当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第十聯隊 (のち捜索第十聯隊)

姫路城の北2㎞に所在する陸上自衛隊・姫路駐屯地、及び市立広嶺中学・小学校は騎兵第十聯隊の跡地にあります。

聯隊は後に捜索第十聯隊に改編され、兵営では第十七師團捜索隊、騎兵第百十大隊、捜索第五十四聯隊が編成されます。
賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書(姫路遺構)
▲自衛隊教習所内に遺る「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑

【探索日時】
平成23年11月6日





城北の陸軍部隊配置
姫路市全圖(昭和15)(姫路遺構) (2)
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)

野里220928(姫路遺構)
▲昭和22年9月28日の空撮(国土地理院 USA-R511-2-6)

姫路城周辺~遺構(停戦時)2
▲『姫路市全圖』を現在の地図に転写
㉑ 騎兵第十聯隊
㉒ 野砲兵第十聯隊
㉓ 輜重兵第十聯隊
㉔ 城北陸軍練兵場
※緑文字が当記事の紹介施設
名称については一般的な昭和15(1940)年頃


遺構について
㉑ 騎兵第十聯隊
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十三師團の新編を決定、4月中旬、第十師團の衛戍地を姫路に選定します。

7月、臨時陸軍建築部(監督長・野田豁通男爵)は騎兵、砲兵、輜重兵営及び練兵場用地として飾磨郡城北村の民有地5町8反、農商務省用地6畝(移管)の買収を各郡長を通じて開始しますが、反150円を提示(陸軍省は180円程度を示達)しますが地権者と買収額が折り合わず、次いで180円を提示するも拒否され、8月、最終的に有志の献金を買収額に繰入れ250円で買収交渉は妥結し、9月2日、買収が完了し登記を進め、兵営の建設を開始します。

明治30(1897)年10月21日、騎兵第十聯隊第一中隊が騎兵第四聯隊(大阪)から移駐、11月13日、第十師團(伏見宮貞愛親王中将)が発足、12月、騎兵、砲兵、輜重兵営が竣工します。
騎十営門(姫路遺構)
▲騎兵第十聯隊 営門(撮影時期不明)

営門付近(姫路遺構)
▲現在の営門付近
  遺構は何も遺されていません

明治37(1904)年4月16日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において騎兵第十聯隊補充大隊、明治41(1908)年10月21日、及び大正14(1925)年5月31日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年4月18日、滿洲派遣、昭和12(1937)年7月27日、支那事変に際し留守隊が編成、昭和13(1938)年4月4日、第十七師團捜索隊が編成され北支に、昭和13(1938)年6月16日、騎兵第百十大隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年8月7日、騎兵第十聯隊は捜索第十聯隊に改編され、10日、滿洲移駐に伴い捜索第五十四聯隊が編成されます。
昭和18(1943)年2月17日、捜索第五十四聯隊の動員、ジャワ方面出征に際し同聯隊補充隊が編成されます。

昭和20(1945)年3月25日、留守第五十四師團司令部は長野県立長野高等女学校に移転、捜索第五十四聯隊補充隊は復帰します。
空いた捜索聯隊兵営は中部軍管區司令部の管轄となり、中部軍管區の応召部隊の臨時兵舎に転用され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、スイニー大佐以下100名が先遣隊として姫路に進駐し須鎗航空兵器㈱を宿舎に、26・27日、コリンズ大佐以下本隊3,000名が空襲の焼失を逃れた捜索・野砲・騎兵営を接収し兵器、軍需品の処理を開始します。
占領政策の進展に伴い随時接収解除され大蔵省に返還されます(時期不明)。

昭和23(1948)年4月10日、兵営西側が姫路市に払い下げられ、姫路市立広嶺中学校が発足、昭和26(1951)年1月18日、新設される警察予備隊の姫路駐屯が決定、3月28日、善通寺から先遣隊が到着、野砲兵営、輜重兵営の大半、騎兵営の半分により姫路駐屯地が発足、30日、特科第63連隊が開隊(昭和29年7月1日、第3特科連隊に改編)、昭和45(1970)年4月1日、中学校北側に広嶺小学校が発足し現在に至ります。
騎十 兵営全景(姫路遺構)
▲北側から見た騎兵第十聯隊跡(昭和26年)

現在、騎兵第十聯隊跡は西側が市立広嶺中学校、同広峰小学校、東側が陸上自衛隊・姫路駐屯地になっています。

騎兵第十聯隊から改編された捜索第十聯隊は比島ガバシリアン、サラクサク第二、第一峠で20倍の敵上陸部隊を20日に渡って拒止する敢闘で知られますが、残念ながら遺構は殆ど遺されていません。

T 「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑
  「騎兵第十聯隊跡」碑
   愛馬の碑

姫路駐屯地内の自動車教習コースにあります。

「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑
大正9年(1920)年12月26日、殿下が騎兵第十聯隊附(翌年1月まで)として御着任された際、御手植えされた記念樹の横に大正7年兵により建立されました。
騎兵第十聯隊の唯一の遺構ですが、碑の下半分は剥落しかけています。
賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書(姫路遺構)
▲“賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書”と刻字

「騎兵第十聯隊跡」・「愛馬の碑」
騎兵第十聯隊跡・愛馬の碑(姫路遺構)
▲昭和40(1965)年10月、騎十会により建立されました。

※3基の石碑は並んで建てられていますが駐屯地自動車教習コース内にあり、平日の見学では教習が行われており近付けません。
記念行事の際に運が良ければ見学できます。


騎十 兵営(姫路遺構)
▲在りし日の騎兵第十聯隊 兵舎


衛戍部隊
騎兵第十聯隊
捜索第十聯隊
(鐡五四五〇、滿洲第四三〇部隊)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、特にロシアの脅威に対抗、安全保障のため軍備増強を決定します。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

11月21日、騎兵第四聯隊(大阪)から基幹要員を抽出し、同聯隊内に仮事務所を設置、騎兵第十聯第一中隊が編成(河野政次郎少佐)されます。

明治30(1897)年10月21日、騎兵第十聯隊第一中隊が騎兵第四聯隊(大阪)から兵庫県飾磨郡城北村の新兵営に移駐、明治32(1899)年12月27日、宮中において軍旗を拝受します。
『日本騎兵写真集』騎兵十軍旗(姫路遺構)
▲騎兵第十聯隊 軍旗

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、第十師團に動員下令、6月初旬、遼東半島東北隅の大孤山に上陸し師團内の連絡にあたるとともに、9日、岫巌城に一番乗りしを果たします。

25日、分水嶺、7月30日、析木城の戦いに参加、8月25日、遼陽會戰では師團前方の捜索、及び第一軍との連絡にあたり、退却する露軍を追撃し太子河北方に進撃、第一軍とともに露軍主力の側面を牽制し敵軍総退却の要因を造ります。

10月7日、沙河會戰では師團隷下部隊に分属され捜索、警戒にあたり、10月11日、三塊石山の夜襲戦では野砲兵第十聯隊、後方部隊の援護を行います。

沙河の対陣では秋山支隊(秋山好古少将)に編入、騎兵第九聯隊を配属され三岳支隊(騎十聯隊長・三岳於莵勝中佐)を編成し、韓三薹を守備します。

黒溝薹、沈且堡の戦いにおいて韓三薹に度々来襲する露軍を撃退し第四軍司令官・野津道貫大将より感状を授与されます。

明治38(1905)年3月1日、第十師團に復帰し奉天會戰に参加、第四軍と第一軍の間隙の警戒にあたり、退却する露軍を鉄嶺、開原に追撃し威遠堡門を攻略します。
4月、孤楡樹付近の威力偵察を実施し、露軍の反撃を撃退します。
9月5日、講和条約が締結され戦役は終結、明治39(1906)年2月、姫路に凱旋します。

明治41(1908)年10月、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、21日、姫路を出発し、31日、旅順に到着し同地の警備にあたり、明治42(1909)年10月6日、姫路に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、第一中隊(不破直治大尉)が歩兵第三十九聯隊第三大隊(小林操少佐)とともに臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)に編入され奉天に派遣、泰山線・哈爾浜の警備にあたり、黒山・新民方面の討伐にあたります。

昭和7(1932)年4月、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し、4月18日、師團とともに聯隊主力は哈爾浜に到着、周辺の警備にあたります。
4月21日、聯隊は反吉林軍(反日反滿の張学良系兵匪)討伐のため編成された村井支隊(第八旅團長・村井清規少将)に配属され、東支鉄道東部線を攻略、4月24日、松花江作戰において反吉林軍の李杜丁超軍、次いで馬占山軍、さらに西進し興安嶺東側の張殿九軍の討伐に参加、12月31日、吉林省東部国境作戰において再び李杜丁超軍の残兵を討伐、吉林省東部にあった反吉林軍を壊滅させます。

昭和8(1933)年2月26日、關東軍は張学良に寝返った湯玉麟を討伐し、熱河地方の治安を回復するための熱河作戰を実施します。
聯隊は通遼に移動し第六師團に編入され赤峰に進撃、騎兵第四旅團に編入され赤峰東方高地の敵陣地攻略、次いで赤峰攻撃に参加します。
作戦終了後、聯隊は第十師團に復帰、吉林省周辺の匪賊討伐にあたり、昭和9(1934)年5月、姫路に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、27日、第十師團に動員下令、8月9日、聯隊は姫路を出発、15日、大沽に上陸後、天津に集結します。

9月2日、第十師團とともに津浦線に沿って南下、24日、滄県、10月、徳州攻略戦に参加、12月26日、済南を攻略します。

昭和13(1938)年4月下旬、集結した蒋軍50個師團を殲滅すべく中支那派遣軍、北支那方面軍の徐州會戰に参加、聯隊は師團とともに蒋介石軍の退路を遮断しますが、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、さらに蒋軍は6月20日、我軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

會戰後、第十師團の属する第二軍は中支那派遣軍戦闘序列に隷属転移、聯隊は蘆州付近に移駐します。
8月下旬、第二軍の漢口作戰に参加、第十師團の先頭を進撃し六安、固始、光州の戦闘に参加、大別山を突破し、10月24日、応山に進出、26日、第六師團により漢口は攻略され、26日、聯隊は同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、29日、応城を攻略します。
10月29日、第十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月21日、聯隊は南京に移動、津浦線を北上し彰徳地区周辺の警備、匪賊討伐にあたります。
昭和14(1939)年、騎兵第四旅團と警備を交替し、11月、姫路に帰還します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定、騎兵第十聯隊は捜索第十聯隊への改編が下令、7日、編成完結(三田村逸雄中佐、乗馬・乗車・装甲車・整備各1個中隊)、軍旗を奉還します(昭和17(1942)年、装甲車中隊は軽戦車中隊に改編され、南海派遣隊としてラバウルに移駐します)。
10日、聯隊は姫路を出発し、16日、羅津に上陸、17日、佳木斯(チャムス)に屯営し、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、対ソ戦を見越した準備に着手しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始、陣地構築中の7月、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定します。
聯隊は陣地構築を中止し佳木斯に集結、8月5・6日、佳木斯を出発、8月23・24日、台湾基隆に入港、台湾西海岸に防御陣地構築を実施します。

11月20日、第十師團は捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定、聯隊(鈴木重忠少佐)は乗馬、自動車中隊を台湾に残置し、12月11日、聯隊本部と乗車中隊(歩兵編成3個小隊、機関銃1個小隊の計221名)がマニラに到着します。
捜索第十聯隊は歩兵第六十三聯隊第六中隊(足立隊)、歩兵第三十九聯隊第四中隊(山口隊)、野砲兵第十聯隊第一中隊第二小隊(湯浅隊、野砲2門)、獨立速射砲1個小隊(対戦車砲2門)、工兵第十聯隊一個小隊を配属され鈴木支隊(総兵力約600名)に改編されます。

13日、米軍船団がスルー海を北上中との報に接し、山下大将は、19日、『ルソン作戰指導要綱』を隷下部隊に示達、師團は方面軍直轄の「尚武集団」としてルソン島北部の防備を担当します。

12月16日、第十師團は第二十三師團と連携しリンガエン湾方面の敵主力に対している軍主力の左側背を援護すべくマニラ北方のサンホセに配置が決定、23日、北サンフェルナンドに師團主力を配置し、鈴木支隊は師團主力右側援護のため師團右地区隊としてリンガエン東方のサンホセ付近に移駐し作戰準備にかかります。
第十師團長・岡本保之中将は右地区隊をサンニコラス(サラクサク第二峠西南)に配置、鈴木支隊は戰車第二師團(岩仲義治中将)隷下の戰車第十聯隊(原田一夫中佐)指揮下に編入されガバリシアンに移駐し陣地構築、軍需品集積を開始します。

昭和20(1945)年1月4日、米艦載機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米第6軍(W.クルーガー中将、7個師団175,000名)がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に夫々2個師団が侵攻を開始します。
北侵を企図する敵上陸部隊をリンガエン湾配備の第二十三師團、戰車第二師團、獨立混成第五十八旅團が迎撃、敵の侵攻を拒止しますが、甚大な損害を受け、1月27日、戰車第三旅團は遂に転進、2月、米第32師団(兵力約20,000、火砲70門)がサラクサク峠に侵入して来ます。
鈴木支隊は20倍の敵を迎撃、カバリシアン-サンニコラスにおいて地形を巧みに生かした反射面陣地に拠って迎撃、さらに夜間切込を実施し敵の侵攻を拒止しますが、15日、第一線陣地が突破され、23日、全陣地を失陥、火砲は全損し兵力が約80名に減少するに至り、サラクサク峠登り口のサンタマリアに転進します。

3月3日、鈴木支隊は急迫するサラクサク峠に増援された戰車第二師團(戦車、火砲の大半を失い普通師團に改編)の指揮下に入り、歩兵4個中隊、機関銃1個小隊を配属(兵力600名)されます。

4日、サラクサク峠の歩三十九第一大隊(乾善明中尉)は追撃してきた米第32師団に対し逆襲を敢行し撃退に成功しますが、激烈な火砲の支援のもと再度侵攻してきた米第32師団により、10日、天王山の大隊本部が包囲され、重傷を負った乾中尉は自決、残存の大隊主力は米軍に夜襲を決行し玉砕してしまいます。

23日、鈴木支隊は坑道3条を掘削して天王山東南のフユ高地を奪還しますが、敵の激烈な集中射撃を受け、3月下旬、再びフユ高地を失陥してしまいます。
師團は鈴木支隊に歩兵3個中隊を配属、野砲兵第十聯隊の援護射撃とともに天王山奪還を目指しますが米軍の激烈な逆襲により攻撃は頓挫、鈴木支隊は大損害を受け(兵力50名(戦傷25名))てしまいます。

鈴木支隊は東方のサラクサク第一峠に転進、再び戰車第十聯隊の指揮下に編入、新たに歩兵4個中隊を配属(兵力500名)され強固な陣地に拠って米軍の侵攻を拒止しますが、火砲に支援された米軍は逐次陣地に侵攻、5月19日、中核陣地守備の歩兵部隊が玉砕、サラクサク峠全域を失陥してしまいます。

25日、サンタフェを攻略した米第25師団により戰車第二師團の後方連絡線が遮断され聯隊は敵中に孤立、6月3日、方面軍命令により北進を開始、ルクルク高地に転進し歩兵300名を編入し師團左側を援護、6月初旬、師團はさらにバンバン北方に転進、歩兵300名は抽出され、聯隊は戦力喪失のため、6月10日、捜索第十聯隊は復帰、聯隊長・鈴木少佐は師團参謀部附、生存者10余名は師團司令部に編入され、師團とともにサリナス、アンチポロ方面を転戦、9月10日、鈴木聯隊長以下11名が停戦を迎えます。


騎兵第二十一聯隊
第十七師團捜索隊(月七三九八)
第十七師團戰車隊( 〃 )
第十七歩兵團戰車中隊( 〃 )
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七師團の新設、及び編合を定めます。
18日、騎兵第十三聯隊(永沼秀文大佐、習志野)に騎兵第二十一聯隊の編成下令、10月29日、聯隊本部が編成(大島又彦中佐)され、11月10日、第十七師團各幹部は岡山市内各寺院を間借りして仮庁舎として移転、12月10日、騎兵営が竣工します。
明治41(1908)年3月1日、近衞騎兵聯隊兵営(東京)に収容中の第一中隊が騎兵第十六聯隊兵営(習志野)に転営、5月8日、宮中において軍旗を拝受、9月24日、騎兵第二十一聯隊は習志野から岡山に転営します。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。

大正4(1915)年3月11日、第十七師團の滿洲に駐箚が決定、24日、聯隊は宇野港を出航、25日、大連に上陸、3月31日、奉天に移駐し警備にあたり、大正6(1917)年5月10日、岡山に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、騎兵第二十一聯隊は復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため昭和13(1938)年4月4日、軍令陸甲第二十一號『新設師團編成要綱』により5個師団の新設が下令され留守第十師團の担当で第十七師團が編成(7月17日、完結)されると、騎兵第十聯隊留守隊の担当で第十七師團捜索隊が編成(川島吉蔵騎兵中佐)されます。
編制は聯隊本部(29名、馬匹30、乗用車2)・乗馬中隊(175名、馬匹155)・装甲車中隊(装甲車小隊:九二式重装甲車5/乗車小隊:乗用車1、自動貨車4)でした。

7月15日、第十七師團は2月18日に編成された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員が下令されます。
8月、捜索隊は師團とともに上海に移駐し、7日、蘇州に屯営、9月14日、宜興南方地区の国府軍掃討作戦に参加します。

昭和14(1939)年5月3日、師團の第一次湟里鎮作戰、6月12日、高瑞鎮作戰、10月20日、第二次湟里鎮作戰に参加し捜索、連絡にあたります。

昭和15(1940)年7月13日、第十七師團捜索隊は復帰、要員をもって第十七師團戰車隊が編成され、10月5日、支那第三戦区軍を撃滅すべく第十七師團とともに第十三軍の十一號作戰(江南作戰)に参加します。
11月1日、第十七師團とともに第十三軍の漢水作戰に参加し、12月1日、漢口に帰還し付近の警備にあたります。

昭和16(1940)年4月5日、第十七師團は北支の警備に当たるため北支那方面軍戦闘序列の第十二軍に編入され、徐州に移駐し付近の新四軍(共産軍)の討伐にあたります。
5月初旬、北支那方面軍の中原作戰に参加します。
5月22日、第十七師團戰車隊は復帰し、要員をもって第十七歩兵團装甲車中隊が編成されます。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年2月1日、第十七師團の渦河作戰に参加します。
11月4日、洪沢作戰に参加、張家楼において新四軍と激戦を展開、敵を敗走させるも我が方も損害が出ます。

昭和18(1943)年3月16日、第十七師團の六塘河作戰、4月23日、碭南作戰に参加します。

8月18日、ブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく第十七師團の南方増派が決定し、師團は大本營予備隊となり、次いで9月11日、第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に編入されます。
同日、第十七歩兵團装甲車中隊は復帰、解隊されました。


騎兵第百十大隊(鷺三九一三)
昭和13(1938)年6月16日、騎兵第十聯隊留守隊(田邉積 騎兵中佐)に騎兵第百十大隊の動員下令、20日、動員業務開始、25日、動員完結(田邉積騎中佐)し第百十師團(桑木崇明中将、姫路)隷下に編入されます。
編制は大隊本部・乗馬中隊2個・機関銃小隊1個(451名、馬匹431)でした。

動員完結後、第百十師團は大陸命第百二十一號により北支那方面軍戦闘序列に編入され、7月9日、大隊は姫路を出発し宇品より出航、14日、塘沽に上陸し、15日、通県(旧通州)に到着し歩兵第百八旅團の指揮下に入ります(第二中隊主力を薊県の警備に派遣)。

7月20日、大行山脈一帯の共産軍討伐のため冀東作戰に参加、9月19日、北部山西作戰では通県双橋付近の戦闘に参加、昭和14(1939)年1月、三河県苦山付近の戦闘、6月3日、香河県張荘付近の戦闘に参加、18日、大隊は高陽県に移駐し歩兵第百十聯隊第十中隊(松枝計夫中尉)を配属され高陽・安新・蠡・容城県の警備にあたります。

7月13日、高陽県は水害により白洋淀の溢水、猪龍河の堤防決壊により警備地が浸水被害に遭います。
15日、旧城鎮付近、10月8日、安新県泰裏村付近、9日、蠡県張段庄村付近、22日、安新県荊関村付近、27日、安新県北馮村、12月3日、安新県老家頭付近で共産軍と交戦します。

昭和15(1940)年3月13日、集成第二中隊が冀中作戰(イ號)参加のため高陽を出発、21日、大隊主力、冀中作戰(ロ號)に参加します。
6月17日、大隊は高陽から徐水へ移駐し、容城県の警備、7月4日、徐水から藁城へ移駐し、警備にあたります。
10月4日、晋県荘頭村付近、昭和16(1941)年2月16日、武邨鎮付近、6月30日、藁城県西里村付近、8月1日、趙県董荘付近、藁城県林中付近、12月28日、藁城県禅房付近で共産軍と交戦します。

昭和17(1942)年5月1日、冀中作戰(三號)に参加します。

昭和18(1943)年5月1日、軍令陸甲第三十八號により在支師團の編成が改正され復員が下令、6月10日、河北省無極県において復員、昭和13・14年兵は内地の捜索第五十四聯隊補充隊に転属し、25日、召集解除、昭和15年兵は歩百十、歩百三十九、歩百六十三の乗馬小隊として分属しました。


捜索第五十四聯隊(兵一〇一一五、中部第五十部隊)
昭和15(1940)年7月10日、騎兵第十聯隊補充隊は捜索第五十四聯隊に改編(澁谷順造中佐)され、8月7日、編成完結した第五十四師團(秋山義允中将、姫路)隷下に編入されます。
編制は聯隊本部・乗馬中隊1個・乗車中隊1個・装甲車中隊1個でした。

昭和18(1943)年2月17日、第五十四師團(片村四八中将)に動員下令、南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列の第十六軍(原田熊吉中将)戦闘序列に編入され、師團とともに宇品港、門司港から3梯団に別れスラバヤに出港します。
出動にあたり聯隊(中村忠雄中佐)は乗車中隊2個(第一、第二中隊)・装甲車中隊2個(第三、第四中隊、九七式軽装甲車各7)中隊に改編されます。

4月10日、スラバヤ市に集結、東部ジャワの警備にあたります。

10月上旬、師團とともにビルマのペグー山系西側のブローム付近に集結、12月16日、緬甸方面軍(川邊正三中将)の直轄となり、昭和19(1944)年1月15日、第五十四師團は第二、第五十五師團とともに緬甸方面軍隷下に新設された第二十八軍(桜井省三中将)戦闘序列に編入され第五十五師團(花谷正中将)とともにアラカン山脈を越えビルマ西海岸に移駐、ルイワ以南イラワジ河口の守備にあたります。

昭和19(1944)年1月7日、インド国境付近の英印軍撃滅を企図し第十五軍(牟田口廉也中将)によるウ號作戰(インパール作戰)実施が決定、2月3日、第五十五師團はウ號作戰の支作戦でウ號作戰を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始します。
第五十五師團の出撃により第二師團はサンドウェー以南地区への移駐、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を引き継ぎ、アキャブ-サンドウェー地区の防衛にあたり、聯隊は第五十五師團の兵站線の警備にあたります。

5日、第五十五師團はシンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は遅滞、23日、遂にプチドン-モンドウに転進します。

7月2日、優勢な英印軍の反撃を受けウ號作戰は中止、第十五軍は英印軍の追撃を受けながら転進を開始します。
ビルマ北部の戦局急迫に伴い、英印第15軍団は第二十八軍の作戦地域であるベンガル湾方面に侵攻、第五十四師團はさらにバセイ地区に転進します。
聯隊は第一・第三中隊を師團直轄としてアン高地に残置し、聯隊主力は本部・第二中隊に歩兵1個中隊・砲兵1個小隊を配属され、イラワジ河東側のミエボン半島にミエボン地区隊(中村大佐、約500名)として、第四中隊はダンカップ地区隊(歩百二十一長澤貫一大佐、のち馬場進大佐)の指揮下に入り防備にあたります。

昭和20(1945)年1月2日、英印第25師団が海空の援護のもと大型輸送船4、上陸用舟艇40を以てミエボンに上陸を開始、聯隊は40倍の英印第25師団の侵攻拒止にあたり激戦を展開しますが、圧倒的な兵力差に遂にミエボン北方に転進します。

第五十四師團長・宮崎繁三郎中将は師団直轄の捜索五十四第四中隊・歩十第二中隊を増援しますが敵の逆襲により会合できず、聯隊はカンゴウ地区に転進を下令され、歩百五十四(村山一馬大佐)の指揮下に編入され右地区隊として防備にあたります。
しかし、カンゴウ北方からは英軍西アフリカ第81・第82師団が南下、第五十四師團は腹背に敵を受ける事になったため2月下旬、師團命令により歩百五十四はカンゴウを徹しアン高地に転進します。

3月8日、英軍に通じたビルマ国民軍(アウンサン少将)の一部が反乱したため、聯隊主力は討伐にあたります。

10日、第二十八軍は完二號作戰を発動、第五十四師團はアラカン山系以西のアキャブ-ダンカップ防衛と侵攻する敵の撃滅を下令されます。

12日、英第15軍団はメイ付近に上陸を開始、ダンカップ地区隊(歩百二十一馬場進大佐)は捜索第五十四聯隊第四中隊を派遣しますが、メイ南方に侵攻した英軍中戦車と遭遇し全車破壊され戦力を喪失してしまいます。

3月下旬、師團長・宮崎中将は一挙に英印軍を撃破すべく、4月2日、師團主力をアン高地に集結、8日、師團は追撃して来た英印軍に逆襲を開始、聯隊は右翼隊(歩百五十四基幹)に属し、10日、レモーで英印軍を撃破し同地を攻略しますが、捜索五十四聯隊長・中村中佐、歩百十一聯隊長・矢木孝治大佐、輜重五十四聯隊長・大田貞次郎大佐が相次いで散華してしまいます(捜索五十四、後任は5月3日付で古賀文雄少佐)。
第五十四師團は敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を絶った英印軍と激戦を展開、13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、隷下部隊をアンに集結します。

4月22日、メイクテーラを失陥、英アフリカ第81、82師団のイラワジ河畔南下を阻止すべく第五十四師團はアラカン山脈以西の英印軍を拒止するためキャクパタン-ダンカップ付近に陣地を占領し、南下してきた英アフリカ第82師団を地形を利用し拒止、主力は歩百五十四を先遣隊とし山脈東側のアランミヨに転進を開始、英印軍の南下に備えます。

5月6日、第五十四師團はアラカン山脈第一軍道東側(イラワジ川西岸)のカマ付近に集結し渡河準備を開始、20日、英印軍の砲撃下、イラワジ河の渡河を開始、25日、渡河に成功、英印軍包囲の間隙を突破し、27日、3縦隊となって英印軍の追撃を受けながら、29日、ペグー山系西側のプロームに集結します。

6月末、第二十八軍の転進援護である邁作戰準備のためマグエ-パウガン西高地-六〇九高地を占領し英印軍の攻撃を撃退しますが、師團内で悪疫が発生し多数の犠牲者が出ます。

6月14日、第五十四師團は悪疫蔓延と英印軍に包囲される危険が生じたため、隷下部隊を3縦隊としてペグー山系に機動を開始、豪雨による悪路に苦闘し、過労、糧食欠乏、マラリヤ発生により多くの兵員を失いながら7月中旬、ペグー山系東端に到着します。

7月20日、主力はビユー、一部はトングーからそれぞれ出発、シッタン平地を突破し、23日、ウェイジーに到達、英印軍と激戦を展開しつつシッタン河を渡河します。
英印軍に加え背反したビルマ愛国軍(旧ビルマ独立義勇軍)の追撃を受けながらシッタン河渡河により多くの兵員を失いながらも第五十四師團隷下部隊は8月9日頃、イワガレ付近に集結、シッタンに向け南下中の23日、シュウエジンにおいて停戦を迎えます。


主要参考文献
『日本騎兵史 下』 (昭和55年 佐久間亮三、平井卯輔 原書房)

『騎兵第百十大隊史』 (昭和60年3月 騎兵第百十大隊史刊行委員会)

『日本騎兵八十年史 萌黄の栄光』 (昭和48年10月 萌黄会 原書房)
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No Title

騎兵代10連隊跡地にある、自衛隊の自動車教習所に馬魂碑が有りますね。
移設されていないなら、騎兵連隊の物でしょうかね?

Re: No Title

kanさん、こんばんは。
そうなんですよ。
実はその碑の存在は知っており、騎兵第十か百十大隊史だったか、日本騎兵史だったか忘れましたが(大隊史が可能性大)騎兵聯隊のものと確認も取れています。
ただ、姫路駐屯地の見学が基地祭では無く個人見学だったため、残念ながら通常業務中で騎兵聯隊跡は行けませんでした。
と言う事で、記事も何となく濁らせてみたのですが(笑)
次回は記念行事に出撃してもう一度確認して来たいと思います。

No Title

あら、いけない事を書き込んじゃいましたか?

Re: No Title

kanさん、こんばんは。
いえいえ、全然そんな事ないですよ。
下書きだけしてアップしなくても良かったのですが、順番でとりあえず上げた次第です。

これからもお気づきの点がありましたら、ドシドシ書き込んじゃって下さい。
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 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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