当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍兵器補給廠

大坂城二之丸に大阪陸軍兵器補給廠、及び倉庫大阪陸軍刑務所がありました。

大阪陸軍刑務所は後に城外に移転し、跡地に第四師團司令部が移転してきます。
大阪陸軍兵器補給廠 門と塀(大阪陸軍遺構)
▲大阪陸軍兵器補給廠の正門

【探索日時】
地元のため随時





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
大阪陸軍造兵廠200525(大阪陸軍遺構)
▲昭和20年5月25日 米軍空撮

昭和11(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に軍事施設を転写 ※黄色部分は大坂城天守復興に伴う一般開放地域
① 第四師團司令部
② 大阪陸軍刑務所
③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
④ 大阪陸軍兵器補給廠
⑤       〃      城内西兵器庫
⑥       〃      城内北兵器庫
⑦       〃      青屋口門兵器庫
⑧       〃      玉造門兵器庫

⑨ 大阪城南陸軍射撃場
⑩ 歩兵第八聯隊
⑪ 大阪陸軍被服支廠
⑫      〃      被服倉庫
⑬ 歩兵第三十七聯隊
⑭ 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑮ 大阪憲兵隊本部
⑯ 歩兵第七旅團司令部
⑰ 大阪聯隊區司令部
⑱ 第四師團経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑲ 堺聯隊區司令部
⑳ 第四師團長官舎
㉑ 大阪陸軍病院
㉒ 大阪偕行社
㉓ 大阪軍人會館
㉔ 大阪偕行社付属小學校
㉕ 大阪砲兵工廠
㉖ 大阪城東陸軍練兵場
㉗ 第四師團経理部 糧秣倉庫
㉘ 大阪陸軍被服支廠 城東検査場
㉙ 眞田山陸軍墓地
㉚ 陸軍用地
※施設配置・名称は昭和15(1940)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設



遺構について
大坂城周辺 二之丸(大阪陸軍遺構)
▲二之丸の遺構 ※青字は地図にリンクしています
以下、遺構の紹介ですが、殆ど遺されていないため、遺されている施設を優先し順不同で記述します。

④ 大阪陸軍兵器補給廠
明治維新に伴い新政府に移管された大坂城は広大な敷地を有している事もあり、近代陸軍発祥とともに陸軍関連の施設、部隊が設置されていきました。
大坂城二之丸には明治維新以降、軍学校、歩兵営、陸軍病院、衛戍監獄など多数の陸軍施設が設置されましたが随時移転、大正2(1913)年5月29日、大手門前に所在した大阪陸軍兵器支廠が移転してきます。
大阪兵器補給廠 庁舎?(大阪陸軍遺構)
▲大阪兵器補給廠 本部庁舎(施工:松村組)

昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍兵器支廠は大阪陸軍兵器補給廠に改称、大東亜戦争停戦時には南東隅の大阪師管區司令部(8月13日の空襲で焼失)以外、二之丸全域は大阪陸軍兵器補給廠、及び倉庫となります(施設の推移については『大坂城周辺の陸軍施設』を参照)。

昭和20(1945)年9月26日、米第1軍団が大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置(昭和21年1月27日、京都に移駐)、29日、同軍団98師団により大坂城全域は接収され、城内への日本人の立ち入りが禁止されます。
昭和23(1948)年3月20日、大阪府庁内にあり狭隘だった事から大阪市警察局本部(昭和24年9月に大阪市警視庁に、7月1日、大阪市警察本部に改称、昭和25年6月30日、廃止)、大阪府警察本部が本丸の旧第四師團司令部庁舎に移転、8月25日、大坂城全域の接収が解除され大阪市に移管、二之丸の大阪陸軍兵器補給廠関連施設は近畿管区警察学校に転用されます。
昭和34(1959)年7月、市制70周年記念事業の一環として大坂城の整備が決定、近畿管区警察学校は騎兵第四聯隊跡(堺市)に移転し大坂城の整備・修復が実施され、逐次建物は破壊され補給廠跡は公園清掃員の詰所、倉庫は広場、梅林等になり殆ど遺構は遺されていません。
※なお、各種書籍、ネットによると、この場所を「大阪衛戍監獄・大阪陸軍刑務所跡」としているものを散見しますが、僕が調べた限りその様な史実は見つからなかったので、この場所に衛戍監獄(陸軍刑務所)があったという明確な資料をご存知あれば御教示下さい。

セ 門柱
A 塀
現在「大阪城公園場内詰所」となっています。
大阪兵器補給廠の本部庁舎は空襲も逃れ、戦後も長らく残されていたようですが、航空写真を追うと昭和46(1971)~50(1975)年の間に破壊されてしまったようです。
大阪陸軍兵器補給廠 門と塀(大阪陸軍遺構)
▲正門門柱、敷石が完存しています。

大阪陸軍兵器補給廠 塀(大阪陸軍遺構)
▲塀も完存しています。

大阪陸軍兵器補給廠 門の裏(大阪陸軍遺構)
▲塀の裏の控え柱
  通常は立ち入り禁止ですが、毎秋の大手門、多聞櫓の一般公開時に入れます。


謎な物
六番櫓脇のコンクリート製構造物(大阪陸軍遺構)
コンクリートの塊

二の丸南西隅、本丸側の石碑の台?(大阪陸軍遺構)
▲堀端にある石碑の台?


⑤ 大阪陸軍兵器補給廠 城内西兵器庫
西之丸には明治維新後、戊辰の役で焼け残った倉庫も活用しつつ火薬庫、次いで倉庫が建てられて行きました。
大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て、近畿管区警察学校に転用、昭和34(1959)年7月、市制70周年記念事業の一環として大坂城の整備が決定、同学校は騎兵第四聯隊跡(堺市)に移転し、大坂城の遺構である焔硝蔵を除き大阪府により広場に整備されてしまい遺構は何も遺されていません。
現在は「西の丸庭園」として有料地区になっています。
大阪陸軍兵器補給廠 城西倉庫跡 パノラマ(大阪陸軍遺構)
▲現在の西の丸庭園

大坂城(昭和32年)(大阪陸軍遺構)
▲昭和32(1952)年の空撮
  左側中央の大型建物3棟、その後ろ右端の小さい1棟が
  陸軍時代の建物、

焔硝蔵 北西から(大阪城天守閣復興80周年祭)
▲焔硝蔵
 陸軍時代には倉庫として活用されました。

東の扉刻字(保管者人見大尉・代理者大畠曹長)(大阪陸軍遺構)
▲焔硝蔵の扉に残る『保管者人見大尉・代理者大畠曹長』の文字


⑥ 大阪陸軍兵器補給廠 城内北兵器庫
ミ 「陸軍用地」
京橋口にかかる橋の西口に境界石標が遺されています。
ミ 境界石標(京橋口)(大阪陸軍遺構)

京橋口門内には明治2(1869)年9月、大阪兵學寮青年學舎(明治3年11月、陸軍兵學寮、明治7年12月、陸軍士官學校と改称)が建設されます。
學舎は内庭を学舎で方形に囲むフランス式が採用され、同時代に建築された各地の聯隊兵営にも同様の建築法が採用されました。
兵学寮(明治20)(大阪陸軍遺構)
▲青年學舎の校舎 明治20(1877)年

明治4(1871)年12月10日、陸軍兵學寮は東京府に移転、その後、大阪鎭臺管下の第四軍管(後の第四師管)内で編成された歩兵聯隊の兵営に転用されましたが、明治末から大正初期頃に取り壊され大阪陸軍兵器支廠の城内北兵器庫となりました。
陸軍兵學寮青年學舎跡地(大阪陸軍遺構)
▲現在の青年學舎、城内北兵器庫跡
  痕跡すらありません。

京橋口門内の塀の内側には社の台と思われる石造物がありますが、詳細は不明です。
京橋口付近の台(大阪陸軍遺構)
▲玉石をセメントで固めた台

ソ 明代の狛犬
昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発、支那国府軍の違法・違約行為ににより戦線は拡大、29日、我が軍は天津を攻略します。
その際、地上部隊の直協に当たっていた我が臨時航空兵團の空襲により、台座より転落放置されていた狛犬を記念品として鹵獲兵器とともに大阪陸軍兵器支廠に送付します。
昭和13(1938)年4月1日、西宮球場及び外苑で開催された「支那事變聖戰博覧會」(大阪朝日新聞社主催)にて展示、5月3日の博覧会終了後の10月、大阪陸軍兵器支廠に飾られます。
昭和15(1940)年、山里曲輪に國防館(陸軍省主催)が開館すると本丸と連結する姫門跡に飾られます。
戦後、中共政府に譲渡しようとする動きがあったようですが、昭和59(1984)年、中共政府が大阪市に寄贈するかたちで現在地に移設されます。
京橋口の狛犬(大阪陸軍遺構)

大阪城 停戦直後(大阪陸軍遺構)
▲姫門跡に小さいですが狛犬が見えます。

本丸桝形の狛犬台(大阪陸軍遺構)
▲姫門跡に残る狛犬の台座


③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
明治9(1876)年4月、輜重兵第四小隊が編成(明治20(1887)年4月、大隊に改編)、二之丸に兵営が設置されました。
輜重兵大隊が城外に転営(時期不明)し、跡地は大阪陸軍兵器支廠の倉庫となりました。
大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て、近畿管区警察学校に転用、同学校の移転後、修道館(武道館)が建てられ現在に至ります。
大阪陸軍兵器補給廠 桜門前倉庫跡 パノラマ(大阪陸軍遺構)
▲現在の様子

城内空撮(大阪陸軍遺構)
▲昭和7(1932)年の空撮
  中央下の建物5棟が櫻門前兵器庫

大坂城(昭和32年)(大阪陸軍遺構)
▲昭和32(1952)年の空撮
  右下の大型建物4棟が陸軍時代の建物


⑦ 大阪陸軍兵器補給廠 青屋口門兵器庫
明治年間は更地でしたが、大正年間には倉庫が建てられました。
昭和20(1945)年8月14日の空襲で1棟を除き全焼、大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て、近畿管区警察学校に転用、同学校の移転後、建物は破壊され現在は梅林になっています。
大坂城(昭和32年)(大阪陸軍遺構)
▲昭和32(1952)年の空撮
  右端に見切れている大型建物が陸軍時代の建物


⑧ 大阪陸軍兵器補給廠 玉造門兵器庫
明治3(1870)年2月、蓮如上人袈裟掛けの松に隣接して大阪軍事病院が開院します。
8月2日、大阪鎭臺の創設に伴い、大阪鎭臺病院、明治21(1888)年、大阪衛戍病院、大阪衛戍副病院に改称、明治19(1886)年、城外に開院して陸軍副病院(のち大阪衛戍病院に改称)に全機能を移転します。
病舎は第四師團監督部が転用した後、大阪陸軍兵器支廠の玉造門兵器庫になりました。
昭和20(1945)年8月14日の空襲で2棟あった倉庫のうち1棟が全焼、大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て、近畿管区警察学校に転用、同学校の移転後、建物は破壊され現在は広場になっています。
袈裟かけの松(大阪陸軍遺構)
▲蓮如上人袈裟掛けの松と玉造門兵器庫


② 大阪陸軍刑務所 (のち第四師團司令部)
明治5(1872)年、大阪鎭臺陸軍裁判所囚獄(明治15年、大阪陸軍監獄署、次いで大阪衛戍監獄、大正12年、大阪衛戍刑務所、昭和15年、大阪陸軍刑務所と改称)が設置されます。
昭和15(1940)年8月1日、中部軍司令部の開設に伴う第四師團(留守第四師團)司令部の移転先となり、大阪陸軍刑務所は昭和15(1940)年9月29日、中河内郡大戸村(現、東大阪市石切町)に移転、昭和16(1941)年1月、庁舎が竣工し、第四師團司令部が移転します。
第四師團の出征に伴い留守第四師團が大阪師管区の軍政業務を実施、昭和20(1945)年4月1日、決號作戰(本土決戦)に備え大阪師管區司令部に改編されます。
司令部の庁舎は昭和20(1945)年8月14日の大阪陸軍造兵廠を目標とした米軍の空襲により全焼、そのまま停戦を迎えました。

昭和36(1961)年、跡地に豐國神社中之島より遷座され、現在に至ります。
天守からの豊国神社(大阪陸軍遺構)
▲天守廻縁から第四師團司令部庁舎越しに見る大阪陸軍刑務所跡
 (樹木内の緑色の屋根が豐國神社)

留守第四師團司令部跡(豊国神社)(大阪陸軍遺構)
▲大阪陸軍刑務所跡に建つ豐國神社

ス 「近衛二大阪会創立二十周年記念」碑
豊國神社拝殿の南側にあります。
昭和58年4月29日に近衛二大阪会により建立されました。
近衛二大阪会創立20周年記念碑(豊国神社)(大阪陸軍遺構)
▲「大内山の山近く 大君まもる忠勇の 猛き兵士を 選りたる 近衞歩兵の 二聯隊」と刻まれています。
 
近衞歩兵第二聯隊は明治7(1874)年1月23日に編成された我が陸軍最初の歩兵聯隊で、兵営は皇居北側の江戸城北の丸にありました。
近衞師團、聯隊は 天皇及び皇居を警衛する「禁闕守護」にあたり、また儀丈部隊として「鳳輦供奉」の任を務めました。
近衞聯隊の衛戍地は東京でしたが全国から優秀な牡丁が選抜され入営、近衞聯隊に入営することは日本男児として大変名誉なことで、一族を始め郷土の誇りとして讃えられました。


大坂城二之丸に所在した官衙
大阪陸軍兵器補給廠
大阪府は我が国の中央に位置し、国内の有事に対応するには最適という地政学的見地から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿は大阪に陸軍の教育機関、兵器製造所、火薬製造所、兵営の一括設置を構想します。

明治3(1870)年2月3日、大坂城三之丸米蔵付近、皇城(旧江戸城)竹橋内とともに兵部省直轄の造兵司が新設されます。
4月13日、大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁(後、本局)として庶務課、用度課、建築課を設置し事務を開始、26日、造兵大佑・中島成道により旧幕府・長崎製鉄所(後の三菱重工長崎造船所)の工作機械および技師、職工を移転、5月、東京の旧幕府・関口製造所から大砲鋳造設備を移転、6月、鋳物場、鍛冶場、機械場の操業を開始します。
7月、皇城内の施設と分離し大阪造兵司と改称、10月、火工場が操業を開始します。

明治4(1871)年8月2日、東京、大阪、仙臺、熊本各鎭臺が開設され、鎭臺の兵器を管理する衛戍武庫が設置されます。

明治5(1872)年2月28日、陸軍省の発足に伴い大阪造兵司は陸軍省所轄となり、3月8日、大砲製造所と改称します。

明治8(1875)年2月8日、陸軍省達第四十五號『砲兵方面同本廠職司軍属職名同本支廠職制条例』により大砲製造所は砲兵第二方面内砲兵支廠と改称、宇治火藥庫を管下に編入、第四(大阪鎭臺)、第五(廣島〃)、第六軍管(熊本〃)を管轄し、管内の部隊に対し銃砲弾薬、兵器武具を補給しました。

明治10(1877)年2月15日、西南の役が勃発、支廠は昼夜連続の製造体制を採るとともに、大口径砲製造に加え、新たに小銃弾・砲弾の製造を開始します。

明治12(1879)6月、砲兵第二方面砲兵支廠は補給を管掌する砲兵第二方面本署(第四・第五・第六軍管を管轄)と製造を管掌する大阪砲兵工廠とに分割され、砲兵第二方面本署は本局庁舎を京橋口筋鉄門内に開局します。

明治23(1890)年8月14日、勅令第百七十一號『砲兵方面條例』が制定され、砲兵方面は「要塞の備砲、陸軍所要兵器・弾薬の購買、貯蔵、保存、修理及び支給、分配を管掌し、砲兵第二方面本署は第三(名古屋)・第四師管を管轄する事が定められます。
9月20日、大阪衛戍武庫に代わり砲兵第二方面大阪支署が開署します。

明治24(1891)年6月24日、下ノ関、7月1日、對馬支署、明治30(1897)年4月1日、鳴門、波止濱支署(忠海)が開署します。

明治30(1897)年4月、明治二十七八年戰役(日清戦争)後の軍備充実に対応するべく、砲兵第二方面本署禁野出張所(枚方)が開設、弾薬類の貯蔵を開始します。

9月9日、勅令第三百四號『兵器廠條例』が公布され、兵器廠本廠長は陸軍大臣に隷し兵器、弾薬、器具、材料の購買、貯蓄、保存、修理、支給、交換及び要塞の備砲工事を管掌し、大阪陸軍兵器本廠は第三・第四・第九(金沢)・第十師管(姫路)を管轄する事が定められ、15日、砲兵第一方面本署(東京)、砲兵第二方面本署(大阪)及び支署(各師團司令部、要塞司令部所在地)は廃止され、東京、大阪、門司、臺北各陸軍兵器本廠及び支廠(師團司令部、要塞司令部所在地)が開設されます。

明治31(1898)年5月10日、大阪陸軍兵器本廠庁舎は大手門前の輜重廠跡倉庫(⑲付近)に移転します。

明治36(1903)年4月14日、勅令第七十八號『陸軍兵器廠條例』が公布され、大阪、門司、臺北各陸軍兵器本廠は東京陸軍兵器本廠に統合され、支廠を各師團司令部所在地、及び大阪、門司、薹北に設置し(要塞所在地の支廠は業務を要塞司令部に移管し廃止)、大阪陸軍兵器本廠は大阪陸軍兵器支廠に統合・改称します。

大正2(1913)年5月29日、大阪陸軍兵器支廠は大手門内(④)に移転します。

師團長管理兵器が漸次増加、複雑化するなか、兵器支廠長は隷属関係に無く不都合が生じるため、大正7(1918)年5月30日、勅令第百七十五號『陸軍兵器廠條例」改正、同百七十六號『陸軍兵器部令』公布により、6月1日、東京、大阪、小倉、廣島、名古屋、龍山各陸軍兵器支廠を除く各師團所在地の兵器支廠は廃止され各師團、臺灣總督府、關東都督府兵器部が新設されます。
大阪陸軍兵器支廠は新設の第四師團兵器部に一部の倉庫を移管します。

昭和15(1940)年4月1日、支那事變に伴う兵器需要の増大に対応すべく勅令第二百九號『陸軍兵器廠令』が公布、陸軍兵器本部が新設され、管下に陸軍兵器廠(本廠)と陸軍造兵廠が統合され陸軍兵器廠が発足(陸軍兵器本部、陸軍兵器廠、陸軍造兵廠で陸軍兵器廠)、各兵器支廠は兵器補給廠に改称し陸軍兵器本部長の隷下に編入、大阪陸軍兵器支廠は大阪陸軍兵器補給廠に改称します。

昭和16(1941)年9月1日、祝園填藥所(京都)が開所、昭和17(1942)年、川西分廠(兵庫)が開廠します。

昭和17(1942)年10月9日、大東亜戦争の戦域拡大に伴う兵器行政を効率化・強化すべく勅令第六百七十四號『陸軍兵器行政本部令』が公布、15日、陸軍省兵器局、陸軍技術本部総務部・第一部から第三部、陸軍兵器本部を統合し陸軍兵器行政本部を新設します。
さらに陸軍兵器廠の各陸軍造兵廠、各陸軍兵器補給廠、技術本部第一から第九研究所は独立し兵器行政本部長の直属、陸軍兵器学校が隷下に編入されます。

昭和20(1945)年、三輪町(現、三田市三輪)の有馬ゴルフ倶樂部(現、三田ゴルフクラブ)を借上、油脂貯蔵のための疎開倉庫(三輪倉庫)を設置、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

11月9日、勅令第六百三十一號『臨時陸軍殘務整理部令』が公布、15日、『陸軍兵器行政本部令』、『陸軍兵器補給廠令』は廃止され、大阪陸軍兵器補給廠は陸軍兵器行政本部殘務整理部大阪出張所(八幡鉦二大佐)と改称、残務整理を実施します。


大阪陸軍刑務所
明治2(1869)年、兵部省内に糺問司が、大阪に糺問司出張所が開設されます。

明治4(1871)年、囚人を収監する徒刑場が開設されます。

明治5(1872)年、糺問司、同出張所は廃止され、各鎭臺陸軍裁判所が開設されたのに伴い、徒刑場は大阪鎭臺陸軍裁判所囚獄と改称します。

明治16(1883)年8月4日、陸軍裁判所は廃止され各鎭臺軍法會議に改編されたため、10月22日、大阪鎭臺陸軍裁判所囚獄は大阪陸軍監獄署と改称、明治26(1893)年9月15日、大阪陸軍監獄署は大阪衛戍監獄、大正12(1923)年4月1日、大阪衛戍刑務所、昭和15(1940)年7月31日、大阪陸軍刑務所と改します。

昭和12(1937)年8月2日、留守第四師團司令部に中部防衛司令部が併設、昭和15(1940)年8月1日、中部防衛司令部の中部軍司令部改編に伴い、庁舎を共有するには狭隘なため師團司令部庁舎の二之丸移転が決定、9月26日、大阪陸軍刑務所は中河内郡大戸村(現、東大阪市石切町)に移転、昭和16(1941)年1月、留守第四師團司令部は二之丸に新築された木造庁舎(②)に移転します。


留守第四師團司令部 略歴
留守第四師團司令部、のち大阪師管區司令部(大阪師團司令部、攝)
留守師團司令部は第四師團の外地出征の際に動員され、第四師團の管轄する第四師管區内の旅管(のち廃止)、大隊區(のち聯隊區)司令部を管掌し、教育錬成、動員管理などの軍政を代行しました。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、第四師團に動員下令(参謀長:岡崎生三中佐)、留守第四師團が編成され、明治28(1895)年11月、第四師團の帰還により留守第四師團司令部は復員します。

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月9日、第四師團司令部、16日、留守第四師團司令部(茨木惟昭予中将)に動員下令、明治38(1905)年10月、第四師團司令部の凱旋により、留守第四師團司令部は復員します。

昭和10(1935)年3月30日、軍令陸乙第三號『昭和十年軍備改變要領』、陸密第二〇五號『同細則』に基づき陸軍省は北海道と樺太を除く内地を東部・中部・西部防衛管区に区画、それぞれの防空を計画する官衙として防衛司令部の新設を決定、8月1日、東部防衛司令部が開設します。

昭和12(1937)年2月、第四師團は第九師團(蓮沼蕃中将、金沢)に変わり滿洲駐箚が決定、4月26日、留守第四師團司令部(参謀長:岡崎清三郎大佐)が動員されます。
留守第四師團司令部
歩兵第八聯隊留守隊(大阪)
歩兵第七十聯隊留守隊(篠山)
歩兵第三十七聯隊留守隊(大阪)
歩兵第六十一聯隊留守隊(和歌山)
騎兵第四聯隊留守隊(金岡)
野砲兵第四聯隊留守隊(信太山)
工兵第四聯隊留守隊(高槻)
輜重兵第四聯隊留守隊(金岡)

昭和12(1937)年8月4日、第四師團司令部において中部防衛司令部(第四師團司令部兼務)の編成が完結します。

昭和15(1940)年7月10日、『陸軍平時編制』が改定、10日、『軍司令部令』(軍令陸第十二號)が公布(8月1日施行)、防衛司令部を基幹として東部、中部、西部軍司令部(北部軍は12月2日)が開設され、(留守)第四師團は中部軍司令部隷下に編入されます。
同時に従前の4単位師團は随時3単位に改編、留守隊は補充隊に改称され、部隊の秘匿から通称号が制定されます。
留守第四師團(大阪師團司令部)
留守第四歩兵團(中部第二十一部隊、大阪)
 歩兵第八聯隊補充隊(中部第二十二部隊、大阪)
 歩兵第三十七聯隊補充隊(中部第二十三部隊、大阪)
 歩兵第六十一聯隊補充隊(中部第二十四部隊、和歌山)
騎兵第四聯隊補充隊(中部第二十五部隊、金岡)
野砲兵第四聯隊補充隊(中部第二十七部隊、信太山)
工兵第四聯隊補充隊(中部第二十九部隊、高槻)
輜重兵第四聯隊補充隊(中部第三十一部隊、金岡)
第四師團通信隊補充隊(中部第三十部隊)

7月24日、『陸軍管區表』が改正(軍令陸二十號、8月1日施行)、新たに軍管區が採用、第四師管は大阪師管と改称され、名古屋(旧第三)、京都(旧第十六)、姫路(旧第十)とともに中部軍管區に編入されます。
大阪師管の管轄聯隊區は第四師管同様、大阪、神戸、堺、和歌山各聯隊區でしたが、8月21日、『陸軍管區表』改正(軍令陸二十三號、昭和16年4月1日施行)により神戸聯隊區は姫路師管に移管、京都師管から奈良聯隊區が編入されます。
昭和16年8月5日、『陸軍管區表』改正(軍令陸二十號、11月1日施行)され大阪と堺聯隊區は統合され大阪師管は大阪、和歌山、奈良各聯隊區となります。

昭和15(1940)年9月26日、中部軍司令部新設により二之丸にあった大阪陸軍刑務所を中河内郡大戸村(現、東大阪市石切町)に移転、跡地に司令部庁舎を新築し、昭和16(1941)年1月、留守第四師團は移転します。

昭和17(1942)年7月、第四師團の大阪凱旋により、留守第四師團は復員します。

昭和18(1943)年9月21日、南方転出のため第四師團に臨時動員下令、25日、留守第四師團(關原六中将)が動員されます。



昭和18(1943)年秋~昭和19(1944)年春、内地の防衛に当たっていた8個師團のうち5個師團が出征したため、昭和19(1944)年4月、内地の兵備強化のため留守師團(留守近衛第二、同第二、第四、同第七、第五十一、第五十二)の常設特設師團への改編が決定します。

4月4日、軍令陸甲第三十七號により留守第四師團司令部に臨時編成が下令され、第四十四師團司令部(關原六中将)に改編されます。

7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により第四十四師團は臨時動員され、8日、新たに留守第四師團司令部(高野直滿中将)が編成されます。
第四十四師團は一級の装備を持ち、本土防衛の決戦用精鋭兵團(機動打撃師團)として実力発揮が期待されました。

7月、留守第四師團は大阪湾から三重県木本町に至る紀伊半島沿岸部、特に御坊から潮岬を重点として敵上陸部隊の水際撃滅を目的とした陣地構築を開始します。

昭和20(1945)年1月20日、大本營は『帝國陸海軍作戰計畫大綱』を策定、決號作戰(本土決戦)に向けた作戦準備を推進、1月22日、内地、台湾、朝鮮を8軍管區に分割、それぞれに地上作戦及び防空に専念する方面軍司令部、警備や軍政に専念する軍管區司令部の設置を決定、2月11日、各方面軍・軍管區司令部の編成が完結します。
中部軍管區では中部軍司令部が復帰、1月22日、第十五方面軍司令部、及び中部軍管區司令部(第十五方面軍司令官が兼任)が編成され、留守第四師團司令部は中部軍管區司令部の隷下に編入されます。

昭和20(1945)年2月9日、留守第四師團司令部、28日、留守師團隷下の各補充隊に復員下令、同日、留守第四師團司令部を改称した大阪師管區司令部、同補充隊の臨時動員が下令(4月1日、施行)されます。
大阪師管區司令部
大阪師管區 歩兵第一補充隊(中部第二十二部隊、大阪)
   〃    第二 〃 (中部第二十三部隊、大阪)
   〃    第三 〃 (中部第二十四部隊、和歌山)
   〃    第四 〃 (中部第四十六部隊、姫路)
   〃    砲兵 〃 (中部第二十七部隊、信太山) 
   〃    工兵 〃 (中部第二十九部隊、高槻)
   〃    通信隊 〃 (中部第六十八部隊、大阪)
   〃    輜重兵 〃(中部第五十五部隊、金岡)
   〃    制毒訓練所(中部第三十二部隊、金岡)
第十一警備司令部
  特設警備第百五十一~百五十九大隊
 第百一~百三、百七、百八、百十五~百十八警備工兵隊
大阪、奈良、和歌山、神戸地區司令部
大阪第一、第二、和歌山、姫路陸軍病院

2月28日、『帝國陸海軍作戰計畫大綱』の「第一次兵備」により、留守第四師團において第百四十四師團の動員下令、4月8日、第十五方面軍司令部隷下に編入され、9日、動員完結します。

13日、第百四十四師團は作戦地である和歌山市紀三井寺町に司令部を設置、主力を和歌山市・海南市周辺に、一部を御坊町・串本町・淡路島に配備し、留守第四師團から敵上陸に備えた水際陣地構築を継承します。

昭和20(1945)年8月14日、大阪陸軍造兵廠を目標とした米軍の空襲により、大阪師管區司令部庁舎が全焼、15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

明治二十七八年戰役(日清戦争)時の留守師團長
不明

明治三十七八年戰役(日露戦争)時の時の留守師團長
茨木惟昭 予備役中将 : 明治37(1904)年4月16日~明治39(1906)年2月4日

留守第四師團長
熊谷敬一 中将 : 昭和14(1939)年3月9日~
李王垠 中将 : 昭和15(1940)年5月25日~
關原六 中将 : 昭和16(1941)年7月1日~昭和17(1942)年7月18日
關原六 中将 : 昭和18(1943)年9月25日~昭和19(1944)年4月6日
高野直滿 中将 : 昭和19(1944)年7月8日~昭和20(1945)年4月1日

大阪師管區司令官
渡邊正夫 予備役中将 : 昭和20(1945)年4月1日~昭和20(1945)年8月15日


留守第四師團により編成された部隊
第百四師團(鳳八九七五/司令部:鳳八九七四)
昭和13(1938)年6月16日、年次動員計画により留守第四師團の担当で特設師團として第百四師團が編成されます。
第百四師團司令部
歩兵第百七旅團(大阪)
 歩兵第百三十七聯隊(大阪)
 歩兵第百七十聯隊(篠山)
歩兵第百三十二旅團(和歌山)
 歩兵第百八聯隊(大阪)
 歩兵第百六十一聯隊(和歌山)
騎兵第百四大隊(大阪)
野砲兵第百四聯隊(信太山)
工兵第百四聯隊(高槻)
輜重兵第百四聯隊(金岡)
第百四師團 師團通信隊
   〃    兵器勤務隊
   〃    病馬廠
   〃    衛生隊
   〃    第二、第四野戰病院
 
編成完結後の7月、大阪を出発し渡滿、直後に張鼓峰事件が勃発したため不測の事態に備え大連から琿春(東部ソ滿国境)付近に出動しますが、8月11日、停戦となり大聯に帰還します。

9月、新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戰闘序列に編入、10月、大連を出港、南支に向かい、10月22日、第十八師團(牛島貞雄中将、久留米)とともにバイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加します。

11月9日、従北作戰に参加、従北付近に屯営し、支那第四戰區軍と交戦しつつ警備と治安維持に従事します。

昭和14(1939)年6月、第二十一軍の汕頭・潮州攻略戦、11月~昭和15(1940)年1月、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戰に参加します。
2月9日、第二十一軍が廃止され、南支那方面軍(安藤利吉中将)戰闘序列に編入(師團指揮下に第二十一獨立飛行隊が編入)、5~6月、南支那方面軍隷下の第二十二軍とともに良口作戰、昭和16(1941)年9~10月、第二十三軍(今村均中将、6月28日、南支那方面軍を改編)の四邑北エ作戰などに参加します。
この間の昭和16(1941)年1月、隷下の歩兵第百七十聯隊(米山米鹿大佐、篠山)が抽出され獨立混成第二十一旅團司令部に隷属転移、仏印方面に転用、歩兵第百三十二旅團(竹内一郎少将)は第百四歩兵團に改編され三単位師團に改編されます。
第百四師團司令部
第百四歩兵團司令部(大阪)
 歩兵第百八聯隊(大阪)
 歩兵第百三十七聯隊(大阪)
 歩兵第百六十一聯隊(和歌山)
騎兵第百四大隊(大阪)
野砲兵第百四聯隊(信太山)
工兵第百四聯隊(高槻)
輜重兵第百四聯隊(金岡)
第百四師團 通信隊
   〃    兵器勤務隊
   〃    病馬廠
   〃    衛生隊
   〃    野戦病院

昭和17(1942)年5~9月、第二十三軍の従源作戰に参加します。
8月1日、師團長に軍隊教育の権威・鈴木貞次中将が親補されると、師團の錬成に心血を注ぎ、僅か2年程で精強な師團となります。
鈴木師團長の意見具申により兵の徴募管区が大阪から名古屋師管に変更されます。

昭和18(1943)年2月、広州湾進駐作戰に参加します。
7月、編成改正により騎兵第百四大隊(杉木守中佐)が復帰、野砲兵第百四聯隊は野砲から山砲に改編、各歩兵聯隊の火砲装備の更新、及び兵員増強が実施されます。
12月、廣九作戰に参加します。

昭和19(1944)年2月、獨立歩兵第八(加藤章少将)、第十三旅團(落合松二郎少将)の編成に際し師團隷下各部隊から要員の抽出が行われます。
4月、一號作戰(大陸打通作戰)に備え警備を他部隊と交替し、8~12月、第二段湘桂作戦に第二十三軍の主力として参加、9月16日、広東省肇慶、11月4日、広西省武宣、6日、象県を攻略します。

昭和20(1945)年1月、粤漢作戰において、15日、広東省恵州を攻略、18日、海豊を攻略占領します。
師團は海豊、陸豊地区に集結し、米軍の大陸南部上陸に備え陣地構築の後、広東省恵州に移駐し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

歴代師團長
三宅俊雄 中将 : 昭和13(1938)年6月25日~
濱本喜三郎 中将 : 昭和13(1938)年11月17日~
菰田康一 中将 : 昭和15(1940)年12月2日~
鈴木貞次 中将 : 昭和17(1942)年8月1日~
末藤知文 中将 : 昭和20(1945)年3月23日~


第三十四師團(椿六八五五/司令部:六八四〇)
昭和13(1938)年10月、支那事變勃発から1年が経過、我が軍は武漢三鎮、広東を攻略、拡大する戦線に対応し対支作戦も政略的考慮(攻略地の警備や治安維持)、及び対ソ連関係を勘案し新たな作戦要綱に基づく軍制改革が行われ、従来の4単位師團から軽敏な3単位師團に改編し、さらに師團数を増加し戦略的運用兵力の増加を図りました。

昭和14(1939)年2月7日、軍令甲第六號により留守第四師團に臨時動員が下令され、3月1日、乙編成師團として第三十四師團の編成完結、4月、同時に編成された第三十三師團(甘粕重太郎中将、仙台)とともに第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。
第三十四師團
第三十四歩兵團司令部
 歩兵第二百十六聯隊(歩七十留守隊-篠山に歩八留守隊-大阪の1個大隊を加える)
 歩兵第二百十七聯隊(歩三十七留守隊-大阪に 〃)
 歩兵第二百十八聯隊(歩六十一留守隊-和歌山に 〃)  
 ※各聯隊の第三大隊(第九~十二中隊)は歩八留守隊から抽出
捜索第三十四聯隊
野砲兵第三十四聯隊
工兵第三十四聯隊
輜重兵第三十四聯隊
第三十四師團 通信隊
     〃    兵器勤務隊
     〃    第一、二野戰病院
     〃    病馬廠

第三十四師團隷下の歩兵3個聯隊編成にあたり、第四師團の筆頭聯隊である歩兵第八聯隊留守隊から筆頭聯隊が編成されず、次号聯隊に分属されます。
理由としては兵営の収容能力、すなわち聯隊新編後も留守隊1個大隊を置かなければならない関係上、歩八のみは4個大隊(新編3個+留守隊1個)を収容できる広大な兵営を有していますが、他の歩七十、歩三十七、歩六十一の兵営は3個大隊(新編2個+留守隊1個)しか収容できないため便宜的処置として歩八留守隊を分割したようです。

4月10日、中支湖北省陽暹に上陸し、湖北省黄坡の警備に従事、12月から第百一師團(斎藤彌平太中将、東京)と交替し江西省南昌に移駐し支那第九戰區軍第十九集團軍と対峙しつつ同地の警備にあたります。

昭和15(1940)年5~6月、第十一軍の宜昌作戰に小川支隊(歩二百十六聯隊長・小川權之助大佐)が参加、この間隙を衝く支那軍の夏季攻勢を受け損害が出てしまいます。

昭和16(1941)年3~4月、予南、第一次錦江、沔陽作戰に参加、第一次錦江作戰では軍主力として作戦しますが友軍間との連携の不手際から、大損害を受けてしまいます。
12月8日、大東亜戦争勃発に伴い第三十三師團が南方に転用、第三十三師團の警備地区である南昌西北の安義方面も併せて守備にあたります。
12月24日、第十一軍は第二次長沙作戰を下令、師團は12月~昭和17(1942)年1月、支作戦である第二次錦江作戰、贛(カン)江作戰に参加します。

昭和17(1942)年3月、第六十八師團(中山惇中将、大阪)の編成要員を抽出します。
4月18日、ドーリットルの本土空襲を終えた敵機が着陸した浙江省方面の敵飛行場、軍事施設を覆滅するため、5~8月、浙贛作戰に参加、師團は第十一軍の東進基幹師團として南昌から東進、横峯で第十三軍(澤田茂中将)と連絡打通、敵飛行場、軍事施設、鉄道施設を破壊、軍需物資を押収し転進します。

昭和18(1943)年5~6月、第十一軍の江北・江南殲滅作戰、10月~昭和19(1944)年1月、常徳殲滅作戰に参加し、多くの戦果を挙げました。
7月、編成改正が行われ、野砲兵第三十四聯隊、捜索第三十四聯隊が復帰、工兵第三十四聯隊は師團工兵隊、輜重兵第三十四聯隊は師團輜重隊に改編され、歩兵聯隊の兵員が増強、丙編成師團となり、第十三師團(赤鹿理中将)と交替し宜昌の警備にあたり、毎年1度の支那軍の本格反攻を第十三師團の半分の兵力で撃退します。
第三十四師團司令部
第三十四歩兵團司令部
 歩兵第二百十六聯隊
 歩兵第二百十七聯隊
 歩兵第二百十八聯隊  
第三十四師團 工兵隊
     〃    輜重隊
     〃    通信隊
     〃    野戰病院
     〃    病馬廠

昭和19(1944)年1月、支那派遣軍は一號作戰(大陸打通作戦)を下令、2~3月、湘桂作戰に伴う警備部隊として編成された獨立歩兵第七(松野尾勝明少将)、第十一旅團(宮下文夫少将)に編成要員を抽出します。

4月末、一號作戰では第十一軍の湘桂作戰に参加、南昌を出撃し、5月、第一期作戦として長沙・衡陽に進撃、6月、長沙攻略の要所・岳麓山を攻略、針谷支隊(歩二百十八聯隊長・針谷逸郎大佐)は洞庭湖を舟艇機動し6~8月の第一~三次衡陽攻略戦に参加します。
師團主力は衡陽西部の山岳地帯を迂回し、10月、広西省全県に到着し同地の守備にあたり戦力を回復します。
針谷支隊は引き続き第二期作戦である柳桂作戰に参加、11月、桂林・柳州まで進撃します。

昭和20(1945)年2月、第二獨立警備隊(岡島重敏少将)の編成要員を抽出、4~5月、第二十軍(坂西一良中将)の芷江作戰に木佐木支隊(歩二百十七聯隊長・木佐木清次大佐)が参加、4月18日、支那派遣軍直轄部隊となり、6月、中支方面の防衛強化のため湖南省宝慶を出発、第三、第十三師團とともに南京、上海方面に向けて移動中、8月16日、江西省九江で停戦を迎えました。

歴代師團長
關龜治 中将 : 昭和14(1939)年3月9日~
大賀茂 中将 : 昭和15(1940)年12月2日~
秦彦三郎 中将 : 昭和17(1942)年10月8日~
伴健雄 中将 : 昭和18(1943)年3月25日~


第四十四師團(橘一四一五〇/司令部:一四一五一)
昭和18(1943)年秋~昭和19(1944)年春、内地の防衛に当たっていた8個師團のうち5個師團が出征したため、内地の兵備強化のため、4月6日、留守師團(留守近衛第二、留守第二、第四、第五十一、第五十二)の常設特設師團への改編が決定、7月6日、留守第四師團は第四十四師團(關原六中将)に改編され、8日、新たに留守第四師團(高野直滿中将)が動員されます。
第四十四師團司令部
第四十四歩兵團司令部(大阪)
 歩兵第九十二聯隊(大阪)
 歩兵第九十三聯隊(大阪)
 歩兵第九十四聯隊(和歌山)
野砲兵第四十四聯隊(信太山)
工兵第四十四聯隊(高槻)
輜重兵第四十四(金岡)
第四十四師團 通信隊
    〃    速射砲隊
    〃    衛生隊
    〃    第一、第四野戰病院
師團は一級の装備を持ち、本土防衛の決戦用精鋭兵團として実力発揮が期待されました。


師團は編成完結後、中部軍司令部(河邉正三中将)隷下に編入され信太山陸軍演習廠舎に転営し錬成にあたりますが、大阪師管区内に留守第四と第四十四師團の2個師團が所在したため兵営と補給、防衛任務の範囲と権限など両師團間に齟齬を来たす事態となります。

9月、第四十四師團の一部が東部軍の指揮下に入り、米軍上陸正面が想定されるの茨城県鹿島灘に移駐し陣地構築を開始、昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團主力は第十二方面軍(田中静壱大将)戦闘序列に編入され、作戦地である関東平野に進出します。

4月8日、新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入、機動打撃師團として鹿島、潮来、江戸崎、鉾田、石岡付近に陣地構築中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

歴代師團長
關原六 中将 : 昭和19(1944)年4月6日~昭和19(1944)年4月13日
川並密 中将 : 昭和19(1944)年7月8日~
谷口春治 中将 : 昭和20(1945)年3月19日~


第百四十四師團(護阪二二三〇一/司令部:二二三〇二)
昭和19(1944)年5月、防衛總司令部は『皇土防衞作戰要綱』を策定、決號作戰(本土決戦)における近畿地方の防衛に関し、第一線は紀伊半島と想定しましたが、昭和17(1942)年から米潜水艦が出没、昭和19年末からは米爆撃機が上空を頻繁に通過するようになり緊張の度合いは急速に高まります。
昭和19年4月、帝國在郷軍人會第四師管聯合支部は和歌山県田辺市、太地町において海上監視を中心とした警戒演習を実施します。
7月、留守第四師團は三重県木本町に至る紀伊半島沿岸部(御坊から潮岬を重点)に敵上陸部隊の水際撃滅を目的とした陣地構築を開始します。

昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、2月28日、「第一次兵備」により留守第四師團司令部に第百四十四師團の編成下令、4月9日、編成完結、4月8日、第十五方面軍(内山英太郎中将)戦闘序列に編入されます。師團は沿岸配備師團に位置付けられ定員17,082名でした。
第百四十四師團司令部
歩兵第四百十三聯隊(大阪)
歩兵第四百十四聯隊(大阪)
歩兵第四百十五聯隊(和歌山)
第百四十四師團 通信隊
     〃     輜重隊

4月8日、大本營は『決號作戰準備大綱』を策定、近畿地方の防衛作戦構想は阪神都市部と大阪湾岸の防衛を主眼とし、紀淡海峡を挟んだ和歌山県北部沿岸・淡路島が最重点地域となります。

13日、第百四十四師團は作戦地である和歌山市日方町の修徳女學校に司令部を開設、主力を和歌山市・海南市周辺に、一部を御坊町・串本町・淡路島に配備し、留守第四師團から陣地構築を継承します。
また、大阪、橋本方面への敵侵攻路を遮断し、飛行場の設定を阻止すべく、新たに紀ノ川両岸を重点とした第二次築城(ち號工事)を開始します。
各部隊は配備地区の國民學校を間借りして分屯、陣地構築には近隣住民、和歌山県、大阪府などからの勤労奉仕隊などが協力します。

5月6日、近畿防衛を主管する第十五方面軍・中部軍管區司令部(内山英太郎中将)、舞鶴鎭守府司令部(田結譲中将)、大阪警備府(岡新中将)の陸海軍が起案、近畿地方行政協議會が承認した『近畿地方總力交戰準備要綱』により、近畿地方は5地区の防衛地帯に区分、南岸防衛地帯(和歌山県の大半、淡路島、大阪府の一部、三重県の一部)を最重点とし、戦力を結集する事が決定します。

5月、編成完結した歩兵第四百十六聯隊(大野次郎中佐、和歌山)、第百四十四師團速射砲隊、同兵器勤務隊が、6月、同野戰病院、7月、同砲兵隊が隷下に編入されます。

6月23日、獨立混成第百二十三旅團(金岡正忠少将、和歌山)、獨立野砲兵第三十二大隊、迫撃砲第十九大隊、獨立工兵第百十二大隊が師團が師團指揮下に編入されます。

7月1日、師團は紀ノ川を複郭縦深陣地とした持久戦実施のため、丸栖村の御茶屋御殿山に地下司令部、通信室を構築、司令部を移転します。
第十五方面軍司令部は敵の紀伊半島上陸時は司令部を粉河町付近に推進する予定でした。

11日、師團の新防衛体制に基づく軍隊区分が下令され、師團隷下部隊は河北、河南、和歌浦、簑島各地區隊(和歌山市・海南市方面)、獨混百二十三旅團は御坊、串本、木本各地區隊、これに海軍主担任の田邉地區隊を加えた計9地區隊に再編されます。
同時に対上陸戦備の更改と各地區隊の作戦任務、第三次築城が下令、大阪師管區歩兵第三補充隊(旧歩六十一補充隊)に変わり和歌山地區司令部、また海上挺身第四十戰隊(マルレ装備、湯浅町に配備)が師團の指揮下に編入されます。

8月15日、火砲、資材が不足するも敵上陸に備え陣地構築を推進するなか『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第百四十四師團司令部
歩兵第四百十三聯隊(大阪)
歩兵第四百十四聯隊(大阪)
歩兵第四百十五聯隊(和歌山)
歩兵第四百十六聯隊(和歌山)
第百四十四師團 通信隊
     〃     輜重隊
     〃     速射砲隊
     〃     兵器勤務隊
     〃     野戰病院
     〃     砲兵隊(仙台)

指揮下部隊は
獨立混成第百二十三旅團(和歌山)
獨立混成第三十八聯隊(京都)
獨立野砲兵第三十二大隊
迫撃砲第十九大隊
獨立工兵第百十二大隊
和歌山地區司令部(和歌山)
海上挺身第四十戰隊
由良要塞司令部
でした。

歴代師團長
高野直滿 中将 : 昭和20(1945)年4月1日~


第二百二十五師團(金剛二八二五六/司令部:二八二五七)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、5月23日、大阪師管區司令部に編成下令、編成中の6月19日、第十五方面軍戦闘序列に編入されます。

4月8日に新設された第二總軍(畑俊六大将)の戦略予備機動打撃師團と位置づけられ、作戦地である兵庫県龍野町に移動、作戦準備中の8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
第二百二十五師團司令部
歩兵第三百四十三聯隊(大阪)
歩兵第三百四十四聯隊(大阪)
歩兵第三百四十五聯隊(姫路)
第二百二十五師團 迫撃砲隊
      〃      工兵隊
      〃      通信隊
      〃      輜重隊

歴代師團長
落合鼎五 中将 : 昭和20(1945)年6月1日~


旅團司令部
獨立混成第二旅團司令部(響五三三一)
昭和13(1938)年3月12日、北京郊外北苑で編成。

獨立混成第二十五旅團司令部(盤一〇九〇八)
昭和18(1943)年11月16日、スマトラで編成。

獨立混成第三十七旅團司令部(鍛一五八四四)
昭和19(1944)年2月10日、アンダマン島で編成。

獨立歩兵第二旅團(曙一四五三)
昭和19(1944)年12月10日、北支石門で編成。

獨立歩兵第十一旅團(福五三八〇)
昭和19(1944)年2月15日、中支で編成。


補充のみ
第二十五師團司令部(國四九〇一)
昭和15(1940)年7月29日、滿洲國新京において3単位師團改編により抽出された歩兵聯隊により編成完結(桑原四郎中将)。

第六十八師團司令部(檜二三二七)
昭和17(1943)年2月2日、中支江西省九江において臨時編成(中山惇中将)。 

第八十四師團司令部(突一〇一三一)
昭和19(1944)年7月6日、姫路において臨時編成(小倉達次中将)。  

第九十四師團司令部(威烈一八五〇一)
昭和19(1944)年10月14日、馬来において臨時編成(四手井綱正中将)。  

第百三十二師團司令部(振起一七七二一)
昭和20(1943)年2月1日、中支武漢において臨時編成(柳川悌中将)。 


主要参考文献
『大阪砲兵工廠沿革史』 (明治35年7月 大阪砲兵工廠)

『歩兵第八聯隊史』 (昭和58年 歩兵第八聯隊史編纂委員会)

『新修大阪市史第七巻 近代Ⅲ』 (平成6年3月 大阪市)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『戦史叢書57 本土決戦準備(2)九州の防衛』 (昭和47年7月 朝雲新聞社)

『失われた近代建築』 (平成21年12月 講談社)

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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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