当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

眞田山陸軍墓地

戦国時代最後の大戦、大坂の陣に際し大坂方の名将・真田信繁が籠もった出城・真田丸があったとされる眞田山に眞田山陸軍墓地があります。
西南の役(眞田山陸軍墓地)
▲眞田山陸軍墓地 兵卒墓所

【探索日時】
平成22年12月18日





大坂城周辺の陸軍部隊、官衙配置
昭和20(遺構)(大阪陸軍遺構)
▲現在の地図に施設を写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①第十五方面軍司令部、中部軍管區司令部(旧第四師團司令部)
②第三十五航空情報隊
③    〃    宿舎
④大阪師管區司令部(旧第四師團司令部)
⑤大阪陸軍兵器補給廠 櫻門前兵器庫
⑥大阪陸軍兵器補給廠
⑦    〃    城内西兵器庫
⑧    〃    城内北兵器庫
⑨    〃    青屋口門兵器庫
⑩    〃    玉造門兵器庫
 大阪師管區経理部 玉造門前倉庫
⑪城南射撃場
⑫大阪師管區歩兵第一補充隊(中部第二十二部隊、旧歩兵第八聯隊)
     〃  通信隊補充隊(中部第六十八部隊)
⑬大阪陸軍被服支廠
⑭〃        被服倉庫
⑮大阪師管區歩兵第二補充隊(中部第二十三部隊、旧歩兵第三十七聯隊)
⑯陸軍用地
⑰中部憲兵隊司令部
⑱陸軍用地
⑲大阪聯隊區司令部・大阪地區司令部
⑳大阪師管區経理部 大手前之町倉庫
㉑大阪師管區司令官官舎
㉒   〃    従卒宿舎
㉓大阪第一陸軍病院
㉔大阪偕行社
㉕大阪軍人會館
㉖大阪偕行社學院 國民學校(旧大阪偕行社付属小學校)
㉗大阪陸軍造兵廠
㉘大阪陸軍被服支廠 城東検査場
眞田山陸軍墓地
㉚高射砲陣地(旧騎兵第四聯隊兵営)
※記述統一のため「停戦時」の配置図を使用します。


施設の概要
慶長14(1615)年、大坂冬の陣に際し大坂方の眞田信繁(幸村)が大坂城南側惣構の外側に築いた「眞田丸」の跡と言われる本来の「眞田山」(明星高校付近)に隣接した宰相山にあります。

昭和初期、隣接の眞田山が有名過ぎたことから、宰相山も含め眞田山と呼称されるようになった様です。

明治4(1871)年4月10日、我が国初の(兵隊)埋葬地として開設されて以来、大東亜戦争停戦による荒廃を経て現在も良好な状態で保存されています。

眞田山陸軍墓地は明治維新以降の各戦役(佐賀の乱から大東亜戦争)の戦病没者に加え、大阪鎭臺及び第四師團隷下部隊の平時の病没者、軍役夫、警官から俘虜、さらに獄死、自死、喧嘩による死者等も合わせて埋葬されています。

墓地の名称について、一次資料には「眞田山埋葬地」、「眞田山陸軍墓地」、「大阪陸軍墓地」とあり「大阪」と「眞田山」のどちらを冠するのかは定かではありませんが、眞田山の名称を冠している物が多いようです。


規模
墓標 ・・・ 5,096基
・散華者 ・・・ 3,713基
・合葬墓 ・・・ 5基
・軍役夫 ・・・ 926基
・俘虜 ・・・ 8基
・獄死 ・・・ 11基
・自死 ・・・ 3基
・喧嘩 ・・・ 1基
・空襲で破損 ・・・ 約260基
・戦後建立 ・・・ 169基

面積
明治4(1871)年4月10日 ・・・ 28,090㎡
昭和3(1928)年3月3日 ・・・ 18,850㎡


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構、アルファベットは塀など、上掲地図参照)
遺構という言い方は不適切ですが、墓地はほぼ完存しており墓碑が約5,096基建てられています。

ミ 境界石標
墓地の北側に2本、東側に1本の2ヶ所、計3本が残されています。
北門 陸軍(省所轄地:裏)・境界査定標(表) (2)(眞田山陸軍墓地)
▲北側入り口(西側)の「陸軍」境界石標

北門 陸軍(省所轄地:裏)・境界査定標(表)(眞田山陸軍墓地)
▲北側入り口(西側)の「陸軍」境界石標の裏側には「境界査定標」と記されています。

東門 陸軍省所轄地と塀の跡(眞田山陸軍墓地)
▲東側入り口の「陸軍省所轄地」境界石標


眞田山
▲眞田山陸軍墓地 墓所配置

い 下級将校 (尉官、135名)
将校の墓所は墓域(将官:3.75坪、佐官:2.5坪、尉官:2坪)のみ規定されましたが、墓碑の大きさ・形は自由だったため私費により様々な大きさ・形状の墓標が建設されました。
将校 (2)(眞田山陸軍墓地)
▲墓域は同じですが、墓標は様々です。


ろ 下士官 (401名)
佐賀の乱、西南の役、明治二十七八年戰役(日清戦争)、明治三十七八年戰役(日露戦争)、滿洲事變、平時の戦病没者が眠っています。
下士官の墓域は1坪、墓碑は幅奥6寸(18㎝)×高さ2尺5寸(76㎝)と規定されます。
下士官(眞田山陸軍墓地)

下田織之助(最古の墓)(眞田山陸軍墓地)
▲当墓地最古の墓標
 明治3(1870)年12月1日に亡くなった下田織之助・兵学寮生徒


は 墓守宅
墓守の方が現在も住んでおられます。


に 仮忠霊堂
昭和18(1943)年8月25日、(財)大阪沸教會により献納され、支那事變以降の御遺骨約8,000柱が納められています。
納骨堂(眞田山陸軍墓地)
▲老朽化が進んでいます。

支那事變の英霊に関し陸軍省は各陸軍墓地に納骨堂を兼ねた忠霊塔建立を推進しますが、戦局の逼迫に伴い大規模な墓所の建立は見合わせるように示達します。
大阪の英霊も忠霊堂(忠霊塔)建立まで納骨堂に仮安置されますが、大東亜戦争停戦により忠霊堂の建立は中止され現在に至ります。


ほ 兵(707名)
明治二十七八年戰役(日清戦争)、臺灣征討時の戦病没者、若干名の明治三十七八年戰役(日露戦争)、平時の戦病没者が眠っています。


へ 上・中級将校(将官・佐官 20名)
当時は墓標の規定が無かったため、大きさが様々です。
将校(眞田山陸軍墓地)

(第七旅團長)陸軍少将今井兼利墓(眞田山陸軍墓地)
▲当墓地最大の墓標
明治23(1890)年9月15日、コレラにより病没した第七旅團長・今井兼利少将


と 滿洲事變戦病沒将兵合葬碑(1基)
滿洲事變以降、戦病没者増加に伴い合葬碑の建立が示達されます。
昭和6(1931)年9月に建立されました。
滿洲事變戦病没将兵合葬碑(眞田山陸軍墓地)


ち 明治三十七八年戰役戦病死者合葬碑(4基)
明治三十七八年戦役(日露戦争)における戦病没者増加に伴い、階級ごとに合葬碑の建立が示達されます。
明治三十七八年戦役(日露戦争)戦病没死者合葬碑(眞田山陸軍墓地)
▲左から兵卒、下士、准士官、将校同相当官の合葬碑


り 大東亜戰争戦病没者(169名)
昭和24(1949)年9月24日、南河内郡野田村(現、堺市)遺族会により大東亜戰争の戦病没者の墓碑が建立されます。
南河内郡野田村遺族会(眞田山陸軍墓地)
▲向かい合わせに並んでおり、階級も混同しています。


ぬ 兵、生兵(1,413名)
明治二十七八年戰役(日清戦争)、明治三十七八年戰役(日露戦争)、平時の戦病没者などが眠っています。
明治7(1874)年~明治20(1887)年の間、入営後半年間は生兵(なまへい)と呼ばれ、階級はありませんでした。
訓練後の選考試験に合格する事でニ等卒に任官しました。
※「生兵」の読み方については「せいへい」とする資料もあり、どちらが正しいか不明です。


る 破損墓碑(約260名)
昭和20(1945)年6月1日、第二次大阪大空襲等で破壊された墓標が集積されています。
破損墓碑塚(眞田山陸軍墓地)


お 生兵、兵、屯田兵、水兵、警察官(1,052名)
西南の役、明治三十七八年戰役(日露戦争)、滿洲事變、平時の戦病没者が眠っています。
西南の役に参加した屯田兵(2名)、水兵(2名)、警察官(29名)の戦病没者も一緒に眠っています。
西南の役(眞田山陸軍墓地)


わ 軍役夫(926名)
   俘虜(8名)
明治二十七八年戰役(日清戦争)、臺灣征討時には未だ輜重兵は編成されておらず、募集された民間人による軍役夫が物資等の輸送に当たりました。
該当墓所の9割は「軍役夫」ですが、他に軍役職工、馬丁、看病人、酒保受負人、通訳官、賄長、厨夫、機関士、船夫、蹄鉄工、靴工、火夫、船長、水夫、舵取、事務員、鉄道工夫等の民間人が眠っています。
明治二十七八年戦役(日清戦争)・征臺の役~軍役夫・職人等(眞田山陸軍墓地)
▲軍役夫、酒保受負人、陸軍看病人の墓標(左から)

俘虜は明治二十七八年戰役(日清戦争)時の清國兵(6名)、大正三四年戰役(第一次世界大戦)時のドイツ兵(2名)が眠ります。
大正三四年戦役(第一次大戦)~独逸俘虜(眞田山陸軍墓地)
▲獨逸國(俘虜)リードリヒクラフト兵卒(左)、へルマン・ゴル軍曹(右)の墓標


眞田山陸軍墓地 略史
明治2(1869)年9月、華族、士族の子息を中心に兵学、練兵、建築、会計等を教授していた京都兵學所が大坂城京橋口門内に移転し、大阪兵學寮青年學舎が発足します。
明治3(1870)年5月、将校候補者を養成していた横浜語學所が大坂城多門櫓内に移転し、大阪兵學寮幼年學舎が発足、大阪兵學寮青年學舎と合わせ大阪兵學寮陸軍學舎となります。
明治3(1870)年4月、陸軍下士官を養成する傳習所が京都府から大坂城玉造口門付近に移転し、大阪教導隊が発足します。

明治4(1871)年6月、大阪兵隊(大阪鎭臺、第四師團の前身)が発足する等、我が国の中央に位置する大阪は国内の有事に対応するには最適な位置にある事から、近代陸軍の創設者・大村永敏(益次郎)卿の構想に基づき陸軍兵営、教育機関、兵器製造所、火薬製造所が次々に設置されていきます。

その一方で急速な近代化による生活様態の激変、外国式の調練による死亡事故、体調を崩し病没する将兵が発生した事から明治3(1870)年12月13日、兵部省大阪出張所は兵部省に対し大阪府西成郡東區宰相山町眞田山の吉右衛門肝煎地(畑地)3,430坪、旧和歌山藩陣屋地5,066坪に軍人、生徒死亡者の仮祭魂社及び埋葬地(兵隊埋葬地)の開設を上申します。

明治4(1871)年1月5日、兵部省は該当用地を管轄する民部省、大阪府と協議を開始、4月10日、該当用地が兵部省に移管され陸軍御用地に設定、我が国初の眞田山埋葬地が開設され、祭魂社の設置が許可されます。

明治6(1873)年12月25日、甲二套第千九百四十六號『下士官兵卒埋葬法則』が制定され、遺言による埋葬寺院が無い場合、病没を告知された親族が2日以内に申し出が無い場合は遺体を埋葬地に土葬する事が定められます。

明治7(1874)年10月5日、布告第三百六十九號『下士官兵卒埋葬法則』が改訂され、下士官、兵卒の墓標の大きさが規定されます。

明治10(1877)年2月15日、西郷隆盛が鹿児島において挙兵し西南の役が勃発、4月10日、大阪に陸軍臨時病院が開院し後送されて来た負傷兵から手当の甲斐なく亡くなった戦病没者を埋葬します。

9月22日、大阪においてコレラが発生、西南の役から凱旋中の輸送船、及び汽車内で流行してしまい病没した482名を埋葬します。

明治15(1882)年3月28日、陸軍省は埋葬地隣接民有地317坪を買収し埋葬地を拡張します。

明治19(1886)年7月24日、陸軍省令甲第三十四號により『陸軍隊附下士卒埋葬規則』が制定され『下士官兵卒埋葬法則』は廃止されます。

明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発、11月9日、後送されて来た清國兵俘虜が大阪衛戍病院で死去したため、眞田山埋葬地に埋葬、明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され戦役は終結します。

明治30(1897)年8月17日、陸軍省令第二十二號『陸軍埋葬規則』が制定され、眞田山埋葬地は眞田山陸軍埋葬地と改称、墓所は将官同相当官、上長官、士官、准士官、下士兵卒の5区画とし夫々の坪数を規定します。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、明治40(1905)年9月5日、講和条約が締結され戦役は終結します。

明治39(1906)年11月、明治三十七八年戰役戰病死者合葬碑が建立されます。

大正3(1914)年8月23日、我が国は大正三四年戰役(第一次世界大戦)に参戦、大正4(1915)年9月7日、後送されて来たドイツ軍俘虜が病没したため眞田山陸軍埋葬地に埋葬します。

昭和3(1928)年3月3日、眞田山陸軍埋葬地の敷地南側2,795坪を眞田山尋常小學校用地として大阪市に売却、該当地に所在の墓標を移転・改葬します。

昭和6(1931)5月7日、第四師團長・阿部信行中将が眞田山陸軍埋葬地を参拝中、同じく参拝に来たドイツ国大使・E.フォーレッチ特命全権大使と出会い、獨逸國俘虜の墓碑から「俘虜」の文字を切削する事を決定します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が発生、昭和8(1933)年5月31日、塘沽協定が締結され事変は終結します。

昭和9(1934)年9月、滿洲事變戦病没将兵合葬碑が建立されます。

昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発します。
昭和13(1938)年5月5日、陸軍省令第十六號『陸軍墓地規則』が制定され『陸軍埋葬規則』は廃止、従来の個人墓標により埋葬は合葬(塔・碑)による埋葬(平時の死亡者は別に合葬塔)に改め、また眞田山陸軍埋葬地は眞田山陸軍墓地に改称します。

昭和14(1939)年7月7日、「皇戦二殉ジタル忠死者ノ遺骨ヲ合祀シ其ノ忠霊ヲ顕彰スル」事を目的とし(財)大日本忠靈顕彰會が発足し、全国に忠霊塔の建立運動を開始します。

忠霊塔は明治三十七八年戰役(日露戦争)における戦病歿者の遺灰埋葬地(遺骨は火葬後内地に送還)が滿鐵沿線付属地外にあり、管理が困難な事から英霊を顕彰すべく明治40(1907)年6月、關東都督府により旅順表忠塔(後、忠霊塔:扱いは納骨祠)を始めとして各地の戦跡に納骨堂を伴い5基(大連、奉天、遼陽、安東)に、次いで滿洲事変後の昭和9(1934)年5月から昭和14(1939)年にかけ5基(新京、哈爾濱、斉斉哈爾、承徳、海拉爾)に、次いで支那事変の勃発に伴い昭和15(1940)年から昭和16(1941)年7月にかけ3基(北京、上海、張家口)、昭和17(1942)年9月12日、昭南島武威山に建立されます。
忠霊塔は關東都督府が祭祀、保存にあたりますが、大正8(1919)年4月12日、關東軍、昭和12(1937)年10月1日、南滿洲納骨祠保存會、昭和10(1935)年4月2日、(財)忠霊顕彰會の発足に伴い管理は移管され、昭和14(1939)年7月7日、同会は(財)大日本忠靈顕彰會に吸収されます。

昭和14(1939)年3月15日、国内において靖國神社における例大祭に加え、身近に英霊の顕彰を行うべく神社界の要望を受けた内務省は内務省令第十三號『招魂社ハ之ヲ護國神社ト改稱ス』発令により、4月1日、各地の招魂社を護國神社と改称し各県に1社の護國神社建立を認可します。
この措置に対し(財)仏教聯合會は英霊顕彰が神社中心になる事を危惧、また各衛戍地からも遺骨顕彰の要望があった事から、櫻井徳太郎中佐(後、少将)が中心となり、各県からさらに市町村単位での英霊顕彰を行える施設として忠霊塔を建立すべく奔走、陸軍、(財)仏教聯合會、財界も賛同し積極的に支援協力し、(財)大日本忠靈顕彰會の発足が実現します。

(財)大日本忠靈顕彰會は内閣総理大臣を名誉会長(当時は平沼騏一郎男爵)、菱刈隆大将を会長、枢密院議長(同近衞文麿公爵)、閣僚を名誉顧問に、陸海軍将官、新聞社社長等を顧問、東京・大阪市長を委託として迎え、陸軍、海軍、内務、外務、厚生、拓務6省が共同所管し、各地の忠霊塔建立の寄付金を募ります。

陸軍、(財)仏教聯合會による忠霊塔建立の推進に対し、神社界は忠霊塔が英霊顕彰施設として靖國神社、護國神社と競合し国民の英霊祭祀を複雑にすると危惧、11月4日、(財)大日本忠靈顕彰會と神社界が協議の結果、「忠霊塔は祭祀施設では無く、支那事変に際し散華された英霊の遺骨を納める公営墳墓」と規定されます。

昭和16(1941)年7月19日、陸軍省令第二十八號により『陸軍墓地規則』が改正され、各陸軍墓地に一戦役または一事変ごとに1基の忠霊塔を建立する事、並びに陸軍部隊所持地の市町村が忠霊塔を建立する場合は、陸軍墓地の忠霊塔を市町村忠霊塔に併合する事を許可します。

12月8日、大東亜戰争が勃発します。

昭和18(1943)年8月25日、(財)大阪沸教會が仮忠霊堂を献納します。

10月30日、戦局の逼迫に伴い陸軍省は陸亞普第一六八四號『戰沒者墓碑建設指導ニ關スル件關係部隊ヘ通牒』により、各部隊に対し戦力増強、生産拡充に全力を傾注すべき時局下に過大な墓碑建設に投入する資材、労力を節減し、また弔慰金を墓碑建設に充ててしまい遺族の将来の生計に影響を及ぼす事が無い様、墓碑に関して今時大戦中は質素な木碑で代用、及び先祖代々の墓に合葬する風習のある地域は極力合葬する様に示達します。

昭和20(1945)年6月1日、B29の空襲(第二次大阪大空襲)により眞田山陸軍墓地も被弾し、墓碑が破損、隣接9寺、三光神社が焼失してしまいます。

8月15日、中部憲兵司令部に拘置されていたB29搭乗員5名を眞田山陸軍墓地において国内法規、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別殺戮)により処刑します。
同日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』の渙発を受け、16日、停戦を迎えました。

10月31日、眞田山陸軍墓地は中部軍管區司令部経理部から陸軍省廃止(12月1日)に先立ち、大蔵省大阪財務局に移管されます。

昭和21(1946)年8月1日、大蔵省大阪財務局は眞田山陸軍墓地を大阪市に無償貸与します。

昭和22(1947)年、大蔵・内務両次官が大阪府知事に対し旧軍用墓地の祭祀に関し自治体は関与しない様に通達したため、四天王寺住職・田村徳海師他5名が(財)大阪靖國靈場維持會を設立し眞田山陸軍墓地の維持・管理を開始しますが、占領統治下の制約もあり各役員が私費により細々と英霊祭祀・供養を行います。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効、我が国が主権を回復した事に伴い1,500名が参列し慰霊大法要が挙行されます。

昭和29(1954)年、納骨堂に奉安されている御遺骨名簿の整備、事務局・集会所を新築します。

昭和36(1961)年、浄財により劣化の著しい墓標の修復作業が行われます。

平成15(2003)年10月、(財)大阪靖國靈場維持會は(財)真田山陸軍墓地維持会に改称、

平成25(2013)年3月19日、同会は公益財団法人へ移行、4月1日、公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会に改称し現在も眞田山陸軍墓地の祭祀、管理を行っています。


眞田山陸軍墓地に維持管理については現在、上記の真田山陸軍墓地維持会が行っていますが、類似の活動をしている似た様な名称の旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会(平成13(2001)年10月28日設立)と言う団体も存在しています。

両者の公式サイトを見比べると後者は所々にイデオロギー色、所謂自虐的な記述が見られ、僕の歴史観とは相容れないものがあります。


主要参考文献
『旧真田山陸軍墓地見学のしおり1』 (NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会)

『旧真田山陸軍墓地~都心に眠る近代遺跡』 (六稜トークリレー 第88回 資料)

日本軍が中国に建設した十三基の忠霊塔』 (国際日本文化研究センター)

『官報』

アジア歴史資料センター 各種史料
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No Title

生兵ですが、保存会の見学会に参加した時は、「せいへい」との説明を受けた記憶があります。実際はどうなんでしょうか?
私が訪ねた時のブログです。
http://kanreport.blog58.fc2.com/blog-entry-16.html

う~む

この墓地…後世にのこすべき遺産だと思うんですが 保存の方策が足りてない気味なんですかね(?_?)(≧ε≦) 隊友会で何か出来ないものか…(*_*) 確か…隊友会は硫黄島の遺骨収集を高齢化した遺族の方々の手伝いを始めるとか始めたとか聞いたような…

Re: No Title

>>kan様
私も保存会の講演に参加したことがあるのですが、その時も「せいへい」と言われてました。
ただ、陸軍墓地について過去に読んだ本(題名は失念しましたが・・・)に生兵法(なまびょうほう)と同じ用途で未熟と言う意味から「なまへい」と呼称したと説明されていました。
試しにネットで検索してみると、ウィキペディアですが「なまへい」となっていました。
一次資料を当たってみましたが、フリガナがふられていないので私も正直どちらが正しいか不明です。
どうなんでしょう・・・???

>>ひろし様
私も大阪に限らず陸軍墓地は後世に残すべき場所だと思います。
結構、各地の陸軍墓地をめぐりましたが、大阪は考える会の働きかけもあるのか管理されているほうだと思います。
各県とも自治体と言うよりほぼ有志による管理がされているようですが、高齢化や無関心もありなかなか管理が難しいようで、M県やG県は草だらけ、F県のT市側は合葬墓の納骨箱が破損して飛び出していたりと酷い所も見てきました。
隊友会の方が戦友会に代わり慰霊行事等を続けられているようですが、管理となると本来の管理者である自治体任せになっているようです。
こういった施設は国が責任を持って管理していくべきだと思うのですが・・・
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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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