当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第八聯隊

大坂城外南側に我が陸軍の中で最も歴史の古い歩兵第八聯隊がありました。

兵営では後に歩兵第百八聯隊歩兵第九十二聯隊歩兵第四百十三聯隊歩兵第三百四十三聯隊が編成されます。

また、兵営北側に大阪城南陸軍射撃場がありました。
歩八 南門 (2)(大阪陸軍遺構)
▲難波宮跡に遺る歩兵第八聯隊兵営の南門

【探索日時】
平成21(2009)年1月13日、平成23年(2011)年4月12日





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
昭和3-(大阪陸軍遺構)
▲昭和3(1929)年の空撮

昭和11(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に軍事施設を転写 ※黄色部分は大坂城天守復興に伴う一般開放地域
① 第四師團司令部
② 大阪陸軍刑務所
③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
④ 大阪陸軍兵器補給廠
⑤       〃      城内西兵器庫
⑥       〃      城内北兵器庫
⑦       〃      青屋口門兵器庫
⑧       〃      玉造門兵器庫
⑨ 大阪城南陸軍射撃場
⑩ 歩兵第八聯隊

⑪ 大阪陸軍被服支廠
⑫      〃      被服倉庫
⑬ 歩兵第三十七聯隊
⑭ 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑮ 大阪憲兵隊本部
⑯ 歩兵第七旅團司令部
⑰ 大阪聯隊區司令部
⑱ 第四師團経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑲ 堺聯隊區司令部
⑳ 第四師團長官舎
㉑ 大阪陸軍病院
㉒ 大阪偕行社
㉓ 大阪軍人會館
㉔ 大阪偕行社付属小學校
㉕ 大阪砲兵工廠
㉖ 大阪城東陸軍練兵場
㉗ 第四師團経理部 糧秣倉庫
㉘ 大阪陸軍被服支廠 城東検査場
㉙ 眞田山陸軍墓地
㉚ 陸軍用地
※施設配置・名称は昭和15(1940)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設



遺構について※青字は地図にリンクしています
⑩ 歩兵第八聯隊兵営
大阪府は我が国の中央に位置し、国内の有事に対応するには最適という地政学的見地から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿は大阪に陸軍の教育機関、兵器製造所、火薬製造所、兵営の一括設置を構想します。
明治維新に伴い新政府に移管された大坂城は広大な敷地を有している事もあり、大村卿の構想に則り陸軍部隊が設置されていきます。
後に歩兵第八聯隊兵営となる大坂城南側は御定番(大坂城の警備)、同心屋敷がありましたが、明治維新に伴う武士の退去により明治4(1872)年、明治政府に移管、建物は撤去され大阪城南練兵場(調練場、操練場とも)が開設されます。
明治30(1887)年8月9日、練兵場南西端に歩兵営が竣工、鈴木町から歩兵第八聯隊が転営して来ます。
歩八営門(大正年間)(大阪陸軍遺構)
▲大正年間の営門

歩八兵営 営門跡(大阪陸軍遺構)
現在の営門付近
  現在は難波宮跡公園の入口になっていますが、何も遺されていません。

明治27(1894)年11月26日、明治二十七八年戰役(日清戦争)、明治37(1904)年3月6日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し、歩兵第八聯隊補充大隊、昭和12年(1937)年4月29日、歩兵第八聯隊の滿洲駐箚に際し、歩兵第八聯隊留守隊(昭和15年7月1日、補充隊に改称)が編成され、昭和13(1938)年6月17日、歩兵第百八聯隊を編成、昭和17(1942)年7月6日、歩兵第八聯隊の凱旋に伴い、歩兵第八聯隊補充隊は復員します。
昭和18(1943)年10月3日、歩兵第八聯隊の動員、スマトラ島ベラワン出征に伴い、再び歩兵第八聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月4日、補充隊は歩兵第九十二聯隊に改編、7月6日、歩兵第九十二聯隊の動員に伴い新たに歩兵第八聯隊補充隊が編成され、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第四百十三聯隊を編成、4月1日、歩兵第八聯隊補充隊は大阪師管區歩兵第一補充隊に改称、6月20日、歩兵第三百四十三聯隊を編成し、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月25日、米第1軍団第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置、27日、米第98歩兵師団により兵営は接収され軍需品の処理の後、10月30日、接収が解除され大蔵省に返還され、大阪財務局の管理下に置かれます。

昭和21(1946)年1月、病棟が接収された大阪赤十字病院が兵営南側に移転して来ます。
昭和28(1953)年、難波宮で使用されていた鴟尾の破片が見つかった事から、昭和29年(1954)2月、難波宮の発掘が開始され、昭和30(1955)年9月1日、北側に陸上自衛隊大阪地方連絡部が一時移転(大阪聯隊區司令部跡に移転)してきます。
昭和31(1956)年4月、大阪赤十字病院は精神科を残し(平成16年3月、移転)筆ヶ崎町に復帰、その他、総理庁法務部、大阪労働基準監督庁、警視庁宿舎、大阪府開拓課等に転用されますが、随時移転して行きます。
その後の難波宮の発掘調査及び難波宮跡公園の整備に伴い残念ながら大半の建物が撤去されてしまいました。

歴史の古い歩兵第八聯隊ですが、現在は難波宮跡公園、大阪府農林会館、大阪城公園臨時駐車場になり下記の僅かな遺構が遺されているのみです。
大坂城 歩八(大阪陸軍遺構)
▲遺構の配置

歩八軍旗祭(昭和10年4月)(大阪陸軍遺構)
▲昭和10(1935)年4月、軍旗祭時の営庭中央から北側を撮影

歩八兵営跡 中央から北側を見る(大阪陸軍遺構)
▲現在の兵営跡
  上掲写真と同位置から撮影

チ 歩兵第八聯隊跡
   御臨幸之跡

聯隊本部庁舎のあった付近にあります。
歩兵第八聯隊跡碑全景(大阪陸軍遺構)
▲歩兵第八聯隊跡(左)と御臨幸之跡

御臨幸之跡は昭和7(1932)年11月11~14日に奈良・大阪平野で行われた特別大演習(北軍:第三、第十六師團、南軍:第四、第五師團)終了後、御統監の 昭和天皇が大阪城東陸軍練兵場において観兵式を御統監されたのを記念して建立されました。
数少ない聯隊の遺構です。

歩兵第八聯隊跡は昭和50(1975)年4月、歩八会により建立されました。

歩兵第八聯隊跡碑周囲の柵柱(大阪陸軍遺構)
▲碑の周囲四隅には当時の物と思われる石製の支柱があります。


ツ 南門門柱
公園出入り口に転用された南門が遺されています。
歩八 南門 (2)(大阪陸軍遺構)

門柱の蝶番は撤去されていますが、門扉のレールが片方遺されています。
また周囲には敷石も残されています。
歩八 南門(大阪陸軍遺構)


B 石垣
兵営外周の石垣、排水樋が一部遺されています。
南西隅の石組み(大阪陸軍遺構)
▲兵営西側に残る石垣
  コンクリート塀は戦後のものです。

この場所は平成16(2004)年まで大阪府立大手前整肢学園があったので、難波宮跡公園造成による遺構の破壊から逃れたようです。


歩兵第八聯隊兵営見取り図(停戦時)
歩八 兵営(大阪陸軍遺構)
①馬場  ②将校集会所  ③洗濯工場  ④戦用品庫  ⑤弾薬庫  ⑥砲廠  ⑦大阪師管區通信隊  ⑧厩・蹄鉄  ⑨聯隊砲中隊  ⑩馬具・糧秣庫・被服庫  ⑪第一・第二中隊兵舎  ⑫第三・機関銃中隊兵舎  ⑬洗面所・厠  ⑭機関銃・第五中隊兵舎  ⑮第六・第七中隊兵舎  ⑯酒保  ⑰浴場  ⑱銃工場  ⑲陣営具倉庫  ⑳倉庫  ㉑兵器庫  ㉒被服庫・戦用庫・兵器庫  ㉓医務室  ㉔炊事場  ㉕靴工場・縫工場  ㉖倉庫  ㉗土俵・体操場  ㉘営繕倉庫  ㉙面会所  ㉚第十・第九中隊兵舎  ㉛機関銃・第十一中隊兵舎  ㉜聯隊本部  ㉝築山(砲塔・記念碑・時計)  ㉞衛兵所・営倉  ㉟厩  A:営門  B:南門  C:北門  (『歩兵第八聯隊史』より、一部訂正)




⑨ 大阪城南陸軍射撃場
明治維新後、大坂城周辺には随時陸軍兵営が開設され、外堀南側に射的場が開設されます。
その後、銃砲・火薬の威力増大に伴い流弾が森ノ宮方面の民家に飛んでいく等危険になったため、昭和7(1932)年5月、コンクリート製半地下式の室内射撃場に改装されました。
大東亜戦争の停戦に伴い米軍に接収され射撃場として使用、昭和26(1951)年8月、返還後は大阪府警の射撃場として使用されていましたが、昭和43(1968)年11月、大阪市の緑化100年運動に伴う大阪城公園の整備に伴い破壊されてしまいます。
現在は射撃場の痕跡として土地がやや下がっている程度で、それ以外の明確な遺構は遺されていません

タ  城南射撃場跡
城南射撃場跡碑(大阪陸軍遺構)
▲昭和44年5月24日、大阪市によって建立されました。


射撃場跡 北から見る(大阪陸軍遺構)
▲現在の射撃場跡
  奥の道路と比べ土地がやや下がっています


衛戍、編成部隊
歩兵第八聯隊(淀四〇七二、中部第二十二部隊)
明治7(1874)5月14日、大阪鎭臺歩兵第十大隊と同第十四大隊に第一徴兵を加え歩兵第八聯隊が編成(河村洋興中佐)、12月18日、宮中において全歩兵聯隊中最初に軍旗を拝受し、大阪鎭臺(のち第四師團)隷下に編入されます。
歩八 軍旗(大阪陸軍遺構)
▲歩兵第八聯隊 軍旗

明治9(1976)年11月1日、萩の乱に第一大隊(風間繁中佐)が出征し、21日に凱旋 、 明治10(1877)年2月20日、西南の役に出征し、10月1日、凱旋します。

明治18(1985)年6月、淀川大洪水に出動、住民の救助にあたります。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、11月26日、第四師團に動員下令、明治28(1895)年3月24日、第二軍戦闘序列に編入され、29日、聯隊は兵営を出発しますが、3月30日、講和条約発効により聯隊は戦闘に加わる事無く、5月17日、占領地軍總督の指揮下に編入され、6月7日、海城付近の警備、8月4日、鳳凰城付近の警備にあたり、12月24日、大阪に帰還します。

明治29(1896)年1月6日、第四師團で編成された混成旅團(大久保春野少将)に配属され臺灣土匪の討伐に出征、蘇澳に上陸、南興庄、冬瓜山、林尾庄、大坡鳥浦などで土匪を討伐、7月6日、大阪に凱旋します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、3月6日、第四師團に動員下令、3月15日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され、4月22日、聯隊は兵営を出発、5月10日、遼東半島孫家咀子付近に上陸、26日、南山の攻撃に参加、一番乗りを果たし占領、6月15日、得利寺、7月9日、蓋平、24日、大石橋、8月4日、海城の戦闘に参加、26日、遼陽の會戰、10月10日、沙河の會戰、明治38(1904)年3月1日からは奉天會戰に参加、9月1日、講和条約が締結され、6日、大本營より全軍に休戦が布告、16日、休戦協定が締結、10月16日、平和克服が令達され、12月18日、大阪に凱旋します。

明治42(1908)年7月31日、北の大火、明治45(1912)年1月16日、南の大火に出動、消火、住民救助、警備に当たります。

大正3(1914)年8月21日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)において第二大隊を基幹として獨立歩兵第一大隊(金澤末策少佐)を編成、9月9日、兵営を出発、15日、龍口に上陸し獨立第十八師團兵站部(高橋安太郎大佐)の指揮下(10月14日から歩兵第二十九旅團隷下に)に編入され、青島攻略戦の一環として山東鉄道を押収、警備、5月20日、大阪に凱旋します。

大正6(1917)年10月28日、淀川大洪水に出動した工兵第四大隊の援護として出動、被災者救援にあたります。
大正7(1918)年8月12日、暴徒化した米騒動の鎮撫に大阪府知事の要請を受け出動、治安維持、警備にあたります。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災発災に際し、救護班を派遣し罹災者の救護に当たります。

昭和8(1933)年6月17日、天神橋筋6丁目交差点において中村政一一等兵と戸田忠夫巡査の口論からゴーストップ事件が発生。
聯隊、曽根崎警察署、さらに陸軍省、内務省を巻き込む騒動に発展しますが、5ヶ月後に和解します。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風に際し市内各学校に出動し児童を救出する一方、大正区、港区の救護を担当し罹災者の救援・救護、食糧配給、被災地の復旧を実施します。

昭和12年(1937)年4月20日、第四師團の關東軍司令部(植田謙吉大将)戦闘序列編入と滿洲駐箚が決定、29日、聯隊は大阪を出発、5月5日、新京に到着、師團主力と離れ新京警備隊(第七旅團長・伊藤知剛少将)として首都・新京の警備にあたります。

7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、7月下旬、聯隊から第三中隊(山津善九郎大尉)を基幹とする混成一個中隊が滿鐡守備隊司令官の指揮下に応急派兵され葉柏樹付近の国府軍、匪賊討伐に当たります(12月初旬、原隊に復帰)。

9月、第四師團の三江省内の匪賊討伐作戦に、第六中隊を基幹とした混成中隊(都甲誠一大尉)が参加します。

11月27日、ソ聯軍の不穏な動きに備え東滿洲国境付近の密山県新密山に移駐、昭和13(1938)年12月から勃利に移駐し、各大隊を分散配置し警備・匪賊討伐に当たります。

昭和14(1939)年5月13日、ソ連軍の越境によりノモンハン事件が勃発、8月25日、速射砲中隊、29日、第四師團に増援として応急派兵が下令されハンダガヤ付近において、9月15日、停戦協定成立により待機、10月5日、勃利に帰還します。

昭和15(1940)年6月26日、第四師團は第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入、7月12日、師團とともに聯隊は勃利を出発、8月7日、中支湖北省雲夢県雲夢城に到着、同地の警備・治安維持に当たり、11月25日、第十一軍の漢水作戰に師團とともに参加、国府軍を撃破します。

昭和16(1941)年1月26日、予南作戰に参加、第四師團を離れ第三師團の援護を実施、4月9日、師團とともに大洪山作戰に参加、新編共産第四軍を撃破、5月5日、江北作戰に参加、8月27日、第二次長沙作戰に参加します。
11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり上海付近に移動集結します。

昭和17(1942)年2月10日、師團は比島攻略中の第十四軍(本間正晴中将)戦闘序列に編入、2月25日、上海を出航し、3月5日、ルソン島リンガエン湾に上陸します。
3月14日、軍命令によりアボアボ川北岸に前進し敵情地形の捜索を開始、4月3日よりバターン半島の総攻撃に参加(第二次バターン半島攻略戦)、4月9日、多大な損害を出すも米比軍を降伏させます。

4月15日頃から師團内にマラリヤが蔓延、将兵の半数が罹患する事態になりますが、4月末には8割が回復します。

5月5日、米比軍最後の拠点であるコレヒドール島の攻略戦に参加し、4月6日正午、マッカーサーの後任ウェインライト中将が降伏、聯隊は師團長・北野憲造中将より賞詞を授与されます。
5月12日、オラーニに移駐、15日、マニラ市のリーサル広場で行われた軍の合同慰霊祭に参加、22日、オラーニで聯隊の英霊告別式を挙行、6月12日、第四師團に復員が下令されたため、第十六師團と警備を交替し、26日、比島を出航し、7月6日、大阪の兵営に凱旋します。
『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年)宮本三郎画
▲『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年 宮本三郎画)

昭和18(1943)年9月27日、第四師團に臨時動員が下令され、10月3日、聯隊は動員完結、10月10日、門司港を出航、10月15日、台中北西沖にて敵潜タリビーの雷撃を受け僚隊の輜重兵第四聯隊主力の乗船する「志かご丸」が沈没、乗船者1,497名中、船員8、兵員41、船砲隊員1名を失う悲運に遭います。

11月4日、スマトラ島ベラワン港に上陸、師團は第二十五軍(田邉盛武中将)戦闘序列に編入され聯隊主力はバタンタロの警備に、第二大隊は軍司令部のあるブキチンギの海岸地帯に英印軍の侵攻に備え水際陣地を構築します。

昭和19(1944)年2月12日、第一大隊がカーニコバル島守備隊(獨立歩兵第二百六十大隊要員)として転出、6月4日、聯隊主力は第二大隊守備のブキチンギに隣接するアイルパンギスに移駐、13日、聯隊本部をカパラコトに移し、12月13日、第二大隊をマングーンに移駐し水際陣地を構築します。
28日、欠如していた第一大隊が新編(唐澤仁一大尉)されます。

昭和20(1945)年1月21日、聯隊は第四師團を離れスマトラ防衛の任務を解かれ、第三十八軍(土橋勇逸中将)の指揮下に編入、第一大隊は第二師團、聯隊本部と第二大隊は北部仏印獨立混成第七十旅團、第三大隊は北部仏印第二十一師團の指揮下に編入されます。
3月9日、仏印軍が東西から迫る米英両軍と策応するのを防ぐため第三十八軍は明號作戰を発令、第一大隊は歩兵第二十九聯隊とともにパクセ・サバナケット、聯隊本部と第二大隊はサンジャック要塞・バリア、第三大隊はビエンチャン・ルアンプラバンの仏印軍の武装解除を行います。

4月下旬、聯隊は第四師團隷下に復帰、泰國ランパン及びラーヘンに移駐しビルマ方面の英印軍に対する陣地構築と不穏な動きを見せる泰軍及び警察の武装解除を準備中の8月17日、停戦を迎えます。

8月31日、第四師團長・木村松治郎中将列席の元、軍旗を奉焼、71年間の聯隊の歴史に幕を閉じました。
9月15日、英軍により武装解除が行われ、11月15日、ナコンナヨークまで徒歩で移動し自力で収容所を建設、昭和21(1946)年5月24日、バンコクに移動、6月4日から12月21日にかけて鹿児島、浦賀に上陸し復員を完結します。

歩兵第八聯隊に関しては「またも負けたか八聯隊、それでは勲章九聯隊」といった不名誉な里歌により歩兵第九聯隊(京都)とともに、我が国の最弱聯隊だったように思われがちです。
しかし、上に記したように最古の聯隊として数々の戦役、戦闘に参加し、不覚を取ったことは無く、古豪聯隊として武勲を挙げてきました。
個々の戦闘の経過を見ても、慎重過ぎや消極的な行動は皆無で、バターン攻略、コレヒドール攻略など敵弾を冒して大きな戦果を挙げています。
この不名誉な里歌については「大阪人特有の商人気質的な考え方が、語呂合わせと相まって生み出された」といった解釈が一般的なようです。
個人的には、民衆の国家意識がそれまでの多数の小藩から明治維新を経て日本国といった一大共同体が成立し、国家感が変化した直後の対外戦役である明治二十七八年戰役(日清戦争)において、歩兵第八聯隊が出征したものの敵と交戦することなく帰還したことが「戦えなかった=戦わなかった=手柄を立てなかった=負けた」と転じ、その過程で語呂合わせ的な里歌となったと思うのですが。
ちなみに歩兵第九聯隊もレイテ島で玉砕するまで数々の戦闘に参加、不覚を取ったことはありませんでした。


歩兵第百八聯隊(鳳八九六四)
昭和13(1938)年6月17日、歩兵第八聯隊留守隊に編成下令、予備役を主体として編成(宮田兼治郎大佐)、6月23日、宮中において軍旗を拝受、28日、動員完結し第百四師團(三宅俊雄中将)隷下に編入されます。

7月4日、大阪を出発し、7日、大連に上陸、7月12日、張鼓峰事件が勃発したため、8月16日、聯隊主力は延吉、第一大隊は(イ図)門に出動しますが、8月11日、参戦前に停戦となり大連に帰還します。

9月、師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に編入され、10月15日、大連を出港、南支に向かい、10月22日、バイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加、広東北方飛行場付近に進出します。

11月9日、師團の従北作戰に呼応し広花公路を前進、16日、花県々城を攻略します。
21日、広東攻略後は従化付近に屯営し、支那第四戦区軍と交戦しつつ警備と治安維持にあたります。

昭和14(1939)年1月23日、広東西方40㎞の三水地区に移駐し警備と治安維持にあたります。
6月18日、第二十一軍の汕頭攻略戦に参加、8月5日、蚌湖地区に移駐し警備と治安維持にあたります。
11月20日~昭和15(1940)年1月15日、第十一軍(岡村寧次中将)の翁英作戦に参加します。
5月12日、第十一軍の良口作戦、昭和16(1941)年9月17日、第二十三軍(今村均中将、6月28日、第十一軍を改編)の四邑作戦に参加、蛇山、鴨山、北蛇山、後坑山の陣地攻略戦で激戦を展開します。
9月30日、広東に帰還、10月7日、三水地区に移駐し警備と治安維持にあたります。

昭和17(1942)年1月11日、芦苞水付近の掃討作戦を実施します。
1月25日、聯隊の補充担当が名古屋聯隊區に変更されます。
6月15日、第二十三軍の従源作戦、北江作戦に参加、青龍岡、高廟付近を攻略し付近一帯を掃討、9月2日、三水地区に帰還します。
10月、聯隊本部を佛山に移し、広東西守備隊となります。

昭和18(1943)年2月21日、広州湾進駐作戦に参加します。
7月1日、編成改正により甲装備部隊となり兵員・装備が増強されます。

昭和19(1944)年6月9日、一號作戦(大陸打通作戦)第一段の湘桂作戦に参加、6月28日、赤泥湾作戦援護を実施し、さらに支那軍第一五六、第一五九師の陣地を攻略します。
7月20日、第二段湘桂作戦に備え黄金波付近に反転集結、9月20日、第二段湘桂作戦に参加し、9月11日、四會を攻略、支那軍第一五四師第四七四團を撃破、14日、大蕉園、16日、肇慶、16日、水南墟を攻略、10月27日、新墟に突入、11月11日、柳州飛行場を攻略します。

昭和20(1945)年1月7日、粤漢作戦に参加、14日、粤頭港を攻略、16日、恵州を攻略、22日、陸豊、24日、海豊を攻略します。
3月1日、米軍の上陸に備えた「セ號戰備」が発令、陸豊地区に集結し坑道陣地構築中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
8月23日、広東省横瀝墟において軍旗を奉焼、9月10日、東江川岸の収容所に移動、昭和21(1946)年3月31日、虎門塞より出航、4月8日、横須賀に到着、5月15日、復員完結します。


歩兵第九十二聯隊(橘一四一五三)
昭和18(1943)年秋~昭和19(1944)年春、内地の防衛に当たっていた8個師團のうち5個師團が出征したため、昭和19(1944)年4月、参謀本部は内地防衛強化のため6個留守師團を常設特設師團とし臨時編成します。

4月4日、軍令陸甲第三十七號により歩兵第八聯隊補充隊に臨時編成が下令され、同補充隊は歩兵第九十二聯隊に改編、26日、宮中において軍旗を拝受、同じく留守第四師團から改編された第四十四師團隷下に編入されます。
歩九十二 軍旗(大阪陸軍遺構)
▲歩兵第九十二聯隊 軍旗

7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により歩兵第九十二聯隊は臨時動員され、新たに歩兵第八聯隊補充隊が編成されます。
第四十四師團は一級の装備を持ち、本土防衛の決戦用精鋭兵團(機動打撃師團)として実力発揮が期待されました。

20日、聯隊は兵営を出発し聯隊本部は布施の日本大學(現、近畿大学)、第一・第二大隊は八戸ノ里の樟蔭東高等女學校(現、樟蔭東高校)、第三大隊は日新商業學校(現、大阪商大)を仮兵舎とし大阪府下において陣地構築、夜間挺身切り込み、肉攻(対戦車肉迫攻撃)などの錬成にあたります。

昭和20(1945)年3月13日、大阪陸軍練兵場において挺身切り込み、肉攻演習中でしたが、未明に大阪市内が大空襲(第一次大阪大空襲)に晒されたため、急遽演習を中止し市内に急行、消火作業、罹災者救援にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團は第十二方面軍(藤江恵輔大将)戦闘序列、次いで4月8日、新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入されますが、聯隊は第十二方面軍直轄に部署されます。
4月14日、聯隊は大阪駅を出発、輸送途中に敵機の機銃掃射を受け2名が散華、16日、師團作戦地である茨城県鉾田町に到着します。
5月3日、鹿島郡新宮村、同諏訪村に移駐し、米軍の上陸に備え近隣住民の協力のもと陣地構築中の8月15日、停戦を迎えました。
9月16日、大阪に帰還、大阪駅北側の鉄道局前で解散式が挙行され復員完結しました。


歩兵第四百十三聯隊(護阪二二三〇三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、2月28日、歩兵第八聯隊補充隊により編成(間野俊夫大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、聯隊は軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編制改正・称號變更並第三百二十八次復員要領』に基づき、留守第四師團司令部により編成された沿岸配備師團である第百四十四師團(高野直滿中将)隷下に編入されます。

4月8日、師團は第十五方面軍(内山英太郎中将)戦闘序列に編入されます。

13日、師團は作戦地である和歌山市紀三井寺町に司令部を設置、主力を和歌山市・海南市周辺に、一部を御坊町・串本町・淡路島に配備し、留守第四師團が紀伊半島沿岸部(御坊から潮岬を重点)に築城していた陣地を継承します。

聯隊は当初、田辺市北部の山手地区で陣地構築にあたりますが、後に御坊市に移動、道成寺に移駐します。

7月11日、師團の新防衛体制に基づく軍隊区分下令に基づき、師團隷下の各部隊は河北、河南、和歌浦、簑島各地區隊として和歌山市、海南市方面に移動、陣地構築、軍需物資集積にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第三百四十三聯隊(金剛二八二六八)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、6月20日、大阪師管區歩兵第一補充隊により編成(稲田安良大佐)され、7月12日、宮中において軍旗を拝受します。

6月19日、第十五方面軍戦闘序列に編入され、20日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、大阪師管區司令部により臨時動員された第二百二十五師團(落合鼎五中将)隷下に編入されます。

聯隊は青野原陸軍演習場に移駐、作戦準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


新設時に基幹要員を転籍させた部隊
歩兵第二十聯隊(福知山) ・・・ 明治18年7月21日
歩兵第三十七聯隊(大阪) ・・・ 明治29年11月20日、編成完結
歩兵第五十三聯隊(奈良) ・・・ 明治38年4月21日、昭和13年6月10日、編成完結
歩兵第六十一聯隊(和歌山) ・・・ 明治38年8月8日
歩兵第七十聯隊(篠山) ・・・ 明治40(1907)年12月1日、編成完結
歩兵第七十七聯隊(朝鮮) ・・・ 大正5(1916)年4月18日


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊
獨立歩兵第一大隊 (昭和12年4月19日、動員)

第四師團第一兵站司令部 (昭和13年6月21日、〃)

獨立歩兵第六十八大隊 (昭和14年1月25日、〃)
第三十四師團司令部 (昭和14年3月20日)
歩兵第二百十六聯隊 ( 〃 )
歩兵第二百十七聯隊 ( 〃 )
歩兵第二百十八聯隊 ( 〃 )
第十一軍野戰貨物廠 (昭和14年8月22日、〃)

獨立混成第二旅團司令部 (昭和16年5月22日、〃)
第百十六、百十九~百二十一停車場司令部 (昭和16年7月7日、〃)
第二十五師團司令部 (昭和16年7月16日、〃)
第二十五師團衛生隊 ( 〃 )
第十八野戰貨物廠 (昭和16年7月16日、〃)

第六十八師團司令部 (昭和17年2月2日、〃)
獨立歩兵第六十一大隊 ( 〃 )
獨立歩兵第六十五大隊 ( 〃 )
獨立歩兵第百十五大隊 ( 〃 )
南方軍経理教育部 (昭和17年9月5日、〃)
第二十二野戰勤務隊本部 (昭和18年4月12日、〃)
第五十四兵站地區隊本部 ( 〃 )
第五十四兵站警備隊 ( 〃 )

南海第四守備隊司令部 (昭和18年6月12日、〃)
南海第一守備大隊 ( 〃 )
南海第二守備大隊 ( 〃 )
南海第三守備大隊 ( 〃 )
南海通信大隊 (昭和18年6月12日、〃)
獨立歩兵第二百五十三大隊
獨立混成第二十五旅團司令部 (昭和18年11月16日、〃)
獨立歩兵第百四十二大隊 ( 〃 )
獨立歩兵第百九十三大隊 ( 〃 )
獨立歩兵第二百三十一大隊 ( 〃 )

獨立混成第三十七旅團司令部 (昭和19年2月10日、〃)
獨立歩兵第二百六十二大隊 ( 〃 )
獨立歩兵第二百六十三大隊 ( 〃 )
第五野戰補充隊 (昭和19年3月10日、〃)
機動第一旅團司令部 (昭和19年5月16日、〃)
機動歩兵第一聯隊( 〃 )
獨立混成第四十七旅團司令部 (昭和19年5月22日、〃)
獨立歩兵第三百十七大隊 ( 〃 )
獨立速射砲第十大隊 (昭和19年7月6日、〃)
第四十四師團速射砲隊 ( 〃 )
第四十四師團衛生隊 ( 〃 )
第百三警備司令部 (昭和19年7月12日、〃)
獨立機關銃第三大隊 (昭和19年8月26日、〃)
歩兵第二百五十六聯隊 (昭和19年10月4日、〃)

獨立歩兵第五百八十四大隊 (昭和20年1月16日、〃)
獨立歩兵第五百八十五大隊 ( 〃 )
第四野戰輸送司令部 (昭和20年1月19日、〃)
兵站勤務第五十四中隊 ( 〃 )
第八十四兵站地區隊本部 ( 〃 )
兵站勤務第八十四中隊 ( 〃 )
第百八十~百八十四停車場司令部 (昭和20年1月30日、〃)
第百三十二師團司令部 (昭和20年2月1日、〃)
歩兵第九十七旅團司令部 ( 〃 )
獨立歩兵第五百九十九~六百二大隊 ( 〃 )
特設陸上勤務第四十六中隊 (昭和20年2月1日、〃)
第二百二十五師團司令部 (昭和20年6月20日)
歩兵第七百三十三、七百三十四大隊 (昭和20年7月10日、〃)


参考文献
『歩兵第八聯隊史』 (昭和58年8月 歩兵第八聯隊史編纂委員会)

『日本陸軍連隊総覧』 (平成2年9月日 新人物往来社)

『太平洋戦争 師団戦史』 (平成8年5月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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