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長宗我部元親の書状見つかる

近年、長宗我部元親関連の書状がよく見つかります。
長宗我部ファンとしては嬉しい限りです。






伊予攻め時 書状発見 2011年12月17日


 戦国時代に四国をほぼ統一した土佐の武将・長宗我部元親(1539~99)が伊予(愛媛県)攻略にあたって、敵地の豪族に宛てた書状が見つかり、県立歴史民俗資料館(南国市)が16日、発表した。宛先は武士団のリーダーの側近とみられる人物で、総大将を派遣し、戦略を練るよう丁重に依頼。四国平定に向けて手紙で必死に寝返り工作を重ねていたことを伝える資料という。(大舘司)

 書状は宮城県の歴史愛好家が所蔵し、今年10月に同館が購入した。縦29センチ、横45センチで、年号はなく、宛名の「平出」から、愛媛県南部に侵攻した1584年(天正12年)頃、元親に協力した豪族・平出雲守(たいらいずものかみ)に出したと考えられるという。

 「田所城攻めでは、手違いで撤兵してしまったとのこと」で始め、理解を示した上で「(愛媛県内子町周辺の豪族を束ねていたと考えられる)曽根宣高と相談して戦略を練る必要があります。詳細は(総大将の)久武彦七が説明します」などとつづられている。

 右筆(書記官)が代筆したとみられ、「恐々謹言」と結び、追伸の末尾も「かしく(かしこ)」と記している。寝返った相手を引きつけておくため、勢力の小さい豪族でも低姿勢を崩さず、会議を重ねて侵攻作戦を成功へと導いていったことがうかがえる。

 野本亮学芸員は「元親は勇猛なだけでなく、敵地の豪族を巧みにてなずける心理戦にもたけていたことがわかる。元親の魅力を伝える貴重な資料だ」と話す。
         ◆
 元親は本当に四国を統一したのか――。研究者の間で意見が分かれるこの問題に、同館は「今回の書状が一石を投じる」とする。

 重臣の子孫が江戸時代に完成させた軍記物語「土佐物語」によると、元親は85年(同13年)春、伊予を治めていた河野氏を降伏させたとしている。これが元親の「四国統一」の根拠となっている。

 しかし、今回の書状では、その前年に伊予南部の城攻めを失敗し、寝返り工作を進めながら、戦略を練り直していた様子がうかがえる。野本学芸員は「元親は伊予全土を制圧できなかったという説を補強する」と指摘し、「四国を統一していない可能性が強まり、慎重に検討する必要がある」としている。
 書状は1月2~15日、同館で一般公開される。入場料500円。(読売新聞


昨年も「元親の外交書状」(6/29)「一族の書状8点」(12/11)が見つかっています。
昨今の歴史ブームにより、今まで余り陽の目を見なかった長宗我部元親にも陽光が差してきたようです。
新資料の発見により、新たな史実が解明されていくのが楽しみです。

今回発見されたのは南予攻略戦の過程での書状のようです。
内容を見ると、去年6月に発見された「元親の外交書状」に酷似しているのですが、書状の写真を見ると別物のようです。

長宗我部元親関連の話題が出る度に思うのですが、一般的に元親は「猛将」と思われているのでしょうか?
確かに初陣の「長浜の戦い」(長宗我部國親、元親×本山茂辰)だけを見ればそうかも知れませんが、その後の本山茂辰、安芸国虎、一条兼家との戦いを見ると、どちらかと言えば「智将」の印象が強いのですが。

元親は天正5(1577)年、三家老の1人・久武親信を伊予2郡の郡代に任じ、南予の西園寺公広領に進攻を開始、天正6(1578)年2月に四国の中心にある讃岐の白地を攻略、ここを拠点に四国平定戦を進めて行きます。
この頃から東予の豪族にも調略を開始します。
伊予の攻略は豪族を調略しつつ進攻したようで、今回公開された書状でもその戦略を垣間見る事ができます。

伊予平定戦は毛利輝元の援軍に苦戦、さらに天正7(1579)年、久武親信が岡本城攻略中に討死したため進攻は頓挫します。

しかし、織田信長が中国攻略を開始したため、天正8(1580)年、伊予平定を再開、天正12(1584)年秋、久武親信の弟・親直(彦七)を郡代に命じ10月、黒瀬城を攻略し西園寺公広を降します。

今回発見の書状はこの黒瀬城攻略直前頃に出された物と思います。
同年の6月、長宗我部勢は苦戦しながら讃岐・十河存保の最後の拠点・十河城を攻略するも、伊予には再び毛利輝元勢が侵入、形勢が不利になれば味方していた諸豪族が一気に翻意し、伊予戦線は崩壊する可能性があります。
何とか下手に出て伊予の諸豪族を繋ぎ留め伊予攻略を成功裏に進めようとする、元親の苦しい心境が垣間見れる興味深い資料では無いかと思います。

また、南予の豪族を束ねていたのは従来は西園寺家臣・大野直之と言われていましたが、最近の研究では曽根宣高が有力者と言われており、この時期は既に直之は討死しているとは言え、宣高の力が伺えるのも興味深いと思います。

従来は「元親は翌天正13(1585)年、余勢を駆って一気に伊予最大の勢力である河野通直を降伏させ、四国全土を統一した」とされていますが、この書状を見る限りでは伊予攻略は「順調」と言うより「遅滞」、南予攻略が精一杯で、河野通直の婚姻関係にある毛利家の援軍が避けられない北予の攻略を僅か1年で完遂させるのは厳しかったのでは無いかと思います。
何より四国統一の記述が軍記物の『土佐物語』にしか無いのも厳しいです。

「書状は宮城県の歴史愛好家が所蔵」と言うことですが、宮城(仙台藩)には元親の弟・香宗我部親泰の子孫が仕官しているので、その辺りから出たものでしょうか?
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そう言えば、20年以上前に、長曽我部君って言う同じ歳の人と仕事をした事が有ります。
あと、蜂須賀さんって人とも仕事したこと有ります。

Re: タイトルなし

kanさん、こんばんは。
蜂須賀氏は希少名ですが愛知発生、のち近世大名として明治維新を迎えているので居らっしゃる可能性はありますが、長宗我部氏は元親の祖父・兼序、子・盛親の代で滅亡しているので極めて珍しいですね。
長宗我部氏は元親の弟2名(香宗我部親泰、島親益)の家系が他家(肥後・仙台)に仕官、他の一門も帰農した家系が明治維新後に長宗我部氏に復姓している方もいますがかなり少ないので、家系を辿ればどの武将の子孫か分かるかも知れませんね。
個人的に非常に興味深いです。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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