当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

野砲兵第十聯隊(鐡五四五一、滿洲第三三〇部隊)、野砲兵第五十四聯隊(兵一〇一一七、中部第二十七部隊) 他兵営

姫路城周辺の陸軍遺構紹介ですが、続いて姫路城の北2㎞の野里地区に隣接してあった騎兵、野砲兵、輜重兵営を紹介します。
続いて野砲兵第十聯隊を紹介します。

野砲兵第十聯隊 建物エ(砲廠) 南東から(姫路駐屯地)
▲砲廠

更新情報
平成23年11月6日、創立記念行事時に撮影の写真追加






野里の陸軍部隊、官衙配置
姫路市全圖(昭和15)(姫路遺構) (2)
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)

野里220928(姫路遺構)
▲昭和22年9月28日の空撮

姫路城周辺~遺構(停戦時)2
▲『姫路市全圖』を現在の地図に転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
㉑騎兵第十聯隊
野砲兵第十聯隊
㉓輜重兵第十聯隊
㉔城北練兵場
名称については一般的な昭和15(1940)年頃のものです。


遺構について>(アルファベットは遺構など、上掲地図参照
※青字は地図にリンクしています
野砲兵第十聯隊
現在、兵営跡全てが陸上自衛隊姫路駐屯地になっており、下記の建物、石碑類が残されています。

見学については毎年11月上旬の駐屯地創立記念行事、8月初旬の納涼祭の際の駐屯地一般開放、もしくは事前連絡(2週間前まで)で見学できます。
事前連絡による見学では広報の方に資料館等を説明しながら案内して頂けます。

姫路旅行2日目の記事でも書きましたが、姫路駐屯地の資料館は自衛隊資料館の中でも屈指の資料館で、展示量、内容など非常に見どころ豊富です。
駐屯地を訪れた際は是非ご覧ください。
姫路駐屯地資料館(公式サイト)

兵営北東端は昭和15(1940)年以降に拡張されたようです。

野砲十 検閲(姫路遺構)
▲営庭での検閲


ア 木造建物
建物ア 東から(姫路遺構)
▲東側

建物ア 西から(姫路遺構)
▲西側

陸軍時代の建物ですが用途は不明です。場所・形状からして食堂か?
木造・スレート葺です。
屋根は葺きかえられています。


アの建物の近くにある小型の建物①
ア付近の建物① 北から(姫路遺構)
詳細、用途不明です。
当時の物か不明ですが、全面コンクリート造・瓦葺です。


アの建物の近くにある中型の建物②
ア付近の建物② 北東から(姫路遺構)
詳細、用途不明です。
当時の物か不明ですが、コンクリート造・瓦葺です。
昭和22(1947)年の空撮に移っていますが、米軍進駐時の建物の可能性もあります。


イ 建物
建物イ 北西から(姫路遺構)
陸軍時代の建物ですが用途は不明です。場所からして倉庫か?
木造・瓦葺です。


北門
北門(姫路遺構)
陸軍時代もこの場所に北門がありました。
門柱は白色に塗装されており、北門にしては幅が広すぎる事から戦後造られた可能性が大きいです。


ウ 建物  
建物ウ 北西から(姫路遺構)
▲西側の棟

建物ウ 北東から(姫路遺構)
▲北側の棟

詳細、用途不明です。
陸軍時代はこの場所に将校集会所がありました。
コンクリート製で屋根瓦を葺いています。
昭和22(1947)年の空撮に移っていますが、米軍進駐時の建物の可能性もあります。


東門
東門(姫路遺構)
北門同様、陸軍時代にはここに東門がありました。
北門と同様の加工から、戦後の物と思われます。


エ 各種工場
野砲兵第十聯隊 建物エ 北から(姫路駐屯地)
陸軍時代の建物であり、工場と思われます。
野砲兵第四聯隊(大阪、現陸自信太山駐屯地)内に残る工場と同等の規模です。

建物エ 東側入口内部(姫路遺構)
▲エ 各種工場の階段
 
建物エ 西側入口内部(姫路遺構)
▲エ 各種工場の廊下
 ほとんど当時のままです。


オ 砲廠
野砲兵第十聯隊 建物エ(砲廠) 南東から(姫路駐屯地)
▲正面側(南東から)

建物オ(砲廠) 北東から(姫路遺構)
▲裏・側面側(北東から)

建物オ(砲廠) 西側の基礎(姫路遺構)
▲砲厰基礎
 西側は幅が2m程詰められています。

陸軍時代の建物です。
同じく野砲兵第四聯隊内に残る砲廠(野砲の格納庫)と同等の規模で、特徴ある形状をしています。
※この「砲厰」ですが、平成23年11月6日の創立記念行事の際に見たところ、外壁が鋼板張り、扉もアルミ製に改装、特徴的な南側外壁に飛び出した支柱も全て新品に交換されていました。


資料館の横に用途廃止の自衛隊火砲とともに各種記念碑などが移設されています。

P 歩哨舎
  「御幸松」碑
  砲弾型の碑
  軍馬鎮魂 軍馬之碑
  「野砲兵第十聯隊 こゝに」碑


歩哨舎
野砲兵第十聯隊 歩哨舎(姫路駐屯地)
元は営門にあったものが移設されました。
本来は金属製の庇が付いていたようですが、朽ちています。


「御幸松」碑
御幸松(姫路遺構)
▲「御幸松」碑(右)と由来碑(左)

元は兵営南側の城北練兵場の入口にあった御幸松の傍らに、明治36(1903)年11月に建てられました。
副碑は明治41年3月14日に御幸松の由来を示すため建てられました。
副碑は表面の右上部が剥落しており、一部読めません。
御幸松の位置は上掲『姫路市全圖』にも記入されています。

明治36(1903)年11月16日、明治帝は姫路に行幸、城北練兵場で挙行された閲兵式を御統監され、明治帝の玉座が置かれた場所に第十師團長・川村景明中将により記念の御幸松が植えられます。
城北練兵場1(姫路遺構)
▲明治36(1903)年11月16日の閲兵式の様子


砲弾型の碑
営門前築山の砲弾型飾り(姫路遺構)
元は営門を入った正面にあった築山に飾られていました。
野砲兵を示すコンクリート製の砲弾に金鵄勲章を元にした飾りが付けられています。

野砲十営門(姫路遺構)
▲営門
 営門内の築山に白色に塗られた碑が見えます。
 良く見ると金鵄の飾りの下に銘版のような物が付いています。

野砲兵第十聯隊 営門跡(姫路遺構)
▲現在の営門跡付近
 数年前まではこの場所にも入口があったようですが、現在は完全に閉鎖されています。


軍馬鎮魂 軍馬之碑
軍馬鎮魂 軍馬之碑(姫路遺構)
野砲兵第十聯隊関係者によって戦場で哀歓を分かち合った軍馬の慰霊のため、昭和61年4月に建立されました。
文中に「野放会会長」とあるのですが「野砲会会長」の間違いのような気が・・・?


「野砲兵第十聯隊 こゝに」碑
野砲兵第十聯隊ここに(姫路遺構)
昭和41年12月4日に建立されました。


S 殉職隊員慰霊碑
  高取峠殉職之碑

殉職隊員慰霊碑(姫路駐屯地)
陸軍遺構ではありませんが、姫路駐屯地に関連する殉職自衛官の方の慰霊碑です。
姫路駐屯地を訪れた際は殉国の英霊同様、感謝の誠を捧げましょう。


衛戍部隊
野砲兵第十聯隊(鐡五四五一、滿洲第三三〇部隊、中部第二十七部隊)
明治29(1896)年3月9日、我が国は安全保障のため『陸軍平時編制』(陸軍省通達送乙第六七一號)を制定し、第七から第十二師團の6個師團の編成が決定します。
11月、野戰砲兵第四聯隊(大阪)内において野戰砲兵第十聯隊が編成(西村精一砲大佐)され、明治30(1897)年10月、兵舎が新築された姫路市平野村の新兵営に移転します。
明治31(1898)年10月1日、聯隊は編成完結し姫路に衛戍した第十師團(伏見宮貞愛親王中将)隷下に編入されます。

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、第十師團に動員下令、5月7日、聯隊は姫路を出発、8日、神戸港を出航し、19日、大孤山に上陸、6月9日、岫巌、6月25日、遼陽に向かう要所・分水嶺の戦い、7月30日、析木城の戦い、8月25日、遼陽會戰、10月7日、沙河會戰に参加し、明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加し、特に第一大隊長・鈴木孝雄少佐は感状を賜ります。
9月1日、講和条約が締結され明治39(1906)年2月6日、姫路に凱旋します。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正に伴い野砲兵第十聯隊と改称します。
第十師團は第十六師團(山中信儀中将、京都)に代わり滿洲駐箚が決定、10月21日、聯隊は姫路を出発、第十師團は關東都督(大島義昌大将)の指揮下に入り旅順の警備に就き、明治42(1909)年10月6日、姫路に帰還します。

大正14(1925)年5月31日、第十師團とともに滿洲駐箚のため姫路を出発、6月8日、遼陽、奉天の警備に就き、昭和2(1927)年9月11日、姫路に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、12月17日、混成第八旅團(村井清規少将)に聯隊から混成1個中隊(門司蔵六大尉)が編入され姫路を出発し奉天に到着、泰山線・哈爾浜の警備に就き、黒山・新民方面の討伐にあたります。

昭和7(1932)年4月、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定し、4月18日、哈爾浜に到着し混成第八旅團を復帰させ周辺の警備・反吉林軍(反日反滿の張学良系兵匪)討伐にあたります。
昭和8(1933)年2月、第十師團は吉林省に配置され、周辺の匪賊討伐にあたります。
11月13日、關東軍の秋季討伐作戰、昭和9(1934)年2月1日、冬季討伐作戰などに参加し、5月7日、滿洲守備を第三、第十六師團と交替、第十師團とともに姫路に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、7月27日、第十師團に動員下令、8月8日、聯隊は動員完結(重田徳松大佐、2,994名・馬匹2,330頭・改三八式野砲36門・十糎榴弾砲12門)、11日、神戸港を出航、17日、大沽に上陸後、天津に集結します。

8月13日、国府軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と国府軍の全面戦闘に発展します。

31日、北支方面軍(寺内寿一大将)が編成され、第十師團は方面軍隷下第二軍(西尾寿造中将)に編入されます。

9月2日、聯隊は第十師團とともに津浦線に沿って南下、9月24日、滄県を、10月、徳州を攻略、12月23日、黄河の敵前渡河に成功、国府軍を敗走させ、26日、済南を占領します。
昭和13(1938)年1月7日、第二軍の山東平定作戰において、16日、済寧城を攻略、4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、4月下旬、集結した国府軍50個師團を殲滅すべく中支那派遣軍、北支方面軍の徐州會戰に参加、第十師團は棗荘から微山湖を迂回し南下進出しますが、国府軍は我軍の間隙をついて撤退、さらに国府軍は6月20日、我軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

第二軍は中支派遣軍の隷下となり第十師團は蘆州付近に移駐します。
8月下旬、聯隊は第十師團とともに第二軍の漢口作戰に参加、六安、固始、光州の戦闘に参加、大別山を突破し、10月24日、応山に進出、26日、第六師團により漢口は攻略され、師團は26日、同心店に進撃し敗走する国府軍の退路を遮断、29日、応城を占領します。
10月29日、第十師團は北支那方面軍の戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月21日、聯隊は南京に移動、津浦線を北上し彰徳地区の周辺の警備、匪賊討伐にあたります。
昭和14(1939)年10月16日、姫路に帰還します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し編成下令、7日、聯隊は編成完結し、10日、第十師團とともに姫路を出発し、16日、羅津に上陸、17日、佳木斯(チャムス)東南崗に屯営し、匪賊討伐、警備にあたります。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第十師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、聯隊は4個大隊、聯隊・大隊・中隊段列が装備、人員3,254名、馬匹2,410頭、自動車43台に改編、第十師團隷下に第十砲兵團司令部が新編され、作戦地域の特性上、渡河訓練担当部隊となり工兵隊との協同訓練、渡河作戦における火力戦闘研究演習を実施します。
8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

13日、聯隊を始め在満砲兵聯隊から兵員が抽出され、第十師團の警備地区に第七獨立守備砲兵隊(關東軍直轄、第十師團の区処)が編成、三江省東正面の富錦に配置されます。

昭和17(1942)年6月24日、牡丹江省勃利において戰車第二師團が新設、聯隊から多数の将兵を抽出し師團隷下の機動砲兵第二聯隊が編成されます。

昭和19(1944)年2月23日、ロ號演習参加(サイパン島派遣)部隊の編成下令、25日、第三中隊(山根庄三大尉)の編成完結、歩兵第十聯隊第三大隊とともに第一派遣隊(第二十五歩兵團長・岡芳郎大佐)に編入されサイパンに向かいます。
《5月22日、第一派遣隊は獨立混成第四十七旅團に改編、第三中隊は旅團砲兵隊となり、ヒナシス山地に布陣します。6月15日、米軍上陸に際しチャランカノアに水際攻撃を実施、上陸用舟艇数隻を撃破し敵を大混乱に陥れます。しかし、橋頭堡を築いた米軍の猛攻に兵員・火砲の大半を喪失、同日夜間、17日未明の逆襲に支援射撃を実施、敵砲兵陣地に大打撃を与えるも17日夕刻までに全火砲が破壊され、山根大尉以下生存者50名はドンニイ方面に後退、25日、肉迫攻撃隊を編成しチヤチヤから侵攻してきた敵戦車に対し突入、山根大尉以下壮烈な最期を遂げました。》

3月5日、聯隊から将兵617名を抽出し獨立野砲兵第九大隊が編成、3月24日、一號作戰(大陸打通作戦)参加のため支那戦線に向かいます。

昭和19(1944)年1月、ソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始、陣地構築中の7月26日、第十師團の臺灣軍(安藤利吉大将)編入が決定します。
31日、聯隊(多勢清作大佐)は出動準備を終え佳木斯に集結、8月5・6日、佳木斯を出発、9月2~6日、釜山を出港、門司に寄港し玉三十七船団に編入され、9月18日、臺灣基隆に入港、聯隊本部・第一大隊は臺中豊原、第二大隊は臺北、第四大隊は臺南鳳山に防御陣地構築を開始します。

11月20日、第十師團は捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定、聯隊は交替部隊に陣地を引き継ぎ高雄に集結、12月5日、第一梯団の有馬山丸に第二大隊が乗船し出港、11日、マニラに入港します《第二大隊から第六中隊(那須中隊)が永吉支隊(歩三十九基幹:バターン半島守備)に編入され、迫撃砲を以て敵上陸部隊と交戦、砲破壊後は歩兵に転じ玉砕(140名中、負傷者4名のみ生還)してしまいます。》。
19日、第十師團主力とともに聯隊主力も江の島丸、大威丸、乾瑞丸に分乗して出港、23日、江の島丸はルソン島北部のペトリナオ岬(第四中隊はサンホセへ、第十中隊は当地の第百三師團指揮下に)、大威丸はルソン島西部の北サンフェルナンドに入港し第十師團の集結地サンホセに向かいますが、機関の故障で落伍した乾瑞丸が23日、北サンフェルナンド目前で敵潜水艦の雷撃を受け轟沈、乗船の第三中隊は兵員60名、兵器弾薬全てを失う悲運に見舞われます(中隊は第百二師團の補充要員により再編)。

サンホセに集結後、聯隊は第十師團の作戦計画に基づきサラクサク第二峠登り口のカバリシアンの捜索第十聯隊(鈴木重忠少佐)に第一大隊第一中隊(湯浅中隊)、サラクサク峠に第四大隊(石井大隊)、カルンバオ丘の三角山の歩六十三第二中隊に第四中隊1個小隊(石橋小隊、後に撤収)を派遣、ブンカンに第一大隊(赤座大隊)を残置し中部ルソン平野から北部ルソンのカガヤン河谷に通じる5号道路の要所バレテ峠に聯隊主力を配置し防御戦闘の準備を行います。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

1月30日、米第6、25師団がサンホセに侵攻を開始、2月4日、米第6師団の攻撃に歩三十九第一大隊第一中隊(吉田勇中尉)が、13日、米第25師団の攻撃に歩十第二大隊(内藤大尉)が玉砕してしまいます。
2月9日、米第25師団の先遣隊がプンカンに侵攻、赤座大隊の砲撃により敵先遣隊を敗走させます。
米第25師団はブルドーザーで山岳地を開削、戦車と迫撃砲を伴う激烈な砲撃に井上集成第二大隊(井上恵少佐)は玉砕、火砲は悉く破壊され赤座大隊長以下50名が夜間切込を実施し抵抗しますが、3月13日、撤退命令を受けサンタフェの聯隊本部に到着します。

2月1日、湯浅中隊は重見支隊(戰車第二師團隷下の戰車第三旅團)の残存兵を収容援護、サラクサク峠に侵入してきた米第32師団を9日頃までアンバヤン河で拒止します。
しかし、戦車をともなう米軍の猛攻に、20日、湯浅中隊は壊滅、3月1日、カバリシアンを奪取され捜索第十聯隊は兵力が約80名に減少し壊滅、サラクサク第二峠のサンタマリアに後退、3月3日、戦局が悪化したサラクサク峠の第十師團隷下部隊は、同峠に方面軍により派遣された戰車第二師團(岩仲義治中将)の指揮下に入ります。

3月4日、捜索十聯隊長・鈴木少佐は歩三十九第一大隊(乾善明中尉)を指揮し、野砲十の援護射撃を受け追撃してきた米軍に対し反撃を行い一度は撃退に成功しますが、激烈な火砲の支援のもと再度侵攻してきた米第32師団により、10日、天王山の大隊本部が包囲されるにいたり重傷を負った乾中尉は自決、残存の大隊主力は米軍に夜襲を決行し玉砕してしまいます。
爾後、峠道の要所・池の台、アキ高地(藤原、成田山、天王山)、金剛山をめぐり米軍との激戦が展開され、野砲十はバレテ峠付近の榛名山、朝日山、サンタフエノに頑強な砲陣地を構築、サラクサク峠の聯隊正面の米第32師団に加え北上してくるミヌリの米第25師団に対しても効果的な支援射撃を実施します。
23日、戰車第二師團隷下の戰車第十聯隊(歩兵化部隊)の増援を受けた捜索第十聯隊は天王山東南のフユ高地の奪還に成功、野砲十の援護射撃とともに天王山奪還を目指しますが米軍の反撃により断念、東方に転進し米軍の侵攻を拒止します。
4月中旬、米軍は脅威となるバレテ峠の我が砲兵陣地を徹底的に砲撃、次第に火砲は破棄・埋没してしまいます。
5月上旬、サラクサク峠の陣地はほぼ米第32師団に占領され、5月25日、南からはサンタフェの聯隊本部に米第25師団が侵攻し包囲されます。
野砲第十聯隊長・多勢大佐はサンタフェにおいて玉砕を決意しますが、再三の師團命令を受け挺身切込隊の援護のもと生存者を率いて遂にサンタフェ北方のポネに後退、飢餓・悪疫に苦闘しながら、7月上旬、第十師團隷下部隊はカシブに集結、8月7日、カシブを出発し、人跡未踏の山岳地帯を踏破し8月中旬、ピナパガンに到着、自戦自活体制に移行するなか、9月11日、停戦を迎えます。

一方、戰車第二師團指揮下に入った野砲十聯隊第一大隊第一中隊(湯浅中隊)、第四大隊(石井大隊)の生存者は、25日、サンタフェを攻略した米第25師団により戰車第二師團は後方連絡線が遮断され敵中に孤立、6月3日、方面軍命令により北進を開始、サリナスを経てアンチポロのプログ山に転進し複郭陣地を構築、飢餓と悪疫に苦闘するなか8月20日、停戦を迎えます。
野砲兵第十聯隊は2,136名でルソン島の闘いに参加、停戦により322名が復員します。


野砲兵第二十三聯隊(月七三八七)
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、第十八師團(久留米)とともに第十七師團の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定します。
9月17日、『陸軍管區表』・『陸軍常備團隊配備表』を改正、第十七師團の新設、及び編合を定めます。
9月18日、野砲兵第五聯隊(高瀬清二郎中佐、広島)に野砲兵第二十三聯隊の編成下令、10月23日、第五師團司令部(木越安綱中将、広島)に第十七師團の新設準備が下令、11月1日、聯隊本部が編成(岩倉久米雄中佐)、10日、第十七師團各幹部は岡山市内各寺院を間借りして仮庁舎とします。
明治41(1908)年2月10日、岡山に野砲兵営が竣工、9月14日、野砲兵第二十三聯隊本部は新兵営に転営、12月13日、第一大隊が編成、明治42(1909)年11月30日、第二大隊が編成され編成完結します。

明治43(1910)年11月13~17日、吉備平野で行われた陸軍特別大演習に参加の後、17日、岡山陸軍練兵場で挙行された観兵式に参加します。

大正4(1915)年3月11日、第十七師團の滿洲に駐箚が決定、24日、聯隊は宇野港を出航、25日、大連に上陸、6月4日、海城に移駐し警備にあたり、大正6(1917)年6月1日、岡山に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、野砲兵第二十三聯隊は復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、8月13日、国府軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と国府軍の全面戦闘に発展します。
支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため昭和13(1938)年4月4日、軍令陸甲第二十一號『新設師團編成要綱』により5個師団の新設が下令され、7月17日、留守第十師團の担当で第十七師團は編成完結します。
4月20日、野砲兵第十聯隊留守隊に野砲兵第二十三聯隊(辻演武大佐)の編成が下令されます。

7月15日、師團は2月18日に編成された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員が下令されます。
29日、聯隊は姫路を出発、30日、宇品を出航し大連に上陸、8月5日、蘇州の警備に就きます(第一大隊は7月31日、大阪を出航、8月4日、上海に上陸し8日、歩兵第五十三聯隊に配属され宜興付近の警備に就きます)。
爾後、聯隊は中隊単位で第十七師團隷下歩兵聯隊に配属され蘇州、宜興付近の警備に就きます。
10月4日、第三大隊は第十七師團により編成された鈴木支隊(第十七歩兵團長・鈴木春松少将)に配属され中支那派遣軍の漢口作戰では、甘木関で国府軍に包囲された第百六師團の解囲作戦に参加します。
昭和14(1939)年5月29日、第十七師團の第一次湟里鎮作戰、6月12日、高瑞鎮作戰に参加します。

9月23日、第十七師團は中支派遣軍の戦闘序列を解かれ支那派遣軍の戦闘序列にある第十三軍の隷下となります。

10月4日、堰橋付近の戦闘、7日、成章鎮の戦闘、20日、第十七師團の第二次湟里鎮作戰、錫江県境討伐、12月17日、青陽貴池作戦に参加します。

昭和15(1940)年1月14日、泰興作戰、2月8日、銭塘江南作戰、4月22日、春季皖南作戰に参加、第十三軍の宜昌作戰、10月3日、十一號作戰(江南作戰)に参加します。
10月31日、第十七師團は第十一軍に配属され、聯隊は11月9日、漢水作戰に参加します。

昭和16(1941)年1月17日、第十一軍の和號作戰(予南作戰)に参加します。
3月7日、第十七師團は第十三軍に復帰、聯隊も蘇州に帰還します。
3月20日、第十三軍の太湖西方作戰に参加します。

4月5日、第十七師團は北支の警備に当たるため北支那方面軍第戦闘序列の十二軍に編入され徐州に移駐します。
7月10日、編成改正により十二糎榴弾砲中隊が廃止され、2個大隊編成となります。
9月18日、第一次長沙作戰に呼応した第三十五師團の河南作戰に参加、黄河渡河作戰に協力します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年1月1日、作戦地域の境界変更により第十七師團は再び第十三軍の隷下に復帰、2月1日、第十七師團の渦河作戰に参加します。

5月4日、第十一軍・第十三軍による本土を爆撃(ドーリットル空襲)したB-25が、着陸を予定していた支那空軍の飛行場を覆滅すべく「せ」號作戰(浙贛作戰)に原田旅團(第十七歩兵團長・原田次郎少将)に配属され第百十六師團の指揮下に参加、10月9日、第十七師團に復帰します。

11月4日、第十三軍の洪沢作戰、11月26日、豊錫銅作戰、12月18日、魯予辺境作戰、31日、第十一軍・第十三軍による大別山系の支那軍掃討のため大別山作戰が開始、金子支隊(歩八十一聯隊長・金子篤大佐)に属し獨立混成第十三旅團(早淵少将)の指揮下、第二次中作戰に参加します。
2月11日、蘇淮作戰に参加しますが、敵兵は早期に撤退します。

7月10日、編成改正により3個大隊に改編(野砲兵第三十九聯隊より十糎榴弾砲1個大隊が編入)されます。

昭和18年2月、我が国はガダルカナル島を失陥、6月30日、レンドバ島に米軍が上陸し本格的な反攻が開始されます。
7月、陸海軍はブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく、8月15日、参謀本部において行われた陸海軍合同兵棋演習の結果、第十七師團の南太平洋方面への増派が決定します。
8月18日、第十七師團は大本營予備隊となり、次いで9月11日、第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に編入されます。

9月24日、第一大隊は第一梯団として上海出航、10月5日、第一大隊は第十七歩兵團(木島袈裟雄少将)とともにブーゲンビル島に派遣され、10日、タリナに上陸し、歩四十五の指揮下に入りアリグワの警備に就きます(第一大隊は11月26日、スン高地の守備に就いたのち昭和19年5月、再びアリグワの守備に就きます。7月24日、獨立混成第三十八旅團に改編、第一大隊は同旅團砲兵隊に改編され停戦を迎えます)。

10月20日、聯隊本部・第六中隊は「粟田丸」、第八中隊は「日枝丸」に乗船し第二梯団として、21日、第二大隊は「護國丸」、第三大隊は「清澄丸」に乗船し第三梯団として上海を出航しますが、22日、第二梯団輸送中の「粟田丸」が久米島付近において米潜グレイバックの雷撃を受け沈没、野砲二十三聯隊長・森軍司大佐以下272名、歩八十一第一大隊、師團通信隊など合計698名を失う悲運に見舞われます(12月2日、野砲二十三聯隊長・菅井房吉大佐が着任)。
11月4日、「清澄丸」「、日枝丸」、「護國丸」は敵潜水艦、敵機の攻撃により損傷しながらもトラック経由でカビエンに入港します。

10月5日発令された第十七師團命令により、11月5日、聯隊は第十七師團指揮下に入った松田支隊(歩兵第六十五旅團長・松田巌少将)に配属されナタモ・ガスマタ、第二大隊は師團直轄としてガブブに海路前進し守備に就きます。

12月26日、米第一海兵師團がグロスター岬の東岸ナタモ、西岸タワレに上陸を開始、松田支隊が迎撃にあたります。
爆撃機、艦砲射撃、火砲に支援された米軍の攻撃に、海岸陣地、高射砲陣地が破壊されてしまいます。
支隊各隊(左・左小、右、右小、中川地区隊)は水際陣地を突破されながらも第二線陣地で頑強に抵抗しますが、次第に損害が増加、昭和19年1月8日、松田少将は戦力低下を防ぐため支隊全力をナタモ付近に後退させます。
1月20日、松田支隊は師團命令によりガスマタ、タラセアに転進を開始、27日、聯隊も転進を開始します。

2月上旬より中旬にかけ、ラバウル及び周辺要地に対する米軍の爆撃は増加、第十七師團への補給が困難な状況になったため、2月23日、方面軍は師團のラバウル後退(カ號作戰)を決定します。

3月3日、米軍は転進する松田支隊を捕捉すべく、タラセアに上陸を開始、転進援護の照沼支隊(歩五十四第一大隊長・照沼清松少佐、野砲二十三第九中隊)が迎撃にあたります。
照沼支隊は圧倒的な米軍戦力に苦戦、米軍が包囲にかかったためシュロイター山の陣地を放棄し後退、米軍を遅滞しつつ松田支隊を援護し、3月20日、ガブブに集結します。

聯隊は米軍の追撃を受けつつ食料の欠乏するなか、未開の密林を泥濘に悩まされながら踏破、4月22日、聯隊本部、第三大隊主力、20日、第九中隊、5月中旬、第六中隊がシナップの方面軍収容地に到着します。

第十七師團はラバウル西部海岸の防衛を担当、聯隊はヨーク島・ワトム島に来攻する敵を迎撃すべく連日の空襲下、地下陣地を構築、訓練を行うと共に密林を伐開し開梱、自活体制を採るなか、8月16日、停戦を迎えます。

9月6日、英空母グローリーにおいて降伏調印式が行われ、10日、ラバウルに豪第11師団が進駐、聯隊は第十集團として収容されます。
昭和21(1946)年5月3日、聯隊はラバウルを出航、14日、名古屋入港、15日、復員完結します。


野砲兵第百十聯隊(鷺三九一四)
獨立野砲兵第二聯隊(呂・登三九一四)
昭和13(1938)年6月16日、野砲兵第十聯隊留守隊の担当で編成(中林袈裟吉大佐)され、第百十師團(桑木崇明中将、姫路)に隷属します。

編成完結後、第百十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入、聯隊は北支那方面軍直轄として7月、姫路を出発、塘沽に上陸し、20日、北京に屯営し京漢線沿線石門を中心に河北省北部を管轄とし冀東平津地区の警備、共産軍討伐にあたります。

7月20日、大行山脈一帯の共産軍討伐のため第百十師團の冀東作戰、9月19日、北部山西作戰、昭和14(1939)年2月、北支那派遣軍の冀中作戰に参加、5月、第百十師團の固安作戰、6月14日、保定周辺の掃討戦、11月、大行山嶺粛正作戰に参加します。

8月25日、第十師團の姫路帰還に伴い警備地区を引き継いだ第百十師團は河北省南部に移駐、黄河河口付近の警備にあたります。

昭和15(1940)年3月21日、冀中作戰(ロ號)、10月、第十二軍の秋季魯南作戰に参加、12月16日、第百十師團の冬季冀西作戰に参加し共産軍討伐を実施します。

昭和17(1942)年5月1日、冀中作戰(三號)に参加します。
12月7日、軍令陸甲第四十二號により機動砲兵第三聯隊編成のため、第二、五、七中隊が抽出、同聯隊第三大隊が編成されます。

昭和18(1943)年5月1日、軍令陸甲第三十八號により在支師團の編成が改正され復員が令され、6月10日、石門において復員します。

在支部隊の改編による師團砲兵力減少を補い、統一運用すべく軍直轄の砲兵部隊が編成されます。

同日、野砲兵第百十聯隊、獨立野砲兵第十一聯隊を基幹に獨立野砲兵第二聯隊(広瀬顯人大佐)が編成完結されます(3個大隊、兵員1,696名、馬匹1,212頭、野砲24門、十糎榴弾砲12門)。
7月、湖北省武昌に移駐し、第十一軍直轄となり、10月、常徳殲滅作戰に参加します。

昭和19(1944)年5月、山砲に改編され、6月9日、一號作戰(大陸打通作戰)第一段の湘桂作戦に参加、第五十六師團に配属され、6月16日より長沙の攻撃を開始、18日、長沙を占領します。
続いて第百十六師團に配属され、第五十六師團とともに、衡陽の攻略に向かい、6月30日から衡陽の攻撃を開始しますが地形を生かした支那国府軍第十軍(方先覚)の防御陣地、敵機の空襲、悪疫の流行、食料欠乏に苦戦、7月11日、 8月4日と総攻撃を実施、兵力の半数を失う激戦ののち8月8日、ついに第十軍を降伏させ衝陽を占領します。
さらに湖南省西境と突破し広西省に進撃、桂林の米軍飛行場を占領します。
昭和20(1945)年2月、桂林を出発し転進を開始し、5月、湖南省宝慶に駐留、第十三軍直轄となり第六十九師團とともに上海付近に移動し米軍上陸に備え嘉定、羅天漢で防御陣地の構築中に、8月16日、停戦を迎えます。

昭和21(1946)年1月、復員第一陣の1,033名が佐世保に、3月、国府軍に軍馬引渡しのため残留していた187名が博多に上陸し復員完結しました。

なお、第百十師團には昭和20(1945)年7月10日、軍令陸甲第百六號に基づき、大阪市管區司令部砲兵補充隊(信太山)によって第百十師團砲兵隊が編成されます。


野砲兵第五十四聯隊(兵一〇一一七、中部第二十七部隊)
昭和15(1940)年7月10日、留守第十師團は第五十四師團(秋山義允中将)に改編、同日、野砲兵第十聯隊補充隊は野砲兵第五十四聯隊に改編(湯屋繁治大佐)され第五十四師團の隷下に入ります。
聯隊は滿洲に移駐した野砲兵第十聯隊に替わり姫路に衛戍し訓練・教育、補充業務を行います。

昭和18(1943)年2月17日、聯隊、聯隊補充隊に臨時動員下令、同日、臨時動員された第五十四師團(片村四八中将)は南方軍(寺内寿一大将)隷下の第十六軍(原田熊吉中将)に編入され隷下の歩百十一・捜索五十四と姫路を出発、宇品港、門司港から3梯団に別れスラバヤに向け出港します。
しかし、輸送船の関係で他の隷下部隊の師團追及は大幅に遅れ、聯隊の内地出発は3~6月となりました。

6月5日、第五十四師團のビルマ方面転用が決定、10月上旬、ビルマのペグー山系西側のブローム付近に集結しますが、この時点で未だ聯隊主力は内地、第一大隊は馬来、第二大隊はジャワにありました。

12月16日、第五十四師團は緬甸方面軍(川邊正三中将)の直轄となり、昭和19(1944)年1月15日、第二、第五十五師團とともに緬甸方面軍隷下に新設された第二十八軍(桜井省三中将)に編入され第五十五師團(花谷正中将)とともにアラカン山脈を越えビルマ西海岸に移駐、ルイワ以南のラムレ島・チエドバ島からイラワジ河口の守備に就きます。
聯隊は第二大隊をジャワに残置し、師團を追及しラングーンに集結後、ビルマ西海岸に到着します。

昭和19(1944)年1月7日、緬甸方面軍隷下の第十五軍(牟田口廉也中将)によるウ號作戰(インパール作戰)の実施が決定、2月3日、第五十五師團はインド国境付近の英印軍撃滅を目指したウ號作戰の支作戦であるハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始します。
第五十五師團の出撃により第二師團はサンドウェー以南地区への移駐、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を引き継ぎ、アキャブ-サンドウェー地区の防衛に就きます。

第五十五師團は5日、シンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は停滞、23日、遂にプチドン-モンドウに後退します。

7月中旬、優勢な英印軍の反撃を受けウ號作戰は中止、第十五軍は英印軍の追撃を受けながら後退します。
ビルマ北部の進展に伴い、英印軍第15軍団は第二十八軍の作戦地域であるベンガル湾方面でも攻勢に転じます。
第一大隊は第五十四師團で編成された松支隊(第五十四歩兵團長・木庭知時少将)に配属され、第五十五師團で編成された櫻支隊(第五十五歩兵團長・櫻井徳太郎少将)とともにマユ渓谷・カラダン渓谷に出撃し第五十五師團のバセイ地区転進援護にあたり多数の英軍戰車を撃破します。

12月、ジャワに残置していた第二大隊が、聯隊に復帰します。

昭和20(1945)年1月2日、英印軍第25師団がアキャブに上陸、英第15軍団がカラダン河谷、ミエボン半島、ラムレ島に上陸を開始、英アフリカ第82師団のラムレ島上陸に際して聯隊本部・第二大隊は適切な火力戦闘により6週間に渡り英軍を拒止します。
2月16日、戦車を伴う英印軍がタマンドに侵攻、各所で昼夜激戦を展開、各大隊は適宜歩兵の火力支援を実施します。

3月10日、第二十八軍は完二號作戰を発動、第五十四師團はアラカン山系以西のアキャブ-ダンカップ防衛と侵攻する敵の撃滅を命じられます。

3月下旬、第五十四師團長・宮崎繁三郎中将は一挙に英印軍を撃破すべく主力をタマンド南東のアン高地に後退集結、4月8日、追撃して来た英印軍に攻撃を開始しレモーで英印軍を撃破しレモーを占領しますが、捜索五十四・中村聯隊長、歩百十一・矢木孝治大佐、輜重五十四・大田貞次郎大佐が相次いで散華してしまいます。
第五十四師團は敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を絶った英印軍と激戦を展開、13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、隷下部隊をアンに集結します。

英アフリカ第81、82師団のイラワジ河畔南下を阻止すべく第五十四師團はアラカン山脈以西の英印軍を拒止するためキャクパタン-ダンカップ付近に陣地を占領し、南下してきた英アフリカ第82師団を地形を利用し拒止、主力は歩百五十四を先遣隊とし山脈東側のアランミヨに転進を開始、英印軍の南下に備えます。

5月6日、アラカン山脈第一軍道東側(イラワジ川西岸)のカマ付近に集結し渡河準備を開始、20日、英印軍の砲撃下、イラワジ河の渡河を開始、25日、渡河に成功、英印軍包囲の間隙を突破し、27日、3縦隊となって英印軍の追撃を受けながら、29日、ペグー山系西側のプロームに集結します。

6月末、第二十八軍の撤退援護である邁作戰準備のためマグエ-パウガン西高地-六〇九高地を占領し英印軍の攻撃を撃退しますが、師團内で悪疫が発生し多くの犠牲者が出ます。

6月14日、第五十四師團は悪疫蔓延と英印軍に包囲される危険が生じたため、隷下部隊を3縦隊としてペグー山系に機動を開始、豪雨による悪路に苦闘し、過労、糧食欠乏、マラリヤ発生により多くの兵員を失いながら7月中旬、ペグー山系東端に到着します。

7月20日、主力はビユー、一部はトングーからそれぞれ出発、シッタン平地を突破し、23日、ウェイジーに到達、英印軍と激戦を展開しつつシッタン河を渡河します。
英印軍に加え背反したビルマ愛国軍(旧ビルマ独立義勇軍)の追撃を受けながらシッタン河渡河により多くの兵員を失いながらも第五十四師團隷下部隊は8月9日頃、イワガレ付近に集結、シッタンに向け南下中の23日、シュウエジンにおいて停戦を迎えます。


野砲兵第八十四聯隊(突一〇一三七)
昭和19(1944)年7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により留守第五十四師團司令部で臨時動員(小倉達次中将)、同日、野砲兵第五十四聯隊補充隊により野砲兵第八十四聯隊が編成(川崎盛利大佐)され第八十四師團の隷下に入ります。

12月28日、師團は沖縄からフィリピン方面への戦力投入として臺灣へ転進した第九師團(原守中将、金沢)の充当として沖縄への派遣が決定されますが、昭和20(1945)年1月23日、本土防衛強化、また海上輸送が困難な事から沖縄派遣は中止されます。

4月8日、第八十四師團は新設された第五十三軍(赤柴八重蔵中将)戦闘序列に編入され、聯隊は師團の作戦地である神奈川県小田原市に移動します。
隷下部隊を小田原、沼津、国府津に配備し敵上陸部隊迎撃のため陣地構築を開始、聯隊は糧食貯蔵中に停戦を迎えます。
8月30日、復員完結します。


参考文献
『姫路野砲兵第十聯隊終焉記』(昭和61年11月 野砲兵第十聯隊終焉記編纂委員会)

『野砲兵第二十三聯隊史』(昭和61年11月 野砲兵第二十三聯隊史編纂委員会)

『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

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Author:盡忠報國
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 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
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