当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

姫路陸軍墓地

姫路城周辺の陸軍遺構紹介ですが、続いて姫路城の西側約2㎞にある姫路陸軍墓地を紹介します。

陸軍墓地 入口(姫路遺構)
▲姫路陸軍墓地






姫路城周辺の陸軍部隊、官衙配置
姫路配置図
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)を現在の地図に転写したもの
姫路陸軍墓地


施設の概要
姫路陸軍墓地は姫路城から西に約2㎞の名古山の山頂付近にあり、現在は「名古山霊園」の一部になっています。

姫路陸軍墓地には戊辰の役から大東亜戦争までの各戦役において散華された英霊に加え、自衛隊の公務殉職者の御霊111,500余名が鎮まっています。

明治6(1873)年には戦病没者の埋葬に関する『下士官兵卒埋葬法則』が制定され、明治7(1874)年10月、大阪鎭臺歩兵第十聯隊が姫路に衛戍しますが、姫路における戦病没者の御遺骨は一旦船場本徳寺に納められ、法要の後に遺族へ渡されるのが恒例となっていました。

姫路陸軍墓地の制定時期については手元に資料が無いので不明ですが、当時の地図を見てみると明治12(1870)年の地図には記載が無く、明治34(1892)年の地図(明治28年測量)には「陸軍墓地」の記載があるので、明治28(1895)年頃には制定されていたようです。

昭和21(1946)年7月に就任した姫路市長・石見元秀は空襲で破壊された市街地の再整備のため、点在する墓地を陸軍用地(陸軍墓地、演習場)であった名古山に集約させます。
その際、陸軍墓地は用地を大幅に破壊・削減され、現在地に押し込められてしまいます。

昭和29(1954)年、名古山霊苑は開園しますが、陸軍墓地は無縁墓のように塔状に積み上げられ見るも無残な形にされてしまい現在に至ります。

埋葬者に関しては戦場での散華者の他に平時の病没者、訓練中の殉職者等が含まれていると思いますが、現地の案内板には「戦没された英霊」とだけ記載されています。
また、埋葬者が護國神社にお祀りされている英霊に比して多い(約倍)のは、兵庫県全域の方が埋葬されているからではないでしょうか。

仏舎利塔(姫路遺構)
▲元々の陸軍墓地の中心部に建てられた仏舎利塔
 昭和29年4月12日、インドの故ネール首相から姫路市へ贈られました。


姫路陸軍墓地・慰霊碑
姫路陸軍墓地210724(姫路遺構)
▲昭和21(1946)年7月24日の姫路陸軍墓地空撮

姫路陸軍墓地(姫路遺構)
▲現在の姫路陸軍墓地(名古山霊園)全景
姫路陸軍墓地の敷地(赤線)=大東亜戦争停戦まで
高岡射撃場跡(別記事で紹介)


あ 姫路陸軍墓地(青線)=現在
姫路陸軍墓地全景
▲姫路陸軍墓地の現況

墓標の山
西側墓標 南側(姫路遺構)
▲西側墓標の山

東側墓標 南側(姫路遺構)
▲東側墓標の山

僕は各地の陸軍墓地を見てきましたが、姫路の状態には唖然とさせられました。
「何やこれ・・・・」
管理が行き届いていない場所も見てきましたが、それ以前に広大な敷地を有しながら何故ここまでまとめてしまう必要があったのか甚だ疑問です。
これでは、墓碑銘をなぞって英霊に思いを馳せる事もできませんし、第一墓碑銘が見えません。
このやり方には英霊を敬う姿勢は感じられず、むしろ邪魔だから適当に積み上げたと見えるのは僕だけでしょうか?
悲しいを通り越して憤りすら覚えます。

戦没者納骨堂
戦没者納骨堂(姫路遺構)

輝英魂
輝英魂(姫路遺構)

英霊奉安之碑
名古山 英霊奉安之碑(姫路遺構)

外国人兵士の墓
外国人墓標(姫路遺構)
▲第一次世界大戦の際の青島攻略戦において俘虜となったドイツ軍兵士の墓です。
 抑留中に病没した6名のうち引き取り手の無かった3名が眠っています。


い 「殉國四十一烈士之碑」
昭和51年10月、白菊遺族会兵庫県支部により建立されました。
殉國四十一烈士之碑(姫路遺構)

大東亜戦争停戦後、戦勝国である連合軍は各地で我が国軍将兵を一方的に、戦争犯罪人として処刑しました。
その多くは報復の意味合いが非常に強く、でっち上げられた証拠を元にいい加減な裁判を経て約1,000名が法務死されました。
兵庫県出身の法務死された英霊41名が祀られています。
碑の側面に詳しい説明と、法務死された英霊の名前が記されています。


う 「常陸丸殉難記念碑」
常陸丸殉難記念碑(姫路遺構)

この碑は明治三十七八年戰役(日露戦争)の際にロシア軍艦により撃沈された常陸丸に乗船し散華された永吉充五郎大尉以下、第十師團第三糧食縦列(輜重兵)382名の武勲を顕彰するために輜重兵第十聯隊兵営の営庭に建立されました。
昭和40年7月、姫路輜重会により現在地に移転再建されました。
揮毫は姫路出身の本庄繁大将です。

靖國神社にある近衛後備第一聯隊を顕彰する同名の碑が有名です。


え 「慰霊碑 獨立野砲兵第二聯隊」・「愛馬の碑」
昭和55年4月27日、建立されました。
「慰霊碑」(独立野砲兵第二聯隊)(姫路遺構)


お 「あゝビルマの戦友」
昭和44年4月5日、姫路ビルマ会(歩兵第百十一聯隊戦友会)により建立されました。
「あゝビルマの戦友」(姫路ビルマ会)(姫路遺構)


か 「南洋群島戦没者 慰霊碑」
昭和42年4月、パラオ会(第五十七兵站地區隊戦友会)により建立されました。
「南洋群島戦没者慰霊碑」(パラオ会)(姫路遺構)


き 「群青に眠る白桜」
  「鎮魂」
  「ビルマ戦線 つわもの四間隊の碑」

全景(姫路遺構)
▲左から「群青に眠る白桜」・「鎮魂」・「ビルマ戦線 つわもの四間隊の碑」

「群青に眠る白桜」は昭和58年8月、十八志主会(海軍呉鎮守府大竹海兵団昭和十八年四月入団志願主計兵生還同期生の集い)により建立されました。
「群青に眠る白桜」(海軍呉鎮守府大竹海兵団十八志主会)(姫路遺構)
▲「群青に眠る白桜」碑の横にある小型船の錨

「鎮魂」は昭和58年5月22日、輜重兵第十七聯隊戦友会により建立されました。
揮毫は姫路護國神社の第十七師團鎮魂碑と同様、最終師團長・酒井康中将です。

「ビルマ戦線 つわもの四間隊の碑」は昭和52年5月、歩兵第百十一聯隊第二中隊長・四間武治大尉以下153名を慰霊・顕彰すべく四間中隊長の遺児・細君を発起人として建立されました。


く 「陸軍省所轄地」
民家の庭先にあります。
裏面には境界の石標には珍しい建立日付(明治33年3月)の刻印があります。
陸軍省所轄地 く 東面(姫路遺構)
▲表面「陸軍省所轄地」

陸軍省所轄地 く 西面(明治33年3月)(姫路遺構)
▲裏面「明治三十三年三月」


け 「満蒙開拓 殉難者之碑」
昭和49年12月、兵庫縣拓友会により建立されました。
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

No Title

私も姫路陸軍墓地を訪れて、怒りを覚えました。酷すぎます。
境界石は知りませんでした。

Re: No Title

kanさん、こんばんは。
そうですよね、普通の感覚ならこの状態は怒りをおぼえますよね。
霊園の造成が始まった昭和21年と言えば未だ遺族の方もご存命でしょうし、まともな感覚の持ち主なら墓標を引き抜いたうえ、まとめてコンクリートで固めてこの様な状態にすることなど考えもつかないと思います。
まして、肉親を失った遺族の方の心の傷を思うと何とも言えない気持ちになります。
墓標を移転するにしてもムダに広い駐車場や、現在の陸軍墓地の前後の広場等いくらでもあったと思うのですが。正気の沙汰とは思えません。
kanさんも紹介されている深山をはじめ三重、岐阜などは荒れているとは言え何とか現状を維持していますが、姫路はそれ以前の問題です。
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる