当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

輜重兵第十聯隊

姫路城の北2㎞に所在する陸上自衛隊・姫路駐屯地、及び自衛隊官舎は輜重兵第十聯隊の跡地にあります。

兵営では後に輜重兵第十七大隊、輜重兵第百十聯隊、輜重兵第五十四聯隊、輜重兵第八十四聯隊が編成されます。
また兵営南側には城北陸軍練兵場がありました。
輜重兵第十聯隊 建物キ 南東から(姫路駐屯地)
▲陸上自衛隊・姫路駐屯地に遺されていた兵舎(滅失)

【探索日時】
平成23年5月16日

【更新情報】
平成30年2月14日・・・遺構現状追加





城北の陸軍部隊、官衙配置
姫路市全圖(昭和15)(姫路遺構) (2)
▲『姫路市全圖』(昭和15年4月5日 平田幾次著)

野里220928(姫路遺構)
▲昭和22年9月28日の空撮(国土地理院 USA-R511-2-6)

姫路城周辺~遺構(停戦時)2
▲『姫路市全圖』を現在の地図に転写したもの
㉑ 騎兵第十聯隊
㉒ 野砲兵第十聯隊
 輜重兵第十聯隊
 城北陸軍練兵場
※緑文字が当記事の紹介施設
名称については一般的な昭和15(1940)年頃


遺構について
㉓ 輜重兵第十聯隊
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十三師團の新編を決定、4月中旬、第十師團の衛戍地を姫路に選定します。

7月、臨時陸軍建築部(監督長・野田豁通男爵)は騎兵、砲兵、輜重兵営及び練兵場用地として飾磨郡城北村の民有地5町8反、農商務省用地6畝(移管)の買収を各郡長を通じて開始しますが、反150円を提示(陸軍省は180円程度を示達)しますが地権者と買収額が折り合わず、次いで180円を提示するも拒否され、8月、最終的に有志の献金を買収額に繰入れ250円で買収交渉は妥結し、9月2日、買収が完了し登記を進め、兵営の建設を開始します。

明治30(1897)年10月27日、輜重兵第十大隊が輜重兵第四大隊(大阪)から城南の歩兵第十聯隊兵営に移駐、11月13日、第十師團(伏見宮貞愛親王中将)が発足、12月、兵営の竣工により城北の新兵営に移転します。
輜重五四 営門(姫路遺構)
▲輜重兵第十聯隊営門(現在は姫路駐屯地の外柵になり入口はありません)

明治37(1904)年4月16日、明治三十七八年戰役(日露戦争)において輜重兵第十大隊補充中隊、明治41(1908)年10月21日、及び大正14(1925)年5月31日、滿洲駐箚、昭和7(1932)年4月18日、滿洲派遣、昭和12(1937)年7月27日、支那事変に際し留守隊が編成、昭和13(1938)年4月20日、輜重兵第十七大隊が編成され北支に、昭和13(1938)年6月16日、輜重兵第百十聯隊が編成され中支に出征、昭和15(1940)年8月7日、輜重兵第十聯隊の滿洲移駐に伴い輜重兵第五十四聯隊が編成されます。
昭和18(1943)年2月17日、輜重兵第五十四聯隊の動員、ジャワ方面出征に際し同聯隊補充隊が編成されます。

昭和20(1945)年3月25日、輜重兵第五十四聯隊補充隊は長野に移駐します。
空いた輜重兵聯隊兵営は中部軍管區司令部の管轄となり、中部軍管區の応召部隊の臨時兵舎に転用され、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、スイニー大佐以下100名が先遣隊として姫路に進駐し須鎗航空兵器㈱を宿舎に、26・27日、コリンズ大佐以下本隊3,000名が空襲の焼失を逃れた捜索・野砲・騎兵営を接収し兵器、軍需品の処理を開始します。
占領政策の進展に伴い随時接収解除され大蔵省に返還されます(時期不明)。

昭和26(1951)年1月18日、新設される警察予備隊の姫路駐屯が決定、3月28日、善通寺から先遣隊が到着、野砲兵営、輜重兵営の大半、騎兵営の半分により姫路駐屯地が発足、30日、特科第63連隊が開隊(昭和29年7月1日、第3特科連隊に改編)、現在も我が国の平和を護っています。

見学については毎年11月上旬の駐屯地創立記念行事、8月初旬の納涼祭の際の駐屯地一般開放の他、事前連絡(2週間前まで)で見学できます。
事前連絡による見学では広報の方に資料館等を説明しながら案内して頂けます。
姫路駐屯地の資料館は自衛隊資料館の中でも屈指の資料館で、展示量、内容など非常に見どころ豊富です。
駐屯地を訪れた際は是非ご覧ください。
姫路駐屯地資料館(公式サイト)

カ 木造建物
木造・瓦葺、基礎は煉瓦積で駐屯地内に遺ります
用途は不明です。
※滅失しました。
輜重兵第十聯隊 建物カ 南東から(姫路駐屯地)
▲正面側

輜重兵第十聯隊 建物カ 北東から(姫路・兵庫)
▲裏側

建物カ 南東基礎(姫路遺構)
▲明治期の建物に良く見られる煉瓦造の基礎


キ 兵舎
木造・瓦葺、基礎は煉瓦積で姫路駐屯地に遺る最大の建物です
内装を改装する際、壁の中から祭祀目的と思われる刀が複数振出てきたそうです。
近いうちに解体予定で既に予算も付いたそうで、早めの見学をお勧めします。
※滅失しました
建物キ 南西から(姫路遺構)
▲南西から
 圧巻です!

輜重兵第十聯隊 建物キ 南から(姫路・兵庫)
▲正面入口付近

輜重十 兵舎(姫路遺構)
▲陸軍時代の写真

輜重兵第十聯隊 建物キ 南から (2)(姫路・兵庫)
▲同じ角度から

建物キ 西の入口(姫路遺構)
▲兵舎の内部

輜重兵第十聯隊 建物キ 東から(姫路・兵庫)
▲反対側の入口

輜重兵第十聯隊 建物キ 北東から(姫路・兵庫)
▲裏側


ク 木造建物
木造・瓦葺、基礎は煉瓦積で駐屯地東側に遺ります
場所や形状からして被服庫と思われます。
※滅失しました
輜重兵第十聯隊 建物ク 南西から(姫路駐屯地)
▲正面側

輜重兵第十聯隊 建物ク 南西から(姫路・兵庫)
▲側面

輜重兵第十聯隊 建物ク 北東から(姫路・兵庫)
▲反対側

建物ク 北から(姫路遺構)
▲裏側には階段部分が張り出しています

残念ながら姫路駐屯地に遺されていた陸軍時代の建物は全て滅失しました。


Q 「輜重兵第十聯隊跡」碑
由来等の刻字が無く、設置経緯・年代は不明です。
「輜重兵第十聯隊跡」Q(姫路遺構)


R 国旗掲揚台
  「凱旋記念」碑

上掲の兵舎の古写真右端にも写っています。
輜重兵第十聯隊国旗掲揚台(建物キの北側)(姫路駐屯地)

輜重兵第十聯隊国旗掲揚台 R(姫路遺構)
▲国旗掲揚台の横にある天板を敷いたコンクリート製の踏み台
  なぜ踏み台があるのか不明

輜重兵第十聯隊第一中隊「凱旋記念」 R(姫路遺構)
▲「凱旋記念」碑
  碑の裏には「第一中隊」とだけ刻字されていますが、何の戦役の凱旋記念か不明


㉔ 城北陸軍練兵場
設置経緯は上記の輜重兵営と同じです。
停戦後、大蔵省に移管され、開墾が開始、昭和24年9月、戦災復興費捻出のため姫路競馬場が開設されます。
外周を回ってみましたが、区画が遺っているのみで遺構は何も遺されていない様です。
城北練兵場(姫路競馬場)
▲城北陸軍練兵場の現状

O 軍人橋
軍人橋 東側(姫路遺構)
橋は既に掛け替えられていますが、名称だけが遺されています。


衛戍・編成部隊
輜重兵第十聯隊(鐡五四五四)
明治28(1895)年4月17日、日清間に講和条約が締結され、明治二十七八年戰役(日清戦争)が終結します。
講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月14日、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、特にロシアの脅威に対抗、安全保障のため軍備増強を決定します。
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定(勅令第二十四號)し、第七から第十二師團の編成を決定します。

11月21日、輜重兵第四大隊(大阪)において輜重兵第十大隊が編制、10月27日、城南の歩兵第十聯隊兵営に移駐、11月13日、第十師團(伏見宮貞愛親王中将)が発足、12月、兵営の竣工により城北の新兵営に移転、明治31(1898)年10月1日、大隊編成完結します。
輜重十営門(姫路遺構)

明治37(1904)年2月10日、明治三十七八年戰役(日露戦争)が勃発、4月16日、第十師團に動員下令、5月7日、大隊(3個縦列)は姫路を出発、8日、神戸港を出航し、19日、大孤山に上陸、6月9日、岫巌の戦いに参加します。

6月15日、増援の近衛後備第一聯隊(須知源次郎中佐)とともに常陸丸に乗船し滿洲に向かっていた大隊第三縦列(永吉充五郎大尉)が、玄界灘においてロシア・ウラジオストク艦隊の装甲巡洋艦ロシア、リューリク、グロモボーイに撃沈され1,063名が散華してしまう悲運に見舞われます。
このため大隊の輸送力不足を補うため第四軍により兵站糧食1個縦列が配属、さらに架橋縦列を糧食縦列に転用します。

6月25日、遼陽に向かう要所・分水嶺の戦い、7月30日、析木城の戦い、8月25日、遼陽會戰に参加、戦闘中に再編された1個縦列が到着し、10月7日、沙河會戰に参加します。

明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加、大隊は臨時薪炭縦列を編成、陣地攻撃間の薪炭輸送を行い、追撃戦移行後は糧食・飲料水の補給にあたります。

9月5日、講和条約が締結され、明治39(1906)年2月、姫路に凱旋します。

昭和7(1932)年4月、關東軍増強のため第十師團の滿洲派遣が決定、大隊は輸送監視隊を編成し、4月18日、第十師團とともに哈爾浜に到着します。

昭和8(1933)年、輸送監視隊は輜重兵中隊に改編されます。

昭和9(1934)年5月7日、第十師團とともに姫路に帰還します。

昭和11(1936)年6月1日、軍令陸第四號、陸軍省令第十二號、陸達第二十號により輜重兵第十大隊から輜重兵第十聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、7月27日、第十師團に動員下令、8月8日、聯隊は動員完結、神戸港を出航し、17日、大沽に上陸後、天津に集結します。

8月13日、蒋介石軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。

31日、北支那方面軍(寺内壽一大将)が編成され、第十師團は方面軍戦闘序列の第二軍(西尾壽造中将)戦闘序列に編入されます。

9月2日、聯隊は第十師團とともに津浦線に沿って南下、9月24日、滄県、10月、徳州を攻略戦、12月23日、黄河の敵前渡河に成功、26日、済南攻略戦に参加しますが、連日の豪雨に輸送は困難を極めます。

昭和13(1938)年1月7日、第二軍の山東平定作戰において、16日、済寧城攻略戦、4月18日、第二軍の台児荘の戦いに参加し、4月下旬、集結した蒋軍50個師團を殲滅すべく中支那派遣軍、北支那方面軍の徐州會戰に参加、第十師團は棗荘から微山湖を迂回し南下前進しますが、蒋軍は我軍の間隙をついて撤退、6月20日、さらに蒋軍は我軍の追撃を阻むため黄河を決壊させ自国民もろとも押し流します(死者89万人)。

第二軍は中支那派遣軍戦闘序列に編入され第十師團は蘆州付近に移駐します。

8月下旬、聯隊は第十師團とともに第二軍の漢口作戰に参加、六安、固始、光州の戦闘に参加、連日の炎天により日射病に加えコレラ罹患者が多発、9月15日、聯隊長・前野四郎大佐がコレラにより病没してしまいます。
第十師團により編成された瀬谷支隊(歩兵第三十三旅團長・瀬谷啓少将)に2個中隊編成の輜重隊を配属し、蒋軍の退路を遮断すべく大別山を突破し、10月、応山に進出、26日、第六師團により漢口は攻略され、26日、同心店に進撃し敗走する蒋軍の退路を遮断、29日、応城を攻略します。
この間、逃げ遅れた蒋軍の敗残兵が自軍と間違え夜行軍中の輜重隊に紛れ込み、夜明けとともに敵軍と気付き逃走する事件が発生します。

10月29日、第十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入され北支移駐が決定、11月、聯隊は南京に移動、津浦線を北上し石家荘に聯隊本部を設置、歩兵聯隊に中隊を分派し警備、匪賊討伐に協力します。

昭和14(1939)年10月16日、姫路に帰還します。

昭和15(1940)年8月1日、第十師團は關東軍(梅津美治郎大将)直轄として滿洲移駐が決定し編成下令、10日、聯隊は第十師團とともに姫路を出発し、16日、羅津に上陸、17日、佳木斯(チャムス)に屯営し、師團隷下部隊の匪賊討伐、警備に協力します。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定します。
16日、特臨編第三號(第百二次動員)により師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結します。
聯隊は1個大隊から2個大隊編制:第一大隊=挽馬、第二=自動車に改編されますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き三江省の警備、対ソ連戦に備えた訓練、演習、研究を実施します。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和19(1944)年1月、第十師團はソ滿国境の富錦東方ウルコリー山地に陣地構築を開始、陣地構築中の7月26日、臺灣軍(安藤利吉大将)への編入が決定します。

7月、聯隊は陣地構築を中止し佳木斯に集結、出動準備を整え(鍋島英比古大佐、250名)、8月5・6日、佳木斯を出発、8月23・24日、台湾基隆に入港し、聯隊は中隊・小隊単位で分散し台湾西海岸に防御陣地構築、糧食増産・貯蔵を実施します。

11月20日、第十師團は捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定、聯隊は交替部隊に陣地を引き継ぎ高雄に集結、12月5日、第一梯団の歩兵第三十九聯隊主力とともに第五中隊(自動車)、本部修理班が有馬山丸に乗船し出港、11日、マニラに入港します。

19日、聯隊主力は第十師團主力とともに乾瑞丸、江の島丸、大威丸に分乗して出港、23日、江の島丸はルソン島北部のペトリナオ岬アパリ、大威丸はルソン島西部の北サンフェルナンドに入港し第十師團の集結地サンホセに向かいますが、機関の故障で落伍した乾瑞丸が23日、北サンフェルナンド目前で敵潜水艦の雷撃を受け轟沈、乗船の輜重十聯隊長・鍋島英比古大佐以下100余名(聯隊本部・第一大隊の大半が散華、第一大隊長・米倉俊治大尉が聯隊長代理、1月、新聯隊長・相澤光治郎中佐着任)、兵器資材が海没してしまいます(北サンフェルナンドにて補充要員により再編)。

昭和20(1945)年1月5日、サンホセに集結後、聯隊は第十師團の作戦計画に基づき第一大隊はバレテ峠北方に布陣し第十師團への補給任務、第二大隊はマニラ・北サンフェルナンド・アパリ方面の資材をミヌリに輸送する任務にあたります。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米第6軍(W.クルーガー中将、7個師団175,000名)がリンガエン湾に上陸、南部のマニラ、北部山岳地帯に侵攻を開始します。

10日、第十師團は新たに方面軍の食糧補給源地帯であるカガヤン渓谷、及びバンバン平地への敵侵攻を阻止すべく、15日、バレテ峠地区へ北上、サンホセ-プンカンに前進陣地、サラクサク峠道に主陣地右地区隊(捜索第十聯隊基幹)、バレテ峠道に主陣地左地区隊(歩兵第六十三聯隊基幹)、バレテ峠北のサンタフェに野砲兵第十聯隊、輜重兵第十聯隊、鈴鹿峠道に津田支隊(第二十六師團獨立歩兵第十一聯隊)を配置します。

2月中旬、サラクサク峠に米第32師団が侵攻、捜索第十聯隊は20倍の敵をサンニコラス-カバリシアンにおいて迎撃し20日間に渡り侵攻を拒止しますが、2月下旬、兵力が約80名に減少し、サラクサク峠登り口のサンタマリアに転進、3月3日、右地区隊は急迫する戦局に方面軍によりサラクサク峠に増派された戰車第二師團の指揮下に入ります。

3月初旬、保有燃料の払底した輜重十第二大隊(米倉俊治大尉)はバレテ峠南方のマンガヤン・妙高山に前進、歩六十三第三大隊陣地の前方に布陣し、陣地を築城します。

3月中旬、米第32師団が妙高山に侵攻、戦車・迫撃砲による激烈な砲撃により次第に陣地を失陥、4月19日、大隊長・米倉大尉が戦闘指揮中に敵迫撃砲弾を受け散華、第六中隊長・橋本蔀中尉が指揮を継承しますが損害が増加、23日、橋本中尉は残存糧秣を全て部下に分配し、敵戦車群に爆薬を抱いて体当たりを敢行、第二大隊は玉砕、生存者は後方の歩六十三陣地に転進します。

5月上旬、サラクサク峠の陣地はほぼ米第32師団に占領され、5月25日、サンタフェを突破した米第25師団により戰車第二師團の後方連絡線が遮断され敵中に孤立、6月3日、方面軍命令により敵の重囲を突破し北進を開始、ドバックス、ピノン峠を越えカシブに転進します。

サンタフェの聯隊本部・第一中隊は南から侵攻してくる米第25師団の激烈な砲撃下、補給基地であるバェンボン、バンバンから挽馬車両・臂力にて剣難な地形、連日の空襲に大損害を受けながらも前線のサラクサク峠、バレテ峠天王山陣地に弾薬・糧食を輸送していましたが、25日、サンタフェに迫った米第25師団と激戦を展開、6月3日、方面軍命令により北進を開始、カシブに集結、飢餓・悪疫に苦闘しながら自動車隊を先遣として人跡未踏の山岳地帯を踏破し、8月中旬、ピナパガンに到着、自戦自活体制に移行するなか、9月11日、聯隊長・相澤中佐以下100余名が停戦を迎えます。


輜重兵第十七大隊
輜重兵第十七聯隊
(月七三九〇)
明治三十七八年戰役(日露戦争)後、ロシアが着々と極東の兵備強化を推進するなか、明治39(1906)年、我が陸軍は安全保障の観点から、2個師團(第十七、第十八師團)の増設を決定、明治40(1907)年5月18日、陸軍省は第十七師團衛戍地として岡山縣御津(みつ)郡伊島村を選定し、12月15日、第十七師團司令部(一戸兵衛中将)が編成されます。

明治40(1907)年9月、輜重兵第十大隊(姫路)において、輜重兵第十七大隊が編成され、明治41(1908)年2月10日、岡山に新兵営が竣工、9月20日、大隊は岡山に転営します。

大正4(1915)年3月21日、第十七師團の滿洲に駐箚が決定、大隊は宇野港を出航し大連に上陸、海城に移動し警備にあたり、大正6(1917)年6月1日、岡山に帰還します。

大正14(1925)年3月27日、第三次軍備整理(所謂、宇垣軍縮)による第十七師團の復帰が公布され、4月14日、岡山陸軍練兵場において解団式を挙行、5月1日、輜重兵第十七大隊は復帰します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、8月13日、蒋軍の違法行為、挑発により第二次上海事變が勃発、我が軍と蒋軍の全面戦闘に発展します。
支那事變の拡大、長期化、及びソ連への備えのため、昭和13(1938)年4月4日、軍令陸甲第二十一號『新設師團編成要綱』により5個師団の新設が下令され、7月17日、留守第十師團の担当で第十七師團は編成完結します。

4月20日、輜重兵第十聯隊留守隊(姫路)の担当で輜重兵第十七聯隊本部・挽馬中隊が、輜重兵第十六聯隊留守隊(京都)において自動車中隊が編成、7月17日、編成完結します。

7月15日、師團は2月18日に編成された中支那派遣軍(畑俊六大将)戦闘序列に編入され、24日、動員が下令されます。
29日、聯隊は姫路を出発、30日、宇品を出航し大連に上陸、8月5日、蘇州の警備にあたる師團隷下部隊に中隊単位で配属されます。

昭和14(1939)年5月23日、第十七師團の第一次湟里鎮作戰、6月12日、高瑞鎮作戰、10月20日、第二次湟里鎮作戰に参加します。
9月23日、第十七師團は中支那派遣軍の戦闘序列を解かれ支那派遣軍戦闘序列の第十三軍戦闘序列に編入されます。

昭和15(1940)年11月1日、第十七師團とともに第十一軍の漢水作戰に参加します。

昭和16(1941)年1月17日、第十七師團とともに第十一軍の和號作戰(予南作戰)に参加します。
3月7日、第十七師團は第十三軍に復帰、聯隊も蘇州に帰還、20日、師團とともに第十三軍の太湖西方作戰に参加します。
4月5日、師團は北支の警備に当たるため北支那方面軍戦闘序列の第十二軍戦闘序列に編入され徐州に移駐します。
徐州移駐後、聯隊は挽馬2個、自動車2個の4個中隊に改編されます。

12月8日、大東亜戰争が開戦します。

昭和17(1942)年1月1日、作戦地域の境界変更により第十七師團は再び第十三軍戦闘序列に復帰、2月1日、第十七師團の渦河作戰に参加します。

5月4日、第十一軍・第十三軍による本土を爆撃(ドーリットル空襲)したB-25が、着陸を予定していた支那空軍の飛行場を覆滅すべく「せ」號作戰(浙贛作戰)に原田旅團(第十七歩兵團長・原田次郎少将)に配属され第百十六師團の指揮下に参加、10月9日、第十七師團に復帰します。

11月4日、第十三軍の洪沢作戰、11月26日、豊錫銅作戰、12月18日、魯予辺境作戰に参加します。

昭和18年2月、我が国はガダルカナル島を失陥、6月30日、レンドバ島に米軍が上陸し本格的な反攻が開始されます。
7月、陸海軍はブーゲンビル島の線で米軍の反攻を拒止すべく、8月15日、参謀本部において行われた陸海軍合同兵棋演習の結果、第十七師團の南太平洋方面への増派が決定します。
8月18日、第十七師團は大本營予備隊となり、次いで9月11日、第八方面軍(今村均中将、ラバウル)戦闘序列に編入されます。

第十七師團司令部以下隷下部隊は徐州周辺から逐次上海付近に集結しますが、第二・三・四中隊(600名)を含む第4梯団(4,950名)は輸送中止となり上海に残置、のち第十三軍の指揮下に入ります。

9月24日、第一中隊・第三中隊の自動車1個小隊(250名、自動車10・輜重車50)は第1梯団として上海出航、10月5日、ラバウルに入港、10月21日、聯隊本部(8名)は第3梯団として上海出航、22日、第二梯団輸送中の「粟田丸」が久米島付近において米潜グレイバックの雷撃を受け沈没、歩八十一第一大隊、野砲二十三聯隊本部、師團通信隊698名を失ってしまいますが、11月4日、第三梯団は敵潜水艦、敵機の攻撃により損傷しながらもトラック経由でカビエンに入港します。

10月5日、第八方面軍の作戰計画に基づく第十七師團命令により聯隊主力は21日~12月下旬にかけ、師團司令部、歩五十四第一大隊、野砲二十三第六中隊、工兵十七とともにニューブリテン島西部のガブブに舟艇機動により前進、11月7日、松川偵察隊(第一大隊長・松川少佐)がニューブリテン島北岸道路を偵察しつつ聯隊主力を追及、12月14日、ガブブに到着します。

11月14日、米軍はマーカス岬に空襲を開始、15日0530、1個連隊が上陸を開始、第五十一師團歩百十五臨時編成第一中隊(福島中尉)が迎撃、12月26日、米第一海兵師團がグロスター岬の東岸ナタモ、西岸タワレに上陸を開始、松田支隊(歩兵第六十五旅團長・松田巌少将)が迎撃にあたります。
両部隊は爆撃機、艦砲射撃、火砲に支援された米軍の攻撃に勇戦敢闘しますが、次第に圧迫、2月上旬より中旬にかけ、ラバウル及び周辺要地に対する米軍の爆撃が増加、第十七師團への補給が困難な状況になったため、2月23日、方面軍は第十七師團のラバウル転進(カ號作戰)を決定します。

3月20日、ニューブリテン島の第十七師團隷下部隊はガブブに集結、松川偵察隊の偵察した北岸道路を米軍の追撃を受けつつ糧食の欠乏、泥濘に悩まされながら踏破、4月16日~5月末、小森支隊を最後にシナップの方面軍収容地に到着します。

第十七師團はラバウル西部海岸の防衛を担当、聯隊は獨立自動車中隊を編入(自動車2個・徒歩1個中隊)し、ヨーク島・ワトム島に来攻する敵を迎撃すべく連日の空襲下、地下陣地を構築、訓練を行うと共に密林を伐開し開梱、自活体制を採るなか、8月16日、聯隊長・今村武雄大佐以下424名が停戦を迎えます。


輜重兵第百十聯隊(鷺三九一七)
第百十師團輜重隊(鷺三九一七)
昭和13(1938)年6月16日、輜重兵第十聯隊留守隊の担当で編成(越智光之助中佐)挽馬4個中隊・馬廠)され、第百十師團(桑木崇明中将、姫路)隷下に編入されます。

編成完結後、第百十師團は北支那方面軍戦闘序列に編入、7月、姫路を出発、塘沽に上陸し、20日、聯隊は北京に屯営し京漢線沿線石門を中心に河北省北部を管轄とし冀東平津地区の警備、共産軍討伐にあたる師團隷下部隊を支援します。
 
7月20日、大行山脈一帯の共産軍討伐のため第百十師團の冀東作戰、9月19日、北部山西作戰、昭和14(1939)年2月、北支那派遣軍の冀中作戰に参加、5月、第百十師團の固安作戰、6月14日、保定周辺の掃討戦、11月、大行山嶺粛正作戰に参加します。

8月25日、第十師團の姫路帰還に伴い警備地区を引き継いだ第百十師團は河北省南部に移駐、黄河河口付近の警備にあたります。

昭和15(1940)年3月21日、冀中作戰(ロ號)、10月、第十二軍の秋季魯南作戰に参加、12月16日、第百十師團の冬季冀西作戰に参加します。

昭和17(1942)年5月1日、冀中作戰(三號)に参加します。

昭和18(1943)年5月1日、軍令陸甲第三十八號により在支師團の編成が改正され輜重兵第百十聯隊に復員下令、6月10日、石門において復員、同日、輜重兵第百十聯隊要員を基幹に第百十師團輜重隊(帯包正基少佐)が編成されます。

昭和19(1944)年4月、黄河北岸の輝県、修武付近に集結、20日、第百十師團は第十二軍の京漢作戰に第一線兵団として参加、軍の右翼隊として敗走する支那軍を追撃し、挺進隊として先行させた歩百三十九が22日、密県の敵堅陣を突破し、密県北方高地を攻略します。

第十二軍は南下し許昌を攻略、次いで北上し洛陽に進撃、第百十師團は支那軍を拘束すべく5月1日、密県を出撃、支那軍を撃破しつつ西進し、登封、大金店を攻略します。
25日、第十二軍は洛陽を攻略し、洛陽攻略後、第百十師團は洛陽-鄭州道を確保するため洛陽南西の宜陽、臨汝地区に屯営し、警備にあたるとともに「焼くな、殺すな、犯すな」を徹底し民心を把握し鎮村自衛組織を育成強化し治安維持、民心の安定に努めます。

昭和20(1945)年3月、我が補給線を脅かす米支連合空軍の拠点である老河口を攻略するため第十二軍の老河口作戰に参加します。
4月5日、第十二軍は支那第一戦区軍(14個師)に攻勢を阻まれ包囲にかかって来たため、持久に転じるため魁門関付近の要地を攻略し支那軍と激戦を展開します。

7月、第百十五師團と守備を交替し、洛陽に移駐し、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
改編後の輜重隊は戦力が低下、師團の広範囲な作戰地域に苦闘します。


輜重兵第五十四聯隊(兵一〇一二〇、中部第五十四部隊)
昭和15(1940)年7月10日、留守第十師團は第五十四師團(秋山義允中将)に改編、同日、輜重兵第十聯隊補充隊は輜重兵第五十四聯隊に改編(北薗豊蔵大佐)され第五十四師團の隷下に編入されます。
聯隊は滿洲に移駐した輜重兵第十聯隊に替わり姫路に衛戍し訓練・教育、補充業務を担当します。

昭和18(1943)年2月17日、聯隊、聯隊補充隊に臨時動員下令、同日、臨時動員された第五十四師團(片村四八中将)は南方軍(寺内壽一大将)戦闘序列の第十六軍(原田熊吉中将)に編入され隷下の歩百十一・捜索五十四と姫路を出発、宇品港、門司港から3梯団に別れスラバヤに向け出港します。
しかし、輸送船の関係で他の隷下部隊の師團追及は大幅に遅れ、聯隊は編成完結後シンガポール、ペナンを経由し、9月上旬、ラングーンに上陸、10月上旬、ビルマ方面転用が決定した第五十四師團主力を追及、ビルマのペグー山系西側のブローム付近に集結します。

12月16日、第五十四師團は緬甸方面軍(川邊正三中将)の直轄となり、昭和19(1944)年1月15日、第二、第五十五師團とともに緬甸方面軍隷下に新設された第二十八軍(桜井省三中将)に戦闘序列編入され第五十五師團(花谷正中将)とともにアラカン山脈を越えビルマ西海岸に移駐、ルイワ以南のラムレ島・チエドバ島からイラワジ河口の守備にあたります。

昭和19(1944)年1月7日、インド国境付近の英印軍撃滅を企図し第十五軍(牟田口廉也中将)によるウ號作戰(インパール作戰)実施が決定、2月3日、第五十五師團はウ號作戰の支作戦でウ號作戰を容易にし、且つアキャブを防衛すべく英印軍牽制・誘引のため、ハ號作戰(第二次アキャブ作戰)を開始します。
第五十五師團の出撃により第二師團はサンドウェー以南地区への移駐、第五十四師團は第五十五師團の防衛地域を引き継ぎ、アキャブ-サンドウェー地区の防衛に就きます。

5日、第五十五師團はシンゼイワ盆地に進撃しますが英印軍の円筒陣地に阻まれ攻撃は遅滞、23日、遂にプチドン-モンドウに転進します。

7月2日、優勢な英印軍の反撃を受けウ號作戰は中止、第十五軍は英印軍の追撃を受けながら転進を開始します。
ビルマ北部の戦局急迫に伴い、第二師團は雲南方面に転用、英印第15軍団は第二十八軍の作戦地域であるベンガル湾方面に侵攻、第五十四師團はさらにバセイ地区に転進します。

昭和20(1945)年1月2日、英印軍第25師団がアキャブに上陸、英第15軍団がカラダン河谷、ミエボン半島、ラムレ島に上陸を開始、2月16日、さらに第五十四師團司令部の所在するアン高地北方のタマンドに戦車を伴う英印軍が侵攻、各所で昼夜激戦を展開します。

3月10日、第二十八軍は完二號作戰を発動、第五十四師團はアラカン山系以西のアキャブ-ダンカップ防衛と侵攻する敵の撃滅を下令されます。

3月下旬、師團長・宮崎中将は一挙に英印軍を撃破すべく、4月2日、師團主力をアン高地に集結、8日、師團は追撃して来た英印軍に逆襲を開始、10日、レモーで英印軍を撃破し同地を攻略しますが、輜重五十四・大田貞次郎少佐(後任は古賀文夫少佐)を始め捜索五十四聯隊長・中村忠雄中佐、歩百十一聯隊長・矢木孝治大佐が相次いで散華してしまいます。
第五十四師團は敗走する英印軍を追撃し、11日、シヤッコンで退路を絶った英印軍と激戦を展開、13日、英印軍はタマンドに撤退を開始しますが、日没となり補足殲滅には至らず、14日、隷下部隊をアンに集結します。

英アフリカ第81、82師団のイラワジ河畔南下を阻止すべく第五十四師團はアラカン山脈以西の英印軍を拒止するためキャクパタン-ダンカップ付近に陣地を占領し、南下してきた英アフリカ第82師団を地形を利用し拒止、主力は歩百五十四を先遣隊とし山脈東側のアランミヨに転進を開始、英印軍の南下に備えます。

5月6日、アラカン山脈第一軍道を転進中に自動車は悪路のため行動不能となり全車破壊、カマ付近(イラワジ川西岸)に集結し渡河準備を開始、20日、英印軍の砲撃下、イラワジ河の渡河を開始、25日、渡河に成功、英印軍包囲の間隙を突破し、27日、3縦隊となって英印軍の追撃を受けながら、29日、ペグー山系西側のプロームに集結します。

6月末、第二十八軍の転進援護である邁作戰準備のため第五十四師團はマグエ-パウガン西高地-六〇九高地を占領し英印軍の攻撃を撃退しますが、師團内で悪疫が発生し多数の将兵を失ってしまいます。

6月14日、第五十四師團は悪疫蔓延と英印軍に包囲される危険が生じたため、隷下部隊を3縦隊としてペグー山系に機動を開始、豪雨による悪路に苦闘し、過労、糧食欠乏、マラリヤ発生により多数の将兵を失いながら7月中旬、ペグー山系東端に集結します。

7月20日、師團主力はビユー、一部はトングーからそれぞれ出発、シッタン平地を突破し、23日、ウェイジーに到達、英印軍と激戦を展開しつつシッタン河を渡河します。
英印軍に加え背反したビルマ愛国軍(旧ビルマ独立義勇軍)の追撃を受けながらシッタン河渡河により多くの兵員を失いながらも第五十四師團隷下部隊は8月9日頃、イワガレ付近に集結、シッタンに向け南下中の23日、シュウエジンにおいて停戦を迎えます。


輜重兵第八十四聯隊(突一〇一四〇)
昭和19(1944)年7月6日、軍令陸甲第七十七號『在内地師團臨時動員等要領』により留守第五十四師團司令部において第八十四師團司令部が臨時動員(小倉達次中将)、同日、輜重兵第五十四聯隊補充隊により輜重兵第八十四聯隊(小林吉二大佐)が臨時動員され第八十四師團の隷下に編入されます。

11月24日、師團は大本營直轄となり台湾への移駐を予定しますが、昭和20(1945)年1月22日、沖縄からフィリピン方面への戦力増強のため台湾へ転進した第九師團(原守中将、金沢)の充当として沖縄への派遣に変更されます。
23日、本土防衛戦力の低下、制海権・制空権喪失による海上輸送の困難から沖縄派遣は中止され、師團は第十五方面軍(河邉正三中将、大阪)隷下に編入されます。

4月8日、第八十四師團は新設された第五十三軍(赤柴八重蔵中将)戦闘序列に編入され、聯隊は師團の作戦地である神奈川県小田原市に移動します。
師團は隷下部隊を小田原、沼津、国府津に配備し敵上陸部隊迎撃のため陣地築城を開始、聯隊は糧食貯蔵にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎え、8月30日、復員完結します。


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』 (平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』 (昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

陸上自衛隊 姫路駐屯地資料館 展示資料
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No Title

こんにちは。
城北練兵場の場所、こちらのページから知ることが出来ました。
盡忠報國様 のブログでは位置がソースと共に明快なので大助かりですm(_ _)m

Re: No Title

とり様、こんにちは。

飛行場調査の一助になり、幸いです。
練兵場以外に使用されていた事は知らなかったので、また記事を楽しみにしています!

No title

私の父は本籍が岡山だったので姫路聯隊所属で
輜重兵第十聯隊に召集されて支那事変に参戦しています。

岡山県庁に問い合わせましたが、簡単な履歴だけでしたが、
貴ブログで詳細を知ることが出来ました。
これから当時の地図を見つけて足跡を辿ろうと思います。

ありがとうございました。
無断で貴ブログを引用しました。

お許し下さい。
http://blog.livedoor.jp/monnti3515/archives/1061739745.html

Re: No title

さんごママ様

はじめまして、こんばんは。

私の拙い記事が御尊父様の足跡を辿る上で参考になりまして嬉しく思います。

輜重兵聯隊は公式な戦史も殆どなく詳細な行動を探るのは非常に困難かと思いますが、第十師團の戦記は私も記事執筆の際に種本にした『岡山県郷土部隊史』と言う本が比較的詳しく書いていますので、一度目を通されるのが良いと思います。

貴ブログを拝見するに靖国神社の最寄りに在住されてらっしゃる様なので靖國偕行文庫にご相談されるのも良いかと思います。
同文庫にも多数の戦記があり、輜重兵第十聯隊の戦記は無くとも、同じ第十師團隷下の部隊の戦記があれば参考になると思います。

あとは専門的になりますが、防衛省の図書館にも一次史料が揃っているので、相談されれば丁寧に史料を探して頂けると思います。

軍歴証明は取られてらっしゃいますので、それ以上に詳しい史料は難しいと思います。

ブログの引用に関してはご連絡頂いたうえ、リンクも貼って頂き、何より志が同じ(大先輩に対しおこがましいですが・・・)と
お見受けしますので全く問題ありませんのでお気になさらずに。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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