当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第三十七聯隊

大坂城南に所在する大阪医療センターは歩兵第三十七聯隊の跡地にあります。

兵営では後に歩兵第百三十七聯隊歩兵第二百十七聯隊歩兵第九十三聯隊歩兵四百十四聯隊歩兵三百四十四聯隊が編成されます。
歩兵第三十七聯隊跡碑 全景(大阪陸軍遺構)
▲克忠、歩兵第三十七聯隊跡、歩兵第三十七聯隊創立一〇〇周年記念碑(左から)

【探索日時】
平成21(2009)年1月13日





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
昭和3-(大阪陸軍遺構)
▲昭和3(1929)年の空撮

昭和11(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に軍事施設を転写 ※黄色部分は大坂城天守復興に伴う一般開放地域
① 第四師團司令部
② 大阪陸軍刑務所
③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
④ 大阪陸軍兵器補給廠
⑤       〃      城内西兵器庫
⑥       〃      城内北兵器庫
⑦       〃      青屋口門兵器庫
⑧       〃      玉造門兵器庫
⑨ 大阪城南陸軍射撃場
⑩ 歩兵第八聯隊
⑪ 大阪陸軍被服支廠
⑫      〃      被服倉庫
⑬ 歩兵第三十七聯隊
⑭ 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎

⑮ 大阪憲兵隊本部
⑯ 歩兵第七旅團司令部
⑰ 大阪聯隊區司令部
⑱ 第四師團経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑲ 堺聯隊區司令部
⑳ 第四師團長官舎
㉑ 大阪陸軍病院
㉒ 大阪偕行社
㉓ 大阪軍人會館
㉔ 大阪偕行社付属小學校
㉕ 大阪砲兵工廠
㉖ 大阪城東陸軍練兵場
㉗ 第四師團経理部 糧秣倉庫
㉘ 大阪陸軍被服支廠 城東検査場
㉙ 眞田山陸軍墓地
㉚ 陸軍用地
※施設配置・名称は昭和15(1940)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設



遺構について※青字は地図にリンクしています
⑮ 歩兵第三十七聯隊
大阪府は我が国の中央に位置し、国内の有事に対応するには最適という地政学的見地から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿は大阪に陸軍の教育機関、兵器製造所、火薬製造所、兵営の一括設置を構想します。
明治維新に伴い新政府に移管された大坂城は広大な敷地を有している事もあり、大村卿の構想に則り陸軍部隊が設置されていきます。
後に歩兵第三十七聯隊兵営となる大坂城南側は御城代家中屋敷、与力屋敷がありましたが、明治維新に伴う武士の退去により、明治4(1872)年、明治政府に移管、建物は撤去され歩兵営が建設されます。

明治7(1874)5月14日、歩兵第八聯隊が編成され、北半分に竣工した兵営に入ります。
歩八 初代兵営(大阪陸軍遺構)

歩兵第八聯隊営門

明治17(1884)年6月10日、歩兵第二十聯隊が編成され、明治20(1887)年3月24日、南半分に竣工した兵営に入ります。

明治29(1896)年11月20日、歩兵第八聯隊において歩兵第三十七聯隊の編成に着手、歩兵第二十聯隊兵営を使用します。
明治30(1887)年7月、歩兵第八聯隊は東隣の新築兵営に転営、明治31(1898)年8月30日、歩兵第二十聯隊は福知山の新築兵舎に転営し、明治31(1898)年12月1日、歩兵第三十七聯隊の編成が完結します。
歩三十七 営門(大阪陸軍遺構)
歩兵第三十七聯隊 営門

明治37(1904)年3月6日、明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し歩兵第三十七聯隊補充大隊、昭和12(1937)年4月26日、滿洲駐箚に際し歩兵第三十七聯隊留守隊(昭和15年7月、補充隊に改称)が編成、留守隊において昭和13(1938)年6月16日、歩兵第百三十七聯隊、昭和14(1939)年3月20日、歩兵第二百十七聯隊を編成し、昭和17(1942)年7月9日、歩兵第三十七聯隊の凱旋により留守隊は復員します。
歩三十七 兵営空撮 昭和15年3月(大阪陸軍遺構)
▲南東上空からの兵営(昭和15年3月)

昭和18(1943)年9月22日、歩兵第三十七聯隊の動員、スマトラ島出征に伴い、歩兵第三十七聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年4月4日、補充隊は歩兵第九十三聯隊に改編されたため、新たに歩兵第三十七聯隊補充隊が編成、昭和20(1945)年2月28日、歩兵四百十四聯隊を編成、4月10日、補充隊は大阪師管區歩兵第二補充隊に改称、6月20日、歩兵三百四十四聯隊を編成、決號作戰(本土決戦)に備えるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管されますが、9月25日、米第1軍団第6軍が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置、27日、兵営は米第98歩兵師団に接収され軍需品の処理の後、接収が解除され大蔵省に返還、大阪財務局の管理下に置かれます。

昭和21(1946)年8月22日、国立大阪病院馬場町診療所(昭和21年1月23日、開院)が旧大阪陸軍被服支廠跡から移転、馬場町分院が開院し、兵舎の改造を開始します。
昭和22(1947)年4月28日、国立大阪病院本院が河内長野から移転、平成16(2004)年4月1日、厚生労働省から独立行政法人国立病院機構に移管され、独立行政法人国立病院機構 大阪医療センターに改称し現在に至ります。

奉天城一番乗りを始め輝かしい戦歴を誇る歩兵第三十七聯隊ですが、病院の増改築により建物は次第に破壊され、遺構は殆ど遺されていません。

大坂城周辺④(大阪陸軍遺構)
▲遺構の配置

テ 兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑
大村益次郎卿殉難報国之碑(大阪陸軍遺構)
昭和15(1940)年11月、大村卿遺徳顕彰會により、卿の識見と功績を後世に伝えるため建立されました。


ト 克忠
  歩兵第三十七聯隊跡
  歩兵第三十七聯隊創立一〇〇周年記念碑

歩兵第三十七聯隊跡碑 全景(大阪陸軍遺構)
▲克忠、歩兵第三十七聯隊跡、歩兵第三十七聯隊創立一〇〇周年記念碑(左から)

克忠
克忠碑(大阪陸軍遺構)
聯隊唯一の遺構で、大正11(1922)年5月25日、建立されました。
石碑上部の「克忠」は時の第四師團長・鈴木荘六中将(のち大将)、下部の詩は歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫です。
碑は営門を入った正面の築山に建立されていましたが停戦後、築山ごと撤去されてしまいます。
後に病院の北庭園造成に伴い、現在地に建て直されました。

歩兵第三十七聯隊跡
歩兵第三十七聯隊跡碑(大阪陸軍遺構)
昭和61(1986)年11月、歩37會により建立されました。

歩兵第三十七聯隊創立一〇〇周年記念碑
歩兵第三十七聯隊創立一〇〇周年記念碑(大阪陸軍遺構)
「明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 平成十年三月吉日 歩三七会建立」
と刻字されています。
明治31(1888)年3月24日は歩兵第三十七聯隊長・山中信義歩兵大佐が宮中において天皇陛下より軍旗を拝受した日です。


E 周辺石垣
兵営の南北外周に当時の物と思われる石積みが遺されています。
歩三七 北側の塀(大阪陸軍遺構)
▲敷地北側の石積み

花崗岩の汚れ具合、明治初期の土木建築によく見られる布積み(四角に加工した石材の高さを揃え、横目地を一直線にする積み方)が見られる事から当時の物と判断しました。
なお、布積みは南側のみで、他の部分は明治後期から見られる谷積み(色々な大きさの石材を斜めに積む積み方)になっています。

歩三七 西側の塀(大阪陸軍遺構)
▲北西角の石積み
  この辺りから石の積み方が布積みから谷積みに変わります


 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
幕末まで、該当地には京橋口御定番屋敷、馬場がありました。

明治3(1870)年11月11日、兵部省大阪出張所において大阪砲兵隊一番大隊(後の野砲兵第四聯隊)が編成され、大阪市東區馬場町(現、大阪市中央区大手前)に兵営が設置されます。
明治4(1871)年8月2日、大阪鎭臺が新編され、大隊は大阪鎭臺隷下に編入され、明治5(1872)年4月、法円坂町の新兵営に転営します。
大正8(1919)年11月24日、野砲兵第四聯隊は伯太村に転営します。
砲兵営 (2)(大阪陸軍遺構)
▲砲兵営

大正9(1876)年5月24日、輜重兵第四大隊が大手前之町から移駐、昭和9(1934)年3月5日、輜重兵第四第四大隊は堺市曾根に転営します。

旧輜重兵営は歩兵第三十七聯隊が管理、留守隊(のち補充隊)による新編聯隊の臨時兵営、陸軍病院の臨時病棟等に利用され、「北部営庭」と呼称されます。
昭和14(1939)年4月2日、失火により兵舎が全焼してしまったため、第四師團経理部、同兵器部 大手門前倉庫、第四師團厩舎に転用されます。

昭和20(1945)年8月28日、大東亜戦争停戦に伴い、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、27日、同地は接収されスポーツセンターとして使用された後、大蔵省に返還されます。

その後、逐次分割して払い下げられ、現在は大阪歴史博物館、大阪府合同庁舎、市立東中学校、大阪家庭裁判所、NHK大阪放送会館、中央大通り等になっています。


衛戍、編成部隊
歩兵第三十七聯隊(淀四〇七三、中部第二十三部隊)
明治29(1896)年11月20日、歩兵第三十七聯隊長・山中信義大佐が発令、12月1日、歩兵第八聯隊兵営において聯隊本部、第一大隊が編成、明治30(1897)年12月1日、第二大隊が編成、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受、12月1日、第三大隊が編成され歩兵第三十七聯隊の編成完結、第四師團隷下の歩兵第七旅團に配属されます。
歩三十七軍旗(大阪陸軍遺構)
▲歩兵第三十七聯隊軍旗

明治34(1901)年6月24日、聯隊において獨立歩兵第二大隊(奥野光照少佐)を編成、清國駐箚のため兵営を出発、明治35(1902)年、帰還します。

明治37(1904)年2月8日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、第三大隊は先発隊として朝鮮元山の守備に出発、3月6日、聯隊に動員下令、3月15日、第四師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入、4月27日、大阪を出発、5月11日、遼東半島孫家咀子に上陸します。
聯隊は師團の南山、蓋平の戦いに参加、9月2日、前石橋子の戦いでは敵中を突進し停滞した戦線を打開した功績により第二軍司令官・奥保鞏大将より感状が授与されます。
続いて遼陽、沙河、奉天の各會戰に参加、明治38(1905)年3月10日、奉天會戰では奉天城一番乗りを果たします。
12月5日、滿洲の屯営を出発、12月25日、大阪に凱旋します。

明治42(1909)年7月20日、北の大火、明治45(1912)年1月16日、南の大火に出動し消火及び住民の救護、警備ににあたります。

大正6(1917)年10月29~11月8日、淀川の氾濫(大塚切れ)に出動、堤防決壊堰止工事の応援にあたります。

大正7(1918)年8月12~18日、暴徒化した米騒動の鎮撫に大阪府知事の要請を受け出動、治安維持、警備にあたります。

大正8(1919)年4月7日、朝鮮擾乱(特権階級である両班、元軍人、共産主義者や米国人宣教師に扇動されたキリスト教徒などを中心に一部の朝鮮人が暴徒化:三・一事件)に補助憲兵を派遣します。

大正12(1923)年9月1日、関東大震災の発災に救護班を編成し出動、住民保護にあたります。

昭和9(1934)年9月21日、室戸台風に際し罹災者の救援・救護、食糧配給、被災地の復旧にあたります。

昭和12(1937)年4月19日、第四師團は關東軍(植田謙吉大将)戦闘序列の編入と滿洲駐箚が決定し動員下令、26日、聯隊は動員完結、29日、大阪港を出港、5月2日、釜山に上陸し満州國三江省の警備にあたります。
昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生します。

昭和15(1940)年6月26日、支那派遣のため第四師團は第十一軍(園部和一郎中将)戦闘序列に編入されます。
7月1日、聯隊に動員下令、師團司令部が置かれた佳木斯(チャムス)に集結、8月1日、漢口において動員完結、同地の警備・治安維持にあたります。
11月25日、漢水作戰に第四師團左翼隊として参加、敵中を突破し敵後方の撹乱、後衛の任務にあたります。

昭和16(1941)年1月1日、予南作戰、3月1日、都北作戰、9月5日、第二次長沙作戰に参加します。

11月8日、第四師團は第十一軍戦闘序列を外れ大本営直轄となり、11月30日、上海付近に移動集結します。

昭和17(1942)年2月10日、第四師團はフィリピン攻略の第十四軍(本間雅晴中将)戦闘序列に編入、3月9日、聯隊は呉淞を出航、15日、ルソン島リンガエン湾に上陸、4月3日、第二次バターン半島攻略戦、5月5日、コレヒドール島攻略戦に参加し、多大な損害を出しながらも6日正午、マッカーサーの後任ウェーンライト中将を降伏させます。
『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年)宮本三郎画
▲『本間、ウエンライト會見圖』(昭和19年)宮本三郎画

5月26日、聯隊に復員下令、7月9日、大阪に凱旋、25日、復員完結します。

昭和18(1943)年9月22日、聯隊に臨時動員下令、第四師團は第二十五軍(田辺盛武中将)戦闘序列に編入され、南方派遣が決定します。
10月4日、聯隊は宇品港を出航、11月1日、スマトラ島パレンバンに上陸、5日、ジャンビー州に到着、聯隊はパダンに展開し西海岸地帯に陣地を築城し英印軍の侵攻に備えます。

昭和19(1944)年3月10日、第二大隊は獨立混成第三十七旅團に編入、獨立歩兵第二百六十三大隊に改編されインド洋ニコバル諸島カモルタ島の守備にあたります。

昭和20(1945)年1月、緬甸方面の戦局急迫に伴い第四師團は第三十九軍(中村明人中将)戦闘序列に編入が決定、2月14日、聯隊はバカンバルを出発、3月16日、バンコクに到着、4月10日、泰国北部防衛のためバンコクを出発し、6月18日、南シャン州モンレンに到着し同地の防衛にあたるなか、8月17日、停戦を迎えました。

9月2日、モンレンにおいて軍旗を奉焼、11月16日、ランパンを出発、12月15日、ナコンナヨークに到着、昭和21(1946)年6月3日、バンコクを出発、6月24日、鹿児島港に上陸、復員完結しました。

歩兵三十七聯隊は大楠公(楠木正成)を象徴とし、楠公精神である「忠君愛国」「滅私奉公」「七生報国」を亀鑑としていました。
この楠公精神は同じ隊号を持つ我が大阪の陸上自衛隊・第37普通科連隊(信太山駐屯地)に受け継がれています。


歩兵第百三十七聯隊(鳳八九七二)
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第三十七聯隊留守隊(木戸渉大佐)に編成下令、予備役を主体として編成(毛利喬大佐)され布施市小坂の元ひとのみち教団(現、PL教)施設に屯営、6月23日、宮中において軍旗を拝受、第百四師團(三宅俊雄中将)隷下の歩兵第百七旅團に配置されます。

編成完結後の7月、大阪を出発し大連に集結、7月29日、張鼓峰事件が勃発したため師團とともに琿春(東部ソ滿国境)付近に進出しますが、8月11日、停戦となり大連に帰還します。

9月、第百四師團は新設された第二十一軍(古荘幹郎中将)戦闘序列に編入され、10月15日、大連を出港、南支に向かい、10月22日、バイアス湾に奇襲上陸し広東攻略戦に参加します。
11月9日、第百四師團の従北作戦に参加、従北付近に屯営し、支那第四戦区軍と交戦しつつ警備と治安維持にあたります。

昭和14(1939)年6月、汕頭・潮州攻略戦、11月~昭和15(1940)年1月、翁英作戦に参加します。

2月9日、第二十一軍が廃止され、第百四師團は南支那方面軍(安藤利吉中将)戦闘序列に編入、5~6月、良口作戦、昭和16(1941)年9~10月、四邑北エ作戦などに参加します。

昭和17(1942)年5~9月、第二十三軍の従源作戦に参加します。
1月25日、聯隊の補充担当が名古屋聯隊區に変更されます。
6月15日、従源作戦、北江作戦に参加します。

昭和18(1943)年2月21日、広州湾進駐作戦に参加します。
7月1日、編成改正により甲装備聯隊となり兵員・装備が増強されます。
12月、廣九作戦に参加します。

昭和19(1944)年8~12月、第二段湘桂作戦に師團とともに参加、9月16日、広東省肇慶、11月4日、広西省武宣、6日、象県を攻略します。

昭和20(1945)年1月、粤漢作戦において、15日、広東省恵州を攻略、18日、海豊を攻略します。
3月1日、米軍の上陸に備えた「セ號戰備」が発令、陸豊地区に集結し坑道陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第二百十七聯隊(椿六八四三)
昭和14(1939)年3月1日、歩兵第三十七聯隊留守隊(木戸渉大佐)に編成下令、3月20日、編成完結(落合鼎五大佐)、3月23日、宮中において軍旗を拝受、第三十四師團(関亀治中将)隷下の第三十四歩兵團に配属されます。

第三十四師團は中支那で作戦中の第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入されます。

4月3日、聯隊は大阪港を出航、12日、中支湖北省夏口県漢口に上陸し、聯隊本部は河口鎮、第一大隊は孝感、第二大隊は禹王城、第三大隊は黄安の警備にあたり、5月3日、遊仙山付近の戦闘に参加、11月20日、江西省西山萬寿宮に移駐し支那第九戦区軍第一九集団軍と対峙しつつ新建県付近の警備にあたります。

12月12日、蒋介石軍の冬季攻勢に対し反撃戦、昭和15(1940)年6月21日、夏季攻勢に対し反撃戦を展開、9月27日、西山嶺掃討戦、10月12日、第三十四師團の第十號作戦、12月28日、同第十一號作戦に参加します。

昭和16(1941)年1月29日、第一大隊が第三十四師團の予南作戦、2月15日、第三十四師團の第十三號作戰、3月14日、錦江作戦に参加し上高に進撃します。

9月26日、第三大隊が長沙作戦に呼応し奉新攻略戦に参加、10月4日、市汊街攻略戦、11月15日、西山嶺覆滅作戦に参加します。

12月23日、第三百四師團の指揮下に編入され、第二次錦江作戦に参加し第三大隊は祥符観、尖石嶺、対面嶺などに布陣する蒋介石軍第一八三師、新編一二師の堅陣を突破、第一八三師司令部を急襲し大混乱に陥れ、新編一二師を殲滅し、「3日かかる」とされた蒋介石軍陣地を僅か1日で攻略、作戦を大いに進捗させる大功を立て第十一軍司令官・阿南惟幾中将より感状を授与されます。

昭和17(1942)年4月30日、浙贛作戦に参加、進賢、貴渓で激戦を展開、盛源洞黄家の夜襲、港口付近の戦闘に参加します。

昭和18(1943)年2月12日、江北殲滅作戦に参加し、馬奇嶺、錦江南岸に進撃、5月10日、江南殲滅作戦に参加し、宜昌対岸に進撃します。
10月15日、常徳殲滅作戦に参加し、多くの戦果を挙げました。

昭和19(1944)年4月23日、湘桂作戰に参加、蓮花、茶陵、安仁、常盛県城、全県に進撃します。

昭和20(1945)年4月10日、第二十軍(坂西一良中将)の芷江作戰に木佐木支隊(歩二百十七聯隊長・木佐木清次大佐)として参加、芷江を目指して進撃しますが、6月3日、米支軍の激烈な抵抗を受け進撃は遅滞、軍命令により転進を開始、他部隊の転進を援護しつつ敵中を南昌方面に突破中、安義付近において、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第九十三聯隊(橘一四一五四)
昭和18(1943)年秋~昭和19(1944)年春、内地の防衛に当たっていた8個師團のうち5個師團が出征したため、昭和19(1944)年4月、参謀本部は内地防衛強化のため6個留守師團を常設特設師團とし臨時編成します。

4月4日、軍令陸甲第三十七號により歩兵第三十七聯隊補充隊に臨時編成が下令され、同補充隊は歩兵第九十三聯隊(大澤勝二大佐)に改編、26日、宮中において軍旗を拝受、同じく留守第四師團から改編された第四十四師團隷下に編入されます。

7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により歩兵第九十二聯隊は臨時動員され、新たに歩兵第三十七聯隊補充隊が編成されます。
第四十四師團は一級の装備を持ち、本土防衛の決戦用精鋭兵團(機動打撃師團)として実力発揮が期待されました。

20日、聯隊は兵営を出発し府下の学校を仮兵舎とし分宿、大阪府下において陣地構築、夜間挺身切り込み、肉攻(対戦車肉迫攻撃)などの錬成にあたります。

昭和20(1945)年3月13日、未明に大阪市内が大空襲(第一次大阪大空襲)に晒されたため、急遽演習を中止し市内に急行、消火作業、罹災者救援にあたります。

昭和20(1945)年1月20日、『帝國陸海軍作戰計畫大網』の策定により決號作戰(本土決戦)の準備として、3月、師團は第十二方面軍(藤江恵輔大将)戦闘序列、次いで4月8日、新設された第五十一軍(野田謙吾中将)戦闘序列に編入されますます。

4月14日、聯隊は大阪を出発、作戦地である茨城県旭町に移駐、米軍の上陸に備え近隣住民の協力のもと陣地構築中の8月15日、停戦を迎えました。


歩兵四百十四聯隊(護阪二二三〇四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、2月28日、歩兵第三十七聯隊補充隊により編成(松尾謙三大佐)され、5月5日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、聯隊は軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編制改正・称號變更並第三百二十八次復員要領』に基づき、留守第四師團司令部により編成された沿岸配備師團である第百四十四師團(高野直滿中将)隷下に編入されます。

4月8日、師團は第十五方面軍(内山英太郎中将)戦闘序列に編入されます。

13日、師團は作戦地である和歌山市紀三井寺町に司令部を設置、主力を和歌山市・海南市周辺に、一部を御坊町・串本町・淡路島に配備し、留守第四師團が紀伊半島沿岸部(御坊から潮岬を重点)に築城していた陣地を継承します。

聯隊は和歌山県沿岸で米軍の上陸に備え陣地構築に当たります。

7月11日、師團の新防衛体制に基づく軍隊区分下令に基づき、師團隷下の各部隊は河北、河南、和歌浦、簑島各地區隊として和歌山市、海南市方面に移動、陣地構築、軍需物資集積にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵三百四十四聯隊(金剛二八二五九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により、6月20日、大阪師管區歩兵第二補充隊により編成(中島敏雄大佐)され、7月12日、宮中において軍旗を拝受します。

6月19日、第十五方面軍戦闘序列に編入され、20日、軍令陸甲第八十四號『師團、獨立混成旅團等臨時動員(編成改正、称號變更)、第三四七次復員(復歸)要領』に基づき、大阪師管區司令部により臨時動員された第二百二十五師團(落合鼎五中将)隷下に編入されます。

聯隊は青野原陸軍演習場に移駐、作戦準備中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊
第二十師團第二野戰病院 (昭和12年7月10日)
  〃  第三野戰病院 (    〃   )
  〃  第四野戰病院 (    〃   )
陸上勤務第一輸卒隊 (  〃  )
  〃 第三輸卒隊 (  〃  )
  〃 第五輸卒隊 (  〃  )

獨立歩兵第二大隊 (昭和13年2月10日)
  〃 第三大隊 (   〃   )
歩兵第五十四聯隊 (昭和13年4月4日)
第百四師團野戰病院 (昭和13年6月)

獨立歩兵第六十九大隊 (昭和14年1月25日)
第三十四師團第一野戰病院 (昭和14年2月)
  〃   第二野戰病院 (  〃  )
  〃   兵器勤務隊 (  〃  )

第二野戰憲兵隊 (昭和15年7月10日)
第四十一獨立混成旅團 (  〃  )
第百二十九獨立混成旅團 (  〃  )
歩兵第四十聯隊 (昭和16年7月16日)
第二十五師團第一野戰病院 (  〃  )

水上勤務第四十一中隊 (昭和16年7月30日)
香港防衛隊司令部
歩兵第五十七旅團

獨立歩兵第六十二大隊 (昭和17年4月)
  〃 第六十三大隊 (  〃  )
  〃 第百十六大隊 (  〃  )
第六十八師團野戰病院 (  〃  )

獨立歩兵第百四十三大隊 (昭和18年11月16日)
  〃 第百九十六大隊

  〃 第二百三十二大隊 (昭和19年2月25日)
  〃 第二百六十四大隊 (昭和19年2月10日)
  〃 第三百十六大隊 (昭和19年5月22日)
  〃 第十六聯隊
第四十四師團第一野戰病院 (昭和19年7月6日)
  〃   第二野戰病院 (  〃  )
  〃   制毒隊 (  〃  )
歩兵第二百聯隊
歩兵第二百五十七聯隊 (昭和19年7月6日)

獨立歩兵第六百三~六百六大隊 (昭和20年2月1日)
警備歩兵第八大隊 (昭和20年2月6日)
第百四十四師團野戰病院 (昭和20年2月28日)
第二百十六師團速射砲隊 (昭和20年4月3日)
歩兵第三百五十七聯隊 (昭和20年6月20日)
獨立歩兵第七百三十五大隊 (昭和20年7月10日)
  〃 第七百三十六大隊
補充第五大隊
獨立混成第五旅團
獨立守備第十六大隊


主要参考文献
『大阪歩兵第三十七聯隊史』 (昭和51年5月 歩三七会)

『歩兵第八聯隊史』 (昭和58年 歩兵第八聯隊史編纂委員会)

『日本陸軍連隊総覧』 (平成2年9月日 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)
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お~ 私が昔々大昔に居た連隊番号と同じ歩兵連隊ですねぇ(^O^)番号同じやから妙に親近感が 私も機会があれば遺構を見に行ってみたいです

こんばんは

前々から言ってました歩三七の跡ですが、ようやく書きあがりました(;^_^A
もう少しはっきりした遺構があれば良いのですが、実質石碑だけって言うのが残念です。
自衛隊が来てくれたらもう少し遺構も残っていたかも知れませんが、北側が中央大通り開設等で使えなかったこともあり誘致されなかったのではないでしょうか。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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