当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

輜重兵第六聯隊

熊本城三之丸には輜重兵第六聯隊がありました。

カ 輜重兵第六聯隊址 碑(熊本陸軍遺構)
▲輜重兵第六聯隊址 碑






熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

昭和22(1947)年11月1日の熊本城周辺の空撮
▲昭和22(1947)年11月1日の熊本城周辺の空撮

熊本 第六師團(城周辺)  遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①第六師團司令部
②熊本憲兵隊本部
③第六師團兵器部 倉庫
④第六師團兵器部
⑤熊本陸軍病院
⑥火薬庫
⑦熊本陸軍教導學校
⑧藤崎薹招魂祭場
⑨熊本陸軍病院 藤崎薹分院
⑩熊本陸軍拘禁所
輜重兵第六聯隊
⑫第六師團経理部、及び倉庫
⑬熊本聯隊區司令部
⑭熊本偕行社
⑮熊本憲兵分隊
⑯第六師團長官舎

名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
(カタカナは遺構など、上掲地図参照)
カ 「輜重兵第六聯隊址」碑
カ 輜重兵第六聯隊址 碑(熊本陸軍遺構)
▲兵営跡の駐車場北東端に昭和58(1983)年3月18日、輜六会により建立されました。

輜重兵第六聯隊は明治10(1877)年11月、輜重兵第六小隊として編成、千葉城(⑫北半分)に兵営が置かれます。
明治21(1888)年12月1日、小隊から大隊に改編され三之丸の一画(現、細川刑部邸付近)に転営、その後兵営は拡張されます。
輜重兵第六聯隊(昭和11年6月、大隊から改編)の兵営は停戦後の昭和21(1946)年3月、㈶化学及血清療法研究所が使用(昭和48年、閉鎖)した後、建物は全て破壊され現在は三之丸駐車場、平成6(2006)年に武家屋敷「旧細川刑部邸」移築され、当時の遺構は残されていません。
輜重兵第六聯隊(化血研時代)(熊本陸軍遺構)
▲化学及血清療法研究所が使用していた頃の兵営跡(営門)

兵営跡の旧細川刑部邸(熊本陸軍遺構)
▲現在の営門付近

兵営跡の駐車場(熊本陸軍遺構)
▲兵営跡

ネット百科事典を始めネット上で兵営東端にある「熊本市役所古京町別館」を陸軍時代の物とする資料がありますが、昭和22(1947)年11月1日に米軍により撮影された空撮に該当建物が写っていない事から陸軍時代の建物ではありません。
熊本市役所古京町別館(熊本陸軍遺構)
▲熊本市役所古京町別館

また、こちらのブログのコメント欄からも、戦後に建てられた事が伺えます。
本来なら国土地理院の空撮を追っておおよその建設時期を裏付けたいところですが、現在同サイトが閲覧不可のため閲覧可能になり次第確認してみたいと思います。


兵営跡の南側の生垣沿いに塀の跡がありますが、当時の物かは不明です。
塀の跡?(熊本陸軍遺構)
▲塀の基礎


衛戍、編成聯隊
輜重兵第六聯隊(明九〇二七、西部第二十四部隊)
明治10(1877)年11月、輜重兵第六小隊として編成、熊本鎭臺の隷下に入り千葉城に兵営が置かれます。
明治21(1888)年12月1日、小隊から大隊に改編され三之丸の一画(現、細川刑部邸付近)に転営します。

明治27(1894)年4月、朝鮮で東学党の乱が発生、朝鮮政府は清国に出兵を要請し我が国も天津条約に基づき6月10日、海軍八重山艦隊の陸戦隊を派遣します。
乱鎮圧後、我が国は清国に朝鮮の内政を共同で改革することを提案しますが、清国は拒否、朝鮮開化党は政権を奪取し朝鮮独立のため我が国に清国の排除を要請、明治27(1894)年7月24日、第六師團に動員下令、25日、豊島沖海戦で清国海軍の一部を、27日、成歓・牙山で清国陸軍を撃破、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発します。
26日、第六師團は第一・第二師團とともに第二軍(大山巖元帥)戦闘序列に編入されます。
大隊は第六師團先遣隊の混成第十二旅團に糧食1個縦列を配属し10月24日、遼東半島花園口に上陸、11月6日、金州城、22日、旅順攻略に参加します。
12月29日、大隊主力(糧食2個縦列)第六師團主力とともには福岡を出発、31日、列車で小倉に集結、明治28(1895)年1月12日、門司に移動、15日、大連湾に上陸、22日、師團とともに大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸します。
1月30日、師團の威海衛攻撃に参加、威海衛攻略後、大隊は曵馬へ改編されます。
3月30日、日清間に休戦協定が結ばれ、4月17日、下関において両国の講和条約が締結されます。
5月下旬~6月下旬、大隊は師團とともに熊本に凱旋し復員します。

明治30(1897)年11月10日から13日、筑後平野で行われた大演習に参加します。

明治35(1902)年11月10日から13日、明治天皇御統監のもと熊本地区において実施された特別大演習に参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により、我が国の安全保障を確保すべく明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、6月10日、師團とともに熊本を出発し、13・14日、長崎を出航、17・18日、師團主力は遼東半島塩大墺に上陸しますが、大隊は悪天候と乗船の座礁で上陸が遅延してしまいます。
上陸後、遅延を取り戻すため強行軍にて師團を追及したため、人馬の疲労損耗が増大してしまい、他師團の縦列の支援を受け危急を脱します。
7月10日、蓋平の戦闘に参加した際、大隊長は初めて大隊全体を掌握します。
23日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘、30日、遼陽會戰、10月8日、沙河會戰、沙河対陣に参加、明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年3月3日、師團とともに熊本に凱旋します。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため熊本を出発します。

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、第六師團は居留民と我が国の権益保護のため山東省に派遣(第二次山東出兵)されます。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

昭和8(1933)年2月17日、張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため満洲國と關東軍の熱河作戰に第六師團とともに参加します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結されます。
9月10日、内地帰還の命を受け、10月14日、熊本に凱旋します。

昭和6年11月12~14日、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和11(1936)年6月、輜重兵第六大隊は聯隊に改編されます。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二十九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は攻撃を開始、北京・天津を平定します。

7月27日、第六師團に動員下令、北支那方面軍戦闘序列の支那駐屯軍(香月清司中将)の隷下に入り、31日、動員完結、8月1日、聯隊は師團とともに熊本を軍用列車で出発、同日、門司港は出航、釜山に上陸し、13日、北京東南の側黄村に集結し警備にあたります。

9月14日、北支那方面軍の保定作戰、10月9日、正定城攻略戦、10日、石家荘攻略戦に参加、昭和13(1938)年1月25日、天津塘沽に集結、26日、第六師團は中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、杭州湾海月奄付近に上陸し15日、崑山攻略戦に参加します。
17日、師團は第十軍の作戦地域に復帰する事となり崑山を出発し、青浦、松江を経て嘉善・嘉門付近に集結します。
12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團は嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍を撃破し、11日、南京城外の国府軍の拠点・雨花台を攻略、12日には南京城中華門に攻撃を開始、13日、敵の激烈な抵抗に攻撃は遅滞しますが、野砲六の砲撃で城壁の一角が崩壊、遂に中華門城壁一帯を攻略します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。

聯隊は中華門外三里店付近に野営の後、15日、師團とともに蕪湖に移駐、17日、南京入城式に参加、及び陸海軍合同慰霊祭に参列後、蕪湖に移動し蕪湖、寧国、太平府付近の警備にあたります。

昭和13(1938)年2月14日、中支那方面軍は解体され、中支那派遣軍(畑俊六大将)が新編されます。

6月、師團とともに武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加します。
7月4日、師團は新設された第十一軍(岡村寧次中将)隷下となり、敗走する国府軍を太湖および五家牌楼方面に追撃、潜山付近に集結しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。
26日、太湖攻略戦、30日、涼亭河に進撃、8月2日、黄梅攻略戦に参加します。
10月25日、漢口攻略戦に参加します。

武漢攻略後、聯隊は師團とともに武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月29日、師團の武寧攻略戦に参加します。
3月下旬、浦圻、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加します。

12月24日、重慶(旧国府)軍の冬季反攻を受けますが撃退、集結する重慶軍殲滅のため、第十一軍の第一次陸水作戦に参加します。

昭和15(1940)年9月18日、第十一軍の第一次長沙作戰に参加します。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、第十一軍の第二次長沙作戰に参加、昭和17(1942)年1月3日、重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始、11日、福臨舗付近に集結します。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、第六師團は南方戦線教化のためソロモン方面への転出が決定し、武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、第六師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、聯隊は師團隷下部隊とともにガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結します。
聯隊の編成は輓馬・自動車混合の6個中隊でしたが、南方進出にあたり全馬匹を上海に残置します。
25日、師團はソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、六號輸送船団11隻に分乗し上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。
12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19日~24日、師團は逐次ラバウルを経由しブーゲンビル島に向かいます。
20日1755、米潜シルヴァーサイズの雷撃を受け「すらばや丸」が轟沈、「明宇丸」が大破(のち沈没)、聯隊は199名を失いながらも、ブーゲンビル島南部のブインに入港します。
聯隊はブインに全力を集結後、師團の作戦方針に従い聯隊本部を師團司令部のあるエレベンタに、モシゲタ、キエタにそれぞれ1個中隊を配置し米軍の上陸に備え物資の集積ともに陣地構築・道路構築を実施します。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、歩二十三第一大隊第二中隊(堀之内正義中尉、聯隊砲1、無線1個分隊配備)は水際で反撃、敵上陸用舟艇数隻を撃破し一時大混乱に陥れますが、圧倒的な兵力差に0700、玉砕してしまいます。
師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)が、敵迫撃砲の集中砲火に第一線の重火器は破壊され損害が増加、濱之上聯隊長は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令、聯隊は密林の3方面に展開した師團隷下部隊に対し、長大な密林内の担送に連日奮闘します。
25日、当初順調に推移した進撃も、またも敵の戦車を伴う激烈な弾幕阻止射撃・逆襲に阻まれ遅滞、遂に攻撃は中止され、聯隊は178名を失います。

聯隊は主力を師團司令部のあるエレベンタに配置し自戦自活のための耕作に従事し、第一・第二中隊は歩兵化し西地区警備隊の歩十三に配属しホリノに配置し決戦準備にあたります。

11月22日、ブーゲンビル島の米第14軍はフィリピン方面へ転出し、豪第2軍団(スタン・S・サビジ中将)に交替、南下を開始、戦車・火砲の砲撃を伴う敵の侵攻に我が軍は次第に後退します。
3月20日、師團のプリアカ作戦、6月26日、ミオ作戰に参加します。
聯隊は前線の歩十三、歩二十三、野砲六の陣地に臂力による担送、また急増の歩兵として挺身切込を実施、敵の侵攻をミオ河の線で拒止するなか8月16日、聯隊長・服部政之助大佐以下745名が停戦を迎えます。


輜重兵第百六聯隊(通称号なし)
昭和13(1938)年5月15日、輜重兵第六聯隊留守隊により編成、6月2日、漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため留守第六師團により編成された第百六師團に隷属します。

6月2日、師團とともに熊本駅を出発し門司に集結、中支に向かい蕪湖に集結し訓練にあたります。
7月4日、師團は第十一軍戦闘序列に編入され、湖東に集結し、7月24日、九江攻略戦、8月4日、大天山攻略戦に参加、作戦地が山岳地帯のため輓馬輸送に苦闘します。
9月20日、師團は徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進を開始します。
しかし、泥濘悪路に阻まれ前進は遅滞、28日、補給線が途絶、10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。
31日、第十一軍は師團に第百一師團が攻略した徳安から敗走する支那軍追撃を下命、11月1日、追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に師團とともに参加します。
4月2日、師團の高安城攻略戦に参加します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

聯隊は師團とともに軍主力の会戦援護のため、9月14日、富館付近に進撃、26日、白沙坪、大埠橋攻略戦に参加、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出します。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に復帰、10月中旬、師團とともにも旧警備地区に復帰します。

11月、第百六師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、師團は南支の第二十一軍戦闘序列に編入、1~3月、汕頭方面での掃討作戦に参加、昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、昭和15(1940)年3月9日、師團とともに熊本に復員、4月17日、第百六師團の廃止に伴い輜重兵第百六聯隊も廃止されます。


第五十八師團輜重隊(廣二三〇八)
昭和17(1942)年2月2日、輜重兵第六聯隊補充隊により編成、、中支応城において獨立混成第十八旅團を改編した第五十八師團に隷属し中支に向かいます。

昭和18(1943)年2月、第十一軍の沔陽作戰、11月、よ號作戰(常徳作戰)、昭和19(1944)年5月27日、第十一軍の一號作戰(大陸打通作戦)第二段のト號作戰(湘桂作戰)、6月16日、長沙市攻略戦、8月4日、衡陽城攻撃に師團とともに参加します。
11月10日、第五十八師團は桂林を攻略、同地の警備にあたります。
昭和20(1945)年4月、大本營は中支方面の防衛強化のため広西方面からの転進を決定、6月、師團は転進する第十一軍の最後尾を受け持ち、追撃してきた国府軍と交戦しつつ行軍中、全県付近で8月18日、停戦を迎えます。


輜重兵第四十六聯隊
第四十六師團輜重隊
(静一一九六七、西部第六十七部隊)
昭和18(1943)年5月14日、輜重兵第六聯隊補充隊を改編し編成、第四十六師團に隷属します。
10月20日、第四十六師團は第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)戦闘序列に編入が決定し、30日、第十九軍(北野憲造中将、アンボン)戦闘序列に編入が変更、同日、動員完結、聯隊は第四十六師團輜重隊(隊長・有馬安成中尉以下人員131名、馬匹37頭)に改編されます。
昭和19(1944)年2月、師團とともにジャワ島東部のスンバワ島に進出します。
昭和20(1945)年3月30日、第四十六師團は第七方面軍(土肥原賢二大将、昭南島)戦闘序列に編入され、馬来半島に転進を開始、4月、ペナン、ガンバン、クワンタンに隷下部隊を配置、5月、昭南島防衛のためジョホールバルに集結、英軍に備える中、停戦を迎えます。


第百四十六師團輜重隊(護南二二四〇九、西部第六十七部隊)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、熊本師管區輜重兵補充隊により編成(鈴木庫三大佐)されます。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十六師團(坪島文雄中将)に隷属します。

輜重隊は師團の作戦地である鹿児島県薩摩半島枕崎海岸に進出、物資集積中に停戦を迎えます。


第二百六師團輜重隊(阿蘇三二四一二、、西部第六十七部隊)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により4月2日、熊本師管區輜重兵補充隊により編成(肝付兼武少佐)されます。

4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された機動打撃師團である第二百六師團(岩切秀中将)に隷属します。

輜重隊は師團の作戦地である薩摩半島伊集院に進出、物資集積中に停戦を迎えます。


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『化血研五十年史』(平成9年12月 五十年史編集委員会 化学及血清療法研究所)
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大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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