当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第十聯隊(のち捜索第十聯隊 鐡五四五〇、中部第五十部隊)

姫路城周辺の陸軍遺構紹介ですが、続いて姫路城の北2㎞の野里地区に隣接してあった騎兵、野砲兵、輜重兵営を紹介します。
まずは最も西の騎兵第十聯隊(のち捜索第十聯隊)を紹介します。

賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書(姫路遺構)
▲「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑

更新情報
平成23年11月6日、創立記念行事時に探索の遺構・写真追加






野里の陸軍部隊、官衙配置
姫路市全圖(昭和15)(姫路遺構) (2)
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)

野里220928(姫路遺構)
▲昭和22年9月28日の空撮

姫路城周辺~遺構(停戦時)2
▲『姫路市全圖』を現在の地図に転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
騎兵第十聯隊
㉒野砲兵第十聯隊
㉓輜重兵第十聯隊
㉔城北練兵場
名称については一般的な昭和15(1940)年頃のものです。


遺構について>(アルファベットは遺構など、上掲地図参照
※青字は地図にリンクしています
騎兵第十聯隊
現在、兵営跡は西側が広峰小、広嶺中学、東側が陸上自衛隊姫路駐屯地になっています。


T 「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑
  「騎兵第十聯隊跡」碑
   愛馬の碑

姫路駐屯地自動車教習所のコース内に3基の石碑があります。

賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書(姫路遺構)
▲「賀陽宮恒憲王殿下 御手植」碑
 “賀陽宮恒憲王殿下 御手植 中隊長松田仁五郎書”と書かれています。

大正9年(1920)年12月26日、殿下が騎兵第十聯隊付(翌年1月まで)として御着任された際、御手植えされた記念樹の横に大正7年兵により建立されました。
騎兵第十聯隊兵営に残る唯一の遺構ですが、碑の下半分は剥落しかけています。

騎兵第十聯隊跡・愛馬の碑(姫路遺構)
▲「騎兵第十聯隊跡」・「愛馬の碑」
 昭和40年10月、騎十会により建立されました。

※3基の石碑は固まって建てられていますが自衛隊内の自動車教習コース内にあり、平日は教習が行われており見学できません。
記念行事の際に運が良ければ近づく事ができます。



騎十営門(姫路遺構)
▲騎兵第十聯隊 営門(現存せず)

営門付近(姫路遺構)
▲現在の営門付近(広峰小学校の校門)

騎十 兵営(姫路遺構)
▲騎兵第十聯隊 兵舎(現存せず)

騎十 兵営全景(姫路遺構)
▲北側から見た騎兵第十聯隊跡全景(自衛隊駐屯時)
 当時は兵舎、厩舎等の大半の建物が残っていましたが、現在は1棟もありません。


衛戍部隊
騎兵第十聯隊
捜索第十聯隊
(鐡五四五〇、中部第五十部隊)
明治29(1896)年3月、我が国の安全保障のため陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成が決定します。
明治31(1898)年10月1日、聯隊は第十師團(伏見宮貞愛親王中将)とともに編成完結(河野政次郎少佐)し姫路市北東の兵庫縣飾磨郡城北村に衛戍、明治32(1899)年12月27日、軍旗を拝受します。
『日本騎兵写真集』騎兵十軍旗(姫路遺構)
▲騎兵第十聯隊 軍旗

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、第十師團に動員下令、6月初旬、遼東半島東北隅の大孤山に上陸し師團内の連絡に任じるとともに、9日、岫巌城に一番乗りしを果たします。
25日、分水嶺、7月30日、析木城の戦いに参加、8月25日、遼陽會戰では師團前方の捜索、及び第一軍との連絡にあたり、退却する露軍を追撃し太子河北方に進撃、第一軍とともに露軍主力の側面を牽制し敵軍総退却の要因を造ります。
10月7日、沙河會戰では師團隷下部隊に分属され捜索、警戒に任じ、10月11日、三塊石山の夜襲戦では野砲兵第十聯隊、後方部隊の援護を行います。
沙河の対陣では秋山支隊(秋山好古中将)に編入され、騎兵第九聯隊を配属され三岳支隊(騎十聯隊長・三岳於莵勝中佐)を編成し、韓三薹を守備します。
黒溝薹、沈且堡の戦いにおいて韓三薹に度々来襲する露軍を撃退し第四軍司令官・野津道貫大将より感状を授与されます。
明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に第十師團に復帰して参加、第四軍と第一軍の間隙の警戒に任じ、退却する露軍を鉄嶺、開原に追撃し威遠堡門を占領します。
4月、孤楡樹付近の威力偵察を実施し、露軍の反撃を撃退します。
9月1日、講和条約が締結され明治39(1906)年2月、姫路に凱旋します。

明治40(1907)年、第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月21日、姫路を出発し旅順の警備に就き、明治42(1909)年10月、姫路に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、第一中隊(不破直治大尉)が歩兵第三十九聯隊第三大隊(小林操少佐)とともに臨時派遣部隊として混成第八旅團(村井清規少将)に編入され奉天に派遣、泰山線・哈爾浜の警備に就き、黒山・新民方面の討伐にあたります。

昭和7(1932)年4月、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し、4月18日、師團とともに聯隊主力は哈爾浜に到着、周辺の警備にあたります。
4月21日、聯隊は反吉林軍(反日反滿の張学良系兵匪)討伐のため編成された村井支隊(第八旅團長・村井清規少将)に配属され、東支鉄道東部線を攻略、4月24日、松花江作戰において反吉林軍の李杜丁超軍、次いで馬占山軍、さらに西進し興安嶺東側の張殿九軍の討伐に参加、12月31日、吉林省東部国境作戰において再び李杜丁超軍の残兵を討伐、吉林省東部にあった反吉林軍を壊滅させます。

昭和8(1933)年2月26日、關東軍は張学良に寝返った湯玉麟を討伐し、熱河地方の治安を回復するための熱河作戰を実施します。
聯隊は通遼に移動し第六師團に編入され赤峰に進撃、騎兵第四旅團に編入され赤峰東方高地の敵陣地攻略、次いで赤峰攻撃に参加します。
作戦終了後、第十師團に復帰、吉林省周辺の匪賊討伐にあたり、昭和9(1934)年5月、姫路に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、27日、第十師團に動員下令、8月9日、聯隊は姫路を出発、15日、大沽に上陸後、天津に集結します。

9月2日、第十師團とともに津浦線に沿って南下、24日、滄県、10月、徳州攻略戦に参加、12月26日、済南を占領します。
昭和13(1938)年4月下旬、徐州會戰に参加、聯隊は師團とともに国府軍の退路を遮断しますが、国府軍は我軍の間隙をついて撤退、さらに国府軍は6月20日、我軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

會戰後、第十師團の属する第二軍は中支派遣軍の隷下となり聯隊は蘆州付近に移駐します。
8月下旬、第二軍の漢口作戰に参加、第十師團の先頭を進撃し六安、固始、光州の戦闘に参加、大別山を突破し、10月24日、応山に進出、26日、第六師團により漢口は攻略され、聯隊は26日、同心店に進撃し敗走する国府軍の退路を遮断、29日、応城を占領します。
10月29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月21日、聯隊は南京に移動、津浦線を北上し彰徳地区周辺の警備、匪賊討伐にあたります。
昭和14(1939)年、騎兵第四旅團と警備を交替し、11月、姫路に帰還します。

昭和15(1940)年8月、騎兵第十聯隊は捜索第十聯隊に改編(三田村逸雄中佐、乗馬・乗車・装甲車・整備各1個中隊)され、軍旗を奉還します(駐滿時に装甲車中隊は軽戦車中隊に改編され、南海派遣隊として転属します)。
8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し編成下令、10日、姫路を出発し、16日、羅津に上陸、17日、佳木斯(チャムス)に屯営し、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、対ソ戦を見越した準備に着手しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始、陣地構築中の7月、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定します。
聯隊は陣地構築を中止し佳木斯に集結、8月5・6日、佳木斯を出発、8月23・24日、臺灣基隆に入港、臺灣西海岸に防御陣地構築を実施します。

11月20日、第十師團は捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定、聯隊(鈴木重忠少佐)は乗馬中隊と自動車を残置し、12月11日、聯隊本部と乗車中隊(歩兵編成3個小隊、機関銃1個小隊)221名がマニラに到着します。
捜索第十聯隊は鈴木支隊として、歩兵第六十三聯隊第六中隊(足立隊)、歩兵第三十九聯隊第四中隊(山口隊)、野砲兵第十聯隊第一中隊第二小隊(湯浅隊、野砲2門)、獨立速射砲1個小隊(対戦車砲2門)、工兵第十聯隊一個小隊を配属(総兵力約600名)されます。
13日、米軍船団がスルー海を北上中との報に接し、山下大将は、19日、『ルソン作戰指導要綱』を隷下部隊に示達、師團は方面軍直轄の「尚武集団」としてルソン島北部の防備を担当します。
12月16日、第十師團はマニラ北方のサンホセに配置が決定、23日、北サンフェルナンドに師團主力を配置し、鈴木支隊はリンガエン東方のサンホセ付近を占領し作戰準備にかかります。
方面軍命令を受けた第十師團は第二十三師團と連携して方面軍主力の左側背を援護するため、鈴木支隊を右地区隊としてサラクサク第二峠西南のサンニコラスに配置します。
鈴木支隊はガバリシアンに移動し陣地構築、軍需品集積を開始します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

2月中旬、米第32師団(兵力約20,000、火砲70門)がサラクサク峠に侵入、鈴木支隊は20倍の敵をサンニコラス-カバリシアンにおいて地形を巧みに生かした反射面陣地に拠って迎撃、さらに夜間切込を実施し敢闘しますが、15日、第一線陣地が突破され、23日、全陣地が占領、野砲は全て破壊、兵力が約80名に減少するに至り、サラクサク峠登り口のサンタマリアに後退します。
3月3日、右地区隊は戦局が悪化したサラクサク峠に派遣された戰車第二師團の指揮下に入り、歩兵4個中隊、機関銃1個小隊を配属されます。

3月4日、サラクサク峠の歩三十九第一大隊(乾善明中尉)は追撃してきた米第32師団に対し反撃を行い一度は撃退に成功しますが、激烈な火砲の支援のもと再度侵攻してきた米第32師団により、10日、天王山の大隊本部が包囲されるにいたり重傷を負った乾中尉は自決、残存の大隊主力は米軍に夜襲を決行し玉砕してしまいます。

23日、鈴木支隊は坑道3条を掘削して天王山東南のフユ高地の奪還に成功、さらに歩兵3個中隊を配属され砲兵第十聯隊の援護射撃とともに天王山奪還を目指しますが米軍の反撃により断念、鈴木支隊の兵力は50名(戦傷25名)にまで減少してしまいます。
鈴木支隊は東方のサラクサク第一峠に転進、新たに歩兵4個中隊を配属され強固な陣地に拠って米軍の侵攻を拒止しますが、5月19日、中核陣地が陥落し、サラクサク峠全域が米軍に占領されてしまいます。
25日、サンタフェを攻略した米第25師団により戰車第二師團の後方連絡線が遮断され敵中に孤立、6月3日、方面軍命令により北進、ルクルク高地に転進、生存者10余名は6月10日、戰車第二師團司令部に編入され、サリナス、アンチポロ方面を転戦、9月10日、鈴木聯隊長以下11名が停戦を迎えます。


騎兵第二十一聯隊
第十七師團捜索隊(月七三九八)
第十七師團戰車隊( 〃 )
第十七歩兵團戰車中隊( 〃 )
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七師團の新設、及び編合を定めます。
18日、騎兵第十三聯隊(永沼秀文大佐、習志野)に騎兵第二十一聯隊の編成下令、10月29日、聯隊本部が編成(大島又彦中佐)され、11月10日、第十七師團各幹部は岡山市内各寺院を間借りして仮庁舎として移転、12月10日、騎兵営が竣工します。
明治41(1908)年3月1日、近衞騎兵聯隊兵営(東京)に収容中の第一中隊が騎兵第十六聯隊兵営(習志野)に転営、5月8日、宮中において軍旗を拝受、9月24日、騎兵第二十一聯隊は習志野から岡山に転営します。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。

大正4(1915)年3月11日、第十七師團の滿洲に駐箚が決定、24日、聯隊は宇野港を出航、25日、大連に上陸、3月31日、奉天に移駐し警備にあたり、大正6(1917)年5月10日、岡山に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、騎兵第二十一聯隊は復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、8月13日、国府軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と国府軍の全面戦闘に発展します。
支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため昭和13(1938)年4月4日、軍令陸甲第二十一號『新設師團編成要綱』により5個師団の新設が下令され留守第十師團の担当で第十七師團が編成(7月17日、完結)されると、騎兵第十聯隊留守隊の担当で第十七師團捜索隊が編成(川島吉蔵騎兵中佐)されます。
編制は聯隊本部(29名、馬匹30、乗用車2)・乗馬中隊(175名、馬匹155)・装甲車中隊(装甲車小隊:九二式重装甲車5/乗車小隊:乗用車1、自動貨車4)でした。

7月15日、第十七師團は2月18日に編成された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員が下令されます。
8月、捜索隊は師團とともに上海に移駐し、7日、蘇州に屯営、9月14日、宜興南方地区の国府軍掃討作戦に参加します。

昭和14(1939)年5月3日、師團の第一次湟里鎮作戰、6月12日、高瑞鎮作戰、10月20日、第二次湟里鎮作戰に参加し捜索、連絡にあたります。

昭和15(1940)年7月13日、第十七師團捜索隊は復帰、要員をもって第十七師團戰車隊が編成され、10月5日、支那第三戦区軍を撃滅すべく第十七師團とともに第十三軍の十一號作戰(江南作戰)に参加します。
11月1日、第十七師團とともに第十三軍の漢水作戰に参加し、12月1日、漢口に帰還し付近の警備に就きます。

昭和16(1940)年4月5日、第十七師團は北支の警備に当たるため北支那方面軍戦闘序列の第十二軍に編入され、徐州に移駐し付近の新四軍(共産軍)の討伐にあたります。
5月初旬、北支那方面軍の中原作戰に参加します。
5月22日、第十七師團戰車隊は復帰し、要員をもって第十七歩兵團装甲車中隊が編成されます。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年2月1日、第十七師團の渦河作戰に参加します。
11月4日、洪沢作戰に参加、張家楼において新四軍と激戦を展開、敵を敗走させるも我が方も損害が出ます。

昭和18(1943)年3月16日、第十七師團の六塘河作戰、4月23日、碭南作戰に参加します。

8月18日、ブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく第十七師團の南方増派が決定し、師團は大本營予備隊となり、次いで9月11日、第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に編入されます。
同日、第十七歩兵團装甲車中隊は復帰、解隊されました。


騎兵第百十大隊(鷺三九一三)
昭和13(1938)年6月16日、騎兵第十聯隊留守隊(田邉積 騎兵中佐)に動員下令され、20日、動員業務開始、25日、動員完結(聯隊長は田邉積 騎兵中佐)し第百十師團(桑木崇明中将、姫路)隷下となります。
編制は大隊本部・乗馬中隊2個・機関銃小隊1個(451名、馬匹431)です。

動員完結後、第百十師團は大陸命第百二十一號により北支派遣と北支那方面軍戦闘序列に編入され、7月9日、大隊は姫路を出発し宇品より出航、14日、塘沽に上陸し、15日、通県(旧通州)に到着し歩兵第百八旅團の指揮下に入ります(第二中隊主力を薊県の警備に派遣)。
7月20日、大行山脈一帯の共産軍討伐のため冀東作戰に参加、9月19日、北部山西作戰では通県双橋付近の戦闘に参加、昭和14(1939)年1月、三河県苦山付近の戦闘、6月3日、香河県張荘付近の戦闘に参加、18日、大隊は高陽県に移駐し歩兵第百十聯隊第十中隊(松枝計夫中尉)を配属され高陽・安新・蠡・容城県の警備にあたります。
7月13日、高陽県は水害により白洋淀の溢水、猪龍河の堤防決壊により警備地が浸水被害に遭います。
15日、旧城鎮付近、10月8日、安新県泰裏村付近、9日、蠡県張段庄村付近、22日、安新県荊関村付近、27日、安新県北馮村、12月3日、安新県老家頭付近で共産軍と闘います。

昭和15(1940)年3月13日、集成第二中隊が冀中作戰(イ號)参加のため高陽を出発、21日、大隊主力、冀中作戰(ロ號)に参加します。
6月17日、大隊は高陽から徐水へ移駐し、容城県の警備、7月4日、徐水から藁城へ移駐し、警備にあたります。
10月4日、晋県荘頭村付近、昭和16(1941)年2月16日、武邨鎮付近、6月30日、藁城県西里村付近、8月1日、趙県董荘付近、藁城県林中付近、12月28日、藁城県禅房付近で共産軍と闘います。

昭和17(1942)年5月1日、冀中作戰(三號)に参加します。

昭和18(1943)年5月1日、軍令陸甲第三十八號により在支師團の編成が改正され復員が令され、6月10日、河北省無極県において復員、昭和13・14年兵は内地の捜索第五十四聯隊補充隊に転属し、25日、召集解除、昭和15年兵は歩百十、歩百三十九、歩百六十三の乗馬小隊として分属しました。


捜索第五十四聯隊(兵一〇一一五)
昭和15(1940)年7月10日、騎兵第十聯隊補充隊は捜索第五十四聯隊に改変(澁谷順造中佐)され、8月7日、編成完結した第五十四師團(秋山義允中将、姫路)隷下となります。
編制は聯隊本部・乗馬中隊1個・乗車中隊1個・装甲車中隊1個です。

昭和18(1943)年2月17日、第五十四師團(片村四八中将)に動員下令、南方軍(寺内寿一大将)隷下の第十六軍(原田熊吉中将)に編入され、第五十四師團とともに宇品港、門司港から3梯団に別れスラバヤに出港します。
出動にあたり聯隊(中村忠雄中佐)は乗車中隊2個・装甲車中隊2個に改編されます。

4月10日、スラバヤ市に集結、東部ジャワの警備に就きます。

10月上旬、第五十四師團とともにビルマのペグー山系西側のブローム付近に集結、12月16日、緬甸方面軍(川邊正三中将)の直轄となり、昭和19(1944)年1月15日、第五十四師團は第二、第五十五師團とともに緬甸方面軍隷下に新設された第二十八軍(桜井省三中将)に編入され第五十五師團(花谷正中将)とともにアラカン山脈を越えビルマ西海岸に移駐、ルイワ以南イラワジ河口の守備に就きます。

昭和19(1944)年1月7日、緬甸方面軍隷下の第十五軍(牟田口廉也中将)によるウ號作戰(インパール作戰)の実施が決定、2月3日、第五十五師團はインド国境付近の英印軍撃滅を目指したウ號作戰の支作戦であるハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始します。
第五十五師團の出撃により第二師團はサンドウェー以南地区への移駐、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を引き継ぎ、アキャブ-サンドウェー地区の防衛に就き、聯隊は第五十五師團の兵站線の警備にあたります。

第五十五師團は5日、シンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は停滞、23日、遂にプチドン-モンドウに後退します。
7月中旬、優勢な英印軍の反撃を受けウ號作戰は中止、第十五軍は英印軍の追撃を受けながら後退します。
ビルマ北部の進展に伴い、英印軍第15軍団は第二十八軍の作戦地域であるベンガル湾方面でも攻勢に転じ、第五十四師團はさらにバセイ地区に転進します。
聯隊は建制を分散して第一・第三中隊を師團直轄としてアン高地に残置し、聯隊は本部・第二中隊に歩兵1個中隊・砲兵1個小隊を配属され、イラワジ河東側のミエボン半島にミエボン地区隊(中村大佐、約500名)として、第四中隊はダンカップ地区隊(歩百二十一長澤貫一大佐、のち馬場進大佐)の指揮下に入り防備に就きます。

昭和20(1945)年1月2日、英印第25師団が海空の援護のもと大型輸送船4、上陸用舟艇40を以てミエボンに上陸を開始、聯隊は40倍の英印第25師団と激戦を展開しますが、圧倒的な兵力差に遂にミエボン北方に後退します。

第五十四師團長・宮崎繁三郎中将は師団直轄の捜索・歩兵各1個中隊を増援しますが敵の反撃により会合できず、聯隊はカンゴウ地区に後退を命じられ、歩百五十四(村山一馬大佐)の指揮下に入り右地区隊として防備に就きます。
しかし、カンゴウ北方からは英軍の西アフリカ第81・第82師団が南下、第五十四師團は腹背に敵を受ける事になったため2月下旬、師團命令により歩百五十四はカンゴウを徹しアン高地に転進します。

3月8日、英軍に通じたビルマ国民軍(アウンサン少将)の一部が反乱したため、聯隊主力は討伐にあたります。

3月10日、第二十八軍は完二號作戰を発動、第五十四師團はアラカン山系以西のアキャブ-ダンカップ防衛と侵攻する敵の撃滅を命じられます。

12日、英第十五軍団はメイ付近に上陸を開始、ダンカップ地区隊(歩百二十一馬場進大佐)は捜索第五十四聯隊第四中隊を派遣しますが、メイ南方に侵攻した英軍中戦車と遭遇し全車破壊され戦力を失ってしまいます。

3月下旬、宮崎中将は一挙に英印軍を撃破すべく主力をアン高地に後退集結、4月8日、第五十四師團は追撃して来た英印軍に反撃を開始、聯隊は右翼隊(歩百五十四)に属し、10日、レモーで英印軍を撃破しレモーを占領しますが、捜索五十四・中村聯隊長、歩百十一・矢木孝治大佐、輜重五十四・大田貞次郎大佐が相次いで散華してしまいます(捜索五十四、後任は5月3日付で古賀文雄少佐)。
第五十四師團は敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を絶った英印軍と激戦を展開、13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、隷下部隊をアンに集結します。

英アフリカ第81、82師団のイラワジ河畔南下を阻止すべく第五十四師團はアラカン山脈以西の英印軍を拒止するためキャクパタン-ダンカップ付近に陣地を占領し、南下してきた英アフリカ第82師団を地形を利用し拒止、主力は歩百五十四を先遣隊とし山脈東側のアランミヨに転進を開始、英印軍の南下に備えます。

5月6日、第五十四師團はアラカン山脈第一軍道東側(イラワジ川西岸)のカマ付近に集結し渡河準備を開始、20日、英印軍の砲撃下、イラワジ河の渡河を開始、25日、渡河に成功、英印軍包囲の間隙を突破し、27日、3縦隊となって英印軍の追撃を受けながら、29日、ペグー山系西側のプロームに集結します。
6月末、第二十八軍の撤退援護である邁作戰準備のためマグエ-パウガン西高地-六〇九高地を占領し英印軍の攻撃を撃退しますが、師團内で悪疫が発生し多くの犠牲者が出ます。

6月14日、第五十四師團は悪疫蔓延と英印軍に包囲される危険が生じたため、隷下部隊を3縦隊としてペグー山系に機動を開始、豪雨による悪路に苦闘し、過労、糧食欠乏、マラリヤ発生により多くの兵員を失いながら7月中旬、ペグー山系東端に到着します。
7月20日、主力はビユー、一部はトングーからそれぞれ出発、シッタン平地を突破し、23日、ウェイジーに到達、英印軍と激戦を展開しつつシッタン河を渡河します。
英印軍に加え背反したビルマ愛国軍(旧ビルマ独立義勇軍)の追撃を受けながらシッタン河渡河により多くの兵員を失いながらも第五十四師團隷下部隊は8月9日頃、イワガレ付近に集結、シッタンに向け南下中の23日、シュウエジンにおいて停戦を迎えます。


参考文献
『日本騎兵史 下』(昭和55年 佐久間亮三、平井卯輔 原書房)

『騎兵第百十大隊史』(昭和60年3月 騎兵第百十大隊史刊行委員会)

『日本騎兵八十年史 萌黄の栄光』(昭和48年10月 萌黄会 原書房)
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No Title

騎兵代10連隊跡地にある、自衛隊の自動車教習所に馬魂碑が有りますね。
移設されていないなら、騎兵連隊の物でしょうかね?

Re: No Title

kanさん、こんばんは。
そうなんですよ。
実はその碑の存在は知っており、騎兵第十か百十大隊史だったか、日本騎兵史だったか忘れましたが(大隊史が可能性大)騎兵聯隊のものと確認も取れています。
ただ、姫路駐屯地の見学が基地祭では無く個人見学だったため、残念ながら通常業務中で騎兵聯隊跡は行けませんでした。
と言う事で、記事も何となく濁らせてみたのですが(笑)
次回は記念行事に出撃してもう一度確認して来たいと思います。

No Title

あら、いけない事を書き込んじゃいましたか?

Re: No Title

kanさん、こんばんは。
いえいえ、全然そんな事ないですよ。
下書きだけしてアップしなくても良かったのですが、順番でとりあえず上げた次第です。

これからもお気づきの点がありましたら、ドシドシ書き込んじゃって下さい。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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