当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪偕行社

大坂城北東に大阪偕行社がありました。

大阪偕行社に隣接して附属小學校大阪軍人會館がありました。
大阪偕行社 門柱(大阪陸軍遺構)
▲追手門学院大手前中学校の校門に転用された大阪偕行社正門門柱

【探索日時】
平成21(2009)年1月13日、平成23年(2011)年4月12日





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
昭和3-(大阪陸軍遺構)
▲昭和3(1929)年の空撮

昭和11(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に軍事施設を転写 ※黄色部分は大坂城天守復興に伴う一般開放地域
① 第四師團司令部
② 大阪陸軍刑務所
③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
④ 大阪陸軍兵器補給廠
⑤       〃      城内西兵器庫
⑥       〃      城内北兵器庫
⑦       〃      青屋口門兵器庫
⑧       〃      玉造門兵器庫
⑨ 大阪城南陸軍射撃場
⑩ 歩兵第八聯隊
⑪ 大阪陸軍被服支廠
⑫      〃      被服倉庫
⑬ 歩兵第三十七聯隊
⑭ 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑮ 大阪憲兵隊本部
⑯ 歩兵第七旅團司令部
⑰ 大阪聯隊區司令部
⑱ 第四師團経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑲ 堺聯隊區司令部
⑳ 第四師團長官舎
㉑ 大阪陸軍病院
㉒ 大阪偕行社
㉓ 大阪軍人會館
㉔ 大阪偕行社 付属小學校

㉕ 大阪砲兵工廠
㉖ 大阪城東陸軍練兵場
㉗ 第四師團経理部 糧秣倉庫
㉘ 大阪陸軍被服支廠 城東検査場
㉙ 眞田山陸軍墓地
㉚ 陸軍用地
※施設配置・名称は昭和15(1940)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設



遺構について※青字は地図にリンクしています
㉒ 大阪偕行社
偕行社は各師團衛戍地に設置され、会員である陸軍将校・准士官等同士が公務の余暇に集会し知識を交換、軍事の研究を行い、また親睦を深め、且つ英霊奉賛、戦争・事変・事件の戦没者遺族、戦病傷者の救済を主な目的にした社団法人(のち財団法人)でした。
偕行”とは、『詩経』国風の秦風「無衣」にある「修我甲兵 興子偕行」から「共に征こう」の意です。

明治9(1876)年9月、大阪鎭臺付の高島信茂、白江景由両少佐らが幹事となり、大阪各地に分立していた軍人親睦組織を合同し江戸堀上通1丁目に博交社を設立します。
明治15(1882)年1月、全国4ヶ所に所在した同様の親睦団体(偕行社:東京、博交社:大阪、有修社:熊本、一志社:仙台)を合併し、統一組織として偕行社が設立され、それぞれ地名を冠して博交社は大阪偕行社に改称します(東京のみ地名を冠せず「偕行社」)。

明治19(1886)年、大阪鎭臺監督部用地を借用し本館建設を開始、明治20(1887)年1月8日、落成します。
大阪偕行社 着色写真(大阪陸軍遺構)
▲大阪偕行社 着色写真
  1階に娯楽室、事務室、2階に講堂、附属施設として酒保(購買部、旅館部、授産部)がありました

昭和20(1945)年6月7日、B29爆撃機409機が大阪市東部に来襲(第三次大阪大空襲)、大阪偕行社は全焼してしまい、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
大阪偕行社の煙突(大阪陸軍遺構)
▲空襲により煙突だけを残して焼失した大阪偕行社(戦後の撮影)

その後の経緯は不明ですが周辺の陸軍施設同様、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれた後、隣接する財団法人大手前学園(現、追手門学院)に払い下げられたと思われ、現在は追手門学院大手前中学、同大手前高校となっています。

遺構としては以下が遺されています。
大坂城周辺 偕行社(大阪陸軍遺構)
▲遺構の配置

ニ 大阪偕行社 正門門柱
大正5(1916)年、第四師團司令部の酒保にあった門柱を移設したものと言われています。
偕行社当時は現在地より東側15mにありましたが、戦後の追手門学院校舎改築に伴い現在地に移設され、現在は大手門学院大手前中学、同高校の校門となっています。
大阪偕行社 門柱(大阪陸軍遺構)
▲現在の正門門柱

大阪偕行社 正門(大阪陸軍遺構)
▲大阪偕行社時代の正門


ナ 陸軍
学校西側の歩道に境界石標が遺ります。
頂部の方向標示は無く、十字が刻印されています。
大阪偕行社 西側塀の石標(大阪陸軍遺構)
▲非常に目立つ位置にあるので、有名です

大阪偕行社 西側塀の石標(大阪陸軍遺構)
▲角が削れてしまっています


H 塀
学校西側に当時の煉瓦、石材を併用した塀が遺されています。
大阪偕行社 西側の塀 (2)(大阪陸軍遺構)
▲北側から

大阪偕行社 西側の塀(大阪陸軍遺構)
▲南側から
  写真左隅の屈曲した所に上記「陸軍」の境界石標があります。


その他
明治天皇駐蹕之處
追手門学院校門を入った右側の植え込みにあります。
明治20(1887)年2月15日、明治帝の大阪鎭臺本営行幸に際し、大阪偕行社が行在所とされたのを記念し、大正14(1925)年5月10日、大阪市青年聯合團により建てられました。
大阪偕行社「明治天皇駐蹕之處」(大阪陸軍遺構)

※守衛所で許可を得て立ち入っます。


明治紀念標 跡
大阪偕行社の南西端に高さ18m(台座含め22m)の鉄製の「明治紀念標」が聳えていました。
明治記念標跡の写真(大阪陸軍遺構)
▲大阪偕行社と明治記念標

紀念標は佐賀の乱、西南の役で散華した英霊を祀るべく博交社(後の大阪偕行社)の呼び掛けに賛同した軍人、市民の寄付により建設が決定、建設事業は天聴に達し明治帝からも100円が下賜されます。
紀念標は砲兵第二方面内砲兵支廠(後の大阪陸軍造兵廠)で鋳造され、明治16(1883)年5月6日、中之島の豐國神社の西(現、中央公会堂南側)に建立され、8日まで英霊の弔魂祭が催行されました。
明治33(1900)年、第四師管区2府5県の賛同を得て財団法人弔魂会が結成され、各戦役における第四師團隷下各部隊の英霊を合祀し毎年慰霊祭が催行され、明治35(1902)年、大阪偕行社の敷地内に移設されます。
その後、官祭招魂社(後の護國神社)が各府県に建設され、各都道府県の英霊祭祀が護國神社に定着するに至り第四師團長・關原六中将は理事会を招集して弔魂会解散を議決、昭和18(1943)年、明治紀念標は役目を終え解体、鉄材は供出されました。

現在、学校南西端の歩道に明治記念標の外柵の跡が遺ります。
明治記念標跡 (2)(大阪陸軍遺構)
▲西側の外柵跡

明治記念標跡(大阪陸軍遺構)
▲東側の外柵跡


㉔ 大阪偕行社付属小學校
明治21(1888)年4月3日、大阪鎭臺司令官・高島鞆之助中将、歩兵第七旅團長今井兼利少将(大阪偕行社幹事長)により国家有為の人材育成をすべく、大阪偕行社東側に付属小學校が設立(生徒数91名)されます。
大阪偕行社付属小學校 門柱(大阪陸軍遺構)
▲大阪偕行社付属小學校正門(滅失)

設立当初は陸軍幼年學校、海軍兵學校を目指す大阪偕行社会員の子弟専門の学校でしたが、明治33(1900)年8月22日の『小學校令』、明治40(1907)年3月21日の同令改正を受け、小學校規則を変更し軍人教育から私立小學校施行規則に即した教育に転換、軍人子弟の比率は大幅に下がり財界、法曹界、医学界関係者子弟等の比率が大幅に増加します。
昭和5(1930)年7月21日、少學校理科教室より出火し全焼してしまったため、昭和6(1931)年12月、鉄筋コンクリート3階建(地下1階)の校舎が再建されます。

昭和15(1940)年4月、付属中學校を創設、昭和16(1941)年4月1日、付属小學校は大阪偕行社學院 國民學校に改称します。

昭和19(1944)年9月、戦局の急迫に伴う空襲の危険性から豊能郡箕面村の箕面學院(現、箕面自由学園)、及び中河内郡枚岡町大戸村の滿洲電信電話學校の一部を借用し生徒を疎開させます。

昭和20(1945)年6月7日、B29爆撃機409機が大阪市東部に来襲(第三次大阪大空襲)、隣接する大阪偕行社は全焼してしまいますが、幸い学校校舎は無事でした。

8月16日、大東亜戰争停戦に伴い、9月26日、大阪に米軍が進駐を開始、占領政策の一環として大阪偕行社は解散を命ぜられたため、昭和21(1946)年2月、財団法人錦城育英会に改組、偕行社付属國民・中學校は大阪偕行学園小学部、中学部と改称します。
しかし、米軍は錦城育英会を偕行社の継承団体と見なし再び解散を命ぜられたため、昭和22(1947)年1月、財団法人大手前学園に改組し漸く設立認可を受けます。
4月、夫々大手前学園小学部、大手前学園中学部に改称、11月、大手前学園から追手門学院に改称します。
昭和25(1950)年4月、追手門学院高等学部が設立、昭和41(1966)年、追手門学院大学が設立、昭和42(1967)年、高等学部、中学部を茨木市西安威に増設(大手前の学舎を大手前学舎と改称)、昭和44(1969)年4月、追手門学院幼稚園が設立、昭和55(1980)年4月、大手前学舎は追手門学院大手前中学校、同大手前高等学校と改称し現在に至ります。

ちなみに僕はここの高校、大学に通っていました(^_^;)

肝心の遺構は残念ながら皆無です。

また、小学校北側に師團経理部の倉庫がありましたが、現在は痕跡すらありません。


㉓ 大阪軍人會館
昭和11(1936)年5月1日、昭和天皇の御大典記念事業として第四師管管下在郷軍人の協力により在郷軍人の心身鍛練、及び一般国民の研修場として第四師團経理部管理用地に起工、昭和12(1937)年6月30日、竣工しました。
大阪軍人會館 竣工時(大阪陸軍遺構)
▲竣工当初の大阪軍人會館

大阪軍人會館 要目
設計 : 第四師團経理部工務科 斎藤利忠、金成利男
建設 : 大林組(現場主任:黒谷勇雄)
面積 : 敷地2,483㎡、建て坪2,483㎡
      鉄筋コンクリート(一部鉄骨)地上4階、一部地下1階
大阪軍人會館 見取り図(大阪陸軍遺構)
▲大阪軍人會館 平面図

大阪軍人會館 玄関(大阪陸軍遺構)
▲1階 玄関

大阪軍人會館 演壇(大阪陸軍遺構)
▲1階 演壇

『昭和大阪市史 第6巻 社会編』によると“昭和20年8月13日の空襲で焼失”となっていますが、13日に大阪は空襲を受けておらず、戦後の米軍空撮を見ると建物は残っています。

戦後の経緯は不明ですが周辺の陸軍施設同様、8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれた後、大阪府に払い下げられ府立大手前会館として利用されますが、昭和60(1985)年頃に老朽化のため破壊されてしまいました。
現在は府立男女共同参画・青少年センターとなっており、遺構は皆無です。
軍人會館跡(大阪陸軍遺構)
▲大阪軍人會館跡に建つ男女共同参画・青少年センター


参考文献
『昭和大阪市史 第6巻 社会篇』 (昭和28年 大阪市役所)

『東区史 第2巻 行政篇』 (昭和57年 大阪市東区役所)

建築雑誌 第51輯 第631號』 (昭和12年10月 建築學會)

『山櫻會報 第84号』 (平成21年12月 追手門学院校友会山桜会)

近畿偕行会

追手門学院小学校
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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