当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

熊本城内に残る神風連の変、西南の役関連の石碑

熊本城は明治維新後、明治9(1876)年の神風連の変(乱)、明治10(1877)年の西南の役と2度の旧士族による反乱にさらされたため、両事件を標す石碑が新旧多数建立されています。
陸軍遺構とも言えるこれらの碑をまとめて紹介します。

神風連・西南役- 籠城将軍谷干城 像 (2)(熊本陸軍遺構)
▲「籠城将軍 谷干城」像






熊本城内の神風連、西南役関連遺構
熊本 第六師團(城周辺)  遺構(神風・西南)
青◎アルファベット・・・神風連関連石碑
 橙◎   〃   ・・・西南の役 〃

神風連の変 (神風連の乱、敬神党の乱)
明治9(1876)年10月24日、旧肥後藩士・太田黒伴雄ら170余名が結成した神風連(肥後勤皇党の一派、敬神党とも)が廃刀令・断髪令をきっかけに明治政府の急激な西洋化に反発、熊本城西側の藤崎八幡宮裏において挙兵します。
神風連は敢えて我が国古来よりの刀槍を装備、西洋式装備の鎭臺軍に挑みます。
神風連は決起の成否より、国家の危機に決起することのみに意義を持っていました。

神風連は第一隊第一部(高津運記他5名)が熊本鎭臺司令長官・種田政明少将、同第二部(石原運四郎他4名)が熊本鎭臺参謀長・高島成徳中佐、同第三部(中垣景澄他7名)が第十三聯隊長・与倉知実中佐、同第四部(吉村義節他4名)が熊本県令・安岡良亮、同第五部(浦楯記他5名)が熊本県民会議・太田黒惟信、第二隊(太田黒伴雄以下約70名)が砲兵第六大隊砲兵営、第三隊(富永守國以下約70名)が歩兵第十三聯隊歩兵営を襲撃、種田政明少将、高島茂徳中佐、安岡良亮(重傷、3日後死亡)他県庁役人4名を殺害、砲兵・砲兵営を襲撃し鎭臺兵を次々に斬殺し砲兵営を占拠します。
翌朝、難を逃れた歩兵第十三聯隊長・与倉知実中佐、熊本鎭臺准参謀・児玉源太郎少佐の指揮下、城外の歩十三第三大隊、態勢を建て直した鎭臺兵は反撃を開始します。
神風連首謀者の太田黒伴雄は銃弾を受け重傷を負ったため付近の民家に避難、義弟・大野昇雄の介錯で自刃すると神風連は指導者を失い潰走、多くが自刃し反乱は鎮圧されます。
神風連は124名が戦死・自刃、残り約50名は捕縛され、一部は斬首。
熊本鎭臺の戦死者は約60名、負傷者約200名。

C 「陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡」碑
熊本合同庁舎南側の緑地帯(砲兵第六大隊跡)にあります。
大正12年12月、野砲兵第六聯隊により建立されました。
神風連・西南役- C陸軍少尉阪谷敬一戦死之跡(熊本陸軍遺構)

阪谷敬一少尉は砲兵第六大隊兵営において神風連第二隊(太田黒伴雄以下約70名)と交戦、散華してしまいます。


D 「神風連首領 太田黒伴雄奮戦之跡」碑
西出丸南側、御幸坂の途中にあります。
昭和51年10月、神風連百年記念事業委員会により建立されました。

砲兵第六大隊の大島邦秀中佐は熊本城内の鎭臺本営に向かう途中、この辺りで神風連の古田十郎、青木暦太と対峙します。大島中佐は剣術に長けていたため両名を相手に善戦しますが、加勢に来た太田黒伴雄により刺殺され散華してしまいます。


E 「神風連討入口」碑
二之丸駐車場(歩兵第十三聯隊跡)の南側入口付近にあります。
神風連・西南役- E神風連討ち入口(二之丸南側)(熊本陸軍遺構)
▲左側の道路標識がある所が歩兵営南門

歩兵第十三聯隊歩兵営を襲撃した神風連第三隊(富永守國以下約70名)は、この南側入口と西側入り口から乱入、兵舎を焼き払いました。


F 「神風連首領 太田黒伴雄 終焉之地」碑
夜明けとともに態勢を建て直した鎭臺兵は反撃に転じます。
太田黒伴雄は銃弾を受け重傷を負ったため、近隣の民家を借り義弟の大野昇雄の介錯により自刃します。享年43。


H 「神風連 加屋霽堅、斉藤求三郎等戦死之跡」
昭和51年10月、神風連百年記念事業委員会により建立されました。
二之丸駐車場(歩兵第十三聯隊跡)西側にあります。
神風連・西南役- H神風連 戦死の跡(熊本陸軍遺構)

歩兵第十三聯隊は神風連第三隊(富永守國以下約70名)の奇襲を受け混乱に陥りますが、炎上する兵舎の明かりに照らされた神風連が少人数である事、また将校の到着により次第に体制を建て直し反撃に転じます。
鎭臺兵の一斉射撃を受けた神風連第三隊は大損害を受け神風連副首領の加屋霽堅、神風連最年長の斉藤求三郎等を失い、首領の太田黒伴雄も重傷を負います。


I 「明治九年神風黨之變 軍旗奪還之跡」碑
二之丸駐車場(歩兵第十三聯隊跡)東側にあります。
大正13年1月に建立されました。
神風連・西南役- I軍旗奮還之跡(熊本陸軍遺構)

歩兵第十三聯隊軍旗は神風連の変発生時、聯隊長・与倉知実中佐の私邸に保管されていました。
一度は与倉邸を襲撃した神風連第一隊第三部(中垣景澄他7名)に奪われてしまいますが、再び鎭臺兵・隈部幸作が奪還します。


J 「明治九年神風連之変 軍旗染血之跡」
二之丸駐車場(歩兵第十三聯隊跡)を出て護國神社に向かう途中にあります。
大正10年7月に建立されました。
神風連・西南役- J軍旗染血之跡 碑(熊本陸軍遺構)

歩兵第十三聯隊の軍旗を奪還したのち、再び神風連に奪われるのを防ぐため佐武広命中尉は軍旗を腹に巻いて奮闘中に負傷、中尉の鮮血が染みたため「血染めの軍旗」と呼ばれます。


K 「神風連挙兵本陣跡」
熊本縣護國神社の拝殿西側にあります。
昭和51年10月、神風連百年記念事業委員会により建立されました。
神風連・西南役- 神風連挙兵本陣跡(熊本陸軍遺構)

明治9(1876)年10月24日、太田黒伴雄ら170余名の神風連(敬神党)が廃刀令、断髪令を切っ掛けに明治政府による西洋化を不満として熊本鎭臺に近い藤崎八幡宮裏の愛敬正元宅において挙兵します。


L 「明治九年神風連之変 将士奮戦之跡」碑
大正10年7月に建立されました。
神風連・西南役- K明治九年神風連之変 将士奮戦之跡(熊本陸軍遺構)


西南の役
明治六年政変により鹿児島に帰郷した西郷隆盛は明治7(1874)年、鹿児島全域に私学校とその分校を創設、子弟の訓育にあたります。
明治10(1877)年1月29日、明治政府による鹿児島の砲兵属廠の武器弾薬の大阪移転に端を発し私学校生が暴発、2月6日、薩摩軍の挙兵が決定され、15日、熊本に向け進軍を開始(薩軍の戦略は熊本城に抑えをおき、主力は陸路で東上)します。
明治政府は2月13日、熊本・小倉に戒厳を令し、19日、征討の勅を発し鹿児島縣逆徒征討軍(有栖川宮熾仁親王)を出発させます。
同日、熊本城内から出火、大小天守を始め多くの櫓が焼失、薩軍13,000が熊本鎭臺(谷干城少将以下3,000余名)が守備する熊本城をが包囲します。
薩軍は熊本城を強襲しますが失敗、南下、または上陸してくると予想される征討軍に対処するため攻囲に作戦を変更、2月20日~27日には熊本方面、3月1日~31日には田原・吉次方面、3月10日~4月15日には鳥巣方面、3月4日~4月15日には植木・木留方面で激戦を展開しますが各方面で敗退、3月19日、征討軍の別働隊・衝背軍(黒田清隆中将)が八代方面に上陸、20日には田原坂が陥落し、4月14日、衝背軍が薩軍の囲みを解き熊本城に入城、熊本城の52日間に及ぶ籠城戦は終結します。
4月27日~6月21日、薩軍は人吉盆地の攻防戦に敗れ、8月14日には延岡を失陥、鹿児島に撤退します。
9月24日、征討軍は薩軍が籠る城山に攻撃を開始、銃弾を受け負傷した西郷隆盛は別府晋介の介錯によって自刃、薩軍は全滅し西南の役は終結します。

A 「忠烈」碑
  「西南戰争六十年」碑

御幸橋を渡ってすぐ東側にあります。
神風連・西南役- A西南の役 「忠烈」(谷村計介)碑②(馬具櫓付近)(熊本陸軍遺構)
▲「忠烈」碑

神風連・西南役- A西南の役 碑①(馬具櫓付近)(熊本陸軍遺構)
▲「西南戰争六十年」碑

両碑とも西南の役に際し、薩軍に攻囲された熊本城の状況を福岡方面から南下する征討軍に報告するため、城内から脱出した谷村計介伍長を讃える碑です。
谷村伍長は途中2度、薩軍に捕えられますが、その都度機転を生かして脱出し征討軍本営に到着し連絡に成功します。
しかし、3月3日、田原坂の戦いに参加し散華してしまいます。

「忠烈」碑は大正15年6月に建立、「西南戰争六十年」碑は昭和12年11月、西南戰争六十年回により建立されました。
残念ながら両碑とも剥落が激しく正面側の碑文は残っていません。

また、時期不明ながらこの場所に谷村伍長の銅像が建立されましたが、大東亜戦争中の金属供出で撤去されてしまいました。


B 西南の役回顧之碑
昭和52年12月、熊本市により建立されました。
桜の馬場「城彩苑」の入口にあります。
神風連・西南役- B西南の役 碑③(城彩苑付近)(熊本陸軍遺構)


G 「西南の役激戦地跡」碑
藤崎台球場の南側の公園にあります。


M 「明治十年之役 籠城将校家族避難之跡」碑
大正12年5月に建立されました。
神風連・西南役- L明治十年之役 籠城将校家族避難之跡(熊本陸軍遺構)

西南の役時に熊本城に籠城した鎭臺将校の家族は敵弾の飛来を避けるため、西之丸の空堀に天幕を張って避難したと言われます。
鎭臺司令長官・谷干城少将の久万子夫人を中心に負傷者の手当や慰問に努め、将校の信望を集めました。


N 石碑
監物台植物園内の管理小屋の脇にあります。

・・・写真がピンボケで何の石碑か分かりません(汗)
記憶では西南の役関連だったと思うのですが・・・


これらの石碑の他に熊本城天守内に「谷村計介伍長の銅像」、熊本城東側の高橋公園内に「熊本鎭臺司令長官・谷干城少将の銅像」があります。
なお谷少将の銅像は元々熊本城本丸の天守南側にありましたが、本丸御殿復元に伴い現在地に移設されてしまいました。
なぜこの場所なのか疑問に思います?
神風連・西南役- 谷村計介陸軍伍長像(熊本陸軍遺構)
▲谷村計介陸軍伍長像

神風連・西南役- 籠城将軍谷干城 像 (2)(熊本陸軍遺構)
▲籠城将軍谷干城 像

神風連の変、西南の役に関する史跡に関しては以下のサイト、ブログに詳細が紹介されています。
www.神風連.com

幕末史蹟研究会 mitsuyaの研究室のブログ

福井さんちの 夢 を届けるホームページ

西南役余話
関連記事



最後までお読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
↓↓↓
宜しかったらクリックお願いします


人気ブログランキングへ

コメントの投稿

非公開コメント

おー

我が先祖も攻めたかも知れない(以外とノンポリ日和見で洞ヶ峠で畑仕事してたかもですが)天下の名城熊本城 守るは嫁さん側の谷中将~ 私も行ってみたいところです

こんばんは

ひろしさん、こんばんは。
熊本城、良かったですよ!
豪壮で無骨、加藤清正をの人柄を彷彿とさせる佇まいでした。
ひろしさんも軍歌「抜刀隊」に剽悍決死の士と謳われた薩軍の血を多分に継いでいると思いますよ(^O^)
示現流で斬り込んでくる薩軍に剣道をされているひろしさんが重なります(^^ゞ

剣道も下手の横好きで(゜∇゜) 笑

いやはや(≧ε≦)拙者薩摩出身ですが 超腰抜けで 射撃は当たらない 銃剣道は激弱 駆け足は遅い 徒手格闘は論外…と薩軍兵士並みに強けりゃ嬉しいですが 幕末に生まれなくてラッキーでした まあ でも 剣道下手ながら 先生方に掛かる時は チェストー!な 感じでやってまする すぐ息があがりますが

いやいや

ひろしさん、こんばんは。
ご謙遜を(^O^)
私など武道はおろか、運動も苦手なので現役で剣道に打ち込まれる姿勢に感服です!
さすが薩摩隼人の血が流れておられますね~!
戦史検定を受けよう!
当ブログは
「戦史検定」を応援します
戦史検定
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カウンター
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
御英霊の鎮まる処
殉国の御英霊に
感謝の誠を捧げましょう
靖國神社
兵庫縣神戸護國神社
大阪護国神社
プロフィール

盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

拙ブログを参照した際はリンクを張って頂けたら嬉しいです
(^o^)
--------------
※掲載写真・資料の
無断転載は禁止します。


●Facebookやってますので本名ご存知の方はぜひ。
目印は水木しげる先生風の自画像です(笑)

検索フォーム
リンク
地図・史資料
埼玉西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ
ライオンズニュース
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる