当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

第六師團司令部 他 熊本城内にあった陸軍施設、現存遺構

熊本城周辺の陸軍遺構ですが、まずは城内の数少ない遺構を紹介します。

なお、紹介する遺構は僕が資料を元に実地探索をして見つけた物ですので、見落とし、間違いがあるかもしれません。
御気付きの方はご指摘頂ければ幸いです。
ア陸軍省所轄地(法華坂)(熊本陸軍遺構)
法華坂にある「陸軍省所轄地」境界石標






熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

熊本城 空撮(昭和2)(熊本陸軍遺構)
▲昭和2年の空撮

熊本 第六師團221101
▲昭和22(1947)年11月1日の熊本城周辺の空撮


熊本 第六師團(城周辺)  遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
第六師團司令部
熊本憲兵隊本部
第六師團兵器部 倉庫
第六師團兵器部
熊本陸軍病院
火薬庫
熊本陸軍教導學校
藤崎薹招魂祭場
熊本陸軍病院 藤崎薹分院
熊本陸軍拘禁所
⑪輜重兵第六聯隊
⑫第六師團経理部、及び倉庫
⑬熊本聯隊區司令部
⑭熊本偕行社
⑮熊本憲兵分隊
⑯第六師團長官舎

名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。

遺構について※青字は地図にリンクしています
カタカナは遺構など、上掲地図参照
第六師團司令部庁舎
司令部は本丸内の天守台東側にありました。
現在は本丸広場になっており、遺構は何も残されていません
第六師團司令部 変遷(熊本陸軍遺構)
▲在りし日の第六師團司令部庁舎

明治4(1871)年8月20日、熊本に鎭西鎭臺(明治5年4月1日、熊本鎭臺に改称)が設置され、本営を花畑(旧藩主邸宅)に置きます。
鎭臺本営(熊本陸軍遺構)
▲旧熊本藩主・細川邸に置かれた鎭西鎭臺本営

明治8(1875)年、熊本鎭臺本営は花畑から本丸の天守内に移転しますが、明治10(1877)年2月14日、西南の役が勃発、2月19日からの熊本城攻防戦により鎭臺本営の天守は焼失してしまいます。
鎭臺本営 城内に移転(熊本陸軍遺構)
▲熊本鎭臺本営が設置された熊本城天守(焼失前)

熊本城大小天守(鉄筋外観復元 )西から (2)(熊本旅行)
▲昭和35(1960)年に復興された現在の熊本城天守

熊本鎭臺は臨時の本営を宇土櫓に設置、天守台東側の広場に新たに洋風1階建の本営を建設します。
熊本城宇土櫓(現存)(熊本旅行)
▲天守焼失後、一時的に本営が置かれた宇土櫓(現存)

第六師團司令部(明治21)(熊本陸軍遺構)
▲本丸広場に新築された鎭臺本営庁舎(明治21年頃の写真)

明治24(1891)年5月12日、熊本鎭臺本営は第六師團司令部と改称します。
明治25(1892)年、失火により司令部庁舎が焼失してしまったため、再び同じ場所に洋風1階建の司令部庁舎を建設します。
大正6(1917)年、庁舎が手狭なため2階建に改築されます。
以降、第六師團、留守第六師團、第四十八師團、熊本師管區司令部が置かれ昭和20(1945)年8月16日、停戦を迎えます。
第六師團司令部(熊本陸軍遺構)
▲第六師團司令部庁舎

昭和22(1947)年4月、司令部庁舎は熊本県立女子専門学校(現、熊本県立大学)の校舎に転用、さらに昭和27(1952)年6月5日、熊本市立熊本博物館第1館に転用されます。
昭和35(1960)年、熊本城天守の復興に伴い破壊されてしまいました。
天守から東側(熊本陸軍遺構)
▲現在の第六師團司令部庁舎跡(本丸広場)
 写真右端の井戸が上掲の師團司令部庁舎写真にも写っています(庁舎前の小屋根)


熊本憲兵隊本部
御幸坂の麓にありました。
現在は観光商業施設「城彩館」になっており、遺構は何も残されていません

明治28(1895)年、『憲兵条例』改正により千葉城(現、NHK熊本放送局)に設置されます。
昭和3(1928)年、桜馬場東端に移転します。
昭和20(1945)年4月1日、西部憲兵隊司令部熊本地區憲兵隊と改称され、停戦を迎えます。

戦後も庁舎は残存していましたが、昭和34(1959)年、県営熊本城プール(平成13年、閉鎖)建設に伴い破壊されてしまいました。


第六師團兵器部 倉庫
善通寺、姫路、金沢などに残されている倉庫と同様の煉瓦倉庫4棟がありました。
現在は観光商業施設「城彩館」、熊本合同庁舎・熊本国税局になっており遺構は何も残されていません
師團兵器部(熊本陸軍遺構)
▲在りし日の第六師團兵器部倉庫

第六師團兵器部の倉庫として大正7(1918)年頃、建設されました。

戦後も残存していましたが、昭和30年代(県営プール建設と同時期か?)に合同庁舎建設に伴い破壊されてしまいました。


第六師團兵器部
現在は県立第一高校になっており遺構は何も残されていません

戦後も建物は残存していましたが、昭和33(1958)年2月、県立第一高校の校舎建設に伴い破壊されてしまいました。


熊本陸軍病院
現在は熊本医療センターになっており遺構は何も残されていません

明治4年(1871)8月、鎭西鎭臺病院が設置、明治5(1872)年4月1日、熊本鎭臺病院、明治24(1891)年5月12日、熊本衛戍病院、昭和11(1936)年、熊本陸軍病院と改称します。
昭和4(1929)年6月、西隣の熊本偕行社移転に伴い、敷地を拡張します。

昭和20(1945)年12月1日、陸軍省から厚生省に移管され国立熊本病院になります。
平成16(2004)年4月1日、国立病院の独立行政法人化に伴い、独立行政法人国立病院機構熊本医療センターとして現在に至ります。
戦後も建物は残存していましたが、次第に破壊されてしまい、現在は皆無です。


火薬庫
飯田丸内に土堤で囲まれた火薬庫がありました。
現在は飯田丸五階櫓が復元され、陸軍時代の遺構は何も残されていません


熊本陸軍教導學校
現在は二之丸広場、二之丸駐車場になっています。

敷地内に建物等の遺構は残されていませんが、神風連の変・西南の役関連の石碑に混じり、陸軍関連の石碑が建てられています。
教導學校校門(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍教導學校 校門(この辺り

教導學校(二之丸)配置図(熊本陸軍遺構)
▲熊本陸軍教導學校 配置図

大正14(1925)年5月29日、この場所にあった歩兵第十三聯隊が、渡鹿の旧歩兵第二十三聯隊兵営跡に転営します。
昭和2(1927)年7月1日、歩兵科の下士官候補者を養成するため、『陸軍教導學校令』により仙台、豊橋とともに歩兵第十三聯隊跡に設置されます。
下士官候補者は、各聯隊區内の歩兵聯隊に1年間入営した後に教導學校に入学、1年間の修学の後、卒業後に下士官に任官しました。
昭和18(1943)年8月2日、『昭和十八年三月二十九日 勅令第二百二十一號』によりに廃止(下士官養成は各軍隷下の軍教育隊により教育)、熊本陸軍教導學校は熊本陸軍豫備士官學校に改編されます。
陸軍豫備士官學校は戦局の悪化に伴う下級将校不足を補うため、甲種幹部候補生を予備役将校として養成するための教育機関でした。
昭和20(1945)年7月、空襲を避けるため岡山県津山市勝間田の農学校(勝間田農林學校?)に移転、津山陸軍予備士官學校に改称し停戦を迎えます。

昭和20(1945)年12月、熊本医科大(昭和24年から熊本大学医学部)が移転してきますが、昭和36(1961)年、本荘に移転、敷地南側の建物(本部、講堂、医務室、師團兵器部倉庫など)が破壊され駐車場になります。
昭和37(1962)年、北側の兵舎を転用し県立第二高校が新設されますが、昭和43(1968)年、東町に移転したため全ての建物が破壊され広場になってしまいます。


ア 「陸軍省所轄地」境界石標
ア陸軍省所轄地(法華坂)(熊本陸軍遺構)

法華坂から護國神社に向かう道の脇にあります。
境界方向を示す矢印や番号などの刻印はありません。


イ 石材の土留め
イ近代の石留(熊本陸軍遺構)

この場所は明治年間には工兵作業場がありましたが、教導學校設立とともに将校集会所、教育参考館、庁中備品庫が建てられます。
土留めのある位置からして将校集会所の入口と思われます。


ウ 「歩兵第十三聨隊之跡」碑
ウ歩兵第十三聨隊之跡(熊本陸軍遺構)

二之丸駐車場の土産物屋の北側、営門の跡辺りにあります。
昭和53年9月24日、歩十三会により建立されました。

明治元(1868)年8月20日、鎭臺兵舎が設置され、明治8(1875)年4月15日、歩兵第十三聯隊に改編、大正14(1925)年5月29日、渡鹿の旧歩兵第二十三聯隊兵営跡に転営します。
歩十三兵営(二之丸時代)(熊本陸軍遺構)
▲歩兵第十三聨隊営庭(現、二之丸広場)


エ 「御駐蹕之跡」碑
エ御駐蹕之跡(熊本陸軍遺構)

二之丸広場南側の樹木の木陰にあります。
昭和6(1931)年11月、熊本県下で挙行された陸軍特別大演習に際して、18日、先帝陛下(昭和帝)が熊本陸軍教導學校に行幸され、露天演習を御覧になられたのを記念し同年12月に建立されました。


オ 馬魂碑
オ馬魂碑(熊本陸軍遺構)

二之丸広場北側にあります。
昭和20(1945)年3月に建立されました。
揮毫は熊本陸軍教導學校最後の校長であり、熊本陸軍豫備士官學校の初代校長・石井信少将です。

この場所は教導學校時代に厩舎のあった場所なので、病没した軍馬を弔うための碑かも知れません。

その他、二之丸広場の南東角に「熊本城二の丸由来記」があり、二之丸の変遷が記されています。
碑は元熊本陸軍教導學校・元熊本陸軍豫備士官学校有志、熊本県立第二高等学校同窓会により建立されました。
H二之丸由来記(熊本陸軍遺構)


藤崎薹招魂祭場
現在は熊本縣護國神社として熊本県出身の殉国の英霊61,164柱に加え、自衛官・警察官・消防員、空襲犠牲者、さらに神風連、そして所謂賊軍とされた西南の役の薩軍協力者など合計65,000余柱がお祀りされています。

詳細は「熊本縣護國神社」の記事参照。


熊本陸軍病院 藤崎薹分院
現在は藤崎台球場となり、陸軍時代の遺構は何も残されていません

昭和12(1937)年7月7日、支那事變が勃発、事變で急増した戦傷病者を収容するため開院します。
昭和13(1938)年9月、健軍臨時分院が開院している事から、同時期に開院したと思われます。

昭和20(1945)年12月、熊本陸軍豫備士官學校跡に移転して来た熊本医科大(昭和24年から熊本大学医学部)の付属病院分院となりますが、昭和35(1930)年、熊本国体の際に藤崎台球場が建設され建物は全て破壊されてしまいます。


熊本陸軍拘禁所
現在は藤崎台球場となり、陸軍時代の遺構は何も残されていません

明治4年(1871)8月、鎭西鎭臺の設置に伴い熊本鎭臺陸軍裁判所囚獄が設置、明治15(1882)年、熊本陸軍監獄署、後(明治23年か?)、熊本衛戍監獄、大正12(1923)年4月1日、熊本衛戍拘禁所、昭和15(1940)年7月31日、熊本陸軍拘禁所と改称します。
詳細は不明です。

戦後は熊本陸軍病院藤崎薹分院と同じ区画に遭った事から、同様の経緯と思われますが不明。


衛戍、編成師團
第六師團(明九〇一六/司令部:明九〇一五)
慶応4(明治元、1868)年2月20日、明治政府直轄軍として御親兵が創設、明治4(1871)年4月23日、各藩兵からなる東山道(石巻)・西海道(小倉)鎭臺が設置(肥後藩は神谷天也隊長以下約600名を小倉に配置)、7月14日、廃藩置県により、日本全土が明治政府の直轄となり、8月20日、東山道・西海道鎭臺が廃止(9月、藩兵は解散)され東北(仙台)・東京・大阪・鎭西(熊本)の4鎭臺が設置されます。
鎭西鎭臺は本営を熊本城南側の花畑(旧藩主邸宅)に、兵営を二之丸(歩兵11個小隊)に置き、隷下の第一分営を広島城(歩兵4個小隊)、第二分営を鹿児島城(歩兵4個小隊)に置きます。

明治5(1872)年4月1日、鎭西鎭臺は熊本鎭臺に改称され、小隊編成から大隊編成となり九番大隊(3個小隊)、十一番大隊(8個小隊)が編成(同じく広島分営は十五番大隊、鹿児島分営は十七番大隊)、明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』が施行され旧士族志願制度から国際情勢に即した国民皆兵制に転換、大隊の名称は「〇番大隊」から「第〇大隊」に改称します。
同月、第十五大隊は新設の廣島鎭臺隷下となり、7月、第九大隊は解隊され、第十九大隊が大阪鎭臺から熊本鎭臺へ転属、鹿児島の第二分営の出火焼失により第十七大隊は解隊されます。
熊本鎭臺
歩兵第九大隊(熊本)
歩兵第十一大隊(熊本)

明治7(1874)年2月15日、佐賀の乱に熊本鎭臺歩兵第十一大隊が出動、右半大隊(山城清三大尉)は陸路、左半大隊(和田勇馬大尉)は海路から進撃します。
15日、左半大隊は若津に上陸し佐賀に入城するも、16日、反乱軍(首謀者・江藤新平)の包囲を受け苦戦に陥り、18日、包囲を突破して福岡にて右半大隊と合流、19日、東京・大阪両鎭臺の増援軍(野津鎭雄少将)が到着、轟木、神埼、蓮池などで反乱軍と交戦、3月1日、乱を鎮定し熊本に凱旋します。

明治4(1871)年、台湾に漂着した琉球船の漁民が現地の高砂族に殺害された事件を機に我が国は清国と対立、明治7年4月、我が国は西郷従道 海軍少将を臺灣事務都督に任じ、熊本鎭臺司令長官・谷干城少将は臺灣蕃地事務参軍として隷下の歩兵第十九大隊を征討軍に編入します。
16日、征討軍は熊本を出発、瑯湾に上陸し各地を転戦、5月、石門を攻略、8月、大阪鎭臺歩兵第二十二大隊、東京鎭臺歩兵第十一大隊等が熊本鎭臺に転属され熊本鎭臺歩兵第十一大隊とともに台湾に到着、高砂族を鎮定します。
10月、日清両国の講和が成立し、征討軍は凱旋します。
征臺の役により歩兵第十一、第十九大隊が出征したため、徴兵令により歩兵第二十五、第二十六大隊が留守部隊として編成されます。
熊本鎭臺
歩兵第十一大隊(熊本)
歩兵第十九大隊(熊本)
歩兵第二十五大隊(熊本)
歩兵第二十六大隊(熊本)

明治8(1875)年3月10日、熊本鎭臺は歩兵第十一、十九大隊を解隊し、27日、将校、下士官の大半を歩兵第二十五、第二十六大隊に編入し、4月15日、歩兵第二十五大隊を基幹に歩兵第十三聯隊、歩兵第二十六大隊を基幹に歩兵第十四聯隊が編成(12月、小倉に転営)、鎭臺第三砲隊が砲兵第六大隊に改編されます。
明治9(1876)年4月15日、予備砲兵第三大隊と工兵第六小隊が新編されます。
10月24日、『散髪令』、『廃刀令』に反発した神風連の太田黒伴雄ら170余名によって神風連の変が発生、歩兵第十三聯隊、砲兵第六大隊兵営が襲撃され焼き払われます。奇襲を受けた鎭臺は混乱に陥りますが、将校らの指揮下、体制を立て直し反撃に転じ、変を鎮定します。
熊本鎭臺
歩兵第十三聯隊(熊本)
歩兵第十四聯隊(小倉)
砲兵第六大隊(熊本)
予備砲兵第三大隊(熊本)
工兵第六小隊(熊本)

明治10(1877)年2月15日、西南の役が発生、19日、鎭臺本営の置かれた熊本城天守が消失、22日、熊本城は薩軍の強襲を受けます。
熊本鎭臺司令長官・谷干城少将は鎭臺兵3,000余名とともに籠城、薩軍13,000余名の攻囲を50余日間に渡って耐え抜きます。
2月27日、坪井方面に偵察隊(大迫尚敏大尉)が威力偵察に出撃、3月12日、段山奪取のため鎭臺は出撃、霧の中、砲撃・銃撃戦を展開し薩軍を敗走させます。
3月26日、後方攪乱部隊3隊が、京町口・井芹村・本妙寺に出撃、一時薩軍を退けるも逆襲を受け撤退します。
4月8日、突囲隊(奥保鞏少佐)、侵襲隊(小川大尉)、予備隊の3隊が川尻方面に出撃、侵襲隊は安巳橋を急襲し、薩軍と交戦している間に突囲隊は水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の征討軍の衝背軍と連絡に成功します。
4月14日、征討軍の別働第二旅團が薩軍の包囲を突破、15日、征討軍が熊本城に入城、17日、薩軍は熊本城の攻囲を解き、城東に集結、鎭臺は征討軍の城東會戰に参加し薩軍を撃破します。
鎭臺は征討軍とともに豊後、延岡方面を転戦、明治10(1877)年9月24日、薩軍総帥・西郷隆盛の自刃により西南の役は終結します。

明治10(1877)年11月、輜重兵第六小隊が編成されます。

明治12(1879)年3月、廃藩置県による琉球藩の沖縄県転換に、歩十三の2個中隊が派遣され首里城を受領します。
沖縄県への変更に宗主国を称する清国が干渉、明治8(1875)年の江華島事件以来の朝鮮を巡る清国との対立が顕著になってきます。

明治15(1882)年7月23日、朝鮮で開化党と事大党が対立、暴動に発展(第一次京城事変)し日本公使館が襲撃され邦人14名が殺害されたため、8月3日、熊本鎭臺に動員下令、10日、熊本を出発、13日、歩十三・山砲兵第六聯隊は福岡で混成旅團を編成しますが、我が国と清国の介入により暴動は鎮圧されたため、9月4日、混成旅團は解散し熊本に帰還します。

明治17(1884)年、朝鮮で我が国の援助を受けた開化党が清国の援助する事大党を排すべくテロ事件(第二次京城事変)を起こしますが、清軍の介入により失敗、日清間に『天津条約』が締結されお互い撤兵します。

明治17(1884)年7月1日、歩兵第二十三聯隊が編成され、既存の歩十三とともに明治18(1885)年6月に編成された歩兵第十一旅團の隷下に編入されます。

明治18(1885)年、我が政府に兵学教官として招聘されたドイツのクレメンス・メッケル少佐により、固定的治安警備の鎭臺から野戦機動型の師團への転換が提唱されます。

明治21(1888)年5月12日、『師團司令部条例』により熊本鎭臺から第六師團に改称します。

明治22(1889)年3月7日、砲兵第六聯隊が野戰砲兵第六聯隊と改称、5月31日、工兵第六小隊が大隊に改編、12月1日、輜重兵第六小隊が大隊に改編、騎兵第六大隊が編成されます。
第六師團
歩兵第十一旅團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第二十三聯隊(熊本)
歩兵第十二旅團司令部(小倉)
 歩兵第十四聯隊(小倉)
 歩兵第二十四聯隊(福岡)
騎兵第六大隊(熊本)
工兵第六大隊(熊本)
野戰砲兵第六聯隊(熊本)
輜重兵第六大隊(熊本)
対馬警備隊(対馬)

明治27(1894)年4月、朝鮮で東学党の乱が発生、朝鮮政府は清国に出兵を要請し我が国も天津条約に基づき6月10日、海軍八重山艦隊の陸戦隊を派遣します。
乱鎮圧後、我が国は清国に朝鮮の内政を共同で改革することを提案しますが、清国は拒否、朝鮮開化党は政権を奪取し朝鮮独立のため我が国に清国の排除を要請、明治27(1894)年7月24日、第六師團に動員下令、25日、豊島沖海戦で清国海軍の一部を、27日、成歓・牙山で清国陸軍を撃破、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発します。
9月13日、広島に大本營が設置され、15日、第一軍(山縣有朋大将、第三・第五師團)が編成され、平壌において清国軍を撃破、17日、黄海海戦で聯合艦隊は清国海軍北洋艦隊を撃破します。
26日、第六師團は第一・第二師團とともに第二軍(大山巖元帥)戦闘序列に編入されます。
10月23日、歩十三は熊本を出発、26日、師團主力は熊本を出発し戦略予備としし福岡で待機、第二軍とともに先発した隷下の混成第十二旅團は第一師團とともに10月24日、遼東半島花園口に上陸、11月6日、金州城、22日、旅順を攻略します。
12月29日、師團は福岡を出発、31日、列車で小倉に集結、明治28(1895)年1月12日、門司に移動、福岡丸・神州丸・姫路丸に分乗し、15日、大連湾に上陸し第二師團とともに山東作戰軍(大山巖元帥)に編入、22日、第六師團は大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸します。
1月26日、師團は右縦隊として龍安荘を出発、1月30日、両師團はそれぞれ部隊を3分し聯合艦隊の援護射撃の元、清国北洋艦隊の要所・威海衛を攻撃、占領、さらに2月2日、北岸要塞、劉君島、日島を占領、北洋艦隊を降伏(司令官・丁汝昌は自決)させます。
2月22日~3月5日、山東作戰軍は旅順に帰還、15日、第一・第二軍は改編され、第六師團は近衛・第四師團とともに第二軍に編入されます。
3月30日、日清間に休戦協定が結ばれ、4月17日、下関において両国の講和条約が締結されます。
5月下旬~6月下旬、師團は熊本に凱旋し復員、明治29(1896)年6月5日、賠償金払込担保として威海衛守備に任じていた歩兵第十一旅團の任務が終了、8日、熊本に凱旋、16日、復員完結します。

講和条約により我が国は清国より遼東半島の領有を認められますが、5月、ロシア、フランス、ドイツの干渉(三国干渉)により領有を放棄せざるを得ませんでした。
当時、ヨーロッパ列強諸国による植民地獲得競争は極東にも及び、我が国はこれらの外圧を排除し、自国の安全保障のため、明治29(1896)年3月、陸軍平時編制を制定し、第七から第十二師團の編成が決定します。
明治31(1898)年10月1日、この兵制改革により第六師團隷下の歩兵第十二旅團(歩十四、歩二十四)は新設された第十二師團に編入、第六師團にはあらたに歩兵第二十四旅團(歩四十五:鹿児島、歩四十八:大村)が編入されます。
明治29(1896)年5月19日、騎兵第八大隊が聯隊に改編されます。
第六師團
歩兵第十一旅團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
歩兵第二十四旅團司令部(久留米)
 歩兵第二十三聯隊(熊本)
 歩兵第四十八聯隊(大村)
騎兵第六聯隊(熊本)
野戰砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六大隊(熊本)
輜重兵第六大隊(熊本)

明治28年5月22日、下関条約により我が国に編入された台湾で、清国軍が条約に反し共和国を詐称したため歩十三から派遣された分遣隊が第三旅團歩兵第六聯隊に編入され土匪の討伐にあたります。
明治30(1897)年8月31日、歩十三第一大隊(渡部之少佐)は熊本を出発、第一・第二中隊を台北に本部・第三・第四中隊を大嵙崁に置いて土匪討伐にあたります。
明治31(1898)年10月1日、台湾守備隊の編成が改編され、内地各聯隊より混成1個中隊を派遣する事となり、新たに歩十三から派遣された中隊は混成第三旅團に編入、歩兵第六大隊第一中隊(鈴木直義中尉)となり南部の土匪討伐にあたります。

明治30(1897)年11月10日から13日、筑後平野で行われた大演習に参加します。

明治33(1900)年7月16日、白川の氾濫に歩十三聯隊を派遣、堤防、橋梁の修理、被災民の救援に当ります。

明治35(1902)年11月10日から14日、明治天皇御統監のもと熊本地区において実施された特別大演習に参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により、我が国の安全保障を確保すべく明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、27日、動員完結、6月10日、熊本を出発し、13・14日、長崎(歩四十五は鹿児島から)を出航、17・18日、遼東半島塩大墺に上陸、馬家屯に集結、6月21日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され第三・第四師團とともに北上を開始、7月10日、蓋平の戦闘、23日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘に参加、ロシア軍を撃破します。
8月30日、遼陽會戰に参加、師團は2隊に別れて首山堡の敵陣を攻撃、敵の激烈な抵抗で大きな損害を出しますが、9月1日、首山堡を占領し敗敵を追撃、4日、遼陽城の各城門を占領します。
10月8日、沙河會戰に参加、11日、台子、楊家湾を占領、続く沙河対陣に参加、明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加、拉木屯、林盛堡を占領し敵陣に砲撃を開始、5日、沙河右岸の第一線陣地を、7日、漢城堡を占領、10日、渾河左岸の敵は逐次退却を始めたため追撃を開始、逆襲してきた敵2個師団を撃破し10,000余名の俘虜を得ます。
25日、師團は第四軍(野津道貫大将)の戦闘序列に入り、5月21日、昌図付近に前進し守備に就きます。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年3月3日、熊本に凱旋します。

明治40(1907)年11月13日、明治三十七八年戰役(日露戦争)後の国防の重要性から第十七師團(岡山)、第十八師團(久留米)が新設されます。
第十八師團の新設により第六師團も改編され、隷下部隊が変更されます。
第六師團
歩兵第十一旅團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第二十三聯隊(熊本)
歩兵第二十五旅團司令部(鹿児島)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
 歩兵第六十四聯隊(都城)
騎兵第六聯隊(熊本)
野戰砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六大隊(熊本)
輜重兵第六大隊(熊本)

明治38(1905)年11月17日に締結された第二次日韓協約に基づき我が国は韓国を保護国とします。
明治41(1908)年10月1日、歩十三が韓国駐箚のため、熊本を出発、龍山、金城、開城などに屯営、明治43(1910)年5月3・4日、熊本に帰還します。
8月22日、日韓併合条約が締結、韓国が我が国の一部になります。
明治45(1912)年4月2日、歩十三第八中隊が臨時朝鮮派遣歩兵第二聯隊に編入され韓国駐箚のため熊本を出発、大正3(1914)年4月24日、熊本に帰還します。
11月25日~大正9(1920)年10月20日、支那における辛亥革命直後の混乱から漢口の総領事・居留民を保護すべく派遣された中支派遣隊(明治44年、第十八師團において編成、大正三四年戰役(第一次世界大戦)勃発により、第十八師團は青島攻略に参加のため、第六師團が交替)に歩十三から6次に渡り中隊が派遣されます。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため熊本を出発、16日、龍樹屯に上陸し匪賊討伐にあたります。
大正13(1924)年10月29日、奉天、直隷両軍閥の内戦が勃発したため、歩十三は北支那駐屯軍の指揮下に入り天津に派遣され、12月6日、師團に復帰します。

大正14(1925)年5月11日、軍縮(宇垣軍縮)により第六師團も改編されます。
第六師團
歩兵第十一旅團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第四十七聯隊(大分)
歩兵第三十六旅團司令部(鹿児島)
 歩兵第二十三聯隊(都城)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
騎兵第六聯隊(熊本)
野砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六大隊(熊本)
輜重兵第六大隊(熊本)

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、第六師團は居留民と我が国の権益保護のため山東省に派遣(第二次山東出兵)されます。
26日、済南に到着し、20日に到着した支那駐屯軍臨時済南派遣隊(3個中隊)と合流、居留民保護にあたりますが、5月3日、国府軍による日本人虐殺陵辱・商店略奪(略奪被害戸数136、被害人員約400:済南事件)をきっかけに我が軍と国府軍と交戦、11日、我が軍は済南城を占領し、国府軍の武装解除にあたります(昭和4年3月28日、日支間の協定締結)。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

11月12~14日、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和7(1932)年12月7日、第六師團に動員下令、16日、熊本を出発、17日、釜山に上陸、20日、奉天に到着、第二師團(仙台)と交替し奉天・吉林周辺に隷下部隊を配置し警備にあたります。
第六師團司令部要員(昭和7年 滿洲事變)(熊本陸軍遺構)
▲昭和7年12月16日、乗馬・自動車にて熊本城を出発する第六師團司令部幕僚

昭和8(1933)年2月17日、師團は第十師團(姫路)と警備を交替、満洲国軍主力、第八師團、歩兵第十四旅團、騎兵第四旅團とともに、張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため満洲國と關東軍の熱河作戰に参加します。
師團は3縦隊となり中央縦隊は彰武、左縦隊は朝陽寺、右縦隊は通遼から進撃を開始、3月5日、赤峰で合流し、開城を占領、4月10日、長城線を占領します。
4月11日、国府軍は直隷地区に20万の兵を集結、さらに長城線を超え北上を開始したため、關東軍は灤(らん)東作戰を発動、第六師團は歩兵第十四旅團、歩兵第三十三旅團とともに国府軍を冷口方面の長城を越えて灤河右岸まで撤退させ、19日、長城線に帰還します。
しかし、国府軍は帰還する我が軍を追尾して灤東地区まで侵入して来たため、5月3日、關東軍は關内作戰を発動、8日、第六・第八師團は再び進撃を開始、12日、灤河を渡河、23日、薊運河-懐柔-密雲の線に進撃します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結されます。
9月10日、内地帰還の命を受け、10月14日、熊本に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二十九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は攻撃を開始、北京・天津を平定します。

7月27日、第六師團に動員下令、北支那方面軍戦闘序列の支那駐屯軍(香月清司中将)の隷下に入り、31日、動員完結、8月1日、熊本を軍用列車で出発、同日、門司港は出航、釜山に上陸し、13日、北京東南の黄村に集結し警備(豪雨により到着の遅れた歩十三は天津郊外の濁流鎮、馬廠付近の警備にあたり、9月初旬、師團を追及)にあたります。
第六師團
歩兵第十一旅團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第四十七聯隊(大分)
歩兵第三十六旅團司令部(鹿児島)
 歩兵第二十三聯隊(都城)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
騎兵第六聯隊(熊本)
野砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六聯隊(熊本)
輜重兵第六聯隊(熊本)
第六師團 通信隊
 〃   衛生隊
 〃   第一~第四野戰病院

8月31日、支那駐屯軍は第一軍に改編されます。
9月14日、北支那方面軍の保定作戰に参加、野砲兵第六聯隊の援護射撃のもと永定河を渡河、牛駄鎮、新城、徐州を進撃し、24日、保定城を攻略します。
10月1日、京漢鉄道を南下、9日、国府軍の激烈な抵抗に苦戦しながらも正定城を占領、10日、滬河を渡河、同日、石家荘を攻略、趙県城に集結します。
15日、石家荘周辺に集結、昭和13(1938)年1月19日、石家荘周辺を出発、25日、天津塘沽に集結、26日、中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、歩十三・歩四十七は朝霧を付いて杭州湾海月奄付近に奇襲上陸し周辺を占領します。
師團は隷下部隊を2分(左先遣隊:歩十三主力・聯隊長岡本保之大佐/右先遣隊:歩四十七、歩十三第三大隊・歩十一旅團長・坂井徳太郎少将)しクリークに苦戦しながら進撃し、右先遣隊は6日、黄浦江を渡河、7日、松江南側の南庫浜・唐子浜を攻略、左先遣隊も金山付近で国府軍約10,000、黄浦江北岸で約3,000を撃破、8日、鉄道線に進撃します。
師團が松江付近を制圧したことにより国府軍は背後に脅威を感じ壊走、師團は追撃戦に以降し15日、崑山を攻略します。
17日、師團は第十軍の作戦地域に復帰する事となり崑山を出発し、青浦、松江を経て嘉善・嘉門付近に集結します。
12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團は嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍を撃破し、10日、南京城外の国府軍の拠点・雨花台に攻撃を開始します。
師團は第一線として右から歩十三、歩四十七、歩二十三、歩四十五・騎六を、周辺に野砲六、野重大隊、獨山砲二を配置し攻撃を開始、国府軍の激烈な攻撃に大きな損害が出ますが、11日、雨花台を攻略、12日には南京城中華門に攻撃を開始、13日、敵の激烈な抵抗に攻撃は遅滞しますが、野砲六の砲撃で城壁の一角が崩壊、遂に中華門城壁一帯を攻略します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。

師團は中華門外三里店付近に野営の後、15日、歩十三を先発として蕪湖に移駐、師團司令部は17日、南京入城式、及び陸海軍合同慰霊祭に参列後、蕪湖に移動し蕪湖、寧国、太平府付近の警備にあたります。

昭和13(1938)年2月14日、中支那方面軍は解体され、中支那派遣軍(畑俊六大将)が新編されます。

5月、中支那派遣軍の徐州會戰に師團から坂井支隊(歩十三、歩四十七:歩十一旅團長・坂井徳太郎少将)が参加、14日、巣県、盧州で国府軍を撃破します。
6月、師團は武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加、坂井支隊は先遣隊として盧州を出発し南下西進、6月9日、舒城、13日、桐城、17日、潜山を攻略します。
7月4日、師團は新設された第十一軍(岡村寧次中将)隷下となり、敗走する国府軍を太湖および五家牌楼方面に追撃するとともに、19日、騎六に上石牌を攻略させ、敵の糧食船団を鹵獲、潜山付近に集結しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。

26日、今村支隊(歩十三・山砲4個中隊:歩十一旅團長・今村勝次少将)が太湖を攻略、30日、師團は反撃してきた国府軍28個師を撃破、涼亭河に進撃、8月2日、黄梅を攻略します。
9月6日、牛島支隊(歩二十三・歩四十五・野砲六、山砲兵1個大隊、歩三十六旅團長・牛島滿少将)、今村支隊 (歩四十七、山砲兵1個聯隊)は敵8個師が籠もる敵陣を突破し、牛島支隊は広済を攻略します。
9月29日、今村支隊(歩十三・山砲兵1個聯隊)は揚子江岸の堅陣・田家鎮を攻略します。
10月17日、師團は進撃を開始、敗走する敵を追撃し多量の兵器を鹵獲、25日、遂に漢口の一角に突入(一番乗り)、26日、漢口市街地を攻略、中支那派遣軍の武漢攻略に貢献します。

武漢攻略後、師團は武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月、武寧作戰を発動、第十三師團と警備を交替し若渓付近に集結、3月20日、周辺の敵を撃破し、29日、武寧を攻略、中支那派遣軍の南昌攻略に貢献します。
3月下旬、浦圻、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加、18日、岳州南方に集結し、23日、新檣河岸の敵陣を撃破、敗走する敵を追撃し泪水南方に進撃、新市付近の敵陣地を撃破し、28日、福臨舗付近に進撃し、30日、麻林-金井-献鐘の線を確保します。

昭和15(1940)年5月1日、師團から編成された池田支隊(歩兵3個大隊基幹)が第十一軍の宣昌作戰に参加、第三十九師團とともに随県付近から北上、6月8日、荊洲、沙市を攻略し、重慶(旧国府)軍司令部は混乱に陥れ、12日、第十三師團が宣昌を攻略します。

8月、師團は3単位に改編され、歩四十七は新設の第四十八師團(中川広中将)に編入されます。
第六師團
第六歩兵團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第二十三聯隊(都城)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
騎兵第六聯隊(熊本)
野砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六聯隊(熊本)
輜重兵第六聯隊(熊本)
第六師團 通信隊
 〃   兵器勤務隊
 〃   衛生隊
 〃   第一・第二・第四野戰病院

12月24日、重慶(旧国府)軍の冬季反攻を受けますが撃退、集結する重慶軍殲滅のため、第十一軍の第一次陸水作戦に参加します。

昭和15(1940)年9月6日、第十一軍の第一次長沙作戰に向け側背面の脅威を排除するため、大雲山周辺の討伐を実施しますが、不徹底だったため第四十師團が重慶第58軍と不期遭遇戦が想起します。
9月18日、第一次長沙作戰が発動、20日、師團は汨水の左岸に進出、金井を攻略し、25日、重慶第26軍を撃破、27日、重慶第51師を撃破、28日、第四師團により長沙は攻略されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、第十一軍の第二次長沙作戰に参加、重慶軍の攻撃下、新牆河を渡河、26日、汨水を渡河、昭和17(1942)年1月1日、第三師團は長沙城に攻撃を開始しますが重慶軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、3日、第六師團も攻撃に加わりますが重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始します。
師團は瀏陽河において第三師團の渡河を援護、影珠山付近では重慶軍の追撃・攻囲を受け苦戦しながらも強行突破し、11日、福臨舗付近に集結、12日、師團の後方援護に当たっていた歩十三は重慶軍に包囲され断薬欠乏のため白兵戦を展開、飛行第五十四戰隊の援護により窮地を脱し、20日、岳陽に復帰します。

4月30日、本土を爆撃(ドーリットル空襲)したB-25が、着陸を予定していた支那空軍の飛行場を覆滅すべく第十一軍・第十三軍による「せ」號作戰(浙贛作戰)に隷下の竹原支隊(第六歩兵團長・竹原三郎少将)が参加します。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、第六師團は南方戦線強化のためソロモン方面への転出が決定し、武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、ガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結、25日、ソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、六號輸送船團(大井川丸、帝洋丸、乾坤丸、妙法丸、明宇丸、たすまにあ丸、すらばや丸、平安丸など11隻)に分乗し上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。

12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19~24日、六號輸送船團に分乗し逐次ブーゲンビル島を目指しますが、19日、ブーゲンビル沖で「妙法丸」が敵潜の雷撃を受け沈没(歩四十五、戦死傷36名、行方不明440名)、20日、「すらばや丸」が轟沈(乗組員36名、兵員462名散華)、「明宇丸」が大破(のち沈没、乗組員1、兵員400散華)、21日 「乾坤丸」が轟沈(歩二十三、91散華名)し、師團は多くの将兵・弾薬・資材を失うなか、ブーゲンビル島南部のブインに集結します。
第六師團
第六歩兵團司令部(熊本)
 歩兵第十三聯隊(熊本)
 歩兵第二十三聯隊(都城)
 歩兵第四十五聯隊(鹿児島)
騎兵第六聯隊(熊本)
野砲兵第六聯隊(熊本)
工兵第六聯隊(熊本)
輜重兵第六聯隊(熊本)
第六師團 通信隊
 〃   兵器勤務隊
 〃   病馬廠
 〃   第一・第二・第四野戰病院
架橋材料隊

師團は第十七軍の基幹として司令部・歩十三主力をエレベンタに、騎兵六をアクに、歩十三第一大隊・工六1個中隊をタイタイに、歩二十三(第二大隊欠)・工六1個中隊・輜六1個中隊をモシゲタに、歩四十五(第二大隊欠)・野砲六第三大隊・工六1個中隊・輜六1個中隊をキエタに、歩二十三第二大隊をヌマヌマに、歩四十五第二大隊・野砲六第六中隊をファウロ島に、工六1個中隊をショートランド島に配置し米軍の上陸に備え陣地構築を行います。

4月19日、前日にブイン上空で撃墜された一式陸攻を歩二十三歩兵砲中隊第一小隊長・濱砂盈榮少尉、蜷川親博軍医中尉・中村常男見習士官が捜索、機上において散華した聯合艦隊司令長官・山本五十六大将ら11名の遺体を発見します。

6月30日、米第14軍が中部ソロモンのレンドバ島に上陸を開始、今村軍司令官は逆上陸を企図し、7月4日、5日、歩十三(第一大隊欠)・歩二十三第二大隊は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)の駆逐艦に分乗、途中、米第36.1任務群との間にクラ湾夜戦が生起するなど妨害を受けますが無事コロンバンガラ島に上陸し南東支隊(佐々木登少将、第三十八師團歩兵第二百二十九聯隊基幹)の指揮下に入ります。

7月4日、米軍はニュージョージア島南部のザナナに上陸、翌日に北部のライスにも上陸してきます。
歩十三・歩二十三は逆上陸に備え待機していましたが、佐々木少将は敵上陸部隊攻撃のためニュージョージア島北部に派遣します。
聯隊は密林を進撃しザナナの米軍に夜間斬り込みを実施、米軍を混乱させ戦果を挙げますが夜明けとともに激烈な砲撃を受けたため損害が増加、射程外まで後退します。
22日、聯隊は再び攻撃を再開、28日、米第148歩兵連隊に100余名以上の損害を与えトラック15台、速射砲5門を破壊する戦果を挙げますが、米軍の砲撃で聯隊長・友成敏大佐が負傷するなど損害を受けます。
25日、米軍は陸空の火力支援のもと戦車を先頭にムンダに向け侵攻を開始、歩十三・歩二十三・歩二百二十九は肉薄攻撃で反撃を行いますが米軍の圧倒的な物量に次第に損害が増加、8月4日、ムンダ飛行場を占領されてしまいます。
15日、米軍はベララベラ島に上陸を開始、今村中将はニュージョージア島・コロンバンガラ島から転進を決定、30日、ニュージョージア島の歩十三・歩二百二十九は大発・小発に分乗しコロンバンガラ島に転進、佐々木少将はコロンバンガラ島の安全確保のため歩十三をアルンデル島に派遣します。
9月15日、歩十三は大発によりアルンデル島に向かいますが、途中米軍に察知されてしまい激烈な砲撃を受け聯隊長・友成敏大佐は散華してしまいます。しかし、同島に上陸した歩十三は米軍に損害を与え拒止に成功します。
聯隊はコロンバンガラ島に集結し、9月18日から開始された陸海軍共同のセ號作戰により大発・小発の舟艇機動でブーゲンビル島に転進、師團に復帰、戦力回復に努めます。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、歩二十三第一大隊第二中隊(堀之内正義中尉、聯隊砲1、無線1個分隊配備)は水際で反撃、敵上陸用舟艇数隻を撃破し一時大混乱に陥れますが、圧倒的な兵力差に0700、玉砕してしまいます。
師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)。
6日、ジャバ南方の密林に集結した聯隊は夜間機動を開始、8日、米軍に対し攻撃前進を開始します。
しかし、米軍の迫撃砲による連続射撃により攻撃は遅滞、濱之上聯隊長自ら夜襲を企図するも泥濘に阻まれ進撃できず、9日、再び攻撃を実施しますが敵迫撃砲の集中砲火に第一線の重火器は破壊され損害が増加、濱之上聯隊長は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

師團は方面軍の作戦に従い、一部部隊を敵上陸部隊に接触させるとともに、主力を集結し全力を挙げて敵撃滅を計るべく訓練にあたります。
昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令されます。
3月1日、第十七歩兵團により編成された井上支隊(歩八十一第三大隊長・井上繁雄少佐)は米軍を牽制・陽動のためタロキナ西方のラルマ河河口に向け出発します。

8日、岩佐部隊(第六師團歩二十三基幹、第六歩兵團長・岩佐俊少将)が軍・師團砲兵隊の準備射撃の後、米軍橋頭保(約2個師団)北側に攻撃を開始、続いて10日、牟田部隊(歩十三基幹、聯隊長・牟田豊治大佐)が東から、さらに12日、真方支隊(歩四十五基幹、聯隊長・真方勲大佐、攻撃開始後の12日に歩八十一第二、歩五十三第三大隊を配属)が北西から攻撃を開始します。
牟田部隊は一時要所の六〇〇高地を占領しますが、3方面とも航空機・戦車・迫撃砲を伴う米軍の激烈な逆襲により攻撃は頓挫、神田中将は15日、真方支隊正面に戦力を集中し進撃は順調に推移しますが、またも米軍の戦車をともなう弾幕阻止射撃・逆襲に阻まれ、攻撃は頓挫し甚大な損害(戦力は4923/7948に半減)が出てしまい25日、遂に攻撃は中止されます。
師團は9,548名で作戦に参加しますが、2,398名が散華、3,066名が負傷してしまいます。

3月27日、第十七軍により時期態勢移行の新配置が定められ、越澤支隊(騎兵六基幹、越澤六郎大佐)が撤退援護にあたる中、バカナ山以北に第十七歩兵團が、以南に第六師團が配置されます。

師團司令部はエレベンタに配置し、エレベンタ、タイタイ、キエタ、ショートランド島、ハウト島に隷下部隊を配置、4月21日、越澤支隊(騎兵六基幹、越沢六郎大佐)を米軍橋頭保に接触させ飛行場の使用を妨害します。

師團は孤立したブーゲンビル島で自戦自活体制に入り、米軍も積極攻勢に出ませんでしたが、4月中旬から米軍の侵攻が活発化、ジャバ河口、マワレカ付近に上陸した米軍と越澤支隊は度々交戦します。
6月30日、越澤支隊は歩十三と交替してブイン北方ルイラオに転進します。

11月22日、ブーゲンビル島の米第14軍はフィリピン方面へ転出し、豪第2軍団(スタン・S・サビジ中将)に交替します。
25日、豪第2軍団第3師団第29歩兵旅団が南下を開始、西地区警備隊(歩十三基幹)の歩十三第八中隊の守備するカリコバ峠付近に攻撃を開始(1月下旬、ニギタンに後退)、同日、ジャバ河を越えジャバ(歩十三第七中隊、玉砕)、1月14日、歩十三第三大隊が守備するマワレカが占領され、昭和20(1945)年1月26日、聯隊本部のあるモシゲタに侵攻、30日、豪軍は聯隊後方のトコに上陸してきます。

歩十三は前後に敵を受けながら防衛線を収縮させ豪軍と連日激戦を展開しますが、2月25日、歩十三は遂にモシゲタを放棄しプリアカ河左岸に後退します。

3月20日、神田中将はモシゲタを占領した豪軍が態勢を整理せずに、プリアカ河に侵攻中であるのを見て、準備不十分の敵の前進に乗じた攻撃を勝機と判断、プリアカ河畔において敵の侵攻意図を挫折させ、敵勢力を駆逐するためエレベンタ地区の師團隷下・指揮下全力挙げて短切な反撃を実施するためプリアカ作戦を発動します。
28日、急造の歩兵部隊となった野砲六が豪軍前進陣地のパインを急襲、攻略、29日、歩二十三がバラバラを攻略、4月1日未明、豪軍拠点の豪州台を歩十三は東から、歩二十三は西から、野砲六は南から、工六はバラバラからトコ方面(プリアカ河鉄橋を爆破)へ攻撃を開始します。
しかし、天明とともに豪軍の砲撃に阻まれ攻撃は遅滞、一旦後退します。
5日黎明、師團は右翼に歩二十三、左翼に歩十三、師團予備に野砲六を配置、野砲兵の支援射撃のもと再び豪州台に攻撃を開始、敵第一線を突破しますが、第二線で頑強な鉄条網と戦車を含む強力な銃砲火に阻まれ攻撃は遅滞、損害は増加し歩二十三聯隊長・河野孝次大佐が散華、歩十三聯隊長・牟田大佐は玉砕を覚悟、軍旗奉焼の準備を行いますが、遂に師團命令により後退します。
師團は豪第7歩兵旅団に大損害を与えますが、我が方も歩二十三聯隊長・河野大佐を含む幹部多数、1,000余名の損害を出してしまい、一時的に敵の侵攻を挫折させたものの作戦の初期目的は達成できず、第十七方面軍主力のあるエレベンタ地区防御陣地完成まで敵の侵攻を拒止するため、ハリハリ河東岸まで防御線を後退させます。

4月14日、豪軍は第7歩兵旅団に替わった第15歩兵旅団が西進を開始、野砲六第三中隊(三好博中佐)の守備するパイン、トキノトの陣地に侵攻、歩兵化した野砲六は反撃に転じますが戦車と激烈な砲撃に阻まれ玉砕してしまいます。

25日、さらに豪軍は戦車を先頭に東進、ボンゴライ河西岸において歩十三、野砲六は巧みに対戦車砲を隠蔽し反撃、戦車を撃破、敵に損害を与えるも豪軍は増援部隊を投入、機動力を生かしボンゴライ河東岸に迂回、守備隊の後方に侵入したため、5月22日、守備隊は遂に後退します。
6月4日、ハリ河の歩二十三が戦車を伴う豪軍により突破されてハリハリ河東岸まで浸透されてしまいます。

第十七軍は豪軍の侵攻をミオ河西岸で拒止、エレベンタ地区における決戦準備を容易にするためミオ作戰を策定、6月26日、師團はシンガロキに司令部を前進、隷下部隊に攻撃を命じます。

歩十三、歩二十三、野砲六は縦深陣地を構築し、敵戦車を第一目標とし侵攻を続ける豪軍の拒止につとめますが、戦車と敵砲兵の弾幕射撃に徐々に後退します。
6月下旬からの豪雨と師團の挺身攻撃により豪軍の侵攻は遅滞、7月8日、歩十三は残存全兵力をもって特別攻撃隊を編成、タイタイ北方地区において敵補給線の擾乱にあたるなか、8月16日、停戦を迎えます(敵地潜入中の歩十三は20日頃)。

同日、第十七軍司令官・神田正種中将(元第六師團長)より軍旗奉焼が命ぜられ、師團隷下の歩二十三・歩四十五・騎六の軍旗3旒が奉焼されました。

9月8日、第十七軍司令官・神田正種中将、第八艦隊司令長官・鮫島具重中将が豪第2軍団長スタン・S・サビジ中将とタロキナにおいて面会、降伏文章に調印します。

第六師團は「精強熊本師團」と言われる程、国軍中1、2位を争う敢闘精神の旺盛な質実剛健な師團でした。
理由としては熊本県人の気質(肥後もっこす)、南北朝期の菊池一族(勤皇精神)、加藤清正・宮本武蔵(武勇伝)の誇り、武を尊ぶ学校教育、家門の面目を重んじる気風、軟弱な事を嫌う性質などが挙げられます。

鎭西鎭臺司令長官
井田譲 少将:明治4(1871)年7月14日~
桐野利秋 少将:明治5(1872)年2月29日~

熊本鎭臺司令長官
桐野利秋 少将:明治5(1872)年4月14日~
谷干城 少将:明治6(1873)年4月5日~
野津鎮雄 少将:明治7(1874)年4月12日~・・・陸軍省第四局長と兼任(代理)
野津鎮雄 少将:明治7(1874)年11月27日~・・・(代理)
野津鎮雄 少将:明治8(1875)年6月23日~
種田政明 少将:明治9(1876)年6月13日~
大山巌 少将:明治9(1876)年10月29日~・・・陸軍少輔兼陸軍省第一局長と兼任
谷干城 少将:明治9(1876)年11月9日~
曾我祐準 少将:明治11(1878)年12月14日~

熊本鎭臺司令官
曾我祐準 少将:明治12(1879)年9月25日~
高島鞆之助 少将:明治13(1880)年4月29日~
山地元治 少将:明治14(1881)年2月7日~
国司順正 少将:明治15(1882)年2月6日~
三好重臣 中将:明治18(1885)年5月21日~
三浦梧楼 中将:明治19(1886)年7月26日~
山地元治 中将:明治19(1886)年8月18日~

歴代師團長
山地元治 中将:明治21(1888)年5月14日~
野崎貞澄 中将:明治23(1890)年6月7日~
北白川宮能久親王 中将:明治25(1892)年12月8日~
黒木為 中将:明治26(1893)年11月10日~
茨木惟昭 中将:明治29(1896)年10月14日~
伊瀬知好成 中将:明治33(1900)年4月25日~
大久保春野 中将:明治35(1902)年5月5日~
西島助義 中将:明治39(1906)年7月6日~
木越安綱 中将:明治42(1909)年9月3日~
梅沢道治 中将:明治44(1911)年9月6日~
明石元二郎 中将:大正4(1915)年10月4日~
小池安之 中将:大正7(1918)年6月10日~
山田虎夫 中将:大正10(1921)年6月28日~
柚原完蔵 中将:大正11(1922)年11月24日~
福田彦助 中将:大正15(1926)年)3月2日~
荒木貞夫 中将:昭和4(1929)年8月2日~
坂本政右衛門 中将:昭和6(1931)年8月1日~
香椎浩平 中将:昭和9(1934)年3月5日~
谷寿夫 中将:昭和10(1935)年12月2日~
稲葉四郎 中将:昭和12年(1937)12月28日~
町尻量基 中将:昭和14(1939)年12月1日~
神田正種 中将:昭和16(1941)年4月1日~
秋永力 中将:昭和20(1945)年4月1日~


第百六師團(通称号なし)
漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため昭和13(1938)年5月15日、留守第六師團に動員下令、6月2日、編成完結します。
歩兵第百十一旅團(熊本)
 歩兵第百十三聯隊(熊本)
 歩兵第百四十七聯隊(都城)
歩兵第百三十六旅團(鹿児島)
 歩兵第百二十三聯隊(鹿児島)
 歩兵第百四十五聯隊(大分)
騎兵第百六聯隊(熊本)
野砲兵第百六聯隊(熊本)
工兵第百六聯隊(熊本)
輜重兵第百六聯隊(熊本)
第百六師團通信隊(熊本)

6月2日、熊本駅を出発、初旬までに門司に集結、中支に向かい蕪湖に集結し訓練にあたります。
7月4日、第十一軍戦闘序列に編入され、湖東に集結し、7月19日、武漢作戰の側面援護として上海から長江に沿って西進を開始、24日、波田支隊(波田重一少将、臺灣混成旅團基幹)とともに九江の攻撃に参加、26日、九江を攻略します。
師團はさらに廬山北部を進撃、27日、獅子山北東に進出、8月4日、大天山を攻略します。
作戦地が山岳地帯のため輓馬砲兵の前進が阻まれ苦戦、金家山の攻略は国府軍の激烈な攻撃で遅滞、馬鞍山は数次に渡る敵味方の奪還を繰り返す激戦となり、師團は九江の戦闘で大きな損害を受けてしまいます。
27日、第十一軍より迫撃砲大隊・重砲兵聯隊の増強を得て、第九師團の前進に呼応し国府軍に攻撃を開始、敵の頑強な抵抗を受けますが、9月1日より攻撃が進展、2日、敵は敗走を始めたため追撃に移行、3日、馬廻嶺に進撃します。
師團は戦力の回復に務めるとともに第十一軍により山砲兵第五十二聯隊の配属を受け、9月20日、徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進を開始します。
しかし、泥濘悪路に阻まれ前進は遅滞、28日、後方連絡線が途絶、さらに悪天候により航空部隊との連絡も困難となります。
10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。
18日、師團は甘木関に集結して戦力の回復を図ります。
24日、第百一師團は徳安河の渡河を開始、27日、徳安を攻略します。

31日、第十一軍は師團に第百一師團とともに追撃を下命、11月1日、追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に参加、師團は第百一師團とともに徳安南方に集結、3月19日、修水の渡河準備が完了、20日、渡河、安義及び奉新の敵を追撃し、23日、両地を攻略、26日、ジャク江を渡河、師團は27日、浙ジャク鉄道を遮断、第百一師團が南昌を攻略します。
28日、高安方面に国府軍の行動の兆しが表れた、29日、高安に転進し周辺の敵を撃破、4月2日には高安城を攻略します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

師團は軍主力の会戦援護のため、9月14日、富館付近に進撃、18日~19日、高安西方の敵を追撃し撃破、23日、山岳地帯の敵を逐次撃破し、26日、白沙坪、大埠橋を攻略、30日、余庄高地の敵を撃破、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出します。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に復帰、10月中旬、師團も旧警備地区に復帰します。

11月、師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、南支の第二十一軍戦闘序列に編入、1~3月、汕頭方面での掃討作戦に参加、昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、昭和15(1940)年3月9日、復員、4月、第百六師團は廃止されます。

歴代師團長
松浦淳六郎 中将:昭和13(1938)年5月16日~
中井良太郎 中将:昭和14(1939)年5月19日~昭和15(1940)年3月9日


第五十八師團(廣二三〇四/司令部:廣二三〇五)
昭和17(1942)年2月2日、獨立混成第十八旅團を改編し編成、27日、編成完結し第十一軍戦闘序列に編入されます。
歩兵第五十一旅團(阜市)
 獨立歩兵第九十二大隊(徳安)
 獨立歩兵第九十三大隊(安陸)
 獨立歩兵第九十四大隊(天門)
 獨立歩兵第九十五大隊(京山)
歩兵第五十二旅團(漢川)
 獨立歩兵第九十六大隊(応城)
 獨立歩兵第百六大隊(沙湖)
 獨立歩兵第百七大隊(漢口)
 獨立歩兵第百八大隊(仙桃鎮)
第五十八師團 軽装甲車隊
   〃   工兵隊
   〃   輜重隊
   〃   通信隊
   〃   野戰病院
   〃   病馬廠

編成完結後は司令部を旅團時の漢口北西70kmの応城に設置、付近の警備・治安維持にあたります。
昭和18(1943)年2月、第十一軍の沔陽作戰に参加、第十三・第四十師團とともに岳州北方の共産軍・第118師、第128師を攻撃、2月23日、第128師内の敵旅団長を内応させ、25日、沔陽を無血占領、3月下旬までに共産軍を包囲殲滅します。
11月、よ號作戰(常徳作戰)に参加、支那国府軍第6戦区軍に大損害を与えます。
昭和19(1944)年5月27日、第十一軍の一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戰(湘桂作戰)に第三十四・百十六師團とともに参加、6月16日、支那国府軍第9戦区軍を殲滅するため長沙市を攻撃、18日、長沙市を攻略します。
しかし、敵は決戦を回避し撤退したため、さらに飛行場のある衡陽に進撃、26日、第六十八・第百十六師團が飛行場を攻略しますが、衡陽城は敵の激烈な反撃を受け損害が増加、8月4日、師團は第十三・第四十師團とともに攻撃に参加、8日、国府軍第10軍を降伏させます。
11月10日、師團は桂林攻略の主力として同地を攻略、警備にあたります。
昭和20(1945)年4月、大本營は中支方面の防衛強化のため広西方面からの転進を決定、6月、師團は転進する第十一軍の最後尾を受け持ち、追撃してきた国府軍と交戦しつつ行軍中、全県付近で8月18日、停戦を迎えます。

歴代師團長
下野一霍 中将:昭和17(1942)年2月3日~
毛利末広 中将:昭和19(1944)年3月1日~
川俣雄人 中将:昭和20(1945)年3月9日~8月18日


第二十三師團(旭一一六八/司令部:旭一一〇三)
支那事變による占領地の警備・治安維持を実施するため昭和13(1938)年4月4日、留守第六師團に編成下令、7月11日、編成完結(小松原道太郎中将)します。

第二十三歩兵團(熊本)
 歩兵第六十四聯隊(熊本)
 歩兵第七十一聯隊(鹿児島)
 歩兵第七十二聯隊(都城)
野砲兵第十三聯隊(熊本)
工兵第二十三聯隊(熊本)
輜重兵第二十三聯隊(広島)
第二十三師團 捜索隊(久留米)
   〃   衛生隊
   〃   通信隊(熊本)
   〃   制毒訓練所
   〃   兵器修理所
   〃   病馬収療所
   〃   防疫給水部

師團は当初、支那大陸への派遣が予定されていましたが、滿洲國興安省海拉爾(ハイラル)に屯営していた騎兵旅團が支那戦線に出征したため、騎兵旅團の交替として海拉爾の警備にあたります。
昭和14(1939)年5月11日、外蒙軍がノモンハン付近で満洲との国境であるハルハ河を渡河し越境、警備にあたっていた満洲國軍騎兵隊と交戦しノモンハン事件が発生します。

小松原中将はモンゴル軍を駆逐するため東支隊(東八百蔵中佐:師團捜索隊、満洲國軍騎兵隊)を派遣、15日、支隊はノモンハンに到着しますが、蒙古軍は存在しなかったため撤収します。しかし、支隊の帰還後、再び外蒙軍が越境、国境上空では我が軍とソ連軍との空中戦が開始されます。

5月21日、小松原中将は、山縣支隊(歩兵第六十四聯隊長・山縣武光大佐:歩六十四第三大隊、東支隊、師團輜重隊、満洲國軍騎兵隊の2,082名)を派遣します。
28日、ソ連・蒙古軍を包囲殲滅するため、東支隊は敵中に陣地を構築、山県支隊主力も敵第一線陣地を突破し前進を開始しますが、ソ連軍は援軍を投入してきたため前進は遅滞、29日、敵中に孤立した東支隊は東中佐以下220名が玉砕してしまいます。
6月1日、戦線が膠着するなか、山県支隊は東支隊の生存者を収容し一旦、撤退します。

17日、ソ連軍機が越境し寿寧寺(カンジュル廟)、アルシャンを爆撃を開始したため、關東軍は安岡支隊(第一戰車團長・安岡正臣中将:戰車第三・第四聯隊、歩六十四、歩二十六=第七師團)を投入、ハルハ河を渡河(左岸)し敵の退路を断ち、ホルステン川岸で敵を包囲殲滅を企図します。
7月2日、師團隷下の第二十三歩兵團(小林恒一少将:歩七十一・第七十二聯隊)がハルハ河の渡河を開始、3日、架橋に成功し前進を開始、外蒙騎兵第6師團を後退させますが、ソ連軍増援部隊の装甲車が出現、速射砲と火炎瓶による肉薄攻撃により100両余を撃破炎上させるも、我が方も損害が増加、4日、師團に同行し作戦指導に当っていた關東軍参謀副長・矢野音三郎少将の指示によりハルハ川を渡河(右岸)しフイ高地付近に集結します。

一方、ソ連軍もハルハ河を渡河(右岸)し我軍の側撃を企図し、2日に渡河してきます。
安岡支隊の戰車第三・第四聯隊が逆襲しますが、火砲に勝るソ連軍の防御砲火に阻まれ攻撃は進展せず損害が増加、6日、遂に後退、9日、關東軍命令により支隊は解隊され撤退します。

5日、師團は安岡支隊の増援・交替としてハルハ川右岸を南下しつつソ連軍陣地に攻撃を開始、敵の砲撃が止む夜間に夜襲を決行、徐々に敵陣地を攻略していきます。

23日、關東軍は一気に敵砲兵力を撃破するため砲兵團(關東軍砲兵司令官・内山英太郎少将)を投入、師團は火砲援護のもと総攻撃を開始しますが、敵陣を見上げる地形に砲兵團は苦戦、また弾薬も不足するに至り次第に敵火砲に押され攻撃は僅かに進展したのみで、26日、攻撃は中止され冬営に向けた陣地構築に移行します。
北から、フイ高地に第二十三師團捜索隊、ホルステン川の北のバルシャガル高地に歩六十四・七十二・野砲十三、ホルステン川南に第八國境守備隊・歩七十一、さらにノモンハンの南65kmのハンダガヤに歩兵二十八(第七師團)が配置されます。

8月4日、ノモンハン戦の指揮のために第六軍(荻洲立兵中将)が新設され、師團は第六軍隷下に編入されます。

8月20日、兵力・物資の集積を着実に行いつつ我が陣地構築を妨害していたソ連軍が兵数に劣る我が軍を包囲殲滅(中央は歩兵で我が軍を拘束、両翼に装甲車を集中し包囲殲滅)するため、爆撃と砲撃の後に本格的な侵攻を開始、最北のフイ高地に位置した師團捜索隊は敵中に孤立し井置栄一中佐は自決、24日夜、生存者が敵の包囲を突破します。

24日、荻洲中将は右翼隊の歩七十一・歩七十二(第二十三歩兵團・小林恒一少将指揮)を歩二十六・歩二十八の守備するホルステン川南のノロ高地に派遣しソ連軍右翼隊に反撃しますが、敵の激烈な攻撃に損害は増加、26日、歩七十一聯隊長・森田徹大佐が散華、30日、聯隊長代理・東宗治中佐は軍旗を奉焼し、残存兵力を率いて突撃、玉砕を遂げてしまいます。

26日、敵戦車の攻勢に北のバルシャガル高地が、27日、南のノロ高地が包囲されてしまい、我が軍はソ連軍に包囲され、個々の陣地も寸断、孤立してしまいます。

26日夜半、ノロ高地の第八國境守備隊長・長谷部理叡大佐は自決、29日夜、バルシャガル高地の歩六十四は軍旗を奉焼し聯隊長・山縣武光大佐が自決、野砲十三聯隊長・伊勢高秀中佐も脱出に失敗し自決、脱出に成功した生存者はソ連側主張の国境線外において集結、陣地を構築し夜襲による逆襲を企図します。

9月3日、大本營は攻勢作戦の中止を命じ、9月16日、停戦協定が締結します。
我軍の損害は戦死:7,720/戦傷:8,664/戦車損失:約30/航空機損失:180、ソ連軍に与えた損害は戦死:約8,000/戦傷:約16,000名/装甲車両:約400/航空機:約350でした。

師團は戦力を回復、滿洲國興安省海拉爾に司令部を設置、第八國境守備隊とともに満蒙国境付近の警備にあたります。

昭和19(1944)年10月11日、臨時編成が下令、23日、關東軍戦闘序列を離れ、台湾防衛のため第十軍戦闘序列に編入、逐次台湾へ移動を開始しますが、捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定します。

歩兵第六十四聯隊(熊本)
歩兵第七十一聯隊(鹿児島)
歩兵第七十二聯隊(都城)
野砲兵第十七聯隊(熊本)
工兵第二十三聯隊(熊本)
輜重兵第二十三聯隊(広島)
第二十三師團 捜索隊(久留米)
   〃   通信隊(熊本)
   〃   防疫給水部
   〃   兵器勤務隊
   〃   衛生隊
   〃   第一・第四野戰病院
   〃   病馬廠
獨立野砲兵第十三大隊

11月14日、師團は特殊船「神州丸」、「吉備津丸」、「あきつ丸」、「摩耶山丸」に分乗しヒ八一船團に加わり伊万里湾を出港します。
15日、済州島付近で敵潜「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け「あきつ丸」が轟沈、歩六十四主力・聯隊長・中井春一中佐以下2046名を、17日、敵潜「ピクーダ」の雷撃を受け「摩耶山丸」が轟沈、師團司令部・野砲十七・歩七十二など3187名を失ってしまいます。
25日、澎湖諸島東方で「神州丸」、「吉備津丸」は船団から分離し、26日、高雄に入港、30日、2隻はタマ三三船團を編成し高雄を出航、12月2日、サンフェルナンドに入港、4日、師團は第十四軍戦闘序列に編入されます。

師團はポソロビオに司令部を設置、歩六十四をシソン西方高地、歩七十一をロスバニオス、カバルアン丘に、歩七十二をポソロビオ東側のスグコング、ラバヤグ付近、リンガエン西南岸のラトバンに、野砲十七をシソンに配置し米軍上陸に備え陣地うを構築します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸を開始、上陸地点近くのダクバンに布陣していた歩七十二第八中隊(塩月少尉)の1個小隊が包囲されたため切込を敢行し玉砕してしまいます。

8日、師團は第十四軍により戰車第二師團隷下の戰車第三旅團(重見伊三雄少将)を指揮下に入れ、湾北部防衛を担当する獨立混成第五十八旅團とともに米軍を迎撃しますが、圧倒的な物量の差に苦戦、13日、歩七十二第四中隊(浦本大尉)がポソロビオで、歩七十一第三大隊がサンファビアンで斬込みを敢行し玉砕してしまいます。
16日2200、戰車第三旅團はビナロナンを出発し敵陣地に夜襲を決行、敵に大損害を与えますが戦車11両を亡失、17日、侵攻してきた敵戦車により戦車9両、ウルダネタでは敵戦車3両を撃破しますが9両を失ってしまいサンマニエルに後退します。
重見少将はサンマニエルに戦車壕を構築、敵戦車の猛攻を防ぎますが、27日、師團との連絡が途絶、残存兵力(戦車13両)を率いて敵陣に突入、玉砕してしまいます。

25日、最前線のポソロビオで米軍を拒止していた歩六十四、野砲十七が軍命令により師團主陣地まで後退します。
28日、敵上陸以来、敵の侵攻を拒止していたカバルアン丘の歩七十一第二大隊が玉砕してしまいます。
2月下旬まで師團は圧倒的兵力の米軍の侵攻に各地で激戦を展開しますが、次第に隷下部隊の陣地は分断・包囲されてしまいます。
2月25日、師團は軍司令部の所在するバギオに続く国道11号に後退し布陣、獨混第五十八旅團とともに挺身切込・肉薄攻撃隊を編成し、米軍の拒止に努めます。
4月26日、軍司令部がバギオからカガヤン渓谷に転進、師團も軍司令部を追及しボコドに布陣、歩六十四をブログ山南西山麓、歩七十一をプログ山麓のカバヤ高地、歩七十二をブキク峠付近、野砲十七をアンドン山付近に配置、自戦自活体制に移行、陣地構築中の9月10日、停戦を迎えます。
ルソン島決戦を29,636名で迎えた、師團の生還者は5,128名でした。
師團の勇戦敢闘には第十四軍司令官・山下奉文大将から感状が授与されます。

歴代師團長
小松原道太郎 中将:昭和13(1938)年7月7日~
井上政吉 中将:昭和14(193)年11月6日~
西原貫治 中将:昭和16(1941)年3月1日~
及川源七 中将:昭和17(1942)年11月10日~
西山福太郎 中将:昭和19(1944)年1月7日~


第四十六師團(静一一九六〇/司令部:静一一九六一)
昭和18(1943)年5月14日、本土防衛強化のため留守第六師團、獨立第六十六旅團を基幹に熊本で編成、西部軍(藤江恵輔中将)隷下となります。
隷下部隊
歩兵第百二十三聯隊(熊本)
歩兵百四十五聯隊(鹿児島)
歩兵第百四十七聯隊(都城)
第四十六師團 戰車隊(熊本)
   〃   通信隊(熊本)
   〃   輜重隊(熊本)
   〃   兵器勤務隊(熊本)
   〃   経理勤務部(熊本)
   〃   野戰病院(熊本)

10月20日、第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)戦闘序列に編入が決定し、30日、第十九軍(北野憲造中将、アンボン)戦闘序列に編入が変更、同日、動員完結、11月3日、隷下の各歩兵聯隊の先遣中隊が門司港を出航、スンバワ島、フローレス島、スンバ島に上陸、昭和19(1944)年1月1日、第百二十三聯隊主力がジャワ島東部のスンバ島ワインガブに上陸、2月27日、師團は同地に司令部を設置します。
2月20日、第二方面軍(阿南惟幾中将、セレベス)戦闘序列に編入されます。
3月25日、歩兵第百四十七聯隊は輸送船3隻に分乗してスラバヤを出航、27日、セバンジャン島沖で米潜水艦ラッシャーの雷撃を受け日南丸が沈没、聯隊長・長田尻邦大佐以下264名が散華、3月31日、平安丸、國山丸はスンバワ島東部のビマに上陸します。
隷下の歩兵第百四十五聯隊(池田増雄大佐)は輸送船の不足から師團を追及できず、7月、第百九師團(栗林忠道中将)隷下となり硫黄島に進出します。

第四十六師團は第四十八師團(土橋勇逸中将、台湾)から警備を引き継ぎ、司令部をスンバワ島東部のビマに、歩百二十三を同島東部のワインガプ、歩百四十七第三大隊を同島西部のワイケロ方面に、歩百四十七主力をスンバワ島に、歩百四十七第五中隊をロンボク島に、歩百四十七第一中隊をフローレス島に配置します。

昭和20(1945)年3月30日、第七方面軍(土肥原賢二大将、昭南島)戦闘序列に編入され、馬来半島に転進を開始、4月、ペナン、ガンバン、クワンタンに隷下部隊を配置、5月、昭南島防衛のためジョホールバルに集結、防御陣地構築中に停戦を迎えます。

硫黄島に進出した歩百四十五は聯隊主力・工兵中隊は師團司令部のある北飛行場北部に、第一大隊を摺鉢山の北方の千鳥飛行場附近の中地区隊に、砲兵大隊は元山飛行場附近に位置し地下陣地構築を開始します。
昭和20(1945)年2月16日、米軍の艦砲射撃が開始され、19日、南海岸に上陸を開始します。
20日、擂鉢山が陥落、27日、元山飛行場が制圧、3月3日、北飛行場制圧、7日、海軍硫黄島警備隊司令・井上左馬次大佐が散華、9日、混成第二旅團(千田貞季少将)が壊滅、戰車第二十六聯隊(西竹一中佐)が壊滅してしまい、師團隷下部隊は敵上陸以来劣悪な環境下、地下陣地に拠り勇戦敢闘するも、次第に北部に後退していきます。
14日、聯隊長・池田大佐は軍旗を奉焼、15日、玉名山陥落、16日、西大佐が自決、16日、栗林中将は大本營に決別電を発信、17日、千田少将が自決、18日、師團隷下部隊約300名は聯隊壕に集結、26日0200、栗林大将(17日昇進)、大須賀應少将、池田大佐、高石正参謀長、市丸利之助海軍少将以下300名が聯隊壕を出撃、0515、米軍宿営地に対し総攻撃を開始、玉砕してしまいます。

歴代師團長
萱嶋高 中将:昭和18(1943)年6月10日~
若松只一 中将:昭和18(1943)年10月15日~
国分新七郎 中将:昭和19(1944)年11月14日~


第百四十六師團(護南二二四〇一/護南二二四〇二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、2月28日、「第一次兵備」により編成された沿岸配備師團で、1月8日に新編された第四十軍(中沢三夫中将)戦闘序列に編入されます。
隷下部隊
歩兵第四百二十一聯隊(熊本)
歩兵第四百二十二聯隊(都城)
歩兵第四百二十三聯隊(鹿児島)
歩兵第四百二十四聯隊(熊本)
第百四十六師團 砲兵隊(熊本)
   〃    速射砲隊(鹿児島)
   〃    輜重隊(熊本)
   〃    通信隊(熊本)
   〃    兵器勤務隊(熊本)
   〃    野戰病院(熊本)

編成完結後、司令部を鹿児島県山野町(現、大口市)に配置、作戦地である鹿児島県薩摩半島枕崎海岸に進出、沿岸防御陣地を構築中に停戦を迎えます。

歴代師團長
坪島文雄 中将:昭和20(1945)年4月1日~


第二百六師團(阿蘇三二四〇一/司令部:阿蘇三二四〇二)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け『帝國陸海軍作戰計畫大綱』が策定され、4月2日、「第二次兵備」により編成された機動打撃師團で、2月6日に新編された第十六方面軍(横山勇中将)戦闘序列に編入されます。
隷下部隊
歩兵第五百十聯隊(熊本)
歩兵第五百十一聯隊(都城)
歩兵第五十二聯隊(鹿児島)
山砲兵第二百六聯隊(熊本)
迫撃第二百六聯隊(熊本)
第二百六師團 速射砲隊(都城)
   〃   機關砲隊(鹿児島)
   〃   工兵隊(熊本)
   〃   輜重隊(熊本)
   〃   通信隊(熊本)
   〃   兵器勤務隊(熊本)
   〃   第四野戰病院(熊本)

編成完結後、作戦地である薩摩半島吹上浜に展開、敵上陸部隊を粉砕すべく陣地構築準備中に停戦を迎えます。

歴代師團長
岩切秀 中将:昭和20(1945)年4月30日~


補充師團
第四十八師團(海八九四〇/司令部:海八九四〇)
昭和15(1940)年11月30日、臺灣混成旅團を改編し海南島において編成(中川廣中将)されます。
昭和16(1941)年12月6日、フィリピン攻略の第十四軍(本間雅晴中将)の主力として臺灣馬公に集結、22日、ルソン島リンガエン湾に上陸、1月2日、マニラ攻略戦に参加、2月8日、オランダ領インド攻略のため第十六軍(今村均中将)に編入されリンガエン湾出航、3月1日、クラガンに上陸し蘭印作戰に参加、8日、スラバヤを占領し警備にあたります。

昭和17(1942)年9月初旬、ガダルカナル島に向かう第三十八師團(佐野忠義中将、名古屋)の任務を引き継ぎチモール島(ポルトガル領、豪蘭が保障占領)に転進が決定、9月5日、先遣隊の歩兵第四十七聯隊(柳勇大佐)第二大隊がディリに上陸し第三十八師團と交替します。
続いて師團主力もディリに上陸、師團の司令部をディリに設置、チモール島東部の警備は臺灣歩兵第二聯隊(田中透大佐)が担当し、ラウテンに聯隊本部と工兵第四十八聯隊の主力を設置、第二大隊をアビスに、第三大隊をコムに設置します。
島中央部の警備は捜索第四十八聯隊(北村九郎中佐)が担当しオッスに聯隊本部を設置、西部の警備は歩兵第四十七聯隊が担当し聯隊本部をディリに設置します。
当初ティモール島クーパンに上陸した歩兵第四十七聯隊第一大隊(宇野藤一少佐)・第二大隊(馬場鉄之進少佐)は11月頃に聯隊を追及し、それぞれアイリウ、マナトゥトに配備され、同島西部のマウバラ、ボボナロ、エルメラ、ハトリア、マロボ、ベコから中部のベニラレ、ビケケ、ルカ、ダラバイ、ロレに展開します。 

師團は当初進駐の形を採っていましたが、ポルトガル本国が連合軍に協力的な立場であったため、また原住民のポルトガル人襲撃の頻発から師團による警護と集団居住を申請したため、ポルトガル軍の武装解除を実施します。

師團は悪化する戦局に対応するため、同島及び周辺のアル諸島・タニンバル諸島・スンバ島の決戦準備中に停戦を迎えます。


第百三十三師團(司令部:進撃二三〇五二)
昭和20(1945)年2月1日、中支武漢地区の警備と治安維持のため広西省桂州において編成(野地嘉平中将)、第七十師團と交替し寧波方面の治安警備にあたる中、停戦を迎えます。


第百六十一師團(司令部:震天二三一三八)
昭和20(1945)年4月12日、米軍の支那大陸上陸に備え編成(高橋茂寿慶中将)、第十三軍戦闘序列に編入され軍主力による米軍拒止の間に機動し打撃を与える任務を帯び、上海南部郊外に陣地構築を行います。
8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し滿洲に侵攻を開始したため、10日、蒙彊へ増援として第百十八師團とともに転進が決定、13日、逐次上海を出発し、南京に集結中に停戦を迎えます。


第百二師團(抜一〇六〇二/司令部:抜一〇六三〇)
昭和19(1944)年6月15日、比島ビザヤ諸島(ルソン、ミンダナオ島の間の小島群)の警備にあたっていた獨立混成第三十一旅團を改編し編成(福栄真平中将)、司令部をセブ島に配置し防御陣地を構築します。
10月20日、米軍のレイテ島上陸に伴い2個大隊、師團砲兵隊を派遣します。
昭和20(1945)年3月以降、米軍のビザヤ諸島侵攻に伴い、各島に分散配置した隷下部隊は自戦自活体制に移行、レイテ島から転進してきた第一師團とともに米軍と交戦中に停戦を迎えます。


第百三師團(駿一〇六〇三/司令部:駿一〇六〇四)
昭和19(1944)年6月15日、ルソン島の獨立混成第三十二旅團を改編し編成(村岡豊中将)、司令部をダバオに配置しルソン島北部の防衛を担当します。
昭和20(1945)年1月、ルソン島北端のアパリ、同島北部西岸の防衛を担当、9日、米軍のリンガエン湾上陸、米軍とカガヤン渓谷において交戦するも圧倒的物量差に苦戦、北部山岳地帯に転進し自戦自活体制に移行、米軍と交戦、飢餓・悪疫に苦闘するなか停戦を迎えます。


編成旅團
獨立混成第十八旅團(司令部:廣二三〇五)
支那事變による占領地・警備地の拡大に伴う兵力不足を補うため、内地帰還師團から混成旅團を編成し、警備任務を付与します。
獨立混成第十八旅團は昭和14(1939)年12月1日、第百六師團の復員時の将兵により編成完結、第十一軍戦闘序列に編入され武寧付近の警備にあたり、昭和15(1940)年5月6日、江北作戰に参加、応城付近の警備や治安維持にあたり、昭和17(1942)年2月2日、第五十八師團に改編されます。


獨立混成第四十四旅團(司令部:球一八八〇〇)
昭和19(1944)年5月3日、熊本師管區司令部において編成(鈴木繁二少将)、第三十二軍(渡辺正夫中将、8月8日~牛島滿中将)に編入され、沖縄に進出、数度の陣地変更を経て知念半島に陣地を構築します。
昭和20(1945)年4月1日、米軍が沖縄上陸、24日、前線に進出し優勢な米軍と交戦、5月末、東南部の島尻に後退し抵抗線を構築、6月22日、摩文仁付近で鈴木旅團長が散華、旅團は玉砕、23日、牛島軍司令官が自決、第三十二軍は玉砕してしまい、生存者は遊撃戦に移行するなか停戦を迎えます。


獨立混成第百二旅團(司令部:八幡一二八八一)
昭和20(1945)年2月17日、熊本師管區司令部において編成(小林忠雄少将)、第十方面軍(安藤利吉大将)戦闘序列に編入され、臺灣に進出、花蓮港南方に防御陣地構築中に停戦を迎えます。


獨立混成第九十八旅團(司令部:堅志七〇六二)
昭和20(1945)年2月6日、熊本師管區司令部において編成(黒須源之助大佐)、第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列に編入され、鹿児島高山町(現、肝付町)に進出、防御陣地構築中に停戦を迎えます。


獨立混成第百九旅團(司令部:劍閃一三五七〇)
昭和20(1945)年5月14日、熊本師管區司令部において編成(千田貞雄中将)、第五十七軍(西原貫治中将)戦闘序列に編入され、鹿児島種子島に進出、防御陣地構築中に停戦を迎えます。


獨立混成第百二十五旅團(司令部:敬天四二三二六)
昭和20(1945)年5月23日、熊本師管區司令部において編成(倉橋尚少将)、第四十軍(中澤三夫中将)戦闘序列に編入され、鹿児島指宿町に進出、防御陣地構築中に停戦を迎えます。


獨立混成第百二十六旅團(司令部:敬忠四二三三七)
昭和20(1945)年5月23日、熊本師管區司令部において編成(林勇蔵少将)、第十六方面軍(横山勇中将)戦闘序列に編入され、熊本県天草に進出、防御陣地構築中に停戦を迎えます。


主要参考文献
『熊本県史 近代編第1~第4』(昭和36~38年 熊本県)

『熊本兵団史 西南の役から第二次世界大戦まで』(昭和51年 熊本日日新聞・熊本兵団史実行委員会)

『太平洋戦争師団戦史』(平成8年5月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

陸上自衛隊 北熊本駐屯地 防衛館展示資料
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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