当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

大阪陸軍造兵廠

我が大阪の象徴とも言える大坂城に東洋一の兵器工場と謳われた大阪陸軍造兵廠がありました。
化学分析所(大阪陸軍遺構)
▲長年放置されている大阪陸軍造兵廠 化学試験場

【探索日時】
地元のため随時





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
昭和3-(大阪陸軍遺構)
▲昭和3(1929)年の空撮

大阪陸軍造兵廠200525(大阪陸軍遺構)
▲大阪陸軍造兵廠(昭和20年5月25日)

大坂城周辺 大造遺構(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に施設・遺構を図示
① 第四師團司令部
② 大阪陸軍刑務所
③ 大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
④ 大阪陸軍兵器補給廠
⑤       〃      城内西兵器庫
⑥       〃      城内北兵器庫
⑦       〃      青屋口門兵器庫
⑧       〃      玉造門兵器庫
⑨ 大阪城南陸軍射撃場
⑩ 歩兵第八聯隊
⑪ 大阪陸軍被服支廠
⑫      〃      被服倉庫
⑬ 歩兵第三十七聯隊
⑭ 第四師團経理部・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑮ 大阪憲兵隊本部
⑯ 歩兵第七旅團司令部
⑰ 大阪聯隊區司令部
⑱ 第四師團経理部 大手前之町倉庫・同兵器部 大手門前倉庫・同厩舎
⑲ 堺聯隊區司令部
⑳ 第四師團長官舎
㉑ 大阪陸軍病院
㉒ 大阪偕行社
㉓ 大阪軍人會館
㉔ 大阪偕行社付属小學校
㉕ 大阪陸軍造兵廠
㉖ 大阪城東陸軍練兵場
㉗ 第四師團経理部 糧秣倉庫
※施設配置・名称は昭和15(1940)年頃
※緑文字が当記事の紹介施設



施設の概要
陸軍造兵廠は兵器行政本部長に隷し兵器の考案、設計及び兵器、兵器材料等の軍需品、火薬の製造、購買、修理、検査、製造、調査及び兵器、兵器材料の製造、火薬、兵器用金属材料に関する調査、研究、試験を行いました。

大阪陸軍造兵廠は火砲、弾丸(弾体、信管他火具、起爆剤など)、鋼材(鋳造品、鍛成品、砲用薬莢、飯盒など)を中心に、車両、馬具、皮革・布製品、工具、自動車、発電機等の製造、購買、検査、製造、調査、研究、試験を実施し、平時は軍需品に加え民需品の生産も行います。

敷地規模
明治5年頃
・用地:114,950㎡

明治12年(大阪砲兵工廠発足時)
・用地:331,878㎡
・建物:14,406㎡

明治31年頃
・用地:345,135㎡

停戦時
・用地:5,960,000㎡
・建物:710,000㎡
・借上地:2,200,000㎡
・借上建物:350,000㎡

以下遺構紹介になりますが、現存遺構を優先するため順不同です。


遺構について カタカナ、アルファベットは上掲地図参照
※囲み文章は大東亜戦期に大阪陸軍造兵廠に就職した祖母の述懐です
㉕ 大阪陸軍造兵廠
大阪市は我が国の中央に位置し、国内の有事に対応するには絶好の場所という地政学的見地から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿は大阪に陸軍の教育機関、兵器製造所、火薬製造所、陸軍兵営の一括設置を構想しました。

明治3(1870)年2月3日、大坂城三之丸米蔵付近に兵部省直轄の造兵司が新設され、4月13日、青屋口門内中仕切元番所を仮庁(後、本局)として事務を開始、26日、旧幕府・長崎製鉄所の工作機械および技師、職工を移転し、5月、旧幕府・関口製造所から大砲鋳造設備を移転、7月、大阪造兵司と改称、10月、操業を開始します。
明治5(1872)年3月8日、大砲製造所に、明治8(1875)年2月8日、砲兵第二方面内砲兵支廠に、明治12(1879)6月、砲兵第二方面本署内砲兵支廠に、明治30(1897)年10月10日、大阪砲兵工廠に、大正12(1923)年4月1日、陸軍造兵廠大阪工廠に改称します。

昭和14(1939)年8月25日、大阪城東陸軍練兵場を収容、昭和15(1940)年、工場の拡張建設を開始します。

昭和15(1940)年4月1日、大阪陸軍造兵廠に改称します。

昭和20(1945)年1月30日、6月7日、15日、26日、7月24日と空襲の標的にされますが、いずれも天候不良等により被害は軽微でしたが、8月14日、B29爆撃機145機による空襲を受け甚大な被害を受け、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により大阪陸軍造兵廠の全設備・敷地は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方の軍事施設の接収を開始します。

29日、大阪陸軍造兵廠全域は米軍に接収され、製造機械類は賠償指定物件に指定、米軍管理下に可動状態にあった製造機械、資材は諸官庁、機関に転換され搬出されます。
その後、一部接収が解除されたのを受け、米軍主導の下、発明奨励館(旧本館)周辺は日鉄鋼機、東側の旧練兵場跡は大阪車両工業など随時民間に、南側は大阪市に払い下げられます。
昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により我が国が主権を回復した事に伴い、全設備が大蔵省に返還され随時払い下げられ開発、現在に至ります。

全景パノラマ(大阪陸軍造兵廠)
▲本丸から見た大阪陸軍造兵廠の全景

大阪陸軍造兵廠跡 パノラマ写真
▲現在の大阪陸軍造兵廠跡

東洋一と言われた大阪陸軍造兵廠でしたが、昭和20(1945)年8月14日の米軍による空襲により甚大な被害を受け多数の建物が焼失、さらに戦後の開発、大阪市の無理解により残存遺構も破壊され殆ど遺構は遺されていません。

ハ 化学試験場(旧化学分析所)
京橋口筋鉄門内に遺り、非常に有名です。

大阪造兵司発足当初は製砲所(現、大阪城野球場付近)内に分析場を開設し砲熕の金質の分析していましたが、明治21(1888)年1月10日、化学場を開設し諸材料の定性・定量分析等を開始します。
大正8(1919)年、筋鉄門北側にあった大阪兵器本廠(後の大阪陸軍兵器補給廠)砲廠跡に大阪砲兵工廠建築課 置塩章氏の設計により、橋本組によりネオ・ルネッサンス風の地上2階、地下1階、1,887㎡の化学分析所が竣工します。
化学試験場では造兵廠で扱う鋼材の質、及び定性・定量分析等、化学に関する一切の調査・試験を実施していました。
その後、化学試験場と改名し、昭和12(1937)年8月、陸軍造兵廠大阪研究所が建物内に開設され、停戦を迎えます。

昭和39(1964)年4月、自衛隊大阪地方連絡部が大阪防衛施設局内(旧大阪聯隊區司令部)から移転、平成6年(1994)1月、合同庁舎に移転し、現在は閉鎖されNPセンター(国有財産管理調査センター)が管理(してるか?)、建物の周囲は駐車場になっています。
化学分析所(大阪陸軍造兵廠)
▲現在の化学試験場 全景

大阪陸軍造兵廠ー化学分析場 (2)(大阪陸軍遺構)
▲正面入口
  蔦で非常に見難いですが、凝った意匠が施されています

化学試験場(自衛隊時代)(大阪陸軍造兵廠)
▲大阪地本時代の化学試験場

後述しますが、僕の祖母は昭和18(1943)年頃に大阪陸軍造兵廠に就職、この建物の対面にあった庶務課事務所に勤務していました。
祖母の話によると、玄関を入った左側に事務室があり、それ以外の部屋には薬品が多数保管されていたそうです。
また、祖母や同僚の女子軍属が行くと勤務している軍人が事務室に入れてくれ、良く雑談などしていたとの事です。
祖母は昭和19(1944)年初頃、家庭の事情で退職しますが、その後もしばしばここを訪れ、元職場の同僚と話したようです。
軍の工廠なのですが、結構規律が緩かったのに驚きます。



余談ですが平成4(1992)年、友人と手洗いを借りに大阪地本だったこの建物に入った事があります。
当時は建物に興味が無かった事もあり「古い建物」くらいにしか思わなかったのですが、今にして思えば写真の1枚でも撮っておけば良かったと後悔しています。
内部は左右に廊下があり、廊下を挟んで前後に小部屋がありました。
床は張り替えられていたと思いますが、壁は当時の木造にペンキを塗っただけで良好な状態で残っていました。


I 煉瓦塀
表門に使用されていた京橋口前筋鉄門周辺に遺ります。
建設当初は屋根瓦が葺かれていましたが、現在は全て滅失しています。
表門跡 (2)(大阪陸軍造兵廠)
▲表門跡(筋金門は昭和20年8月14日の空襲で焼失)

表門と事務所(大阪陸軍造兵廠)
▲大阪砲兵工廠時代の表門
  門内に見える建物は元大阪陸軍兵器支廠本局庁舎で、後に砲兵工廠の庶務課の事務所になります

明治3(1870)年2月3日、造兵司が開設された際、京橋口前筋鉄門から100m程城内に進んだ場所に仮門が設置されました。
明治13(1880)年6月15日、京橋口前筋鉄門が表門と定められ、昭和20(1945)年の空襲により焼失するまで大阪陸軍造兵廠の表門として使用されます。

当時、表門を入って左側には守衛所(現存せず)があり、出勤・退勤時には手荷物検査が行われました。


ヌ 通用門
表門の北側には半円形石造りの通用門が遺されています。
鉄扉は古い形状ですが、当時の物か不明です。
通用門(大阪陸軍造兵廠)
▲門内から撮影
  因みに外からは歩道橋が邪魔で殆ど見えません

祖母曰く表門は良く覚えているものの、この通用門は知らないと言っており、軍属、職工は表門から入っていたようです。




ノ 便所 (旧守衛舎)
表門を入った正面に遺されています。

明治初期、京橋口前筋鉄門が表門に指定された際に守衛舎として建設され、その後、守衛所は表門を入った左側に新築されたため、当建物は便所として使用されます。
戦後は公園管理局の倉庫として使用されていましたが、現在は放置されボロボロです
便所(大阪陸軍造兵廠)
▲当時は寄棟の瓦屋根葺きでしたが、現在はトタン屋根が乗せられています

表門(大阪陸軍造兵廠)
▲陸軍時代の様子

表門跡(大阪陸軍造兵廠)
▲同じ位置から撮影

便所の裏(大阪陸軍造兵廠)
▲建物裏側にある大小便器


ヒ 鉄塊
溶鉱炉の底に溜まっていたと言われる鉄の塊です。
溶鉱炉の鉄塊(大阪陸軍造兵廠)

この鉄塊のある南側に、明治8(1875)年2月8日、砲兵第二方面本局庁舎、北側には砲廠、倉庫が建てられ、その後さらに北曲輪跡(当地東側)に倉庫、修理場が設置されていきます。
表門と事務所(大阪陸軍造兵廠)
▲表門から見える庶務課事務所(旧砲兵第二方面本局庁舎)

事務所は昭和20(1945)年8月14日の空襲で焼失してしまいます。
事務所跡(大阪陸軍造兵廠)
▲現在の庶務課事務所跡

以下はこの庶務課で勤務経験(昭和18~19年頃)のある祖母の話です。
庁舎は木造2階建てで約30名(軍人15名、軍属15名程)が勤務、10畳程の別室が別棟で付属していました。
別室には陸軍兵器廠附の板坂順治少将が勤務していたそうです。

僕の祖母(大正13年生)は昭和18(1943)年頃、友人2人とともに自宅から近隣の大阪陸軍造兵廠を受験(SPI試験、運動能力試験など)、成績優秀のため庶務課(事務)に採用されます。友人2名は生産工場に配属され、毎日煤だらけになったため羨ましがられた様です。

祖母の仕事は主に応徴士(徴用工)の勤態管理(今で言うとタイムカード管理)を行い、月に1度勤務実態の書類の作成をし東京(陸軍兵器行政本部か?)に送付していたそうです。
庶務課長は大佐で、事務所には中尉、准尉、伍長などが約15名、男性の民間人係長1名と約15名の女子軍属が勤務しており、軍属は緑色の制服を着用していました。

仕事内容は比較的簡単で、職場の雰囲気も家族的で支給される昼ご飯の員数を休みの人の分も含めて申告し、余ったご飯で皆で焼きおにぎりを造ったり、冬は火鉢を囲んで雑談、たまに向かい側の化学試験場に行って雑談したり、同僚と防空演習をサボったりと気楽で楽しかったと今でも言っています。
血は争えないとは良く言ったもので・・・隔世遺伝?(笑)

祖母は職場が楽しかったので続けたかったようですが、父(僕の曽祖父)が跡取り(祖母は男兄弟がいない)なのに軍工廠で働いていたら空襲の危険もあり反対されます。
その後、父の病状が悪化し看病のため昭和19(1944)年初め頃に退職、直後に父が病没し母(曽祖母)の実家がある天理市に疎開したため当時交際していた職場のN中尉とも別れてしまったそうです。



ヘ 水門
大阪陸軍造兵廠の数少ない遺構の1ッです。

明治3(1870)年、当時主流であった水運により資材を搬入するため水路の掘削が開始され、明治4(1871)年、水門が完成します。
水路は戦後、埋められてしまいましたが、真南に延びて南西に屈折し外濠の手前まで伸びる形状は、水門南側の野球場ライト側外周の道路とほぼ一致します。
水門(対岸から)(大阪陸軍造兵廠)
▲平野川(第二寝屋川)対岸から見た水門全景

水門(近影)(大阪陸軍造兵廠)
▲東側から

水門外観(大阪陸軍造兵廠)
▲西側上部

水門内部(大阪陸軍造兵廠)
▲南側

水門内部 (2)(大阪陸軍造兵廠)
▲内部

水門内部の滑車(大阪陸軍造兵廠)
▲水門内部の天井に遺る滑車
  大きさから荷揚げ用では無く、水門門扉を作動させる物と思われます

「荷揚門」と記されている資料もありますが、『砲兵支廠全圖』、『大阪砲兵工廠全圖』等の公式図面では「水門」と記されており、「荷揚門」はこの場所より東側(現、大坂城新橋付近)にありました。


フ 取水口
平野川(第二寝屋川)に沿った遊歩道脇にあり、石造、コンクリート製、煉瓦と3基並んでいます。

大阪砲兵工廠は創設以降、工業用、飲用、防火用水全てを大阪市水道局から供給されていましたが、大阪市の人口増加にともない夏場になると昼夜数時間の断水が発生、暫し作業を中止せざるを得ませんでした。
陸軍省は明治三十七八年戰役(日露戦争)に際し、明治37(1904)~39(1906)年の3年間で32,621,098円を懸け東京、大阪両砲兵工廠の生産設備拡張を実施します。
明治38(1905)年9月15日、大阪砲兵工廠では断水による用水不足を補うため、給配水設備費を計上し寝屋川、平野川(第二寝屋川)に取水口を設け用水路を敷設します。

この取水口がいつ造られたかは不明ですが、この時期に敷設された用水取水口の一つと思われます。
取水口(大阪陸軍造兵廠)

最も大きなコンクリート製はブロックで塞がれていますが、石造、煉瓦は開口(奥行き2m程で崩落)しています。
取水口 (2)(大阪陸軍造兵廠)
▲煉瓦造の取水口

コンクリート構造物(大阪陸軍造兵廠)
▲取水口の東側にあるコンクリート製の補強


ミ 陸軍省用(地)
大坂城玉造口を出て左側の堀端にあります。
明治末年に敷地が玉造口から本町通に拡張された際に建てられたと思われます。
陸軍省用(地)(大阪陸軍造兵廠)
▲下の方は埋まっていますが、陸軍省用の後は「地」と思われます

ミ 境界石標(玉造口)(大阪陸軍遺構)
▲境界石標の後ろに石柱が転がっています

ミ 境界石標(玉造口) (2)(大阪陸軍遺構)
▲「是ヨリ濠マデ」と刻字されており、境界の範囲を示している珍しい石標です

大坂城周辺に広大な敷地を有した陸軍の用地ですが、境界石標はこの玉造口と大阪偕行社大阪陸軍兵器補給廠の3本しか残っていません。


その他の遺構
ネ 明治天皇聖躅
表門跡の前の花壇に建っています。
大正14(1925)年5月10日、大阪市青年聯合團により建立されました。
当初は本部脇(のち庶務課事務所脇に移設)に建てられた様ですが、戦後現在地に移設されたと言われます。
明治天皇聖躅碑(表)(大阪陸軍造兵廠)

石碑の台?
便所横の碑跡?(大阪陸軍造兵廠)
守衛所(便所)のすぐ横にあります。
元々「事務所の横」にあったと言われる「明治天皇聖躅」碑の元の場所でしょうか?

コンクリート製の基礎
便所横のコンクリート製基部の残骸(大阪陸軍造兵廠)
トラス状の鉄材を切断した跡があります。

柵の跡
塀跡?(大阪陸軍造兵廠)
平野川(第二寝屋川)に沿った土手にあります。

J コンクリート製の塀
民家との境界にコンクリート製の塀が30m程残されています。
構造、材質から見て当時の物と思われます。
造兵廠東端の塀(大阪陸軍造兵廠)

環状線の東側一帯は藩政期から荒地でしたが、明治中期(時期不明)に陸軍省が二回に分け買収、大阪城東陸軍練兵場として使用していました。
昭和14(1939)年、陸軍造兵廠大阪工廠の拡張が決定、練兵場は盾津に移設されます。
造兵廠跡(東端一帯) パノラマ写真(大阪陸軍造兵廠)
▲近年まで大阪陸軍造兵廠の再生建物により大阪車両が操業していましたが、移転に伴い更地になってしまいました。


以下は戦後の石碑類です。
ホ 砲兵工廠跡
大阪城野球場ライト線場外の東外濠外周遊歩道にあります。
砲兵工廠碑(大阪陸軍造兵廠)

昭和20(1945)年8月14日の空襲による大阪陸軍造兵廠工員犠牲者の慰霊祭開催を記念して、昭和34(1959)年8月14日、大阪廠友之会により建設されました。
大阪廠友之会は大阪城ホールの玄関付近に移設交渉中のようですが、現在のところ実現していません。

砲兵工廠跡の北側、現在大阪城ホールのある一帯には俗に「旧本館」と呼ばれていた煉瓦造りの建物と、その付属建物がありました。
西面(大阪陸軍造兵廠)
▲所謂「旧本館」の正面

“俗に”と書いたのは、該当建物が竣工した明治6(1873)年の大砲製造所時代から、昭和20(1945)年の停戦までの全期間を通じ、この「旧本館」が工廠の本部として使用された事が無いからです。
ちなみに工廠の本部(本局)は仮庁舎が大阪城ホールの西側付近に、明治14(1881)年6月7日、煉瓦造りの本局庁舎がさらに西側(少年野球場のレフト付近)に建設されました。

大阪陸軍造兵廠 本局(大阪陸軍造兵廠)
▲大阪陸軍造兵廠 本部(明治14年6月7日、竣工)

本部の残されている唯一の写真は「煉瓦造り2階建」ですが、祖母の記憶では建物は「コンクリート造2階建」だったようです。
明治31年の『砲兵工廠全圖』と『大阪陸軍造兵廠全図』では建物の形状が異なる事から、建て替えられたのかも知れません。
祖母の話では、本部の建物は戦後もしばらく存在し、国(大蔵省?)の出先機関が入っていたようですが詳細は不明です。



所謂「旧本館」は明治6(1873)年8月、轆轤(ろくろ)場として竣工します。
轆轤場要目
・建設:明治6(1873)年8月
・設計:大阪砲兵工廠建築課(建築課長の中島成道?)
・建設:不明
・面積:508,824㎡・煉瓦造(基礎:御影石)地上3階、地下1階

発明奨励館(旧本館)実測図 全部2(大阪陸軍造兵廠)
▲実測図

轆轤場は1階に旋工、2階に木工、3階に革具工場が入り、同時に竣工した鍛工場とともに共有の蒸気機関が設置されます。
明治8(1875)年7月6日、火災により損壊してしまったため、仮工場で作業しつつ復旧にかかりますが、2階・3階部分は中央部を残し撤去、その上に時計楼を設置し、明治14(1881)年頃、改装完成します。
この時計楼から通称「時計台工場」とも呼ばれ、以後、工廠の象徴として存在し続けました。

設計者は不明ですが、大阪砲兵工廠内唯一人の長期渡欧経験者で御用掛と建築課長を兼務していた中島成道技師が指導したと言われます。

ただ、明治6(1873)年に竣工しているはずなのですが、明治10(1877)年調『砲兵支廠全圖』には当該建物の記載がありません。
焼失後の改装中のため未記入なのでしょうか?その後の明治20(1887)年調『大阪砲兵工廠全圖』には「轆轤場」として記載されています。

その後、明治二十七八年戰役(日清戦争)を経て、製造設備が増強されるに伴い轆轤場は火砲製造所第一工廠と改称、明治三十七八年戰役(日露戦争)を経た明治42(1909)年、製造設備から貴賓室に改装、大正8(1919)年(9年?)頃、さらに発明奨励館として転用され、昭和20(1945)年8月14日の空襲により若干損傷するも、そのまま停戦を迎えます。

9月29日、大坂城全域は米軍に接収されますが、米軍管理下に一部の接収が解除され空襲で焼失を逃れた、あるいは焼失したものの骨格が残った造兵廠の建物は分割して民間企業に払い下げられます。
発明奨励館と焼失を逃れた周辺の旋工場、鍛工場は一括して日鉄鋼機に払い下げられます。
建物は何時しか「旧本館」と通称されるようになり、昭和56(1981)年2月17日、日鉄鋼機の移転に伴い大阪市が土地・建物を一括購入します。
全景(大阪陸軍造兵廠)
▲大阪市による買収時の建物群
 「旧本館」のみが有名ですが、良く見ると付属の第二旋工場・第一仕上場・第三鍛工場・第一荷積場・第六旋工場」等が遺っていた事が分かります

発明奨励館(旧本館)戦後(大阪陸軍造兵廠)
▲正面

正面ペディメント(大阪陸軍造兵廠)
▲玄関

側面(北)(大阪陸軍造兵廠)
▲側面

東面 (2)(大阪陸軍造兵廠)
▲背面

昭和56(1981)年3月、大阪市が「旧本館」の破壊を発表したため、歴史的にも建築学的にも貴重な遺構として28日「旧砲兵工廠本館を保存する会」(小山仁示関大教授)が結成され保存運動が行われます。
しかし、昭和56(1981)年5月2日、老朽化、安全確保を理由に大阪市公園局企画課長・河内和雄は保存する会の運動を黙殺し、「もめる前にやれ!」の指示の下、人目に着かぬよう早朝から破壊作業を開始します。
当時の朝日新聞(大阪本社5月11日夕刊)には「ごり押し軍団、歴史をこわす」と風刺されています。
昭和58(1983)年、跡地には大阪城ホールが建てられました。
悪名を後世に留めるため敢えて実名を載せておきます

マ 大阪砲兵工廠跡
森之宮団地2号棟東側の花壇にあります。
砲兵工廠跡 碑(大阪陸軍造兵廠)


現存する大阪陸軍造兵廠の製造品
青銅百五十封度陸用加農砲-(大阪陸軍造兵廠)
▲青銅百五十封度陸用加農砲(靖國神社)

八九式十五糎加農砲(右)、九六式十五糎榴弾砲(左)(大阪陸軍造兵廠)
▲九六式十五糎榴弾砲(左)の砲身(靖國神社)

2の鳥居(大阪砲兵工廠)(大阪陸軍造兵廠)
▲靖國神社、大鳥居(ニノ鳥居)

シ 本丸から西の丸への送水管(大阪陸軍造兵廠製)(大阪陸軍遺構)
▲送水管(大坂城)


大阪陸軍造兵廠 略歴
大阪市は我が国の中央に位置し、国内の有事に対応するには絶好の場所という地政学的見地から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿は大阪に陸軍の教育機関、兵器製造所、火薬製造所、陸軍兵営の一括設置を構想しました。
明治2(1869)年11月5日、大村卿は京阪方面の軍事施設、及び建設予定地視察のため上京しますが、そこで襲撃され非業の最期を遂げてしまいます。

明治3(1870)年2月3日、大坂城三之丸米蔵付近、皇城(旧江戸城)竹橋内に兵部省直轄の造兵司が新設されます。
4月13日、大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁(後、本局)として庶務課、用度課、建築家を設置し事務を開始、26日、造兵大佑・中島成道により旧幕府・長崎製鉄所(後の三菱重工長崎造船所)の工作機械および技師、職工を移転し、5月、東京の旧幕府・関口製造所から大砲鋳造設備を移転、6月、鋳物場、鍛冶場、機械場が操業を開始、7月、皇城内の施設と分離し大阪造兵司に改称、10月、火工場が操業を開始します。

明治5(1872)年2月、初めて国産の仏式四斤山砲を製造します。
四斤山、野砲(大阪陸軍造兵廠)
▲四斤山砲、同野砲

28日、新設された陸軍省の所轄となり、3月8日、大砲製造所に改称、鹿児島の集成館・火薬製造所(後、鹿児島属廠)を管下に編入します。
明治6(1873)年8月、鍛工場、轆轤場(所謂「旧本館」、明治8年7月6日、焼損)が竣工、共有の蒸気機関が設置されます。

明治8(1875)年2月8日、陸軍省達第四十五號『砲兵方面同本廠職司軍属職名同本支廠職制條例』により砲兵第二方面内砲兵支廠に改称、和歌山火工所(和歌山属廠)を管下に編入します。
砲兵第二方面は第四(大阪鎭臺)、第五(廣島〃)、第六軍管(熊本〃)を管轄し、管内の部隊に対し銃砲弾薬、兵器武具を補給します。
当時の支廠の設備は銅砲鋳造所2、火工所1、鞍工所1、木工所1、鍛工所3、他倉庫、火薬庫でした。
製造(大阪陸軍造兵廠)
▲製造風景

明治10(1877)年2月15日、西南の役が勃発、支廠は昼夜連続の製造体制を採るとともに、大口径砲製造に加え、新たに小銃弾(1月、火工所を改装)・砲弾の製造(4月6日、火工填実所・雷汞填実所、5月20日、薬筒製造所、設置)を開始します。
明治10年(大阪陸軍造兵廠)
▲明治10年『砲兵支廠全圖』

明治12(1879)6月、砲兵第二方面の砲兵第二方面本署への改称に伴い、砲兵第二方面内砲兵支廠も砲兵第二方面本署内砲兵支廠に改称します。

明治13(1880)年8月31日、火工所所属工場において小銃実包開放工事中に爆発事故が発生し死者39名、工場1棟が損壊します。

明治14(1881)年6月28日、鋼銅砲製造技術習得のため製砲所監務・本田徳三郎、職工・橋本千代太郎をイタリア、オーストリア、フランスに派遣します。

明治14年、轆轤場、明治15(1882)年1月、六屯反射炉、海岸砲架場、明治17(1884)年1月12日、三屯十二角反射炉、明治18(1885)年、十屯反射炉2基が設置され、大小口径砲の製造設備が整備されます。

明治17年10月21日、圧搾機が初めて設置され、明治18年から圧搾青銅製の七糎山砲、野砲の製造、及び口径10cm以上の海岸砲、要塞砲の製造が開始されます。
砲架製造(大阪陸軍造兵廠)
▲砲架製造風景

明治15(1882)年8月、信太山陸軍演習場に変わり、泉大津に大津大砲試験場が開設されます。

明治18(1885)年、支廠内に軽便鉄道が開通します。
明治20年(大阪陸軍造兵廠)
▲明治20年『大阪砲兵工廠全圖』

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発に伴い、支廠では敷地を拡張(平野川を挟んだ北側の弁天島、南側の玉造口付近まで)し製造設備を増強、廠内鉄道を5,675mまで延伸、さらに初の女工を含む職工を倍増(明治26年:1,001名、明治27年:2,105名)、就業時間を1時間延長して需要増加に対応します。
明治27(1894)年11月1日、工廠管下に宇治火藥製造所が開設され、操業を開始します。

明治29(1896)年3月、廠内鉄道が城東線と連接され、鉄道による資材運搬が開始されます。

明治30(1897)年10月10日、『陸軍省達乙七十四號』より砲兵第二方面本署は大阪陸軍兵器本廠、砲兵支廠は大阪砲兵工廠と改称し、前者は兵器の補給・貯蔵、後者は兵器の製造・修理に職務分掌します。
当時の工廠の組織は庶務課(第一、第二建築課含む)、会計部、製砲所(銅砲鋳造所を分離)、製彈所(銅砲鋳造所を分離)、製車所(鞍工所、木工所、鍛工所を合併)、火工所、小銃修理所でした。
砲身製造(大阪陸軍造兵廠)
▲砲身製造風景

明治30年(大阪陸軍造兵廠)
▲明治30年『大阪砲兵工廠全圖』

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、工廠では工場の拡張、敷地の空閑地に製造設備を新築し生産能力を向上させるとともに、海軍工廠、民間工場にも製造を依頼、さらに職工を倍増(前年の10,000名増、合計19,800名)します。
戦後、有事に際した急遽の増強による兵器・弾薬不足を防ぎ「兵器の独立」を確立すべく、明治末年、敷地は玉造口から南の練兵場全域、本町通まで拡張されます。
明治37(大阪陸軍造兵廠)
▲明治37年『大阪砲兵工廠建物配置圖』

明治41(1908)年、陸軍技術審査部の指示により軍用自動貨車(トラック)の製造に着手、明治42(1909)年2月、発動機2台の鋳造に成功します。
明治43(1910)年10月、自動貨車の試作を開始、明治44(1911)年5月4日、国産第一号自動貨車の試運転が実施されます。
試運転は1㎞程走行した後停車し故障してしまいますが、その後の改良によりさらに1台が完成、6月、東京砲兵工廠で完成した2台を加え4台となります。
大正元(1912)年8月、4台は滿洲に送られ運行試験を実施、「丙號自動貨車」として正式採用されます。
大正3(1914)年8月23日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)に際し攻城廠自動車班を編成し輸送にあたります。
国産自動貨車(大阪陸軍造兵廠)
▲丙號自動貨車

大正3 (2)(大阪陸軍遺構)
▲大正3年『大阪市街圖』

大正11(1922)年8月5日、第一次軍備整理、大正12(1923)年3月25日、第二次軍備整理(山梨軍縮)により陸軍は5個師團相当の人員が削減されます。

大正12(1923)年4月1日、『陸軍造兵廠令』が制定され、東京・大阪の両砲兵工廠が合併し、陸軍造兵廠大阪工廠に改称、管下の宇治製造所は新設された陸軍火工廠に移管されます。

大正14(1925)年3月、陸軍技術本部は国産戦車の開発案を提示、6月、設計を開始、大正15(1926)年5月、大阪工廠に試作車両が発注され、昭和2(1927)年2月、完成します。
同年、富士裾野において走行試験が実施され、八九式中戦車として正式採用されます。
八九式中戰車
▲八九式中戰車(陸上自衛隊・土浦駐屯地)

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(宇垣軍縮)」により、先の「山梨軍縮」と合わせた影響で大阪工廠では第一次大戦の繁忙期と比べ職工は6分の1の約6,000名、工場・製造機械も多数が休止します。

昭和5(1930)年、見習工制度が創設され、第一期生80名が入廠します。

昭和11(1936)年8月、『陸軍軍需計畫』が策定され、大阪工廠工廠は火砲が主要生産品目とされます。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発、大阪工廠は従来の第一(火砲)・第二:弾丸・第三製造所(薬莢、非鉄金属素材)に加え第四(非鉄金属を除く素材)・第五製造所(信管)を増設、休止中の工作機械を稼働させるとともに、職工を増員、さらに民間工場に生産を委託し製造に当たります。

昭和13(1938)年1月、第二(弾丸)・第五製造所(信管)を増強するため、管下に枚方製造所(枚方町)が開設します。

昭和14(1939)年8月25日、大阪工廠東側、第四師團管理下の大阪城東陸軍練兵場の敷地が大阪工廠に移管され、昭和15(1940)年、工場の建設が開始されます。

昭和14年12月、管下に播磨製造所(兵庫県加古郡高砂町(現、高砂市))が開設します。

昭和15(1940)年4月1日、陸軍兵器本部の新設に伴い、その管下に編入され大阪陸軍造兵廠と改称します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が勃発します。
10月、職工の不足から、第一回の徴用を実施し応徴士6,000名が入廠します。

昭和17(1942)年、火砲・薬莢(大阪)、弾丸(枚方)製造設備を増強、職工数は約60,000名となります。
同年、火薬を用いる信管製造所を人口の密集する大阪市内に置くのは危険であり、また空襲の危険性、砲弾製造との一元化による作業効率化の促進から第五製造所を枚方製造所に移転する事が決定、工場建設が開始されます。

2月13日、『兵器等製造事業特別助成法』が制定され、民間工場に対し製造設備を軍が出資・貸与し生産を委託します。
民間では主に自動車(全委託)、海運器材(98%)、装軌車両(95%)、通信電波器材(93%)、光学兵器(70%)などが委託生産され、全兵器の生産比率は軍3:民7となりました。
10月10日、陸軍省兵器局、陸軍技術本部総務部・第一部~第三部、陸軍兵器本部は統合され、陸軍兵器行政本部が発足、陸軍造兵廠、陸軍補給廠、陸軍技術本部第一~第九研究所は兵器行政本部長の隷下となります。

昭和18(1943)年、火砲・薬莢(大阪)、舟艇(白浜)製造設備を増強、女子挺身隊が入廠し職工数は約65,000名となります。

7月、大阪陸軍造兵廠の第二製造所(砲弾の弾体製造)が工場建屋は大阪陸軍造兵廠のままで枚方製造所の管轄になります。

昭和19(1944)年初旬、枚方製造所に第五製造所(信管)の一部建屋、全信管製造設の移転を開始、3月、移転が完了し信管部品の製造、填薬、組立てが開始されます(昭和20(1945)年4月、枚方製造所の管下に移行)。

4月、兵庫県飾磨郡白浜町(現、姫路市)の白浜製造所(舟艇製造)が大阪陸軍造兵廠に移管、7月、大阪陸軍造兵廠の薬莢製造所を島根県江津町(現、江津市)の石見製造所に移管します。

昭和19年、舟艇(白浜)製造設備を増強するとともに、戦局の悪化に伴い空襲を避け、本土決戦に向け地域独立生産体制を確立するべく製造設備の分散を開始します。
7月より、學校報國隊、半島応徴士が入廠し職工数は約68,000名となります。

昭和20(1945)年、米軍による本土空襲が本格化すると7割の製造を請け負う民間工場が相次いで被害を受け、また工員住宅の焼失による出勤率の低下、交通・通信・輸送などの損傷、資材の不足により生産は兵器行政本部の示達額の6~7割に低下してしまいます。
造兵廠、及び管下製造所では製造設備の分散疎開を急ぐとともに、兵庫県有馬郡藍村(現、三田市藍本)、大阪府北河内郡交野(現、交野市私市)に地下疎開工場の掘削を開始、庶務課や資材は大阪府下の数百か所に分散させます。
大阪陸軍造兵廠 昭和20(大阪陸軍造兵廠)
▲昭和20年『大阪陸軍造兵廠』

1月30日2002、B29、2機が初めて大阪陸軍造兵廠に来襲しますが、被害は軽微でした。

6月7日1109、第21爆撃機軍団(第58、73、313、314航空団)のB29爆撃機409機が来襲(第三次大阪大空襲)。
大阪陸軍造兵廠が標的とされますが、曇天のため米軍は電探爆撃を実施します。
多くの投弾は逸れたため造兵廠の被害は軽微でしたが、都島方面が甚大な被害を受けてしまいます。

6月15日0844、第21爆撃機軍団(第58、73、313、314航空団)のB29爆撃機449機が来襲(第四次大阪大空襲)。
八幡製鉄所(福岡)が標的とされますが、曇天のため米軍は大阪・尼崎に来襲、造兵廠の被害は軽微でしたが、尼崎方面が甚大な被害を受けてしまいます。

6月26日0918、第21爆撃機軍団(第58、73航空団)のB29爆撃機173機が来襲(第五次大阪大空襲)。
大阪陸軍造兵廠と住友金属工業㈱櫻島工場が標的とされ、住金櫻島工場は甚大な被害を受けてしまいますが、造兵廠の被害は軽微でした。

7月24日1044、第20航空軍(第58、73航空団)の第B29爆撃機119機が来襲(第七次大阪大空襲)。
大阪陸軍造兵廠と住金櫻島工場が標的(大阪以外では川西航空機㈱、愛知航空機㈱、鈴鹿海軍工廠、三菱重工業㈱名古屋航空機製作所、中島飛行機㈱)とされ、住金櫻島工場に82機が来襲し工場の被害甚大、造兵廠に35機が来襲するも曇天のため米軍は三重県桑名を爆撃します。

8月14日1316、第20航空軍73航空団のB29爆撃機145機が来襲(第八次大阪大空襲)。
大阪陸軍造兵廠が標的(大阪以外では光海軍工廠、麻里布駅、日本石油㈱麻里布製油所、熊谷市・伊勢崎市)とされ、爆弾850発(706.5トン)が主に南側一帯に投弾されます。
空襲814(大阪陸軍造兵廠)
▲空襲に曝される大阪陸軍造兵廠(昭和20年8月14日)

この空襲により382名が爆死、33名重傷、79名軽傷(京橋駅の犠牲者含む)、建物15棟(約20,000㎡)が全壊、95棟(約280,000㎡)が破損、108棟(146,000㎡)が焼損、製造機械6割が破損してしまいます。
しかし、残存の製造機械、資材により生産力は低下するも、なお3~5ヶ月は製造可能な余力がありました。

空襲後(大阪陸軍造兵廠)

空襲後 (2)(大阪陸軍造兵廠)
▲空襲により大きな被害を受けた大阪陸軍造兵廠(戦後暫く後の写真)

8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦により造兵廠は操業・復旧を停止、当時の職工は63,942名でした。

停戦時に管下にあった製造所
・第一製造所(火砲):大阪陸軍造兵廠内
・第三製造所(薬莢、非鉄金属素材):  〃
・第四製造所(非鉄金属を除く素材):  〃
枚方製造所(第二製造所:弾丸、第五製造所:信管)
播磨製造所(機能分散)
白浜製造所(舟艇)
石見製造所(薬莢)


8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により大阪陸軍造兵廠の全設備・敷地は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれますが、9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方の軍事施設の接収を開始します。

29日、大阪陸軍造兵廠全域は米軍に接収され、製造機械類は賠償指定物件に指定、米軍管理下に可動状態にあった製造機械、資材は諸官庁、機関に転換され搬出されます。

その後、一部接収が解除されたのを受け、米軍主導の下、発明奨励館(旧本館)周辺は日鉄鋼機、東側の旧練兵場跡は大阪車両工業など随時民間に、南側は大阪市に払い下げられます。

しかし、空襲により甚大な被害を受けた南側は不発弾の危険性もあり、そのまま放置されます。

昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が勃発、「金へんブーム」と言われる金属特需が起こると、放置されている造兵廠の鉄材目当てに、在日朝鮮人を中心とした窃盗団(所謂アパッチ族)による不法侵入・窃盗が横行します。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により我が国が主権を回復した事に伴い、全設備が大蔵省に返還、同年、南側の公園整備が開始され、昭和44(1969)年まで造成が続きます。

昭和36(1961)年3月1日、大阪市交通局が旧練兵場跡のうち77,000㎡を買収し、昭和43(1968)年1月19日、地下鉄森之宮検車場を開設します。

昭和43(1968)年8月、明治建築研究会が旧本館を調査、昭和45(1970)年6月、日本建築学会が旧本館を「Bクラス」(府指定の重文)と大阪市に答申します。

昭和55(1980)年、日鉄鋼機(旧本館で操業)と大阪製鉄が合併し工場移転が決定、昭和56(1981)年2月17日、大阪市が土地・建物を一括買収します。

昭和56(1981)年3月、大阪市が旧本館の破壊を発表、同月、保存運動が拡大(28日、保存する会結成)するなかの5月2日、大阪市公園局企画課長・河内和雄の指示により旧本館は破壊されてしまいます。

昭和51(1976)年12月、弁天島地区が大阪ビジネスパークとして造成が始められ、現在に至ります。

8月14日の米軍による空襲に関してはよく「我が国が国体護持にこだわりポツダム宣言の受諾回答が遅れたため実施された」とする日本側責任論が言われています。
しかし、7月26日に米国が最初に『ポツダム宣言』を提示した際、我が国がソ連に和平交渉の仲介を依頼しているのを知りながら「ソ連の連合国入り」を隠蔽、米国内の知日派による進言を無視して「国体護持」を削除するなど、意図的に日本を降伏させないようにしていました。
その結果、我が国は同宣言を価値無しとして黙殺、その後は米国の描いたシナリオ通りの展開に進みます。
8月6日、及び9日、莫大な資金を投入して製造した原子爆弾を広島と長崎に投下し議会を納得させるとともに実戦で運用、戦後の勢力図を見込んでソ連を牽制することに成功します。
9日、ソ連の一方的な日ソ中立条約破棄による滿洲侵攻を受け、我が国は「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を伝達しますが、米国が明瞭な回答を行わなかったため、同宣言の受諾は8月14日の最高戦争指導会議(御前会議)まで持ち越されてしまいます。
以上の様に米国が「国体護持」だけを了承する事で我が国は7月末、少なくとも8月初旬にはポツダム宣言を受諾していたと思われますが、米国の思惑による戦争終結引き延ばし工作により多くの犠牲が出ます。


主要参考文献
『大阪砲兵工廠沿革史』(明治35年 大阪砲兵工廠)

『陸軍省第六年報 自明治13年7月1日至同14年6月30日』(A07062041200)

『大阪砲兵工廠の研究』(平成5年 三宅宏司 思文閣出版)

『日本の技術8 大阪砲兵工廠』(平成元年 三宅宏司 第一法規出版)

『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料』(昭和60年3月 大阪大空襲研究会)

『大阪砲兵工廠の八月十四日』(昭和58年 大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会 東方出版)

『旧大阪砲兵工廠本館調査報告書』(昭和56年 大阪市公園局)
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No Title

ヌ 通用門ですが、外からでは歩道橋が邪魔してしまっているのが残念ですね!

こんばんは

そうなんですよ・・・おまけに撮影時は蔦だらけで、何だか分からない画になってしまったので敢えて内側からです(笑)

No Title

あと、水門を撮る時は、そこにお住まいになっている方がいらっしゃって、何とも言えぬ緊張感が有りました。

水門

私が最初に踏み込んだのは3年前でしたが、人工的な猫の家?があり身構えましたが、あいにくどなたもおられませんでした・・・。遺構探索中に最も緊張する瞬間はやはり「人」ですね。

丁寧で詳しい。

大変丁寧な編集記載です。
大阪造兵廠に付いては、纏めて、此処まで書かれたBlog記事は観たことが有りませんでした。
感服いたします。

ありがとうございます

みぃにゃん様、はじめまして。
お誉め頂き光栄です。
また、貴ブログ内でもご紹介頂きありがとうございます。

拙ブログは陸海軍の遺構に少しでも興味を持った方が実際に訪れて探しまくる事の無いように、できるだけ詳しく紹介する事を心がけています。
できるだけ複数の資料を参考に執筆していますが、資料が少ないので間違いもあるかも知れません。
お気付きの点があればご指摘下さい。

各記事はその都度私の感じた事や思想信条も若干反映させているのですが、それもまた個性的な記事にするための味付けかなと思っています(笑)

ありがとうございました

はじめまして。
私の子供の頃(昭和32年生まれ)、大阪環状線からの車窓で目に焼き付いているものは、広い敷地に煉瓦造りの大きな建物なんです。
その景色は結構長い間あったような記憶があります。
母が言うには被服厰だと言うのですが、いまだに
私は気になっていて、調べていたらこちらのブログにたどり着きました。
かなり詳しく調べておられることに驚きました。
私の環状線からの景色は死ぬまで忘れられないものになると思います。戦争を知らない私ですが、戦争が残した傷の大きさは、いつまでも心に残ることとなります。
このブログにたどり着いて良かったです。
不細工な文章で申し訳ございません。
ありがとうございました。

こんばんは

まりあ様、初めまして。
コメント、ありがとうございます。

昭和26年生まれの私の母親も「昔は環状線の車窓から大阪陸軍造兵廠の残骸が見えた」と言っていました。

所謂「旧本館」は昭和56年に破壊されていますが、結構有名な建物なので記憶に残ってらっしゃる方も多いようですね。
破壊されたのは返す返すも残念です。
残っていれば良いランドマークになるのですが・・・。

ちなみに被服廠(大阪陸軍被服支廠)の巨大なコンクリート製倉庫も近年まで郵政省の倉庫として遺されていましたが、こちらも破壊されてしまいました。
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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