 大阪師管區 歩兵第一補充隊(旧歩兵第八聯隊補充隊)
       〃  通信隊補充隊
⑬ 大阪陸軍被服支廠
⑭      〃      被服倉庫
⑮ 大阪師管區 歩兵第二補充隊(旧歩兵第三十七聯隊補充隊)
⑯ 大阪師管區 経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑰ 中部憲兵隊司令部
⑱ 陸軍用地
⑲ 大阪聯隊區司令部跡
⑳ 大阪師管區経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
㉑ 大阪師管區司令官官舎
㉒   〃    副官官舎
㉓ 大阪陸軍病院 大手前分院
㉔ 大阪偕行社
㉕ 大阪軍人會館
㉖ 大阪偕行社學院
㉗ 大阪陸軍造兵廠
㉘ 大阪陸軍被服支廠 城東検査場
㉙ 眞田山陸軍墓地 
㉚ 高射砲陣地(高射第三師團高射砲第百二十二聯隊第六中隊陣地)?
※施設配置・名称は昭和20(1945)年中旬
※緑文字が当記事の紹介施設


※当記事は本来であれば上記の名称に即して「第十五方面軍・中部軍管區司令部」と記述すべきですが、便宜上最も有名な「第四師團司令部」と記述します。


遺構について
大坂城周辺遺構 1(大阪陸軍遺構)
▲本丸の遺構配置
※青字は地図にリンクしています

① 第四師團司令部
(のち中部軍司令部、第十五方面軍司令部・中部軍管區司令部)

明治維新に伴い新政府に移管された大坂城は広大な敷地を有している事もあり、近代陸軍発祥とともに陸軍関連の施設、部隊が設置されていきました。

明治4(1871)年7月14日、廃藩置県が実施され、8月2日、全国一律の兵制が可能となったことから東京、仙台、熊本と並び大阪鎭臺が創設され、大阪城本丸に本営が設置されます。
明治18(1885)年、大坂城本丸一帯に和歌山城二之丸御殿の白書院、黒書院、遠侍の3棟が移築(紀州御殿)され、鎭臺本營として使用されます。
明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺本營は第四師團司令部に改編されます。
昭和4(1929)年10月1日、師團司令部庁舎の新築が開始され、昭和6(1931)年3月22日、重厚なロマネスク様式の庁舎が完成します(詳細は後述)。

明治27(1894)年8月1日~12月24日、明治二十七八年戰役(日清戦争)、明治37(1904)年4月16日~明治38(1905)年12月18日、明治三十七八年戰役(日露戦争)、昭和12(1937)年4月26日、滿洲駐箚に際し留守第四師團司令部が編成されます。
昭和12(1937)年8月2日、留守第四師團司令部に中部防衛司令部が併設、昭和15(1940)年8月1日、中部防衛司令部の中部軍司令部改編に伴い、昭和16(1941)年1月、留守第四師團司令部は二之丸に新築された木造庁舎(④)に移転、昭和20(1945)年2月1日、中部軍司令部は第十五方面軍司令部(作戦)に改編、中部軍管區司令部(軍政)が併設され、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、市内の住友銀行ビルに司令部を設置(昭和21年1月27日、京都に移駐)、29日、同軍団第98師団により大坂城全域は接収され、城内への日本人の立ち入りが禁止されます。
昭和22(1947)年9月12日、米軍の失火により天臨閣(紀州御殿)が全焼してしまいます。
昭和23(1948)年3月20日、大阪府庁内にあり狭隘だった事から大阪市警察局本部(昭和24年9月に大阪市警視庁に、7月1日、大阪市警察本部に改称、昭和25年6月30日、廃止)、大阪府警察本部が司令部庁舎に移転、8月25日、大坂城全域の接収が解除され大阪市に移管、本丸、二之丸(大阪陸軍兵器補給廠関連)の陸軍施設は近畿管区警察学校に転用されます。
昭和34(1959)年2月28日、大阪府警察本部は大阪憲兵隊跡の新築庁舎に移転、本部庁舎は大阪市に返還されます。
7月、市制70周年記念事業の一環として大坂城の整備が決定、近畿管区警察学校は騎兵第四聯隊跡に移転し大坂城の整備・修復が実施され、昭和35(1960)年12月1日、司令部庁舎は大阪市立博物館に転用されました。
平成13(2001)年3月31日、大阪市立博物館は大阪歴史博物館に統合・移転し閉鎖、長らく放置されていましたが、平成28(2016)年12月9日、大阪城公園を管理する大阪城パークマネジメント㈱(平成27年4月1日から)より飲食店、土産物屋数店舗が入る複合施設としての改修が発表され、平成29(2017)年10月19日、「ミライザ大阪城」として開業しました。

ア 第四師團司令部庁舎
第四師團司令部庁舎 北西から(大阪陸軍遺構)
▲庁舎全景
  昼間は観光客がウジャウジャいてますが、16:30を超えるとゆっくり撮影できます。

第四師團司令部庁舎中央 南西から(大阪陸軍遺構)
▲庁舎中央部の近影
  外観は殆ど当時のままですが、車寄せ前面に付いていた照明は撤去されています。

第四師團司令部庁舎-『建築と社会』第四師團司令部庁舎 (12)(大阪陸軍遺構)
▲竣工当時の中央部

第四師團司令部庁舎-1階-ち 車寄せ(大阪陸軍遺構)
▲玄関前の車寄せ
 紫雲石に彫刻が施されています。

第四師團司令部庁舎 定礎(大阪陸軍遺構)
▲車寄せ左側にある「定礎」

①天守からの司令部(大阪陸軍遺構)
▲大坂城天守廻縁(最上階)から見た庁舎

①司令部庁舎 (4)(大阪陸軍遺構)
▲陸軍時代は塔屋正面には金鍍金で直径1m5㎝の菊の御紋を戴いていましたが、現在は僅かに跡(丸い色が違う部分)があるのみです。

①司令部庁舎裏側中央最上階のステンドグラス(大阪陸軍遺構)
▲2階から3階への階段踊り場の明かり取り(建物裏側)はステンドグラスが入っていいます。
  2階中央は貴賓室のため、皇族方が部屋から御出ましの際に見える仕様になっていたと思われます。

第四師團司令部庁舎 北側(大阪陸軍遺構)
▲庁舎北側

第四師團司令部庁舎 裏(大阪陸軍遺構)
▲庁舎裏側
  裏には地下に入口があります。

第四師團司令部庁舎 裏口(大阪陸軍遺構)
▲裏口


銃架
大東亜戦争末期、司令部庁舎の塔屋上、大手前配水場(天守東側)、大坂城西側の大阪府庁舎屋上に機関砲が設置されていました。
司令部庁舎塔屋には現在も銃架があり、天守廻縁から見ると僅かに見えます。
司令部塔屋の銃架(大阪陸軍遺構)
▲非常に見え難いですが、円抜部分に銃架が見えます。
  銃架は円錐型のコンクリート台座に直接銃架(錆ついていますが現存)が取り付けられています。
 近くから撮った写真を見るとかなり小さく、「機関砲」と言うよりは「重機関銃」程度の銃架に見えます。


※平成23(2011)年11月、庁舎内部が特別公開されました。
内装は警察本部、博物館転用時に大幅に改装されてしまっています。
第四師團司令部庁舎-1階-た 玄関内部(大阪陸軍遺構)
▲1階「玄関」

第四師團司令部庁舎-『建築と社会』第四師團司令部庁舎 玄関受付(大阪陸軍遺構)
▲当時の玄関受付窓
 玄関は外壁同様に壁は日華石張、笠木(窓枠上部の装飾)はテラコッタ、窓枠は紫雲石粗面彫刻、窓台は大理石霜降りのロマネスク様式に統一されていましたが、現在は見る影もありません。

第四師團司令部庁舎-1階 中央階段(大阪陸軍遺構)
▲1階階段廻り

第四師團司令部庁舎-『建築と社会』第四師團司令部庁舎 1階段室(大阪陸軍遺構)
▲当時の階段廻り
 床は有田タイルが張られていましたが、現在は安っぽい床材が張られています。

第四師團司令部庁舎-1階 北側廊下(大阪陸軍遺構)
▲1階 北側廊下(北側出口から)
 天井は全てアーチ状の装飾が施されています。

第四師團司令部庁舎-1階 北側廊下 (2)(大阪陸軍遺構)
▲1階 北側廊下(南側階段から)
 階段廻りの壁面腰羽目(下半分の腰板)は焼き紫雲石で薄茶色の当時のままです。

第四師團司令部庁舎-1階 南側廊下(大阪陸軍遺構)
▲1階 南側廊下
  各部屋の扉は全て戦後にガラス付きの扉に交換されているようです。

第四師團司令部庁舎-2~3階段 て 貴賓室前(大阪陸軍遺構)
▲2~3階階段
  手摺は大理石製で手摺上部の装飾は石膏の銀燻仕上です。

第四師團司令部庁舎-2階 南側廊下(大阪陸軍遺構)
▲2階 南側廊下
 1階同様、各部屋の扉は全て戦後にガラス付きの扉に交換されているようです。

第四師團司令部庁舎-2階-て 貴賓室 南側(照明は戦後の物)(大阪陸軍遺構)
▲貴賓室
 梁は当時のまま、石膏彫刻ペンキ拭き取り仕上げです。
 照明は博物館時代の物です。

①4D司令部 貴賓室(大阪陸軍遺構)
▲竣工当時の貴賓室(上掲写真と同じ角度)
 壁・天井は金糸入緞子張り、壁面木部はチーク材ラック(ニス塗り)仕上げの豪華なものでしたが、石膏彫刻の天井以外は大幅に改変され、原形を留めていません。

第四師團司令部庁舎-2階-と 露台(大阪陸軍遺構)
▲露台から見た庁舎

第四師團司令部庁舎-2階-と 露台からの庁舎(大阪陸軍遺構)
▲庁舎塔屋

第四師團司令部庁舎-『建築と社会』第四師團司令部庁舎(大阪陸軍遺構)
▲竣工当時の庁舎塔屋
 貴賓室の窓枠は戦後に改変されているのが分かります。

第四師團司令部庁舎-2階-て 貴賓室 明り取り窓の装飾(大阪陸軍遺構)
▲貴賓室の明り取り窓ガラス
  3ヶ所ある明り取り窓ガラスのうち、中央の物のみ当時の切子ガラスが残されています。
  両側の明り取り窓は残念ながら換気扇が取り付けられてしまい、ガラスはありません。

各装飾
第四師團司令部庁舎-1~2階段(大阪陸軍遺構)
▲階段側面の唐草紋様
  当時の写真を見ると元々濃い色が塗られていたようです。

第四師團司令部庁舎-2階段の装飾(大阪陸軍遺構)
▲階段上部のアーチの装飾

第四師團司令部庁舎-1階 中央階段前の天井(照明は戦後の物)(大阪陸軍遺構)
▲階段前の天井にも微細な装飾が施されています。

第四師團司令部庁舎-2~3階段のステンドグラス(大阪陸軍遺構)
▲2~3階の階段踊り場上部のステンドグラス


イ 井戸
庁舎の北東の裏にあります。
現在は金属の蓋で塞がれており、内部は見れません。
イ 庁舎裏の井戸(大阪陸軍遺構)


ウ 「明治天皇聖躅」碑
茂みに埋もれてます。
裏側は「臨時軍事病院跡」となっています。
明治10年3月31日、西南の役の際に前線となった大阪鎭臺病院を 明治天皇御自らが内閣顧問・木戸孝允らを従えて御見舞になられた記念の碑です。
ウ 臨時軍事病院跡碑(大阪陸軍遺構)


エ 火災報知機
エ 司令部脇の火災報知機 (2)(大阪陸軍遺構)

エ 司令部脇の火災報知機(大阪陸軍遺構)
▲火災報知機の文字が右始まり(左始まりになるのは戦後すぐ)なので、 当時の物と思われます。


オ 「杼樟之記」碑
原文は1文字目が旧字体で木偏に豫です。
明治31(1898)年3月15日、当時の大阪衛戍司令官(第四師團長)・小川又次中将が、豊臣秀吉の御手植えの杼樟(クスノキ)が戊辰の役で焼けてしまったのを惜しみ、同じ場所にクスノキを植樹した記念に建立しました。
現在では現存する大坂城の遺構は徳川期の物と判明していますが、当時は豊臣期の物と思われていました。
オ (木予象)樟之記碑(大阪陸軍遺構)
▲以下の様に刻字されっています。
「天正十一年豊公大坂城ヲ築クノ日杼樟樹ヲ此ニ手栽シテ繁茂シ二百八十余載ヲ経テ明治戊辰ノ兵火ニ罹リ今唯々枯株ヲ餘セリ  予其跡ノ終ニ湮滅ニ帰センコトヲ惜ミ更ニ同樹ヲ植ヘ以テ公ノ遺愛ヲ存ス  後人幸ニ之ヲ保護セヨ
明治三十一年三月十五日
大坂衛戍司令官 陸軍中将 正四位 勲二等 功三級 男爵 小川又次 」

上記「杼樟之記」の横にもう1つ「杼樟」と刻印された小さな碑が埋もれています。
オ (木予象)樟之記碑脇の(木予象)樟?(大阪陸軍遺構)


カ 「明治天皇駐蹕之所」碑
大正14(1925)年5月10日、大阪市青年聯合團により建立されました。
側面には「大阪城址」と刻印されています。
カ 明治天皇駐蹕之所碑(大阪陸軍遺構)


キ 馬繋場の壁
師團司令部庁舎南側の石垣沿いに師團長以下司令部職員の乗馬の馬繋場がありました。
現在、馬繋場は破壊されてしまいましたが、石垣に直接設置されていた厩舎のコンクリート壁、支柱の跡が遺ります。
キ 馬繋場跡 (2)(大阪陸軍遺構)
▲現在の馬繋場跡
  中央の右側の樹木の右側に僅かにコンクリートの壁跡が見えます。

キ 馬繋場跡(大阪陸軍遺構)
▲馬繋場の壁

キ 馬繋場(大阪陸軍遺構)
▲建設当時の馬繋場
  手前の樹木が上掲写真にも写っています。

また厩舎西端から司令部庁舎南側外壁にかけて建てられていた通用門の鉄柵の取り付け孔が残されています。
キ 馬繋場跡と柵取り付け穴(大阪陸軍遺構)
▲通用門の鉄柵取り付け孔(右側の孔)と馬繋場の壁
 コンクリート壁跡の両側の石積みも、馬繋場建設時に造られたものです。

『建築と社会』第四師團司令部庁舎 通用門(大阪陸軍遺構)
▲当時の通用門と鉄柵


自動車庫跡
司令部庁舎北側にある金蔵の東側には師團長、幹部送迎用の自動車の車庫がありました。
現在は痕跡すらありません。
金蔵と自動車庫跡(大阪陸軍遺構)
▲自動車庫跡(手前の広場)

車庫(大阪陸軍遺構)
▲自動車庫と建設中の天守(左側に僅かに見えるのが金蔵)

※平成25年9月20日、豊臣期石垣の発掘調査で車庫の基礎が出土しました
第四師團司令部自動車庫 大坂城 現地説明会南東から
▲発掘調査で出土した自動車庫の基礎
  写真左側が入口

第四師團司令部自動車庫 大坂城 現地説明会北東から
▲裏側から(テント側が入口)

第四師團司令部自動車庫 大坂城 現地説明会柱部分
▲柱部分の鉄筋

第四師團司令部自動車庫 大坂城 現地説明会東側の小部屋 東から
▲東側の部屋の半地下室


物置
大阪府東警察署城内警邏連絡所の東側にコンクリート製の小型物置があります。
構造から当時の物と思われますが、詳細は不明です。
司令部脇の倉庫(大阪陸軍遺構)


大坂城復興天守(大阪陸軍遺構)
▲大坂城復興天守
  大東亜戦争中、天守は中部軍防空情報隊、次いで第十五方面軍通信隊が使用していました。


午砲
大天守入口に置かれています。
午砲(大阪陸軍遺構)

明治3(1870)年6月25日、天保山薹場にあった大砲を大坂城天守台西南隅(鎭臺本営庁舎東側に東向に、次いで紀州御殿南側の櫓跡に西向けにとも)に据付け毎日朝・昼・夜の3回、黒色火薬を用いた空砲により、報時業務を開始しました。
明治7(1871)年7月4日から正午のみとなります。
午砲(大正期)(大阪陸軍遺構)
▲大正期に午砲(空砲)射撃を行う野砲兵第四聯隊の砲兵

大阪市民には「お城のドン」や「お午(ひる)のドン」と呼ばれ親しまれましたが、大正11(1922)年、経費削減のため廃止(大正13年、府庁舎建築現場の騒音除去のため大阪府の要請で廃止とも)されました。
昭和6(1931)年11月、大天守復興に伴い小天守台西隅に移動されましたが、エレベーター設置により現在は天守入口に移動されています。
※有料地区にあるため、見学には入城料600円が必要です。


ク 空襲による被弾でズレた石垣
天守台西側のズレは戦後の改修で余り目立ちません。
ク 天守台西側被弾によりずれた石垣(大阪陸軍遺構)
▲ズレた部分の周辺は高温で焼かれたため、石材にひびが入っています。

ケ ズレた石垣
天守台東側は西側に比べ明確に分かります。
ケ 天守台東側被弾によりずれた石垣(大阪陸軍遺構)
▲衝撃で飛び出した石材


② 第三十五航空情報隊本部
昭和18(1943)年5月18日、中部軍隷下に中部軍防空情報隊が編成され、昭和19(1944)年6月26日、中部軍航空情報部、昭和20(1945)年4月10日、第三十五航空情報隊に改編されます。
同隊は本部、警戒隊、監視隊、通信隊、放送隊で編成され、中部軍管區内各地の電波警戒機甲、及び乙、防空監視哨からの情報を収集し敵機の侵入を監視、関西防空の重要な任務を担いました。

本部は当初、司令部庁舎内にあり、大坂城天守内で任務にあたりましたが、本丸(②)にコンクリート製耐弾庁舎(地上3階、1階は半地下式、通称「防空庁舎」)の完成(時期不明)に伴い移転します。
防空庁舎は1階に作戦室、放送室、指揮連絡室、2階に情報室、電話交換室、3階に無線室(1階と3階は資料により逆)があり、冷暖房、空気清浄機が完備され、外観には迷彩塗装が施されていました。

停戦後、本丸を使用していた大阪府警時代の空撮にも写っていますが、その後の大坂城整備の際に破壊されてしまった様です。
大坂城(昭和32年) 防空庁舎(大阪陸軍遺構)
▲昭和32(1957)年の空撮
  赤丸が「防空庁舎」

第三十五航空情報隊跡(大阪陸軍遺構)
▲現在の防空庁舎跡
  この場所には元々櫓がある訳でも無いのに一段高くなっている事から、防空庁舎の基礎部分をそのまま埋めて段状にした様です。


③ 第三十五航空情報隊 宿舎
昭和6(1931)年11月、大坂城天守復興に伴い山里丸には噴水や藤棚、遊具が置かれ公園として一般市民に開放されます。
昭和15(1940)年、國防館(陸軍省主催の最新兵器を展示・体験、特に科学戦を啓蒙する施設)が開館しますが、大東亜戰争開戦後の昭和17(1942)年9月、天守を始め大坂城一帯は陸軍省、大阪府との取り決めにより防諜のため一般人立ち入り禁止となります。

昭和18(1943)年5月18日、中部軍防空情報隊が編成され、山里丸には兵舎、炊事場、同時期に採用が開始された同隊通信隊勤務の女子通信手の宿舎が建てられました。
③第三十五情報通信隊宿舎(大阪陸軍遺構)
▲山里丸に建てられた第三十五航空情報隊兵舎、女子通信手宿舎

③山里丸(大阪陸軍遺構)
▲噴水の周囲でくつろぐ女子通信手
  手前の複葉機は放置された國防館の展示品

女子通信手の宿舎は木造2階建て、畳敷きの広間が2部屋あり、山里口の内桝形内には豚舎(当時、極楽橋は無い)がありました。

昭和20(1945)年6月1日、兵舎、宿舎は米軍の空襲により焼失してしまいますが、幸い死傷者は無く以降、航空情報隊は大坂城天守を宿舎に、女子通信手は生駒町(現、市)の國民學校を宿舎として借り上げます。

山里丸も大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て、大阪市に移管され公園として整備され、現在に至ります。

サ 「真心」碑
昭和41年11月、元女子通信手 (刻字は「中部第三十五航空情報隊 女子防空通信手」)有志により建立されました。
③真心碑(大阪陸軍遺構)
▲女子通信手は同隊の通信隊(翼隊)に属し「死すとも受話器を離さじ」を合言葉に関西防空の重要な任務(後述)に当たっていましたが、特に何の説明も無く、これだけでは何の碑か全く分かりません。

・・・と言う事で上手ではありませんが、参考文献に載っていた回想画を中心に、ネット上で散見する東部軍女子通信手の写真を参考にして女子通信手を描いてみました(^_^;)
中部軍防空情報隊 第三十五航空情報隊 通信隊(翼隊) 女子通信手(大阪)女性軍人軍属(イラスト)001
▲女子通信手の制服変遷

採用当初の制服は夏・冬ともにサージ生地でしたが、第三期頃より物資の欠乏により富士絹になります。
また空襲の頻発に伴いスカートは紺色のもんぺに変更されるも格好が悪いため、多くの方がスラックス型のもんぺを仕立てて着用していた様です。
なお城内での勤務(通信、内務)に際しては国防色の事務服を着用しました。
第三十五航空情報隊、及び女子通信手についての詳細は後述します。

※女子通信手(女通)についてネット上では「女子通信」との表記を散見しますが、女通が採用された内地の第三十一・三十二・三十三・三十五・三十六航空情報隊の編制に(当たり前ですが)女子通信隊は無く、正確には編制内にある「“通信隊”勤務の女子通信」です。


コ 空襲による弾片跡
山里丸から本丸に続く桝形石垣には爆弾の炸裂により生じた弾片跡が残ります。
一部では機銃掃射跡と言われていますが、形状、範囲から弾片跡です。
コ 山里丸の被弾跡(爆弾の弾片による)(大阪陸軍遺構)


その他
シ 送水管
大阪砲兵工廠において製造されました。
大阪砲兵工廠は陸軍の兵器・軍装品を主に製造していましたが、民需品の製造も行っており当時の西日本の水道管は殆どが大阪砲兵工廠で製造されていました。
大阪市内のコレラ予防のため建設された大手前配水場が明治28(1895)年に竣工していることから、同時期に製造されたと思われます。
シ 本丸から西の丸への送水管(大阪陸軍造兵廠製)(大阪陸軍遺構)


地下壕
昭和19(1944)年下旬から昭和20(1945)年初旬頃、司令部庁舎と第三十五航空情報隊、天守に配置された第十五方面軍通信隊、本丸空堀まで地下壕(退避壕)の建設が開始されます。
設計は大阪市土木局出身の平岡享技師が行い、数名の技師が補佐、建設工事には富山県の佐藤工業が請け負い、管区内から急遽召集された労務者、勤労奉仕団など約100名が昼夜交代で作業に当りました。

地下壕は空堀の底に接する石垣2m四方を爆破し撤去、地下15m地点の南北を主孔(空堀から124m地点で本丸地下に残る豊臣期石垣に当たり迂回)とし掘削を開始し、続いて東西に複数の枝坑を掘削、5月末、総延長約300mの地下壕が完成します。
内部はは2m角の正方形で両側に松材で支保工、天井は杉皮葺き、排水溝が造られ、通路両側に椅子が並べられていました。
本丸地下壕(大阪陸軍遺構)
▲地下壕の配置
 赤線:地下壕
 イ、ハ、ホ:地下壕入口(滅失)
 :地下壕入口(痕跡あり)
 A、B、C:地下壕入口(空堀内、痕跡あり)
 :地中にある豊臣期大坂城の石垣
 ?:形状不明

停戦後、地下壕はそのまま放置されていましたが、昭和25(1950)年、崩落により地表が陥没、当時庁舎を使用していた大阪市警本部の要請を受けた大阪市土木局が地上から掘削した縦穴から水を混ぜた土砂を流し込み埋設、また庁舎の地階入口もコンクリートで塞がれてしまいました。
昭和30(1955)年、空堀内の北側壕口が石材で閉鎖、昭和44(1969)年、空堀内のズリ山も均されてしまいます。

①司令部庁舎ー南側前面の地下壕入り口跡(大阪陸軍遺構)
▲司令部庁舎地階南側にある閉鎖された壕口跡(室外機手前の左側の壁、光があたっている部分)

A 地下壕入口跡
A 地下壕入口(きれいな石垣)(大阪陸軍遺構)
▲明るく抜いた部分が閉鎖された部分
  戦後積み直された石材の幅は周囲の半分くらいしか無く、きれいです。

B 地下壕入口
C 地下壕入口
上記の本丸地下壕とは別に、二の丸に所在した留守第四師團司令部(のち大阪師管區司令部)用の地下壕も掘削されます。
建設時期、規模、形状など詳細は不明ですが、同時期に掘削されたと思われます。

B 留守第四師団司令部 地下壕 (2)(大阪陸軍遺構)
▲地下壕壕口 B
  殆ど埋まっていますが、辛うじて壕口が見えます。

C 留守第四師団司令部 地下壕(大阪陸軍遺構)
▲地下壕壕口 C
  コンクリート製支保工が見えます。

その他
本丸には軍関連以外の石碑類が遺されていますが、混同しないように一応紹介しておきます。
「教育勅語渙発四拾周年記念」碑
教育勅語制定40周年を記念し、当時の大阪市教育会等の協賛を得て昭和5(1930)年10月30日に起工、昭和6(1931)年2月11日に竣工しました。
教育勅語渙発四十周年記念(大阪陸軍遺構)

ラジオ塔
昭和初期はラジオ受信機が高価だったため、野外において共同でラジオ放送を聴取するラジオ塔が公園等に設置されました。
「教育勅語渙発四拾周年記念」碑の周辺、南側の庭園付近に複数本あります。
ラジオ塔(大阪陸軍遺構)

櫻門
寛永3(1626)年、幕府による大坂城再建時に再建されましたが、明治元(1868)年、明治維新の際の大火で焼失してしまいました。明治20(1887)年に陸軍が再建、戦後、重要文化財に指定されています。
櫻門(大阪陸軍遺構)

櫻門 (2)(大阪陸軍遺構)
▲陸軍時代、門の両脇に歩哨舎がありました。

また櫻門桝形内には「銀明水井戸の井筒」があります。
「銀明水井戸」は元々本丸の南西にありましたが、第四師團司令部庁舎新築に伴い井筒と周囲の敷石が現在の場所に移設され、水道水が引かれました。


第四師團司令部庁舎 略歴
-司令部庁舎要目-
・建設 : 起工-昭和4(1929)年10月1日/竣工-昭和6(1931)年3月22日
・設計 : 第四師團経理部 平田範政
・建設 : 清水組
・面積 : 1729.92㎡・高さ21.35m、鉄筋コンクリート地上4階、地下1階
・外壁 : 腰-紫雲石、上部-スクラッチタイル張

昭和3(1928)年11月10日、大阪市議会において關一大阪市長により、昭和天皇御即位の御大典記念事業の一環として大坂城天守の復興案が議決されます。
陸軍省は(大坂城全域は陸軍用地)本丸内に点在する第四師團司令部施設(司令部、法官部、法廷、軍醫部、経理部、会議室、倉庫、馬繋場、厩務員室など)を集約できる庁舎の建設、公園区画の明確化、有事の際の立入禁止措置を条件として天守の復興と本丸(山里丸含む)の一般開放を認可します。

昭和4(1929)年10月1日、市民の寄付金約150万円のうち80万円を充当し第四師團司令部庁舎が起工、昭和5(1930)年5月、大坂城天守の復興が開始されます。

庁舎は第四師團経理部の平田範政技師が設計、当初は復興される天守や紀州御殿、金蔵との調和を取るべく「和風の意匠を」との意見もありましたが、庁舎は飽くまで師團司令部として外観の美観より質実剛健さを重視し、ドイツのノルマン地方の古城を参考に重厚なロマネスク様式を採用、玄関両脇にオーチス社製昇降機(エレベーター)を設置し能率化を計り、地下室は有事の際に防空司令部として運用できるように設計されます。
昭和6(1931)年3月22日、第四師團司令部庁舎が竣工、完成と同時に陸軍に献納され師團司令部は紀州御殿から移転、紀州御殿は大阪市に移管され迎賓館として使用されます。
①4D司令部庁舎(大阪陸軍遺構)
▲竣工当時の司令部庁舎

11月7日、大坂城の復興天守が竣工、本丸・山里丸は大阪城公園(114,769㎡)として整備され、一般開放(天守復興以前は天長節など特別な日のみ)されます。

昭和15(1940)年8月1日、第四師團司令部に併存していた中部防衞司令部は中部軍司令部に増強・改編されたため、昭和16(1941)年1月、第四師團司令部庁舎は中部軍司令部庁舎に転用され、留守第四師團司令部(第四師團は支那事變出征中)は二之丸に新築された庁舎(現、豊国神社付近)に移転しました。

12月、防諜のため天守廻り縁が閉鎖され、写真撮影が禁じられます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦、昭和17(1942)年9月、大阪市との事前協定に基づき、機密保持のため城内全てが一般立入禁止となります。

昭和20(1945)年2月1日、中部軍司令部は第十五方面軍司令部に改編、同時に設置された中部軍管區司令部(第十五方面軍と兼職)の庁舎として使用されます。

昭和20(1945)年8月16日、大東亜戰争停戦に伴い、9月29日、庁舎は大阪に進駐して来た米軍に接収され城内への日本人の立ち入りが禁止されます。

①4D司令部 詳細図(大阪陸軍遺構)
▲竣工当時の司令部庁舎見取り図

3 階

あ第二会議室・い第二講堂・う便所・えオーナードラッヴァー倶樂部事務所・お鳩班事務所・か石版室・き暗室・く物置・け石版監督室、製図室・こ磨工室・さ配膳室・し露台・す付属室・せ高等官食堂・そ付属室・た会報室・ち予備室・つ工務科分室・て電話室・と第一会議室・な控室・に小使室・ぬ第一講堂・ね控室



2 階

あ司令部付連合支部・い司令部付少将室・う外事部室・え映写室・お小使室・か発送係室・き第一応接室・く第二応接室・け副官部書記室・こ副官室・さ師團長室・し次室・す参謀長室・せ参謀室・そ参謀部書記室・た動員室・ち参謀部図書室・つ控室・て貴賓室・と露台・な控室・に兵器部員室・ぬ兵器部長室・ね軍医部長室・の軍医部室


①4D司令部 師團長室(大阪陸軍遺構)
▲さ 師團長室

1 階

あ公判廷・い傍聴人控室・う弁護人控室・え獣医部長室・お獣医部室・か新聞記者室・き第三応接室・く衣糧科室・け経理部長室・こ庶務科室・さ工務科室・し工務科室・す経営科室・せ計算科室・そ小使室・た玄関・ち車寄・つ日直下士室・て日直士官室・と法務部、検察部議事室・な法務部員、検察官室・に法務部長、上席検察官室、ぬ裁判部議事室・ね予審官室・の裁判部、上席法務室・は合議室


①4D司令部 公判廷(大阪陸軍遺構)
▲あ 公判廷

①4D司令部 各部長室(大阪陸軍遺構)
▲え、け、に 各部長室

地 階

あ庶務科第一倉庫・い証人控室・う司令部付倉庫・え副官部第二倉庫・お副官部第一倉庫・か参謀部第二倉庫・き参謀部第一倉庫・く無線電話室・け汽罐室・こ火夫室・さ浴室・し物置・す小使室・せ炊事場・そ判任官食堂・た売店・ち商人控室・つ入札室・て入札室・と製本室・な工務科倉庫・に経営科倉庫・ぬ衣糧科倉庫・ね計算科倉庫・の庶務科第三倉庫・は庶務科第二倉庫・ひ獣医部第一倉庫・ふ獣医部第二倉庫・へ獣医部第二倉庫・ほ兵器部倉庫・む 法務部倉庫・め被告人控室・も被告人控室・や予審廷・ゆ油庫・よ備品庫・わ物置




衛戍・動員部隊
第四師團司令部(淀四〇六六/司令部:淀四〇五〇)
明治4(1871)年8月2日、東京、仙台、熊本と並び大阪鎭臺が創設され、大阪城本丸に本営が開設(四条隆謌少将)されます。
※明治維新から大阪鎭臺に至る経緯は大坂城周辺の陸軍施設を参照。

明治7(1874)年2月、佐賀の乱に隷下の第四大隊(厚東武直少佐)、第十大隊(茨木惟昭少佐)を野津鎭雄少将の指揮下に編入、朝日山の戦いに参加、乱を鎮定し、4月、大阪に凱旋します(第十八大隊、砲兵第七大隊1個小隊も追及しますが、既に乱が平定されていたため戦闘に加わる事無く帰還)。
明治9(1876)年5月までに隷下の歩兵大隊は逐次聯隊に改編されます。
大阪鎭臺本営
歩兵第八聯隊(大阪)
歩兵第九聯隊(大津)
歩兵第十聯隊(姫路)
砲兵第四大隊(大阪)
砲兵豫備第二大隊
工兵第二大隊
輜重兵第四小隊

明治9(1876)年11月1日、萩の乱に歩兵第八聯隊第一大隊、及び砲兵第四大隊第二小隊(風間繁成歩少佐)が廣島鎭臺(三浦梧樓少将)の指揮下に編入され、榎谷で賊軍と交戦、乱を平定し21日、凱旋します。

明治10(1877)年2月、西南の役に際し大阪に征討總督本營(有栖川宮熾仁王大将)が設置、20日、歩兵第八、第九、第十聯隊、後備歩兵第一大隊、山砲2個小隊、工兵1個大隊、輜重兵1個小隊が鹿児島に出征、高瀬、田原坂、山鹿を転戦、10月1日、役を平定し大阪に凱旋します。

明治18(1885)年6月中旬から7月、淀川大洪水に大阪府知事の要請を受け出動、堤防、橋梁の修理、被災民の救援に当ります。
大阪鎭臺本営
歩兵第七旅團(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第九聯隊(大津)
歩兵第八旅團(姫路)
 歩兵第十聯隊(姫路)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
砲兵第四聯隊(大阪)
工兵第二大隊(大阪)
輜重兵第二大隊

明治19(1886)年1月、陸軍省達により各鎭臺を師團に改称・改編する事が決定、明治21(1888)年5月14日、大阪鎭臺は第四師團に改編されます。
第四師團司令部
歩兵第七旅團(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第九聯隊(大津)
歩兵第八旅團(姫路)
 歩兵第十聯隊(姫路)
 歩兵第二十聯隊(福知山)
騎兵第四大隊(大阪)
砲兵第四聯隊(大阪)
工兵第四大隊(大阪)
輜重兵第四大隊(大阪)

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、11月26日、第四師團に動員下令、師團は征清大總督府(小松宮彰仁王大将)に編入され、明治28(1895)年4月29日、大阪を出発し大聯湾に上陸しますが、仮条約締結のため戦闘に加わる事無く遼東半島各地の警備に就き、12月24日、帰還します。

明治29(1896)年、臺灣北部の土匪が蜂起、1月6日、師團は歩八、歩九、山砲1個中隊、工兵1個中隊、輜重兵若干により混成旅團(大久保春野少将)を編成、山猪窟、椎渓において匪賊を討伐、7~11月に凱旋します。

当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため軍備増強を決定、明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)します。
第四師團司令部
歩兵第七旅團(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
歩兵第十九旅團(大津)
 歩兵第九聯隊(大津)
 歩兵第三十八聯隊(京都)
騎兵第四聯隊(大阪)
野戰砲兵第四聯隊(大阪)
工兵第四大隊(伏見)
輜重兵第四大隊(大阪)

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、師團に動員下令、15日、第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され遼東半島の貔子窩付近に上陸、金州の戦いを始め、南山の戦いでは南山占領に活躍、得利寺の戦いでは敵勢の右翼に迂回し敵兵を潰走させ、次いで熊岳、蓋平、大石橋、海城の戦い、遼陽、沙河、奉天の各會戰に参加、我が国の勝利に貢献し、明治38(1905)年12月18日、凱旋します。

明治42(1909)年7月31日、北の大火、明治45(1912)年1月16日、南の大火に出動し消火及び住民の救護、警備にに当たります。
第四師團司令部
歩兵第七旅團(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第七十聯隊(篠山)
歩兵第三十二旅團(和歌山)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
 歩兵第六十一聯隊(和歌山)
騎兵第四聯隊(大阪)
野砲兵第四聯隊(大阪)
工兵第四大隊(高槻)
輜重兵第四大隊(大阪)
第四師團軍樂隊(大阪)

大正3(1914)年8月21日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)において、歩八第二大隊、野戦重砲兵第三聯隊が青島攻略戦に出征しました。

大正6(1917)年10月1日、淀川の氾濫(大塚切れ)に出動、被災者救援に当たります。
大正7(1918)年8月12日、暴徒化した米騒動の鎮撫に大阪府知事の要請を受け出動、治安維持、警備に当たります。
大正12(1923)年8月、紀淡海峡を防備する由良要塞の和歌山側を運用する深山重砲兵聯隊(前田吉平大佐)が編制され、師團隷下に編入されます。

9月1日、関東大震災に隷下部隊から救護班を編成、災害復旧、秩序の維持、住民保護に努めます。

昭和3(1928)年4月、第二次山東出兵に際し歩八、歩三十七より兵員を抽出、支那駐屯軍司令部(小泉六一中将)隷下の支那駐屯歩兵第一、第二大隊に編入され居留民の保護に当ります。

7月3~7日、師團は大阪において我が国初の軍官民合同で防空演習を実施、昭和4(1929)年7月、千葉歩兵學校戰車隊と連合夜間演習を長田野陸軍演習場においてて実施、昭和5(1930)年7月、瓦斯戦演習を長田野陸軍演習場において実施します。

昭和6(1931)年9月18日、滿洲事變が勃発、12月、師團から關東軍衛生隊の要員が抽出、派遣されます。

昭和7(1938)年1月、上海事變が勃発、歩六十一において獨立機關銃第四大隊、工兵第四大隊において夜戰電信第十四中隊を編成し派遣します。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風に際し罹災者の救援・救護、食糧配給、被災地の復旧を実施します。

昭和11(1936)年6月1日、平時編制が改定され、軍令陸第四號、陸軍省令第十二號、陸達第二十號により工兵第四大隊、及び輜重兵第四大隊は聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が決定、4月20日、師團は關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列に編入され滿洲駐箚が決定、4月29日、渡滿し三江省佳木斯(チャムス)に司令部を設置、国境警備、匪族討伐にあたるなか、7月7日、支那事變が勃発したため、野砲兵第四聯隊に応急派兵が下令され、察哈爾(チャハル)に出動します。
第四師團司令部
歩兵第七旅團(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第七十聯隊(篠山)
歩兵第三十二旅團(和歌山)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
 歩兵第六十一聯隊(和歌山)
騎兵第四聯隊(金岡)
野砲兵第四聯隊(信太山)
工兵第四聯隊(高槻)
輜重兵第四聯隊(金岡)
第四師團衛生隊

昭和14(1939)年8月29日、同年5月13日にソ連軍の越境により勃発したノモンハン事件の増援として第四師團に応急派兵が下令されますが、作戦地域前進中の9月15日、停戦協定成立により佳木斯に帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、中支派遣のため師團に臨時動員下令、第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入され、7月、中支湖北省安陸に移駐し、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に参加、蒋介石軍を撃退します。
7月10日、陸軍省は『昭和十五軍備改變要領 其ノ二』を発令、師團は従来の4単位から3単位に改編され歩兵第七十聯隊は新編された第二十五師團(桑原四郎中将、滿洲國東寧)に隷属転移、旅團司令部は廃止され歩兵團司令部が新編されます。
第四師團司令部
第四歩兵團司令部(大阪)
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
 歩兵第六十一聯隊(和歌山)
騎兵第四聯隊(金岡)
野砲兵第四聯隊(信太山)
工兵第四聯隊(高槻)
輜重兵第四聯隊(金岡)
第四師團 通信隊
  〃    兵器勤務隊
  〃    衛生隊
第一野戰病院

昭和16(1941)年1月26日、予南作戰、4月9日、大洪山作戰、5月5日、江北作戰、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、師團は第十一軍戦闘序列から除かれ、大本営直轄となり上海付近に移動集結します。

昭和17(1942)年2月10日、第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入され、25日、上海を出航、3月6日、ルソン島リンガエン湾に上陸します。
4月3日、第二次バターン半島攻略戦、5月5日、コレヒドール島攻略戦に軍主力として参加、多大な損害を出しながらも、6日正午、豪州に遁走したD.マッカーサー大将の後任・ウェインライト中将を降伏させ、6月12日、第四師團に復員下令、7月、大阪に凱旋します。
『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年)宮本三郎画
▲『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年)宮本三郎画

6月12日、騎兵第四聯隊は復員下令とともに捜索第四聯隊に改編されます。

昭和18(1943)年9月27日、師團に臨時動員下令、第二十五軍(田邉盛武中将)戦闘序列に編入され、10月10日、一〇五船團に分乗し宇品を出航、15日、臺中北西沖にて敵潜タリビーの雷撃を受け志かご丸が沈没、乗船者1,497名中、船員8、兵員41、船砲隊員1名を失う悲運に遭うも、11月上旬、スマトラ島ベラワンに上陸、同島中部西岸のパダンの海岸地帯に築城を開始、英印軍の侵攻に備えます。
第四師團司令部
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
 歩兵第六十一聯隊(和歌山)
捜索第四聯隊(金岡)
野砲兵第四聯隊(信太山)
工兵第四聯隊(高槻)
輜重兵第四聯隊(金岡)
第四師團 通信隊
   〃   衛生隊
第一野戰病院
第二野戰病院
   〃   防疫給水部

昭和19(1944)年2月12日、歩八第一大隊が印度洋上カーニコバル島に転用(3月、南西第二守備隊に改編)、3月10日、歩三十七第二大隊が馬来タイピンに転用(獨立混成第三十七旅團隷下の獨立歩兵第二百六十三大隊に改編)、5月、歩六十一が緬甸方面に転用(第十五軍指揮下、ウ號作戰=インパール作戦参加)されます。

昭和20(1945)年1月、師團は緬甸方面の戦局悪化に伴い第三十九軍(中村明人中将)戦闘序列に編入が決定、2月にかけスマトラを出発、昭南島(シンガポール)を経由し泰国に移動、4月末、バンコクに集結します。
その間の1月21日、歩八は仏印に進駐し第三十八軍(土橋勇逸中将)の指揮下に編入、3月9日、明號作戰に参加、全仏印軍の武装を解除します。
同じく1月、ウ號作戰に参加していた歩六十一が兵員783名を失う大損害を受け師團に復帰します。

4月~6月、師團隷下部隊はランバンを中心にタイ北部に前進、7月、第十五軍(片村四八中将)戦闘序列に編入され、敵機の空襲下、英印軍の侵攻に供え陣地構築中の8月17日、停戦を迎えます。
第四師團司令部
 歩兵第八聯隊(大阪)
 歩兵第三十七聯隊(大阪)
 歩兵第六十一聯隊(和歌山)
捜索第四聯隊(金岡)
野砲兵第四聯隊(信太山)
工兵第四聯隊(高槻)
輜重兵第四聯隊(金岡)
第四師團 通信隊
   〃   兵器勤務隊
   〃   衛生隊
第一野戰病院
第四野戰病院
   〃   防疫給水部

歴代鎭臺司令長官
四条隆謌 少将 : 明治5(1872)年1月29日~
鳥尾小彌太 少将 : 明治7(1874)年4月12日~
三好重臣 少将 : 明治7(1874)年8月22日~
四条隆謌 少将 : 明治10(1877)年5月4日~
三好重臣 少将 : 明治12(1879)年9月25日~

歴代鎭臺司令官
曽我祐準 少将 : 明治13(1880)年4月29日~
高島鞆之助 少将 : 明治14(1881)年2月9日~
山地元治 少将 : 明治15(1882)年2月6日~
高島鞆之助 少将 : 明治18(1885)年5月21日~

歴代師團長
高島鞆之助 中将 : 明治21(1888)年5月14日~明治24(1891)年5月17日
黒川通軌 中将 : 明治24(1891)年6月1日~
北白川宮能久王 中将 : 明治26(1893)年11月10日~
山澤静吾 中将 : 明治28(1895)年1月28日~明治30(1897)年3月30日
小川又次 中将 : 明治30(1897)年4月8日~
塚本勝嘉 中将 : 明治37(1904)年9月3日~
井上光 中将 : 明治39(1906)年7月6日~明治41(1908)年12月17日
土屋光春 中将 : 明治41(1908)年12月21日~
淺田信興 中将 : 明治43(1910)年8月26日~
一戸兵衛 中将 : 明治44(1911)年9月6日~
大迫尚道 中将 : 大正元(1912)年12月26日~
仁田原重行 中将 : 大正4(1915)年2月15日~
宇都宮太郎 中将 : 大正5(1916)年8月18日~
立花小一郎 中将 : 大正7(1918)年7月24日~
町田経宇 中将 : 大正8(1919)年4月12日~
鈴木荘六 中将 : 大正10(1921)年6月15日~
村岡長太郎 中将 : 大正12(1923)年8月6日~
菱刈隆 中将 : 昭和2(1927)年8月10日~
林彌三吉 中将 : 昭和3(1928)年8月10日~
阿部信行 中将 : 昭和5(1930)年12月22日~
寺内壽一 中将 : 昭和7(1932)年1月9日~
東久邇宮稔彦王 中将 : 昭和9(1934)年8月1日~
建川美次 中将 : 昭和10(1935)年12月2日~
今井清 中将 : 昭和11(1936)年8月1日~
松井命 中将 : 昭和12(1937)年3月1日~
澤田茂 中将 : 昭和13(1938)年7月15日~
山下奉文 中将 : 昭和14(1939)年9月23日~
北野憲造 中将 : 昭和15(1940)年7月22日~
關原六 中将 : 昭和17(1942)年7月18日~
馬場正郎 中将 : 昭和18(1943)年9月25日~
木村松治郎 中将 : 昭和19(1944)年12月26日~


中部軍司令部(通称号なし)
明治4(1871)年8月2日、鎭臺の発足とともに内地は4管地に分割されます。
明治21(1888)年5月12日、勅令第三十二號により『陸軍管區表』により内地は6管区に区分、14日、鎭臺は師團に改編されます。
明治32(1899)年3月15日、勅令第五十三號により『陸軍管區表』が改正され内地は13師管に区分され、各常設師團が夫々の師管区内の軍政を管掌するとともに、沿岸防護・警備を主とした防衛を担任していました。

昭和に入り兵器、軍備、特に航空機の急速な発展により現状では効果的な要地防衛が不可能となった事から、陸軍省は数個の師管を合わせた防衛管区を設定、各防衛管区に防衛司令部を設置し平時から防空体制を計画し管区防衛を実施することを決定します。

昭和10(1935)年3月30日、軍令陸乙第三號『昭和十年軍備改變要領』、陸密第二〇五號『同細則』、5月25日、『防衛司令部令』(軍令陸第八號、東部:8月1日、中部・西部:昭和12年8月1日施行)に基づき陸軍省は北海道と樺太を除く内地を東部・中部・西部防衛管区に区画、東京、大阪、福岡(当初は小倉)にそれぞれ防空を計画する官衙として防衛司令部の新設を決定、8月1日、東部防衛司令部(東京警備司令部兼任:中村孝太郎中将)、昭和12(1937)年8月4日、第四師團司令部において中部防衛司令部(第四師團司令部が兼任=第十六師團長:中島今朝吾中将)、留守第十二師團司令部において西部防衛司令部(第十二師團司令部が兼任:児玉友雄中将)の編成が完結します。

中部防衛司令官は当初「第四師團長が兼任」とされますが、実際は初代の中島今朝吾中将が第十六師團長と兼任、続いて第九師團長から蓮沼蕃中将が、さらに第六師團長から谷壽夫中将が補職されるなど、第四師團の満洲に駐箚に伴い計画とは異なる人事形態となります。

中部防衛司令部は第四師管区を警備管区、第四師管を含む隣接する5師管区(第三:名古屋、第九:金澤、第十:姫路、第十一:善通寺、第十六:京都)を防空管區と定められました。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變の勃発により本土防衛機構の整備として、11月30日、『防空司令部令』が改正(勅令第六百九十二號)され、防衛司令部は官衙から所管区域の防衛(防空)を実施する軍隊に改編、防衛司令官は防衛・警備に関し管区内の部隊を指揮、官衙・學校を区処する事が定められます。

昭和15(1940)年7月10日、『陸軍平時編制』の改定に伴い国土防衛、特に防空体制を強化すべく、10日、『軍司令部令』(軍令陸第十二號)が公布(8月1日施行)、東部、中部、西部防衛司令部を基幹として東部、中部、西部軍司令部(北部軍は12月2日)が開設され、新たに軍管區制が採用されます。

防衛に関して中部防衛司令官、第四師團長ともに天皇に直隷し責任が並立していたものが、『軍司令部令』制定により中部軍司令官は第四師團長以下の諸部隊を統率し、動員、教育に関する責任及び中部軍管區(名古屋、京都、大阪、姫路師管區)の防空に関して中部軍司令部において統一して計画することが可能になりました。

昭和16(1941)年7月5日、広域防衛体制の確立と一元指揮を実施すべく、『防衛總司令部令』(軍令陸第十三號)により、12日、防衛總司令部(山田乙三大将)が新編され、防衛總司令官は防衛に関し東部、中部、西部、北部、朝鮮、臺灣軍司令官及び所定の航空部隊を指揮し、内地、朝鮮、臺灣、樺太の防衛を実施することになります。

昭和19(1944)年5月5日、戦局の悪化と国内防衛の重要性増大に伴い国内防衛の一元化を計るべく『防衛總司令部令』が改定(軍令陸第七號)され、10日、防衛總司令部の隷下(指揮のみから統率を受ける)に内地の各軍、防空専任飛行部隊が編入されます。

5月、防衛總司令部は『皇土防衞作戰要綱』を策定、近畿地方の防衛に関して第一線は紀伊半島と想定されましたが、既に昭和17(1942)年から米潜水艦が出没、昭和19年末からは米大型爆撃機が上空を頻繁に通過するようになり緊張の度合いは増していきます。

昭和19年4月、帝國在郷軍人會第四師管聯合支部は和歌山県田辺市、太地町において海上監視を中心とした警戒演習を実施します。

7月、中部軍司令部は留守第四師團に対し三重県木本町に至る紀伊半島沿岸部(御坊から潮岬を重点)に敵上陸部隊の水際撃滅を目的とした陣地構築を下令します。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備が推進され、22日、内地、臺灣、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定、2月11日、編成完結します。

1月22日、中部軍は第十五方面軍司令部(河邉正三中将)、及び中部軍管區司令部(第十五方面軍司令官が兼任)に改編されます。

中部防衛司令官
中島今朝吾 中将 : 昭和12(1937)年8月2日~(第十六師團長兼任)
蓮沼蕃 中将 : 昭和12(1937)年8月26日~
谷壽夫 中将 : 昭和12(1937)年12月28日~
園部和一郎 中将 : 昭和14(1939)年8月1日~
岩松義雄 中将 : 昭和15(1940)年3月9日~8月1日

中部軍司令官
岩松義雄 中将 : 昭和15(1940)年8月1日~
藤井洋治 中将 : 昭和16(1941)年6月20日~
後宮淳 大将 : 昭和17(1942)年8月17日~
飯田祥二郎 中将 : 昭和19(1944)年2月21日~
河邉正三 中将 : 昭和19(1944)年12月1日~昭和20(1945)年2月1日


第十五方面軍司令部(楠一二四九〇)、中部軍管區司令部
昭和20(1945)年1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備が推進され、22日、内地、臺灣、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定します。

1月22日、中部軍司令部は地上作戦及び防空に専念する第十五方面軍司令部(河邉正三中将)、警備や軍政に専念する中部軍管區司令部(第十五方面軍司令官が兼任)に改編され、防衛總司令官(東久邇宮稔彦王大将)隷下に編入されます。
作戦任務と警備任務は密接不可分であるため方面軍司令官と軍管區司令官は二位一体とされ、両司令部の職員は兼勤とされました。
同日、『陸軍管區表』が改正(軍令陸第一號、2月11日施行)され、中部軍管區は京都、大阪、廣島、善通寺師管區(東側が福井、滋賀、奈良、和歌山の県境(三重県南牟婁郡含む)、西側は下関海峡、豊予海峡(下関・宇部・小野田市、豊浦・厚狭郡、西宇和郡三崎村は除く)となります。

4月8日、決號作戰(本土決戦)に向けた軍・戦備の急速増強に伴い、防衛總司令部が本土全域にわたる方面軍を統帥指揮する事は困難であり、かつ敵上陸の正面と予測される関東(決三號)、九州地方(決六號)の作戦準備を急速に促進するべく、大陸命千二百九十七號により、防衛總司令部は復帰、東日本を統括する第一總軍(杉山元大将:第十一、十二、十三方面軍基幹、東京)、西日本を統括する第二總軍(畑俊六大将、第十五、十六方面軍基幹、広島)が編成されます。
15日、第十五方面軍司令部は第十六方面軍司令部と共に第二總軍戦闘序列に編入、18日、第二總軍司令部が広島(騎兵第五聯隊跡)に開設されます。

4月8日、大本營は『決號作戰準備大綱』を策定、第十五方面軍が担当する近畿・中国・四国を「決五號作戰」に区分、米軍の本土侵攻は関東(決三號)、九州(決六號)が最も可能性が高いと推測し、この両方面の作戦準備を重点的に推進します。
第十五方面軍の近畿地方における防衛作戦構想は阪神都市部と大阪湾岸の防衛を主眼とし、紀淡海峡を挟んだ和歌山県北部沿岸・淡路島を最重点地域と位置付けます。

2月28日、『帝國陸海軍作戰計畫大綱』の「第一次兵備」により動員下令された第百四十四師團が、4月8日、第十五方面軍隷下に編入、9日、動員完結します。

第十五方面軍司令官は直轄のほぼ全戦力-4月13日、第百四十四師團を和歌山市紀三井寺町、6月23日、獨立混成第百二十三旅團(金岡正忠少将、和歌山、第百四十四師團指揮下)を和歌山県御坊町、獨立野砲兵第三十二大隊を海南市、迫撃砲第十九大隊を和歌山県丸栖村、獨立工兵第百十二大隊を和歌山県直川村-を和歌山県に布陣、大阪、橋本方面への敵侵攻路を遮断し、飛行場の設定を阻止すべく、紀ノ川両岸を重点とした第二次築城(ち號工事)を下令します。

6月12日、敵の九州上陸に備えるべく、中國、四國軍管區司令部の臨時編成が発令され、中部軍管區から分設されますが、警備や軍政にに関しては引き続き中部軍管區司令官の区処を受けました。
これに伴い『陸軍管區表』が改正され、中部軍管區の西側は大阪、兵庫、和歌山の県境までに縮小されました。

6月19日、第十五方面軍に新設された第五十五軍(原田熊吉中将、高知)が編入されます。

第二總軍は九州南部、九州北部、四国南部を「主決戦正面」、和歌山沿岸を主決戦に次ぐ「有力決戦正面」と策定、主決戦正面の3方面、特に九州南部を最優先として作戦準備を推進します。

7月1日、第十五方面軍司令官は第百四十四師團を紀ノ川を複郭縦深陣地とした持久戦実施のため、丸栖村の御茶屋御殿山の地下司令部に移転させます。
敵の紀伊半島上陸に際し方面軍司令部は粉河町付近に前進する予定でした。

7月11日、和歌山県下の部隊に新防衛体制に基づく軍隊区分が下令され、河北、河南、和歌浦、簑島各地區隊(第百四十四師團)、御坊、串本、木本各地區隊(獨混第百二十三旅團)に海軍主担任の田邉地區隊を加えた計9地區隊に再編します。
同時に対上陸戦備の更改と各地區隊の作戦任務、第三次築城を下令、大阪師管區歩兵第三補充隊(旧歩六十一補充隊)に変わり和歌山地區司令部、また海上挺身第四十戰隊(マルレ装備、湯浅町に配備)を第百四十四師團の指揮下に編入します。

7月下旬、京都において大本營、第一總軍、第二總軍、第十三方面軍、第十五方面軍の参謀が敵の本州分断侵攻における京阪神、中京地区の統一防衛方針と第十三、十五方面軍の合同案を検討する研究会が開催されますが、検討中の8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の総兵力は第十五方面軍55,543名、中部軍管區部隊34,922名でした。

9月7日、第十五方面軍司令官・内山英太郎中将は隷下・指揮下全部隊に武装解除を下令するとともに、進駐して来る連合軍との交戦を避けるべく京都在京の京都師管區部隊を亀岡以西に、大阪師管區部隊を信太山、青野原地区へ移駐させるとともに、逐次復員を開始します。
9月2日、第十工兵隊司令部、中部管區耕作第四中隊、建築勤務第五百十四、同五百十五中隊が復員完結、13日、第十五方面軍司令部、中部軍管區司令部が復員完結、10月30日、大阪師管區歩兵第三補充隊を最後に隷下全部隊が復員完結します。

歴代司令官
河邉正三 中将 : 昭和20(1945)年2月1日~
内山英太郎 中将 : 昭和20(1945)年4月7日~


中部軍 防空情報隊(中部七四三七)
中部軍 航空情報隊(中部七四三七)
第十五方面軍 航空情報隊(楠七四三七)
第三十五航空情報隊(中部→楠→帥七四三七)
昭和18(1943)年5月18日、軍令陸甲第四十八號により中部軍隷下に中部防空集團司令部(大阪)隷下の第十一防空通信隊(第一通信隊に改称)、防空第十五聯隊(名古屋)隷下の防空通信隊(第二通信隊に改称)を基幹として中部軍 防空情報隊が編成され、既存の軍防空監視隊を指揮下に編入します。

22日、西部郡司令部附より隊長・濱田八郎中佐が着任します。

昭和19(1944)年6月26日、中部軍 防空情報隊は中部軍 航空情報隊に改称、第一・第二通信隊は同隊通信隊に改称、第二通信隊は名古屋情報班に改称します。

昭和20(1945)年1月22日、中部軍の第十五方面軍改編に伴い、その隷下に編入、同日、第十三方面軍・東海軍管區司令部(岡田資中将、名古屋)の新編に伴い名古屋情報班は第十三方面軍 航空情報隊に改称し隷属転移します。

4月8日、航空總軍新設に伴い航空情報隊は隷属転移、10日、第三十五航空情報隊に改称します。
4月、四国へ連絡に向かった隊長・濱田中佐乗船の連絡船が敵機に銃撃され、中佐は船上で散華、情報隊長・小坂三吉少佐が隊長代理に就任します。

8月6日、小坂少佐は中國軍管區司令部(広島城内)に出張中、米軍により原子爆弾が投下されます。

同隊は本部、警戒隊6個中隊(電波警戒機甲・乙装備)、監視隊6個中隊(防空監視哨)、通信隊1個中隊、放送隊1個中隊から成り、中部軍管區内各地に配置された各警戒隊、監視隊、民間防空監視哨からの情報を収集し敵機の侵入を監視しました。

敵機の情報は各警戒隊、監視隊からは直接、民間防空監視哨からは大阪府庁に設置された監視隊本部を経由し、第三十五航空情報隊本部の通信隊に送達され、通信隊所属の女子通信手が鍵盤(スイッチ)を操作すると第十五方面軍の各参謀が待機する作戦室の情報盤に投影されました。

情報盤は2枚あり監視哨情報盤(大地図盤)には受信監視哨・警戒機甲の位置、発見時間、敵機の大小、機数、侵攻方向、高度が、警戒機乙標示盤には探知敵機の位置、時間が投影され各参謀は標示された情報から敵状を判断し、管区防空にあたる隷下の高射第三師團(河合潔少将、天王寺)、指揮下の第十一飛行師團(北島熊男少将、八尾)に迎撃命令を下令、放送隊が警戒警報、空襲警報等の放送を行いました。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えますが、24日、被爆していた隊長代理・小坂少佐が病没、9月1日、復員完結します。
停戦時の人員は隊長代理・小坂少佐以下4,401名、庸人380名でした。

歴代情報隊隊長
濱田八郎 中佐 昭和18(1943)年5月21日~?
古野義助 中佐 昭和19(1944)年6月頃~昭和20(1945)年4月?日 散華
(代理)小坂三吉 少佐 昭和20(1945)年4月?日~昭和20(1945)年8月24?25?日 病没

第三十五防空情報隊通信隊(翼隊) 女子通信手
昭和17(1942)年、陸軍省は東部軍防空情報隊に軍属として女子通信手の採用を決定、12月1日、入隊、訓練ののち、昭和18(1943)年3月15日より任務に着きます。

昭和18(1943)年3月、陸軍省は東部軍に続き中部軍防空情報隊にも女子通信手の採用を決定します。
大阪では高等女學校卒業程度の学力を有する18~23歳の独身女子90名程の募集に対し、府下一円から国土を敵機の爆撃から護る使命に燃える約1,000名の応募がありました。
4月、大阪府庁に隣接する大手前高女で1次試験(筆記)、2次試験(面接)、3次試験(身辺調査)が実施され、5月、約10倍の難関を突破した約90名が採用通知を受け取り、第一期女通として入隊、以降随時採用が行われます。

入隊後の約1ヵ月半は、電話、電気の基礎、全国の陸軍飛行場、要塞、監視哨の位置、飛行機の機種判定、機器の操作、軍隊符号の速記練習、教練(敬礼、整列、点呼など)など教育期間に充てられました。

教育修了後、女子通信手として中部軍防空情報隊の通信隊に配属され、3班(1班約80名)に分かれ交替勤務に就きました。
常時2班はそれぞれ庁舎と宿舎での内務の交替勤務に就き、1班は非番で自宅待機でした。

防空庁舎での勤務は主に隷下・指揮下の各師團・要塞との電話連絡(指揮連絡室)、監視隊・警戒隊・民間防空監視隊本部から送達された敵機情報の表示(情報室)などでした。

宿舎での内務は掃除・炊事・風呂当番、夜勤・交替に備え休憩、体育、教練などで、自由時間もあり、隊長・小坂少佐も混じってバレーボール等をして過ごしていたそうです。

昭和20(1945)年6月1日、大阪城内も空襲に晒され山里丸の宿舎は全壊しますが、通信隊は防空庁舎において情報の送達を続けます。

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。
その後、城内の整理等にあたり、31日、任務解除によりそれぞれ帰宅します。

女子通信手の総数は不明ですが『航空總軍編制人員表』の第三十五航空情報隊の「庸人」欄に昭和19(1944)年6月26日時点で247名、7月7日から昭和20(1945)年6月12日まで580名、6月12日以降380名が記載されています。
元女通の方の証言では“昭和19年頃に300名程が在籍”した様なので、ほぼこの数字の人数が任務にあたっていたと思われます。


主要参考文献
『戦史叢書第19巻 本土防空作戦』(防衛研修所戦史室 朝雲新聞社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『建築と社會 最近建築研究Ⅱ』(昭和7年7月 日本建築協会)

『新修大阪市史第七巻 近代Ⅲ』(平成6年3月31日 大阪市)

『上方芸能 41号』-現代版“大阪城の抜け穴”(昭和50年7月 上方芸能編集部)

『博物館ものがたり』(平成12年7月 大阪市立博物館)

『大阪大空襲体験記 第五集』-中部軍軍属の生活(昭和50年7月 大阪大空襲の体験を語る会)

『母たちの遺産、旧翼隊女子隊員の記録』(平成16年2月 安藤吉枝 新風舎)

大阪城“超一等地”建物、10年近く借り手なし(平成22年11月11日 産経新聞)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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