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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第三十九聯隊

姫路城の「内曲輪」内南西に歩兵第三十九聯隊がありました。
兵営では後に歩兵第百十一聯隊、歩兵第百九十九聯隊、歩兵第四百四十五聯隊、歩兵第四百二十九聯隊、歩兵第四百三十聯隊、歩兵第四百三十一聯隊、歩兵第四百三十二聯隊、歩兵第五百二十四聯隊、歩兵第三百四十五聯隊、歩兵第三百五十五聯隊、迫撃第四大隊が編成されます。

また周辺には姫路城南陸軍練兵場、姫路偕行社、歩兵第十聯隊跡、姫路憲兵隊本部・姫路憲兵分隊、第十師團経理部 被服倉庫がありました。
歩三十九・南西隅、土塁外の「陸軍」石標O(姫路遺構)
▲内曲輪の石垣下にある境界石標

【探索日時】
平成23(2011)年9月7日

【更新情報】
境界石標 追加、記事訂正





姫路城周辺の陸軍部隊、官衙配置
姫路市全圖(昭和15)(姫路遺構)
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)

昭和8~9年(姫路遺構)
▲昭和8年頃の空撮

姫路城周辺~遺構(停戦時)1(姫路遺構)
▲『姫路市全圖』を現在の地図に転写したもの
① 歩兵第三十九聯隊
② 姫路城南陸軍練兵場
③ 姫路偕行社
④ 歩兵第十聯隊跡
⑤ 兵庫縣姫路護國神社
⑥ 姫路憲兵隊・姫路憲兵分隊
⑦ 第十師團経理部 被服倉庫
⑧ 第十師團司令部
⑨ 歩兵第八旅團司令部
⑩ 姫路聯隊區司令部
⑪ 第十師團長官舎
⑫ 第十師團兵器部 倉庫
⑬ 第十師團 倉庫
⑭ 姫路陸軍病院
⑮ 第十師團兵器部 西倉庫
⑯ 第十師團兵器部
⑰ 姫路陸軍病院 姫山分院
⑱ 姫路陸軍拘禁所
⑲ 陸軍教化隊
⑳ 第十師團兵器部 火薬庫
※緑文字が当記事の紹介施設
名称については一般的な昭和15(1940)年頃のものです。


遺構について>(アルファベットは遺構など、上掲地図参照)
① 歩兵第三十九聯隊
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十三師團の新編を決定します。

4月中旬、陸軍省は新設第十師團隷下の歩兵第三十九聯隊の衛戍地を姫路に決定、兵営用地は城内曲輪の陸軍省用地に選定、兵営の建設を開始します。
11月16日、歩兵第十聯隊兵営内において歩兵第三十九聯隊本部、第一大隊が編成され、明治30(1897)年5月8日、落成した兵営に移駐します。
歩三十九 軍旗祭当日の営門(姫路遺構)
▲歩兵第三十九聯隊営門
 現在の白鷺中校門から10m程北にありましたが、何も遺されていません

歩十、歩三九兵営空撮②(姫路遺構)
▲南側上空から見た歩兵第三十九聯隊兵営

歩三十九 兵営配置図(昭和15)-(姫路遺構)
▲兵営配置図(昭和15年頃)
  建物は何も遺されていません

明治37(1904)年4月16日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において歩兵第三十九聯隊補充大隊、明治41(1908)年10月21日、及び大正14(1925)年5月31日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年4月18日、滿洲派遣、昭和12(1937)年7月27日、支那事変に際し留守隊が編成、8月18日、留守隊において迫撃第四大隊が編成され中支、昭和13(1938)年6月16日、歩兵第百三十九聯隊が編成され北支に出征、昭和15(1940)年8月7日、歩兵第三十九聯隊の滿洲移駐に伴い、7日、歩兵第百十一聯隊が新編されます。

昭和18(1943)年2月17日、歩兵第百十一聯隊の動員、ジャワ方面出征に際し同聯隊補充隊が編成、昭和19(1944)年7月6日、歩兵第百十一聯隊補充隊により歩兵第百九十九聯隊、昭和20(1945)年2月28日、歩兵第四百四十五聯隊、歩兵第四百二十九聯隊、歩兵第四百三十聯隊、歩兵第四百三十一聯隊、歩兵第四百三十二聯隊が編成されます。

4月1日、歩兵第百十一聯隊補充隊は大阪師管區 歩兵第四補充隊に改編、6月10日、歩兵第五百二十四聯隊、歩兵第三百四十五聯隊、7月5日、歩兵第三百五十五聯隊を編成します。
7月3日、B29爆撃機501機が姫路市に来襲、兵営の半分が焼失したため近隣の亀山本徳寺を間借りし移駐、補充業務を続行するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

8月28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定(大正11年1月28日、勅令第十五號『國有財産法施行令』)により兵営は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます(8月31日、全陸海軍用地は連合軍に接収され、不要用地は接収のまま転用、もしくは随時大蔵省に返還)。

昭和21(1946)年10月、校舎が全焼した城南小学校、12月3日、同じく船場小学校が焼失を逃れた建物に移転、昭和30(1955)年代に県立ろう学校、県営住宅、公園、社会保険事務所等が進出、区画は分割され逐次払い下げられ、現在は県立姫路聴覚特別支援学校、白鷺小、同中学校、観光駐車場等になっています。

歩三九 兵営跡(姫路遺構)
▲姫路城天守から見た兵営跡
 (写真中央の駐車場、白い建物がある辺り一帯)

歩三十九 軍旗分列式(姫路遺構)
▲営庭での軍旗分列式

兵営 南西角付近(県営住宅跡)(姫路遺構)
▲現在の兵営跡(右奥の四角い建物は修理中の姫路城)

「陸軍」境界石標
兵営の南西隅、埋門跡付近(白鷺橋東詰)にあり、歩兵第三十九聯隊の唯一とも言える遺構です。
歩三十九・南西隅、土塁外の「陸軍」石標O (2)(姫路遺構)
▲お分かり頂けるであろうか・・・

歩三十九・南西隅、土塁外の「陸軍」石標O(姫路遺構)
▲右側の「史跡地区」標が邪魔ですが、辛うじて「陸軍」の文字が見えます
 

A 「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」碑
  「迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ」碑
  「愛馬の碑」

3基とも県立姫路聴覚特別支援学校北側の公園にあります。

「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」碑は、昭和51(1976)年11月13日に姫路三九会(歩兵第三十九聯隊戦友会)により建立されました。
「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」(歩兵第三十九聯隊)(姫路遺構)

「迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ」碑は、昭和56(1981)年3月に迫四會(迫撃第四大隊戦友会)により建立されました。
「愛馬の碑」も同じく迫四會により建立(時期不明)されました。
愛馬の碑(迫撃第四大隊) (2)(姫路遺構)
▲迫撃第四大隊は我が陸軍初の化学戦部隊で、支那事變で活躍しました。

市立白鷺中学校の校門南側に石柱があります。
古い物ですが、聯隊兵営に関係する物かは不明です。
石柱(姫路遺構)
▲石柱
 

② 姫路城南陸軍練兵場
遺構は何も遺されていないようです。

明治4(1871)年8月、全国の城郭、陣屋は兵部省(明治5年2月27日、廃止され陸海軍省が新設)に移管され、明治6(1873)年1月14日、軍用として転用する物を選別、姫路城は存城に指定された事に伴い、明治6(1873)年2月、城内(三之丸・中曲輪内)に居住する士族は「拝借地」として当分の間、居住を認可されますが、士族側の要望により明治15(1883)年までに随時替地代、移転料を受け取り退去します。
明治7(1874)年7月、大阪鎭臺 歩兵第十聯隊が大坂城から移駐することが決定、明治8(1875)年2月、未だ三ノ丸居住の士族を退去させ中曲輪南側に20,000坪の姫路櫻町練兵場を造成します。

明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定、歩兵第三十九聯隊兵営が城内曲輪に設置される事が決定、東側にずれるかたちで姫路城南陸軍練兵場は開設されます。
歩三十九 観兵式(昭和15年1月8日)(姫路遺構)
▲昭和15年1月8日、姫路城南陸軍練兵場で挙行された観兵式
 右端にの鳥居は兵庫縣姫路護國神社

停戦後、昭和20(1945)年8月28日、大蔵省に移管され姫路市、住宅営団により戦災者・引揚者住宅、商店、闇市が建設、昭和42(1967)年、文化庁、大蔵省、兵庫県、姫路市による四者協議により特別史跡姫路城跡周辺地区整備促進連絡協議会が結成され、昭和44(1969)年6月から現在まで整備事業が続けられ、現在、北側が土産屋、公園に、南側が民家、NTTなどになっています。


③ 姫路偕行社
遺構は何も遺されていないようです。

明治29(1896)年3月14日、『陸軍平時編制』が改定され、第十師團司令部の姫路設置が決定した事により、明治30(1897)年12月、陸軍省用地(旧士族屋敷跡)の総社門内に建設されます。
昭和7(1932)年2月、兵庫県、及び姫路市により大正末から徐々に埋め立てられていた中堀が完全に埋め立てられ、国道2号線が開通、この埋め立て事業により姫路偕行社は南側の敷地を大幅に削られます。
昭和20(1945)年7月3日、米軍による姫路大空襲により焼失してしまいます。

停戦後、昭和20(1945)年8月28日、大蔵省に移管されますが、その後の経緯は不明で現在はNTT関連の施設になっています。

付近の路地の北側に石造の門柱があるのですが、詳細は不明です。
血の池辺りの門柱(関係無い?)(姫路遺構)
▲謎の門柱


④ 歩兵第十聯隊跡
遺構は何も遺されていないようです。

明治7(1874)年7月、大阪鎭臺 歩兵第十聯隊が大坂城から移駐することが決定、明治8(1875)年2月、三ノ丸居住の士族を退去させ2階建兵舎5棟・病舎・弾薬庫を起工、10月11日、歩兵第十聯隊第一中隊が大阪から練兵場の仮兵営に移駐、11月8日、兵営竣工により正式に移駐します。
歩十、歩三九兵営空撮(姫路遺構)
▲北側上空からの歩兵第十聯隊兵営(時期不明)

歩十 兵営跡(三の丸)(姫路遺構)
▲現在の兵営跡(三之丸広場)

大正14(1925)年5月1日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)に伴い、3日、聯隊は岡山に転営、兵営跡は第十師團の倉庫等に転用され、昭和3(1928)年9月17日、聯隊跡地45,182坪のうち西側34,182が第十師團経理部より大阪税務監督局に移管されます。

停戦後、昭和20(1945)年8月28日、大蔵省に移管、姫路大空襲により校舎が焼失した西側隣接地(旧聯隊兵営)の鷺城中学校(昭和22年5月、新校舎移転)、10月1日、城東小学校(昭和23年1月、〃)、2日、城巽小学校(昭和24年1月、〃)、昭和21(1946)年9月1日、城南小学校(昭和21年10月、〃)が焼失逃れた建物を仮校舎として使用後、昭和26(1951)年、市立動物園が開園、現在は三之丸広場、千姫ぼたん園などに整備されています。

B 「歩兵第十聯隊跡」碑
 「誠忠」碑

姫路城三之丸広場北東隅にあります。
「歩兵第十聯隊跡」は昭和42(1967)年3月、姫路歩十會により建立されました。
歩兵第十聯隊跡碑(姫路遺構)

「誠忠」
姫路における歩兵第十聯隊の唯一の遺構と思われます。
誠忠(姫路遺構)

この碑の背後にも古い碑が建てられていますが、道路の開設を記念する碑であり、陸軍とは関係ありません。
石碑(姫路遺構)

中村大佐顕彰碑
「菱の門」を入ってすぐの所にあります。
姫路城保存に尽力した陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐を顕彰するため、昭和19(1944)年に建立されました。
中村大佐顕彰碑(姫路遺構)


⑥ 姫路憲兵隊本部・姫路憲兵分隊
遺構は何も遺されていないようです。

明治29(1896)年3月14日、『陸軍平時編制』が改定され、第十師團司令部の姫路設置が決定した事により、9月27日、『憲兵隊編制表』が改正され第十憲兵隊、及び同憲兵隊姫路憲兵分隊が姫路市役所西側に開庁、明治40(1907)年10月7日、第十憲兵隊は姫路憲兵隊に改称します。
昭和15(1940)年9月6日、姫路憲兵隊・同憲兵分隊は本町(⑥の位置:陸軍省用地(旧士族屋敷跡))に移転して来ます。

昭和20(1945)年3月30日、決號作戰(本土決戦)に向け憲兵隊は増強、姫路憲兵隊本部は中部憲兵司令部 神戸地區憲兵隊 姫路分隊に改編され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

停戦後、昭和20(1945)年8月28日、大蔵省に移管され周辺の倉庫とともに官公庁に転用(労働会館?)、「四者協議」により昭和40年代から官公庁は随時移転し憲兵隊庁舎は公園整備に伴い破壊され、現在はシロトピア記念公園の一部になっています。


⑦ 第十師團経理部 被服倉庫
明治29(1896)年3月14日、『陸軍平時編制』が改定され、第十師團司令部の姫路設置が決定した事により陸軍省用地(旧士族屋敷跡)に「馬場」が設置され、その後(時期不明)、第十師團被服庫が建設されます。
昭和20(1945)年7月3日、米軍による姫路大空襲により焼失してしまいます。

停戦後、昭和20(1945)年8月28日、大蔵省に移管されますが、その後の経緯は不明で、現在は変電所、公民館になっています。

C コンクリート柱
被服庫跡の北東端、内京橋口門付近の中堀土塁に点々と立っていますが、当時の物か不明です。
被服庫北東隅の石柵(姫路遺構)


衛戍・編成部隊
歩兵第十聯隊(鐡五四四八、中國第四十八部隊)
『歩兵第五十四聯隊 ・ 歩兵第十聯隊』参照


歩兵第三十九聯隊(鐡五四四六、滿洲第六四六部隊)
明治29(1896)年11月16日、歩兵第十聯隊兵営内において聯隊本部、第一大隊が編成され、明治30年5月8日、三之丸内曲輪南側の新築兵舎に移転、12月1日、第二大隊が編成され、明治31(1898)年3月24日、宮中において軍旗を拝受、12月1日、第三大隊が編成され編成完結します。
歩三十九 軍旗(姫路遺構)
▲歩兵第三十九聯隊 軍旗

明治31(1898)年10月1日、新設第十師團長・伏見宮貞愛親王中将が親補、11月13日、大阪において行われた特別大演習で大阪府泉南郡尾崎村(現、阪南市)に集結中の師團に着任、聯隊は隷下の第八旅團に編入されます。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、聯隊に動員下令、27日、動員完結、5月7日、第十師團とともに姫路を出発、8日、神戸湊川神社に参拝、神戸港を出発し、南尖澳に上陸します。
6月7日、第十師團の岫巌の戦いに参加、6月23日、滿洲軍(大山巌大将)が編成され、第十師團は第四軍(野津道貫大将)隷下となり、6月25日、分水嶺の戦い、7月30日、析木城の戦い、8月25日、遼陽會戰に参加、10月7日、沙河會戰では、10月11日、三塊石山の夜襲戦を敢行し聯隊長・安村範雄大佐が散華するも我が軍の勝利に貢献した事から、聯隊は野津道貫大将より感状を授与されます。
三塊石山の夜襲戦の突撃の際、軍旗を捧持していた旗手・品川少尉、次いで山脇少尉が敵弾に倒れ、軍旗が両名の鮮血に染まった事から歩兵第三十九聯隊の軍旗は「血染めの軍旗」と称されます。
歩三十九 三塊石山の夜襲(将校集会所の絵画)(姫路遺構)
▲三塊石山の夜襲(将校集会所にあった絵画)

明治38(1905)年3月1日、第四軍右翼隊として奉天會戰に参加、万宝山の敵銃砲陣地に苦戦しながらも胡老山を攻略、第一線陣地を堅守します。
9月1日、講和条約が締結され、明治39(1906)年1月19日、趙家台を出発、2月6日、姫路に凱旋します。

明治41(1908)年10月、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月21日、聯隊は姫路を出発、31日、旅順に到着し、關東都督(大島義昌大将)の指揮下に入り旅順の警備に就き、明治42(1909)年10月6日、姫路に帰還します。
明治44年4月~大正6年9月にかけ、中隊単位(第一:朝鮮、第五:北京、第九:北支、第八:朝鮮、第三:青島)で守備隊を派遣します。

大正3(1914)年8月21日、大正三四年戰役(第一次世界大戦)が勃発、8月30日、第二大隊が第十八師團(神尾光臣中将、久留米)の指揮下に編入されドイツ軍の拠点である山東要塞攻略戦に参加、5月22日、姫路に凱旋します。
大正7(1918)年8月、シベリヤ出兵に際し聯隊から輜重輸卒1隊が派遣されます。
8月13日、暴徒化した米騒動鎮圧のため兵庫県知事の要請を受け神戸市、明石市に出動します。

大正14(1925)年5月31日、第十師團とともに滿洲駐箚のため姫路を出発、6月8日、遼陽、奉天の警備にあたります。

昭和元(1926)年7月1日、蒋介石軍が張作霖軍の討伐を目指し北伐を開始、昭和2(1927)7月、山東の青島・済南方面の我が居留民保護のため第十師團は野砲兵第二十聯隊(宇都宮)とともに出動します(南京では支那共産党の扇動により日本大使館が支那軍に襲撃され館員が虐殺されます:南京事件)。
蒋介石軍の敗走により争乱は沈静化したため、9月11日、姫路に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、張学良による反日侮日政策、及び南滿洲鉄道㈱の権益収奪政策が実施されるなか柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、第三大隊(小林操少佐)が臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)に編入され奉天に派遣、泰山線・哈爾浜の警備、黒山・新民方面の討伐にあたります。
昭和7(1932)年2月17日、第十師團は混成第三十三旅團(中村馨少将)を編成、聯隊から混成大隊が編入され熱河作戰に参加します。

4月、第十師團の滿洲派遣が決定し、聯隊主力は4月18日、哈爾浜に到着、第三大隊は聯隊に復帰します。
4月21日、聯隊は村井支隊の主力として東支鉄道東部線攻略、5月12日、第十師團の松花江作戰、12月31日、吉林省東部国境作戰、昭和8(1933)年4月25日、混成第三十三旅團に編入されていた混成大隊が復帰、11月13日、秋季討伐作戰、昭和9年2月1日、冬季討伐作戰などに参加し、5月7日、姫路に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、11日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(香月清司中将)は支那軍に攻撃を開始、北京・天津を平定します。
7月、蒋介石軍(以下、蒋軍)の北上に伴い、7月27日、第十師團、聯隊に動員下令、8月9日、第十師團とともに姫路を出発、15日、大沽に上陸後、天津に集結します。
8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
31日、他の臨時動員師團とともに北支那方面軍(寺内寿一大将)戦闘序列に編入、第十師團は第二軍(西尾寿造中将)戦闘序列となります。
9月2日、聯隊は第十師團とともに津浦線に沿って南下、9月7日、馬廠付近の戦闘に参加、24日、滄県を、10月、徳州を攻略、12月23日、黄河の敵前渡河に成功、蒋軍を敗走させ、26日、済南を攻略します。

昭和13(1938)年1月2日、兗州に進撃し、11日、済寧城を攻略、2月11日、済寧、兗州、汶上で蒋軍の来襲を撃退、逆襲に転じ李家屯、傳家荘、新桃河を攻略、4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、20日、蘭稜鎮、5月12日、胡山を攻略、5月15日、集結した蒋軍50個師を殲滅すべく徐州會戰が生起すると、蒋軍の退路を断つべく徐州西南に進出しますが、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、さらに6月20日、我軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

第二軍は中支那派遣軍戦闘序列となり、8月、第二軍の漢口作戰の六安、固始、光州の戦闘に参加、10月26日、第六師團により漢口は攻略され、第十師團は10月26日、大別山を突破、同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、28日、応城を攻略します。
11月21日、第十師團は南京に移駐、津浦線を北上し彰徳に移駐、昭和14(1939)年1月17日から7月31日まで北支粛正作戰(第一期、第二期)に参加し、11月2日、姫路に帰還します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し聯隊に編成下令、7日、編成完結し、10日、姫路を出発し、16日、羅津に上陸、17日、佳木斯(チャムス)に屯営し、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、8月1~15日、編成完結、10日から防空、渡河、湿地通過、対戦車攻撃演習を実施します。
対ソ連開戦に際して第十師團は他の13個師團とともに、東正面(沿海州)に進撃しウオロシーロフ北方を制圧する計画でしたが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、対ソ開戦は中止され『帝國陸軍作戰要綱』に基づき三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始、陣地構築中の7月下旬、第十師團は臺灣軍(安藤利吉大将)への隷属転移が決定します。
7月26日、聯隊に編成下令、陣地構築を中止し佳木斯に帰還、8月5・6日、佳木斯を出発、8月23・24日、台湾基隆に入港し台北に屯営し、台湾北部の淡水-桃園間の防御陣地構築を実施します。

11月20日、第十師團は第十四方面軍(山下奉文大将)に隷属転移し急遽ルソン島への転進が決定、聯隊は陣地構築を中止し台北に帰還、第一大隊(宮下一男大尉)を残置し野砲兵第十聯隊第六中隊(那須元之中尉)・工兵第十聯隊第二中隊(太田稔中尉)を配属され、12月3日、第十師團の第一梯団として高雄港に集結、5日、有馬山丸、鴨緑丸に分乗し、11日、マニラ港に入港します。

聯隊はマニラ到着直後、第十四方面軍により第二十三師團歩兵第七十一聯隊第三大隊を配属され、レイテ島に逆上陸の内命を受けますが、15日、レイテ島上陸は中止され、代わりに聯隊に歩兵2個中隊が編入され永吉支隊(歩兵第三十九聯隊長・永吉實展大佐、約3,800名)としてマニラ防衛司令官(小林隆少将)の指揮下に入り、方面軍主力の西方援護のため、16日、バターン半島リマイに上陸、バランガ(19日、ディナルピアンに前進)に本部を設置、支隊を本部・北(第三大隊長・小川博則少佐)・中守備隊(第二大隊長・山本庄蔵少佐)として配置し陣地構築、匪賊討伐にあたります。

27日、支隊は戰車第二師團(岩仲義治中将)の指揮下に入り戰車第十聯隊第四中隊の荒木小隊が配属されます。
歩三十九 ルソン島作戰計画要図(昭和19年12月)-(姫路遺構)
▲昭和19年12月頃のルソン島の我が軍配置略図

昭和20(1945)年1月9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸を開始、さらに29日、米第11軍団(第38師団基幹、約40,000名)がバターン半島北方のサンアントニオに、30日、スピックに上陸し南下、オロンガポに侵攻して来します。

31日、北守備隊は戦車を伴う米軍に対し火砲急襲、対戦車肉迫攻撃、挺身切込を実施し先遣隊に大損害を与えますが、2日、米軍は北守備隊の主陣地全面に渡り本格的な攻撃を開始します。

北守備隊は神州山・不滅山の縦深陣地に拠り米軍と激戦を展開し侵攻を拒止しますが、2月12日、遂に陣地を突破されてしまいます。
永吉大佐はナチブ山において遊撃戦に移行すべく、大損害を受けた北守備隊、及び中守備隊に転進を下令、3月17日、支隊本部と北守備隊、中守備隊が連絡、20日、支隊はナチブ山麓に分散布陣、自戦自活体制に入ります。
3月31日、山下大将より永吉支隊の勇戦敢闘に対し感状が授与されます。

4月中旬、第二中隊はブルドーザーで密林を伐開しつつ侵攻して来た米軍の反復攻撃を撃退、また夜間に挺身切込を実施し敵の補給線を寸断し30日、米軍を敗走させます。
5月8日、米軍は再び航空、火砲支援のもと戦車を伴い侵攻してきますが、第二中隊が逆襲し撤退させます。
爾後、米軍は頑強な永吉支隊に対し攻撃を控え匪賊の扇動を行うとともに、包囲監視体制を採ります。
永吉支隊は飢餓、悪疫に耐えながら、米軍部隊を固着させるなか、8月17日、停戦を迎えます。
歩三十九 永吉支隊邀撃戦闘全般図-(姫路遺構)
▲永吉支隊の死闘

9月4日、永吉支隊の生存者280名は軍命令によりナチブ山を下山、武装解除ののち捕虜収容所に収容され、昭和21(1946)年6月、内地に帰還、復員完結します。

台湾残置の第一大隊は昭和19(1944)年11月18日、乾瑞丸に乗船し高雄港を出港、他の第十師團隷下部隊とともにフィリピンに向かいます。
23日、上陸地点の北サンフェルナンド目前で敵潜水艦の雷撃を受け乾瑞丸は轟沈、乗船の歩三十九第一大隊、歩十第二大隊、歩六十三第三大隊、輜重十の一部は兵員の大半、兵器、馬匹、資材の大部分が海没、第一大隊552名中、大隊長・宮下一男大尉以下235名が散華してしまいます。

第一大隊は第二中隊長・乾善明中尉が大隊長代理となり、昭和20(1945)年1月3日、サンホセに到着し第四中隊が新編されます。

大隊は第一中隊(吉田勇中尉、2月4日、4名を残し玉砕)をサンホセ守備隊とし残置、第十師團右地區隊とし捜索第十聯隊(鈴木重忠少佐)の指揮下に編入され天王山周辺に陣地を築城しサラクサク峠第二峠の守備に就きます。

1月9日、米軍はリンガエン湾に上陸を開始、逐次マニラに向けて侵攻してきます。
2月中旬、米32師団がサラクサク峠に侵入、捜索第十聯隊が迎撃しますが、2月下旬、兵力が約80名に減少し、サラクサク峠登り口のサンタマリアに転進、4日、大隊は追撃してきた米軍に対し逆襲を敢行し撃退します。
しかし、米軍は激烈な火砲の支援のもと再度侵攻、大隊は肉攻、夜間切込を実施するも、9日、藤原山、成田山の両陣地を失陥、10日、天王山の大隊本部が包囲され重傷を負った乾中尉は自決、残存の大隊主力は米軍に夜襲を決行し玉砕してしまいます。
大隊生存者は以後、鈴木少佐の指揮により、6月10日、戰車第二師團司令部に編入され、サリナス、アンチポロ方面を転戦、9月10日、停戦を迎えます。

昭和20(1945)年8月24日、陸軍大臣・阿南惟幾大将より全軍に「8月25日から31日までに軍旗を奉焼」するよう示達されますが、敵重囲のなか敢闘中の永吉支隊には届きませんでした。
そのため聯隊長・永吉大佐は軍旗を分割し菊の御紋、旗を旗手・村上一雄少尉が、旗竿は杖に偽装し永吉大佐が捧持してナチブ山を下山します。
しかし、軍旗の存在が米軍に感知されたため菊の御紋は3分割し柏木武典、小川博則、山本庄蔵各少佐が収容所移送中に川に投擲して処分、房部分・旗竿の一部は永吉大佐が収容所で奉焼、旗部分は柏木、小川、山本各少佐が分割して帰国、姫路市の見星寺、及び防衛庁戦史室に安置された後、昭和41(1966)年、陸上自衛隊姫路駐屯地に安置、平成10年10月22日、靖國神社に奉納されます。
歩三九 軍旗④(姫路遺構)
▲靖國神社に奉納された歩兵第三十九聯隊の軍旗の一部


歩兵第百三十九聯隊(鷺三九〇八)
昭和13(1938)年6月16日、歩兵第三十九聯隊留守隊に歩兵第百三十九聯隊(永田文雄大佐)の動員下令、23日、宮中において軍旗を拝受、25日、動員完結、第百十師團司令部(桑木崇明中将)隷下の歩兵第百八旅團(南雲親一朗少将)に編入されます。

25日、第百十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入され、7月10日、聯隊は師團とともに姫路を出発、16日、塘沽に上陸し、20日、北京郊外の清花苑に屯営し河北省北部の警備、共産匪賊討伐にあたります。
7月20日、第三大隊が第百十師團の冀東作戰、9月19日、北部山西作戰に参加、昭和14(1939)年1月19日、聯隊は房山県の天開・狐山口付近の戦闘で大戦果を挙げ、5月、固安作戰に参加、6月14日、第二大隊は第百十師團直轄となり保定周辺の掃討戦に参加、7月2日、聯隊は新城に移駐します。

8月25日、第十師團の姫路帰還に伴い、歩兵第三十九聯隊の警備地区を継承のため大名に移駐します。
第百十師團は第十二軍戦闘序列に編入され、黄河河口付近の警備にあたります。

昭和15(1940)年10月、聯隊は第十二軍の秋季魯南作戰、12月16日、第百十師團の冬季冀西作戰などの共産軍討伐戦に参加します。

昭和16(1941)年1月、河北省中部の石家荘に移駐し引き続き共産軍討伐、警備・治安維持にあたります。

昭和19(1944)年4月、黄河北岸の輝県、修武付近に集結、20日、第百十師團とともに第十二軍の京漢作戰に参加、聯隊は敗走する蒋軍を追撃し、22日、密県の敵堅陣を突破し、密県北方高地を攻略します。
第十二軍は南下し許昌を攻略、次いで北上し洛陽に進撃、第百十師團は蒋軍を拘束すべく、5月1日、密県を出撃、聯隊は左迂回隊として西白坪で蒋軍を撃破、5日、大金店南側において蒋軍の退路を遮断、蒋軍第九軍主力を撃破、19日、敗走する蒋軍を追撃しつつ西進、26日まで長水嶺北方山地の残敵掃討にあたります。

19日、第一大隊は第六十三師團の指揮下に編入され、24日、第十二軍の洛陽城の攻撃に参加、25日、洛陽を攻略し、蒋軍第一戦区軍に大打撃を与えます。
6月1日、聯隊は南部の彭坡鎮に集結し、第百十師團左地区隊として民心の安定、治安維持にあたります。

昭和20(1945)年3月、我が補給線を脅かす米支連合空軍の拠点である老河口を攻略するため第十二軍の老河口作戰に参加すべく、18日、臨汝に集結、蒋軍を撃破しつつ南下、30日、西峡口城を攻略します。

4月5日、第十二軍は蒋軍第一戦区軍(14個師)に攻勢を阻まれ、持久戦に転じたため聯隊は魁門関付近の要地を攻略し蒋軍と激戦を展開します。
4月下旬、第百十師團は攻勢転移、聯隊は白河川谷を北上、30日、柳樹溝付近で西進し山岳地帯で蒋軍よ激戦を展開、数に勝る蒋軍の包囲を突破しますが聯隊は大損害を受けてしまいます。
第百十師團は再び持久戦に転じ、7月、第百十五師團と守備を交替し、河南省南昌に移駐し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

聯隊は臨汝鎮に移駐し、27日、軍旗を奉焼、10月24日、洛陽西宮に移駐、昭和21(1945)年3月20日、上海に集結、30日から4月2日にかけて博多港、仙崎港に上陸し復員完結します。


歩兵第百十一聯隊(兵一〇一一二、中部第四十六部隊)
昭和15(1940)年4月16日、第十師團に軍備改変に関する指示が下達(3単位師團への改変、及び満洲移駐)され、7月10日、『軍備改編要領 其二』により、8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が発令されます。

8月1日、歩兵第三十九聯隊に歩兵第百十一聯隊の編成下令、7日、歩兵第三十九聯隊、歩兵第百十一聯隊は編成完結(木庭知時大佐)し、歩兵第百十一聯隊は第五十四師團司令部(秋山義允中将、姫路)隷下の第五十四歩兵團(林義秀少将、姫路)に編入され、9月27日、宮中において軍旗を拝受します。
第五十四師團は中部軍司令部隷下となり第十師團に替わり、歩兵第百十一聯隊は歩兵第三十九聯隊に替わり姫路に衛戍します。

10月10~20日、蒜山原陸軍演習場において師團演習に参加、昭和16(1941)年5月4~6日、9月28日~10月5日、青野原陸軍演習場において諸兵連合演習に参加、11月1~11日、津山市及び日本原陸軍演習場における師團演習に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戦争が開戦します。

昭和18(1943)年2月17日、聯隊に動員下令、4月3日、動員完結(木庭知時大佐以下2,905名)し、第五十四師團(片村四八中将)は南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列の第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)戦闘序列に編入され、10日、姫路を出発、宇品港、門司港からスラバヤに向かいます。
4月10日、聯隊はスラバヤ市に集結、東部ジャワの警備にあたります。

10月上旬、第五十四師團は緬甸方面軍戦闘序列編入のためビルマ・ブローム付近に集結、第五十五師團(花谷正中将、善通寺)とともにビルマ西海岸に移駐、ルイワ-イラワジ河口間の防衛にあたります。

昭和19(1944)年1月15日、大陸命第九百五十五號により第五十四師團は第二、第五十五師團とともに緬甸方面軍(河邉正三 中将)隷下に新設された第二十八軍(櫻井省三中将)戦闘序列に編入されます。

1月7日、インド国境付近の英印軍撃滅を企図し第十五軍(牟田口廉也中将)によるウ號作戰(インパール作戰)実施が決定、2月3日、第五十五師團はウ號作戰の支作戦でウ號作戰を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を継承、聯隊はアキャブに移駐します。

5日、第五十五師團はシンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は地帯、23日、遂にプチドン-モンドウに転進します。
第二十八軍司令官・櫻井中将は歩兵第百十一聯隊を基幹として木庭支隊(聯隊長・木庭知時大佐)を編成、第五十五師團の後方連絡線の確保を下令します。
支隊はアキャブ北方のミヨホンに集結、カラダン渓谷に進撃しラマドウ、カラダンの英印軍を激戦ののち撃破、敗走する英印軍を追撃し、4月11日、ミザワ付近で英印軍を撃破、カデット、ダルトメを経て、5月6日、スワイングを攻略、第五十五師團の後方連絡線を確保、軍司令官・櫻井中将から感状、第五十五師團長・花谷中将から賞詞を授与されます。

7月中旬、優勢な英印軍の逆襲を受けウ號作戰は中止、第十五軍は英印軍の追撃を受けながら転進します。
ビルマ北部の戦局急迫に伴い、英印軍は第二十八軍の作戦地域であるベンガル湾方面にも大挙侵攻してきます。

聯隊は第五十四師團で編成された松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)の基幹としてミヨホンに集結、第五十五師團で編成された櫻支隊(第五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将)とともにカラダン渓谷に出撃し第五十五師團のバセイ地区転進援護にあたります。
11月下旬、松支隊はテンマ付近で英印軍を迎撃、さらにハタボウ付近に進撃し英印軍のピー河渡河を拒止、12月中旬、再びテンマ付近で英印軍と交戦し、ラン河渓谷方面に敗走させます。
しかし、増援軍を加えた英印軍はラン河渓谷からテンヨウに航空・火砲支援のもと侵攻、支隊は挺身切込、夜襲などで応戦しますが、昭和20(1945)年1月21日、遂にミヨホンに転進します。

支隊はミヨホンで英アフリカ2個師団(81、82師団)と交戦しますが、25日、ムロ河西岸のカンゴウに転進、ラムレ島に上陸した英印第26師団に備え、聯隊は松支隊を外れ第五十四師團(宮崎繁三郎中将)の中地区隊としてタマンドの防衛にあたります。
2月16日、戦車を伴う英印軍がタマンドに侵攻、昼夜激戦を展開します。
3月下旬、宮崎中将は一挙に英印軍を撃破すべくアン高地に主力を集結、25日、聯隊はアン東方10kmに位置し、4月8日、師團左翼隊として出撃し各地で英印軍を撃破、敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を遮断した英印軍と激戦を展開します。
13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、聯隊はアンに集結します。

第五十四師團はイラワジ河畔の英阿81、82師団の南下を阻止すべくアラカン山脈東側のアランミヨに転進を開始、4月16日、第五十四師團の転進援護のため聯隊はアンを出発、アラカン山脈第二軍道を越えパダンに到着、28日、ミング方面の英印軍に備えピヨボエ付近の陣地を占領します。

4月15日、邁作戰(第二十八軍の転進援護)が発動されます。
5月5日、聯隊はイラワジ河渡河を妨害する英印軍と激戦を展開しつつ第五十四師團の渡河点に前進、20日、カマ付近で師團に復帰し、師團主力は英印軍の攻撃下、渡河を開始、25日、渡河に成功、26日、聯隊はザロンに集結します。
英印軍は第五十四師團を包囲にかかりますが、その間隙を突破し、5月29日、プローム東方に集結、6月末、英印軍の追撃を受けながらマグエ-パウガン西高地-六〇九高地を占領、聯隊は師團左地区隊となり守備にあたりますが、師團内で悪疫が発生し多数の将兵を失ってしまいます。

6月14日、第五十四師團は英印軍に包囲される危険が生じたため、隷下部隊を3縦隊に部署しペグー山系に機動を開始、豪雨の中、泥濘による悪路に苦闘し過労、糧食欠乏により多数の将兵を失いながら、7月9日、ペグー山系東端に到着します。

7月20日、トングー、ビユーからそれぞれシッタン平地を突破しシャン山系に到達、聯隊は左突進隊として英印軍の追撃を受けながらマンダレー街道を突破、20日、ジコンに到達しますが、聯隊長・矢木孝治大佐が敵の狙撃により散華、23日、ウェイジーに到達し陣地を占領し英印軍と激戦を展開し第五十四師團主力のシッタン河渡河の援護にあたります。

24日、聯隊長代理・山本少佐が散華、聯隊本部・第三大隊と第一・第二大隊の通信が途絶し、27日、聯隊はシッタン河西岸で英印軍に包囲され聯隊本部・第三大隊の将校の大半が散華してしまいますが、約40名の生存者は重囲を突破し軍旗とともにシッタン河を強行渡河、野砲兵第五十四聯隊第二大隊に収容されます。

第五十四師團は英印軍の追撃を受けながらペグー山系を踏破、続くシッタン河渡河により多数の将兵を失うなか、8月9日頃、イワガレ付近に集結します。
聯隊は副官・葦原少佐が指揮を継承、16日、野砲兵第五十四聯隊第二大隊の護衛下にあった軍旗を聯隊に迎え、21日、イワガレを出発、シッタン河東岸を南下中の、23日、停戦命令を受領、同地で軍旗を奉焼します。
聯隊は聯隊長・矢木大佐以下9割の将兵を失い、272名が停戦を迎えました。

停戦後、生存者は英軍の労役に使役されたのち、昭和22(1947)年5月1日、ラングーンに集結、17日、攝津丸に乗船し、29日、宇品港に入港、30日、復員完結します。


歩兵第百九十九聯隊(突一〇一三三)
昭和19(1944)年7月6日、歩兵第百十一聯隊補充隊に歩兵第百九十九聯隊の臨時編成下令、10日、編成完結(栗栖晉大佐)、20日、宮中において軍旗を拝受します。

7月6日、軍令陸甲七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により留守第五十四師團司令部で臨時動員された第八十四師團(小倉達次中将、姫路)隷下に編入されます。

11月24日、師團は大本營直轄となり台湾への移駐を予定しますが、昭和20(1945)年1月22日、沖縄からフィリピン方面への戦力増強のため台湾へ転進した第九師團(原守中将、金沢)の充当として沖縄への派遣に変更されます。
23日、本土防衛戦力の低下、制海権・制空権喪失による海上輸送の困難から沖縄派遣は中止され、師團は第十五方面軍(河邉正三中将、大阪)隷下に編入されます。

4月8日、第八十四師團は新設された第五十三軍(赤柴八重蔵中将)戦闘序列に編入され、聯隊は師團とともに作戦地である神奈川県小田原市に移駐、酒匂川から東側一帯に歩兵第二百聯隊と並び配置され、敵上陸部隊迎撃のため陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

19日、マニラで開催された我が全権代表団(河邉虎四郎中将)とD.マッカーサー大将との会談において、26日以降の連合軍の本土進駐が伝達され、「25日1200」(27日1800までとも)までに第一總軍(杉山元大将)に対し関東から湘南にかけた一帯の部隊の退去が下令されます。
師團担当地区は該当地域にかかる事から、臨時憲兵として抽出された第一大隊を残置、師團司令部とともに姫路に移駐します。

30日、軍旗は歩二百、二百一の軍旗とともに聯隊長、旗手、旗護兵に護衛され姫路の師團司令部に集結、31日0630、各聯隊長、旗手により姫路市北方郊外の丘陵に遷移され、師團長・佐久間為人中将以下師團幕僚侍立のもと奉焼されます。

8月30日、姫路において復員完結します。

なお、同聯隊は三島由紀夫こと平岡公威先生が徴兵検査に合格した暁に入営する予定だったことで知られます。


歩兵第四百四十五聯隊(護路二二七〇三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により、2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號變更並第三二八次復員要領』に基づき歩兵第百十一聯隊補充隊に臨時動員下令、歩兵第四百四十五聯隊(堀龍一大佐)に改編され、6月7日、宮中において軍旗を拝受、新たに歩兵第百十一聯隊補充隊が編成されます。

2月28日、軍令陸甲第三十四號に基づき、留守第五十四師團司令部を臨時動員した沿岸配備師團である第百五十四師團(毛利末廣中将/第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列)隷下に編入されます。

4月、聯隊は姫路を出発、25日、師團の作戦地である宮崎県児湯郡に進出、陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦をを迎え、9月20日、復員完結します。


歩兵第四百二十九聯隊(護朝二二五〇三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、歩兵第百十一聯隊補充隊により編成(曾我部元一大佐)され、5月9日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』により、留守第二十師團を改編した沿岸配備師團である第百五十師團(三島義一郎中将)隷下に編入されます。

第百五十師團は2月6日に新設された第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列となり朝鮮半島南東部の全羅南道沿岸の防衛を担当します。

聯隊は編成完結後、第百五十師團の作戦地である朝鮮全羅南道木浦に移動し陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第四百三十聯隊(護朝二二五〇四)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、歩兵第百十一聯隊補充隊により編成(粟屋発大佐)され、5月9日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』により、留守第二十師團を改編した沿岸配備師團である第百五十師團(三島義一郎中将)隷下に編入されます。

第百五十師團は2月6日に新設された第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列となり朝鮮半島南東部の全羅南道沿岸の防衛を担当します。

聯隊は編成完結後、第百五十師團の作戦地である朝鮮全羅南道木浦に移動し陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第四百三十一聯隊(護朝二二五〇五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、歩兵第百十一聯隊補充隊により編成(三村親厚大佐)され、5月9日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』により、留守第二十師團を改編した沿岸配備師團である第百五十師團(三島義一郎中将)隷下に編入されます。

第百五十師團は2月6日に新設された第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列となり朝鮮半島南東部の全羅南道沿岸の防衛を担当します。

聯隊は編成完結後、第百五十師團の作戦地である朝鮮全羅南道木浦に移動し陣地築城にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第四百三十二聯隊(護朝二二五〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、歩兵第百十一聯隊補充隊により編成(山崎孝三大佐)され、6月7日、宮中において軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』により、留守第二十師團を改編した沿岸配備師團である第百五十師團(三島義一郎中将)隷下に編入されます。

第百五十師團は2月6日に新設された第十七方面軍(上月良夫中将)戦闘序列となり朝鮮半島南東部の全羅南道沿岸の防衛を担当します。

聯隊は編成完結後、第百五十師團の作戦地である朝鮮全羅南道木浦に移動し作戰準備にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第五百二十四聯隊(比叡一〇二五五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により6月10日、大阪師管區 第四補充隊(旧歩兵第百十一聯隊補充隊)により編成(片岡太郎中佐)され、6月11日、宮中において軍旗を拝受します。

4月30日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』により、京都師管區司令部により臨時動員された機動打撃師團である第二百十六師團(中野良次中将)隷下に編入されます。

第二百十六師團は2月6日に新設された第十六方面軍(横山勇中将)戦闘序列となり熊本県宇土町に配置、九州南東部の防衛を担当します。

聯隊は編成完結後、第二百十六師團の作戦地である熊本県宇土町に集結中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月23日、復員完結します。


歩兵第三百四十五聯隊(金剛二八二六〇)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により6月20日、大阪師管區 第四補充隊(旧歩兵第百十一聯隊補充隊)により編成(鎌賀晴一中佐)され、7月12日、宮中において軍旗を拝受します。

5月23日、動員下令、6月19日、第十五方面軍(内山英太郎中将)戦闘序列に編入された第二百二十五師團(落合鼎五中将)隷下に編入されます。

聯隊は師團の作戦地である兵庫県龍野に集結中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、9月8日、復員完結します。


歩兵第三百五十五聯隊(那智二八二九九)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第三次兵備」により7月5日、大阪師管區 第四補充隊(旧歩兵第百十一聯隊補充隊)から聯隊長・鷹村勇大佐が着任、編成中に停戦を迎え、9月8日、復員完結します。


迫撃第四大隊(呂七三三三)
昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発、8月18日、歩兵第三十九聯隊留守隊において迫撃第四大隊の編成下令、9月11日、編成完結します。

迫撃大隊は獨立迫撃砲大隊や師團建制の迫撃聯隊が砲兵科の迫撃砲兵から編成されるのとは異なり、衛戍師團において化学戦教育を担当した歩兵聯隊により編成された化兵部隊でした。
迫撃大隊は3個中隊(3個小隊(4個分隊=分隊に九四式軽迫撃砲1門)+中隊段列)+大隊段列~迫撃砲36門(人員866名、馬匹486頭)で編成されました。
迫撃第四大隊は、同時期に編成された迫撃第一(東京)、第二(大阪)、第三(弘前)、第五大隊(宇都宮)とともに我が陸軍初の化戦部隊として編成完結後、上海派遣軍(松井石根大将)戦闘序列に編入され支那事變に出征します。

昭和13(1938)年6月21日、新編された第十一軍(岡村寧次中将)戦闘序列に編入され、大隊は迫撃第一大隊とともに第十一軍隷下の第六、第百一、第百六師團に分属され、7月、漢口作戰に参加します。

昭和14(1939)年9月23日、大隊は新設された第十三軍(西尾壽造大将)戦闘序列に編入され、上海付近に移駐します。

昭和17(1942)年4月18日、大本營は米陸軍機B-25による本土初空襲(ドゥリットル空襲)を受け、浙江省方面の支那軍航空基地お撃滅すべく浙贛作戰を支那派遣軍に下令します。
大隊は第十三(澤田茂中将)軍戦闘序列の第百十六師團(武内俊二郎中将)に配属、第十五師團(酒井直次中将)に第一中隊を配属し作戦に参加、第十五師團とともに澤田軍司令官より感状を授与します。

昭和19(1944)年2月1日、大隊は再び第十一軍(横山勇中将)戦闘序列に編入、隷下の第三師團(山本三男中将)に配属され、5月27日、一號作戰(大陸打通作戰)第二段の湘桂作戰に参加、11月4日、柳城・柳州北岸の攻略に活躍、師團とともに横山軍司令官より感状を授与します。

12月上旬、第十一軍は戦線を整理、隷下師團を広西省内に反転集結させるとともに、10日、隷下の化戦部隊(野戰瓦斯第八小隊、迫撃第四、第十五、第十六大隊)を第二十軍(坂西一良中将)の指揮下に編入します。

昭和20(1945)年2月、第二十軍の粤漢作戰(第十五・十六迫撃大隊から各1個中隊が参加)終了後、第十一軍に復帰します。
3月、支那派遣軍總司令部の1組織であった化学部が独立、支那派遣軍化学部(石崎申之大佐)が臨時編成され野戰瓦斯第八小隊、迫撃第一、第四、第十五、十六大隊を統括する、我が陸軍最大の化戦部隊が発足します。

2月1日、軍令陸甲第十八號『在支部隊臨時編成』により対支那の兵備が教化されるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


歩兵第三十九、百十一聯隊補充隊が編成、補充を担当した部隊
・第十師團 第一~第四野戰病院
・第十七師團 第一、第二野戰病院
・第百十師團 衛生隊、野戰病院
・第五十四師團 衛生隊、第一、第二野戰病院
・第八十四師團 第八十四歩兵團司令部
 歩兵第百九十九聯隊
 歩兵第二百聯隊
 歩兵第二百一聯隊
 師團速射砲隊
・第百五十師團
 歩兵第四百二十九聯隊
 歩兵第四百三十聯隊
 歩兵第四百三十一聯隊
 歩兵第四百三十二聯隊
 師團速射砲隊
 師團兵器勤務隊
・第二百二十五師團
 歩兵第三百五十四聯隊
・第三百五十五師團司令部
 歩兵第三百五十五聯隊
 師團憤進砲隊

・南支那野戰兵器廠
・第五十七兵站地區司令部
・兵站勤務第五十七中隊
・第七野戰輸送司令部
・第百二警備隊司令部
・第二十警備中隊
・陸上勤務第九十七中隊
・獨立歩兵第三百六十七大隊
・第二十野戰兵器廠
・海上挺身基地第二十六大隊
・第三十九野戰貨物廠


参考文献
『姫路歩兵第三十九聯隊史』(昭和58年3月 歩兵第三十九聯隊史編集委員会)

『日本陸軍の特殊部隊』(平成21年9月 ガリレオ出版)
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歩兵第三十九聯隊

今、出先なので資料が手元にないのですが、歩兵第三十九聯隊の跡地に、陸軍と書かれた境界石が2つあった様に記憶しています。

Re: 歩兵第三十九聯隊

kanさん、こんばんは。
情報ありがとうございます。
姫路の探索も旅行の合間に行ったもので、あまり時間が無く中途半端になってしまいました。
一応、兵営の周りは回ったのですが、見落としたようです・・・
帰宅後に調べると白鷺橋のあたりに石標が1本あるらしいとの事でした。
もう1本あるのは知りませんでした。
また、お暇な時にでも御教示頂けたら嬉しいです。
11月の姫路駐屯地記念行事に行く予定なので、その時再突撃してきます!

No Title

すみません、今、写真を見たら境界石は、一本だった様です。
いい加減な事を行って済みません。
場所なのですが、①の右上の凹んでいる付近の石垣沿いだったと記憶しています。
なにせ、杜撰な性格の為、記録をしていませんので、ご迷惑をおかけして済みませんでした。

Re: No Title

こんばんは、早速の情報ありがとうございます!

①の右上の凹んでいる付近の石垣沿いと言う事は、道路の「北側」ですね!
残念ながら石碑を見て、そのまま道路の「南側」を歩いてしまいました。
この北側の公園一帯は確かに怪しいと思ったのですが、回っていませんでした。

と言う事は、ネットで見つけた白鷺橋付近の石標はどうなんでしょう?
次回、再探索時に両方確認してきます。

No Title

土地勘が無いので、簡単に検索しましたが白鷺橋の場所がよく判りません。
ただ、お堀の南側の道で、かつ、石垣の脇で見つけたはずですので、場所は特定できると思います。

Re: No Title

説明不足で申し訳ありません。
白鷺橋は兵営の南西角にある橋で、ネット情報(オフ会の連絡?)ではそこに1本あるような事が
書いてあったのですが・・・

堀の南側の道ですね!
了解しました。

No Title

すみません、土地勘が無かったのと地図でしか見てなかったので、石垣の角に有ったから敷地の北東だと勘違いしました。お詫び致します。

Re: No Title

いえいえ、私もよくやる事なので(笑)
また、お気づきの点があればコメントお願いします。
色々な情報を頂いて、より充実した内容になれば良いと思っています。

桜の小路にある三九隊の石碑を見て、気になったので検索してココに辿り着きました。
大変詳しい説明で歴史を少しは知ることが出来ました。
ありがとうございました。

Re: タイトルなし

>にゃん吉様

この度は拙ブログをお読み頂きありがとうございます。

拙ブログをきっかけに石碑の詳細を知って頂け嬉しく思います。

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明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった精強帝國陸海軍、命をかけて国や家族を護ろうとした先人達に思いを馳せるとともに、祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の遺徳に触れ感謝すべく探索・訪問した軍事遺構、護國神社、資料館を紹介、併せて遺構の歴史、地域との関わり、関連部隊などの調査、研究成果を発表しています。

遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。
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