当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

野砲兵第六聯隊

熊本城周辺に続き、城東の遺構を紹介します。
熊本市大江には野砲兵第六聯隊の兵営がありました。
野砲六 タ営門門柱(移設)(熊本陸軍遺構)
▲野砲兵第六聯隊兵営の営門門柱(移設)





熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図★拡大(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮
▲昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮

熊本 第六師團(大江) 遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
野砲兵第六聯隊
②騎兵第六聯隊
③歩兵第十三聯隊
④工兵第六聯隊
⑤渡鹿(とろく)練兵場

名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
カタカナは遺構など、上掲地図参照
野砲兵第六聯隊
明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』の施行により、熊本鎭臺隷下に第三砲隊が編成され、熊本城内の備前丸に兵営が設置されます。
明治8(1875)年、第三砲隊は砲兵第六大隊に、明治17(1884)年7月、砲兵第六大隊から砲兵第六聯隊に改編、明治22(1889)年3月7日、野戰砲兵第六聯隊、明治40(1907)年10月9日、野砲兵第六聯隊に改称、明治31(1898)年8月5・6日、明治32(1899)年2月26日の2回に分け、野砲兵第六聯隊は大江村に移転します。
昭和12(1937)年8月1日、野砲兵第六聯隊が支那事變に出征後は野砲兵第六聯隊留守隊(のち補充隊)、野砲兵第四十六聯隊、熊本師管區砲兵補充隊の兵営となり停戦を迎えます。

戦後の経緯は不明ですが、現在敷地は白川中学、市消防局、公務員宿舎、合同庁舎、マンション等になっています。
営門のあった兵営西側は区画が著しく改編され、当時の境界は殆ど滅失しています。

兵営の遺構としては下記の物が残されています。


タ 営門門柱
野砲六 タ営門門柱(移設)(熊本陸軍遺構)
▲白川中学の正門として移設された営門門柱

元々はこの辺りにあった営門ですが、昭和25(1950)年、白川中学の正門として移築されました。

正門・袖門と完存しており、状態も良好ですが、本来とは袖門の位置が逆です。

※読者の方からの情報によると平成28(2016)年4月14日に発災した熊本地震により倒壊しましたが、現在は修復されている様です。

野砲六 野砲兵第六聯隊 営門(熊本陸軍遺構)
▲野砲兵第六聯隊営門付近(撮影時期不明)

野砲六 営門跡 付近(熊本陸軍遺構)
▲現在の営門跡付近の様子

聯隊当時は営門を入るとなだらかな坂になっていましたが、現在も当時の地形が残されています。


チ 「勇噴偉勲」碑
  「野砲兵第六聯隊之跡」碑

野砲六 チ勇噴偉勲 碑(熊本陸軍遺構)
▲下から仰ぎ見た「勇噴偉勲」碑

国家公務員合同宿舎白川住宅1号棟の駐輪場裏にあります。
もう少し良い場所が無かったのかと思います。

野砲六 チ勇噴偉勲 碑 (2)(熊本陸軍遺構)
▲「勇噴偉勲」碑は兵営が当地に移転してきた明治32(1899)年に建立されました。
漢文で聯隊の歴史が刻まれていますが、かなり摩滅しています。

野砲六 チ野砲兵第六聯隊之跡(熊本陸軍遺構)
▲「勇噴偉勲」碑の後ろに「野砲兵第六聯隊之跡」碑(写真は裏面の碑文)があります。
昭和56(1981)年3月、野砲兵第六聯隊及び同関係部隊の元将兵の方々により建立されました。


衛戍、編成聯隊
野砲兵第六聯隊(明九〇二四、西部第二十一部隊)
明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』の施行により、熊本鎭臺隷下に第三砲隊が編成され熊本鎭臺(後の第六師團)隷下に編入、熊本城内の備前丸に兵営が設置されます。
明治8(1875)年、第三砲隊は砲兵第六大隊に改編されます。
明治9(1876)年4月15日、予備砲兵第三大隊が新編され、古京町に兵営が設置されます。
10月24日、『散髪令』、『廃刀令』に反発した神風連の太田黒伴雄ら170余名によって神風連の変が発生、歩兵第十三聯隊、砲兵第六大隊兵営が襲撃され焼き払われます。
大隊兵営では坂谷敬一陸軍少尉、小野藤吉陸軍少尉、堤千之陸軍副軍医、田原貫一陸軍会計軍吏補等が奮戦の後散華してしまいます。
奇襲を受けた鎭臺は混乱に陥りますが、将校らの指揮下、体勢を立て直し反撃に転じ、変を鎮定します。

明治10(1877)年2月15日、西南の役が発生、22日、熊本城は薩軍の強襲を受けます。
熊本鎭臺司令長官・谷干城少将とともに大隊も籠城、薩軍13,000余名の攻囲を50余日間に渡って耐え抜きます。
3月12日、段山奪取のため大隊は歩兵とともに出撃、霧の中、砲撃・銃撃戦を展開し薩軍を敗走させます。

明治15(1882)年7月23日、朝鮮で開化党と事大党が対立、暴動に発展(第一次京城事變)し日本公使館が襲撃され邦人14名が殺害されたため、8月3日、熊本鎭臺に動員下令、10日、大隊は熊本を出発、13日、歩十三と合流し福岡で混成旅團を編成しますが、我が国と清国の介入により暴動は鎮圧されたため、9月4日、混成旅團は解散し熊本に帰還します。

明治17(1884)年7月、砲兵第六大隊に予備砲兵第三大隊を編入し、砲兵第六聯隊に改編、明治22(1889)年3月7日、野戰砲兵第六聯隊と改称します。

明治27(1894)年、7月24日、第六師團に動員下令、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発します。
10月26日、聯隊は師團主力とともに熊本を出発し福岡で待機後、31日、小倉に集結、明治28(1895)年1月12日、門司に移動、福岡丸・神州丸・姫路丸に分乗し、15日、大連湾に上陸、22日、大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸します。
1月30日、聯合艦隊の援護射撃の元、清国北洋艦隊の要所・威海衛攻略、2月2日、北岸要塞、劉君島、日島攻略戦に参加をします。
4月17日、下関において両国の講和条約が締結され、6月、師團とともに熊本に凱旋し復員します。

明治30(1897)年11月10日から13日、筑後平野で行われた大演習に参加します。
明治31(1898)年8月5・6日、明治32(1899)年2月26日の2回に分け、聯隊は大江村の新築兵営に移転します。
明治35(1902)年11月10日から13日、明治天皇御統監のもと熊本地区において実施された特別大演習に参加します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により、我が国の安全保障を確保すべく明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、27日、動員完結、6月10日、聯隊は師團とともに熊本を出発し、13・14日、長崎を出航、17・18日、遼東半島塩大墺に上陸、馬家屯に集結、6月21日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され第三・第四師團とともに北上を開始、7月10日、蓋平の戦闘、23日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘に参加、ロシア軍を撃破します。
8月30日、遼陽會戰、9月1日、首山堡攻撃、4日、遼陽城攻略戦に参加します。
10月8日、沙河會戰に参加、11日、台子、楊家湾攻略戦、続く沙河対陣に参加、明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加、拉木屯、林盛堡を占領し敵陣に砲撃を開始、5日、歩兵による沙河右岸の第一線陣地、7日、漢城堡攻略を支援します。
25日、師團は第四軍(野津道貫大将)の戦闘序列に入り、5月21日、昌図付近に前進し守備に就きます。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年3月3日、熊本に凱旋、復員します。

明治40(1907)年10月9日、軍令陸乙第三號『陸軍平時編制』改正により野戰砲兵第六聯隊は野砲兵第六聯隊に改称します。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため熊本を出発、16日、龍樹屯に上陸し海城に屯営し匪賊討伐にあたります。

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、居留民と我が国の権益保護のため第六師團は山東省に派遣(第二次山東出兵)、聯隊からは第二大隊が出征します。

26日、大隊は師團とともに済南に到着し、20日に到着した支那駐屯軍臨時済南派遣隊(3個中隊)と合流、居留民保護にあたりますが、5月3日、国府軍による日本人虐殺陵辱・商店略奪(略奪被害戸数136、被害人員約400:済南事件)をきっかけに我が軍と国府軍と交戦、11日、我が軍は済南城を占領し、国府軍の武装解除にあたります(昭和4年3月28日、日支間の協定締結)。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

11月12~14日、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和7(1932)年12月7日、第六師團に動員下令、16日、聯隊は師團とともに熊本を出発、17日、釜山に上陸、20日、奉天に到着、吉林周辺の警備にあたります。

昭和8(1933)年2月17日、師團とともに満洲國と關東軍の熱河作戰に参加、3月5日、赤峰に達し、開城攻略戦、4月10日、長城線攻略戦に参加します。

4月11日、国府軍は直隷地区に20万の兵を集結、さらに長城線を超え北上を開始したため、關東軍は灤(らん)東作戰を発動、聯隊は兵站自動車隊を配属され機動力を生かし師團とともに国府軍を冷口方面の長城を越えて灤河右岸まで撤退させ、19日、長城線に帰還します。
しかし、国府軍は帰還する我が軍を追尾して灤東地区まで侵入して来たため、5月3日、關東軍は關内作戰を発動、8日、聯隊は師團とともに再び進撃を開始しますが、聯隊は灤東作戦終了後、自動車隊の配属を解かれたため行軍に悪路の行軍に苦戦、12日、灤河を渡河、23日、薊運河-懐柔-密雲の線に進撃します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結されます。
9月10日、内地帰還の命を受け、10月14日、熊本に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、27日、第六師團に動員下令、31日、動員完結、8月1日、聯隊は師團とともに熊本を出発、同日、門司港を出航、釜山に上陸し、13日、北京東南の側黄村に集結し警備にあたります。

9月14日、保定作戰の参加、師團主力の永定河渡河作戰に支援射撃を実施、牛駄鎮、新城、徐州と進撃し、24日、保定城攻略戦に参加します。
10月1日、京漢鉄道を南下、正定城攻略に第一大隊が攻撃主力の歩四十五に直接協同しますが、正定駅、天主堂の頑強な敵陣に進撃は遅滞、大隊は東柏棠に陣地を推進し敵陣の側防火器制圧・後方擾乱射撃を実施し敵に大打撃を与え、敗走する敵追撃支援のためさらに陣地を前進させ大損害を与えます。
9日、歩四十五は正定城を占領、10日、滬河を渡河、同日、石家荘攻略戦に参加、趙県城に集結します。

15日、石家荘周辺に集結、昭和13(1938)年1月19日、石家荘周辺を出発、25日、天津塘沽に集結、26日、第六師團は中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、杭州湾海月奄付近に奇襲上陸します。
師團はクリークに苦戦しながら進撃し、松江付近で国府軍追撃戦、15日、崑山攻略戦に参加します。
12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團とともに嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍を撃破し、11日、聯隊の支援射撃のもと国府軍の激烈な攻撃に大きな損害が出るなか、南京城外の国府軍の拠点・雨花台を攻略、12日、南京城中華門に砲撃を開始、13日、敵の激烈な抵抗に攻撃は遅滞しますが、聯隊の砲撃により城壁の一角が崩壊、遂に中華門城壁一帯を攻略します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。

聯隊は中華門外三里店付近に野営の後、15日、蕪湖に移駐し周辺の警備にあたります。

昭和13(1938)年5月、中支那派遣軍の徐州會戰に第六師團で編成された坂井支隊に編入され参加、6月、武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。

10月25日、聯隊の火力支援の元、師團は漢口の一角に突入(一番乗り)、26日、漢口市街地を攻略、中支那派遣軍の武漢攻略に貢献します。
武漢攻略後、聯隊は武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月、師團の武寧作戰に参加します。
3月下旬、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加します。

12月24日、重慶(旧国府)軍の冬季反攻を受けますが撃退、集結する重慶軍殲滅のため、第十一軍の第一次陸水作戦に参加します。

昭和15(1940)年9月6日、第十一軍の第一次長沙作戰に向け側背面の脅威を排除するため、師團の大雲山周辺の討伐に参加しますが、不徹底だったため第四十師團が重慶第58軍と不期遭遇戦が想起します。
9月18日、第一次長沙作戰に参加、20日、聯隊の支援射撃のもと師團は汨水の左岸に進出、金井を攻略し、25日、重慶第26軍を撃破、27日、重慶第51師を撃破、28日、第四師團により長沙は攻略されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、師團は第十一軍の第二次長沙作戰に参加、新牆河渡河、次いで26日、汨水を渡河の支援射撃を実施、昭和17(1942)年1月1日、第三師團は長沙城に攻撃を開始しますが重慶軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、3日、第六師團も攻撃に加わりますが重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始します。
聯隊は瀏陽河において第三師團の渡河を援護、影珠山付近では重慶軍の追撃・攻囲を受け苦戦しながらも強行突破し、11日、福臨舗付近に集結します。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、第六師團は南方戦線教化のためソロモン方面への転出が決定し、武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、ガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結、聯隊の火砲は山砲に改編されます。
25日、師團はソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、六號輸送船団11隻に分乗し上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。

12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19~24日、ラバウルを経由し逐次ブーゲンビル島に向かいます。
20日1755、米潜シルヴァーサイズの雷撃を受け第一大隊乗船の「すらばや丸」が轟沈、第三大隊乗船の「明宇丸」が大破(のち沈没、第三大隊はラバウル上陸後、ブーゲンビル島に追及)、聯隊は第一大隊・山砲(2門を残し海没)・弾薬の大半を失ってしまいながらも、ブーゲンビル島南部のブインに入港します。
聯隊はブインに集結後、師團の作戦方針に従い主力をエレベンタに、第二大隊をキエタに位置、第六中隊をファウロ島に配置し米軍の上陸に備え陣地構築を行います。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、歩二十三第一大隊第二中隊(堀之内正義中尉、聯隊砲1、無線1個分隊配備)は水際で反撃、敵上陸用舟艇数隻を撃破し一時大混乱に陥れますが、圧倒的な兵力差に0700、玉砕してしまいます。
師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)が、敵迫撃砲の集中砲火に第一線の重火器は破壊され損害が増加、濱之上聯隊長は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令されます。
3月8日、聯隊は第十七軍隷下の砲兵隊と協力し米軍橋頭保に準備射撃を実施、第六師團は3部隊を編成し攻撃を開始します。
しかし、敵の航空機・戦車・迫撃砲による弾幕阻止射撃・逆襲に阻まれ攻撃は遅滞、25日、遂に攻撃は中止され甚大な損害(9,548名で作戦に参加した師團は2,398名が散華、3,066名が負傷、聯隊は1,569名で参加、238名が散華、374名が負傷)が出てしまいます。

3月27日、第十七軍により時期態勢移行のためバカナ山以北に第十七歩兵團が、以南に第六師團が配置され、孤立したブーゲンビル島で自戦自活体制に入り、米軍も積極攻勢に出ませんでしたが、4月中旬から米軍の侵攻が活発化します。
聯隊は東地区警備隊(歩四十五基幹)に第二大隊を配属、エレベンタ地区に聯隊本部・第三大隊を配置し、第一大隊(十糎榴弾砲2門)を歩十三(西地区警備隊)指揮下に入れモシゲタに配置します。

11月22日、ブーゲンビル島の米第14軍はフィリピン方面へ転出し、豪第2軍団(スタン・S・サビジ中将)に交替します。
25日、豪第2軍団第3師団第29歩兵旅団が南下を開始、歩十三、野砲六の反撃で敵の侵攻を拒止しますが、敵部隊の増援に苦戦、2月25日、歩十三は遂にモシゲタを放棄しプリアカ河左岸に後退、第一大隊は戦力回復のためブインに転進します。
3月20日、第六師團は豪軍を拒止するためプリアカ作戦を発動します。

聯隊は聯隊本部の混成中隊・第三大隊・第五中隊・各段列から選抜された将兵1,300名で急造の歩兵集成1個大隊を編成、28日、準備射撃を実施したのち豪軍前進陣地のパインを急襲、攻略、29日、歩二十三がバラバラを攻略、4月1日未明、豪軍拠点の豪州台を歩十三は東から、歩二十三は西から、野砲六は南から、工六はバラバラからトコ方面(プリアカ河鉄橋を爆破)へ攻撃を開始します。
しかし、天明とともに豪軍の砲撃に阻まれ攻撃は遅滞、一旦後退します。
5日黎明、師團は右翼に歩二十三、左翼に歩十三、師團予備に野砲六を配置、野砲六の準備射撃のもと再び豪州台に攻撃を開始、敵第一線を突破しますが、第二線で頑強な鉄条網と戦車を含む強力な銃砲火に阻まれ攻撃は遅滞、損害は増加し遂に後退します。
師團は豪第7歩兵旅団に大損害を与えますが、我が方も歩二十三聯隊長・河野大佐を含む幹部多数、1,000余名の損害を出してしまい、一時的に敵の侵攻を挫折させたものの作戦の初期目的は達成できず、第十七方面軍主力のあるエレベンタ地区防御陣地完成まで敵の侵攻を拒止するため、ハリハリ河東岸まで防御線を後退させます。
聯隊はシチナイ-パインの線に布陣し警戒にあたります。

第十七軍はエレベンタ地区での陣地構築を急ぐとともにキエタに配備した東地区警備隊をエレベンタに招致、第二大隊はファウ島に転進します。
また、武器弾薬の損傷・欠乏に対処するため、ファウロ島守備にあたっていた優れた技能を持つ野砲六第六中隊長・能村裕大尉が師團兵器勤務隊に派遣され急造地雷、改造手榴弾、及び導火線の防湿加工などを考案します。

4月14日、豪軍は西進を開始、航空機・火砲・砲爆撃ののち戦車戦車を先頭に野砲六第三中隊(三好博中佐)の守備するパイン、トキノトの陣地に侵攻してきます。
18日、パイン陣地が玉砕、大隊本部の所在するトキノトも激烈な砲撃を受け三好中佐は重傷を負い後送され、第九中隊長・飯野中尉の指揮により大隊は後退します。
19日、トキノト奪還のため野重四の準備射撃ののち野砲六第五中隊(中釜中尉以下50名)と野重四集成1個大隊(100名)は薄暮攻撃を実施、鉄条網を突破して敵陣に迫りますが戦車と激烈な砲撃に阻まれ玉砕してしまいます。

25日、さらに豪軍は戦車を先頭に東進、ボンゴライ河西岸において歩十三、野砲六は巧みに対戦車砲を隠蔽し反撃、戦車を撃破、敵に損害を与えるも豪軍は増援部隊を投入、機動力を生かしボンゴライ河東岸に迂回、守備隊の後方に侵入したため、5月22日、守備隊は遂に後退します。
6月4日、ハリ河の歩二十三が戦車を伴う豪軍により突破されてハリハリ河東岸まで浸透されてしまいます。
この時期の聯隊の戦力は聯隊本部と段列は聯隊長・中村光平大佐以下90名、第一大隊60名、第三大隊50名(ファウロ島守備の第二大隊は500名)でした。

第十七軍は豪軍の侵攻をミオ河西岸で拒止、エレベンタ地区における決戦準備を容易にするためミオ河の線で敵の侵攻を拒止するミオ作戰を策定、6月26日、師團はシンガロキに司令部を前進、隷下部隊に攻撃を命じます。

歩十三、歩二十三、野砲六は縦深陣地を構築し、敵戦車を第一目標とし侵攻を続ける豪軍の拒止につとめますが、戦車と敵砲兵の弾幕射撃に徐々に後退します。
6月下旬からの豪雨と師團の挺身攻撃により豪軍の侵攻は遅滞、聯隊はミオ河東岸のタロパ南方に布陣しシンガロキ北方に侵攻した敵陣に対し挺身切込を実施するなか、8月16日、停戦を迎えます。


野砲兵第百六聯隊(通称号なし)
昭和13(1938)年5月15日、野砲兵第六聯隊留守隊により編成、6月2日、漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため留守第六師團により編成された第百六師團に隷属します。

6月2日、師團とともに熊本駅を出発し門司に集結、中支に向かい長江を遡上し江南地区の警備にあたりつつ、応急訓練を実施します。

7月4日、師團は第十一軍戦闘序列に編入され、湖東に集結し、7月24日、九江攻略戦、8月4日、大天山攻略戦に参加しますが、作戦地が山岳地帯のうえ道路が無いため輓馬輸送を断念、歩兵・工兵の協力を得て火砲の一部を臂力搬送で前進させ直接協同します。

9月20日、師團は徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進を開始します。
しかし、作戦地は山岳地帯のため火砲は全て九江に残置したため、師團は火力支援無しとなります。
泥濘悪路に阻まれ前進は遅滞、28日、補給線が途絶、10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。

31日、第十一軍は師團に第百一師團が攻略した徳安から敗走する支那軍追撃を下命、11月1日、追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に師團とともに参加します。

聯隊は徳安南方に集結後、3月19日、修水渡河作戰では第十一軍直轄の野戰重砲兵第六旅團長・澄田睞四郎少将の指揮下、重砲から迫撃砲を含む250門の攻撃準備射撃・渡河支援射撃を実施し敵陣を破砕、渡河を成功させ、27日、第百一師團が南昌を攻略します。
4月2日、師團の高安城攻略戦に参加します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

聯隊は師團とともに軍主力の会戦援護のため、9月14日、富館付近に進撃、26日、白沙坪、大埠橋攻略戦に参加、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出します。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に転進、10月中旬、師團とともにも旧警備地区の安義地区に復帰します。

11月、第百六師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、師團は南支の第二十一軍戦闘序列に編入され第三十三師團と警備を交替し南支に移駐、広東・増城周辺の警備に就きます。
昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、3月4日、汕頭方面での掃討作戦に参加、14日、作戦終了後、昭和15(1940)年3月9日、師團とともに熊本に凱旋し、4月11日、復員完結、17日、第百六師團の廃止に伴い野砲兵第百六聯隊も廃止されます。


野砲兵第十三聯隊(旭一一六三)
野砲兵第十七聯隊(旭一一六三)
昭和13(1938)年4月4日、野砲兵第六聯隊留守隊により編成、支那事變による占領地の警備・治安維持を実施するため7月11日、編成完結した第二十三師團(小松原道太郎中将)に隷属します。

編成完結後、師團とともに滿洲國興安省海拉爾(ハイラル)に屯営していた騎兵旅團が支那戦線に出征したため、騎兵旅團の交替として海拉爾の警備にあたります。

昭和14(1939)年5月11日、外蒙軍がノモンハン付近で満洲との国境であるハルハ河を渡河し越境、警備にあたっていた満洲國軍騎兵隊と交戦しノモンハン事件が発生します。


小松原中将はモンゴル軍を駆逐するため東支隊(東八百蔵中佐:師團捜索隊、満洲國軍騎兵隊)を派遣、15日、支隊はノモンハンに到着しますが、外蒙軍は存在しなかったため撤収します。しかし、支隊の帰還後、再び外蒙軍が越境、国境上空では我が軍とソ連軍との空中戦が開始されます。

5月21日、小松原中将は、山縣支隊(歩兵第六十四聯隊長・山縣武光大佐:歩六十四第三大隊、東支隊、師團輜重隊、満洲國軍騎兵隊の2,082名)を派遣します。
28日、ソ連・蒙古軍を包囲殲滅するため、東支隊は敵中に陣地を構築、山県支隊主力も敵第一線陣地を突破し前進を開始しますが、ソ連軍は援軍を投入してきたため前進は遅滞、29日、敵中に孤立した東支隊は東中佐以下220名が玉砕してしまいます。
6月1日、戦線が膠着するなか、山県支隊は東支隊の生存者を収容し一旦、撤退します。

17日、ソ連軍機が越境し寿寧寺(カンジュル廟)、アルシャンを爆撃を開始したため、關東軍は安岡支隊(第一戰車團長・安岡正臣中将:戰車第三・第四聯隊、歩六十四、歩二十六=第七師團)を投入、ハルハ河を渡河(左岸)し敵の退路を断ち、ホルステン川岸で敵を包囲殲滅を企図します。
聯隊は7月3日、ハルハ河を渡河した第二十三歩兵團(小林恒一少将:歩七十一・第七十二聯隊)に直接共同し前進を開始、歩兵團とともに外蒙騎兵第6師團を後退させますが、ソ連軍増援部隊の装甲車が出現、速射砲と火炎瓶による肉薄攻撃により100両余を撃破炎上させるも、我が方も損害が増加、4日、師團に同行し作戦指導に当っていた關東軍参謀副長・矢野音三郎少将の指示によりハルハ川を渡河(右岸)しフイ高地付近に集結します。

一方、ソ連軍もハルハ河を渡河(右岸)し我軍の側撃を企図し、2日に渡河してきます。
安岡支隊の戰車第三・第四聯隊が逆襲しますが、火砲に勝るソ連軍の防御砲火に阻まれ攻撃は進展せず損害が増加、6日、遂に後退、9日、關東軍命令により支隊は解隊され撤退します。

5日、師團は安岡支隊の増援・交替としてハルハ川右岸を南下しつつソ連軍陣地に攻撃を開始、敵の砲撃が止む夜間に夜襲を決行、徐々に敵陣地を攻略していきます。

23日、關東軍は一気に敵砲兵力を撃破するため第二十三師團砲兵團(關東軍砲兵司令官・内山英太郎少将)を投入、聯隊は砲兵團に編入されます。
師團は火砲援護のもと総攻撃を開始しますが、敵陣を見上げる地形に砲兵團は苦戦、また弾薬も不足するに至り次第に敵火砲に押され攻撃は僅かに進展したのみで、26日、攻撃は中止され冬営に向けた陣地構築に移行します。

北から、フイ高地に第二十三師團捜索隊、ホルステン川の北のバルシャガル高地に野砲十三・歩六十四・歩七十二、ホルステン川南に第八國境守備隊・歩七十一、さらにノモンハンの南65kmのハンダガヤに歩兵二十八(第七師團)が配置されます。

8月4日、ノモンハン戦の指揮のために第六軍(荻洲立兵中将)が新設され、師團は第六軍隷下に編入されます。

8月20日、兵力・物資の集積を着実に行いつつ我が陣地構築を妨害していたソ連軍が兵数に劣る我が軍を包囲殲滅(中央は歩兵で我が軍を拘束、両翼に装甲車を集中し包囲殲滅)するため、爆撃と砲撃の後に本格的な侵攻を開始、最北のフイ高地に位置した師團捜索隊は敵中に孤立し井置栄一中佐は自決、24日夜、生存者が敵の包囲を突破します。

24日、荻洲中将は右翼隊の歩七十一・歩七十二(第二十三歩兵團・小林恒一少将指揮)を歩二十六・歩二十八の守備するホルステン川南のノロ高地に派遣しソ連軍右翼隊に反撃しますが、敵の激烈な攻撃に損害は増加、26日、歩七十一聯隊長・森田徹大佐が散華、30日、聯隊長代理・東宗治中佐は軍旗を奉焼し、残存兵力を率いて突撃、玉砕を遂げてしまいます。

26日、敵戦車の攻勢に北のバルシャガル高地が、27日、南のノロ高地が包囲されてしまい、我が軍はソ連軍に包囲され、個々の陣地も寸断、孤立してしまいます。

26日夜半、ノロ高地の第八國境守備隊長・長谷部理叡大佐は自決、29日夜、バルシャガル高地の歩六十四は軍旗を奉焼し聯隊長・山縣武光大佐が自決、野砲十三は火砲の大半を破壊(三八式野砲22/24門、十二榴12/12門)され、聯隊長・伊勢高秀中佐も脱出に失敗し自決、脱出に成功した生存者はソ連側主張の国境線外において集結、陣地を構築し夜襲による逆襲を企図します。

9月3日、大本營は攻勢作戦の中止を命じ、9月16日、停戦協定が締結します。
我軍の損害は戦死:7,720/戦傷:8,664/戦車損失:約30/航空機損失:180、ソ連軍に与えた損害は戦死:約8,000/戦傷:約16,000名/装甲車両:約400/航空機:約350でした。

大損害を受けた師團とともに聯隊生存者は海拉爾に帰還、火力強化のため支那駐屯の砲兵聯隊より建制の十五榴大隊を配属されるなど戦力の回復を実施、国境警備にあたります。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第二十三師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、聯隊は自動車編成に改編され、聯隊の編成は聯隊本部・観測中隊・3個大隊(大隊本部・2個中隊=機動九〇式野砲4門づつ・材料廠)・1個大隊(大隊本部・2個中隊=九六式十五榴4門づつ・六屯牽引車13両づつ・材料廠)となります。
關東軍は対ソ戦を見越した準備に着手しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

昭和19(1944)年10月11日、第二十三師團に臨時編成が下令、23日、關東軍戦闘序列を離れ、台湾防衛のため第十軍戦闘序列に編入、逐次台湾へ移動を開始しますが、捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定します。
南方進出に伴い聯隊は企図秘匿のため廃止され、新たに野砲兵第十七聯隊として編成されます。

11月14日、師團隷下部隊は特殊船「神州丸」、「吉備津丸」、「あきつ丸」、「摩耶山丸」に分乗しヒ八一船團に加わり伊万里湾を出港します。
17日、敵潜「ピクーダ」の雷撃を受け第一大隊乗船の「摩耶山丸」が轟沈、大隊は将兵の大半を失ってしまいます。
12月2日、サンフェルナンドに入港、4日、師團は第十四軍戦闘序列に編入されます。
聯隊はルソン島上陸後、獨立野砲兵第十三大隊を編入し、第一大隊を再建、火砲は九〇式野砲・十榴に改編されます。

聯隊は師團の作戰方針に従い、リンガエン東部のロザリオに進出、12月下旬よりシソンにおいて米軍上陸に備え陣地の構築を開始します。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸を開始、上陸地点近くのダクバンに布陣していた歩七十二第八中隊(塩月少尉)の1個小隊が包囲されたため切込を敢行し玉砕してしまいます。

聯隊の陣地は未完成ながら、シソン西方に布陣した歩六十四とともに米軍の侵攻を拒止しますが、次第に敵の激烈な砲爆撃により火砲は埋没・破壊されてしまいます。
25日、軍命令により歩六十四、野砲十七は敵の重囲下師團主陣地まで後退、シソンの野砲陣地から榴弾砲3門を搬出させますが途中、敵戦車と遭遇し2門を失ってしまいます。

2月下旬まで師團隷下部隊は圧倒的兵力の米軍の侵攻に各地で激戦を展開しますが、次第に隷下部隊の陣地は分断・包囲されてしまいます。
2月25日、師團は軍司令部の所在するバギオに続く国道11号に後退し布陣、獨混第五十八旅團とともに挺身切込・肉薄攻撃隊を編成し、米軍の拒止に努めます。
聯隊は錯綜する戦線で寸断された歩兵に僅かに残る火砲をもって直接協同・火力支援を実施しますが、砲兵陣地は敵観測機に発見され敵の砲撃にさらされ、遂に3月、火砲全部を失ってしまい船舶砲兵第二聯隊から300余名の補充を受け急造の歩兵部隊に改編されます。

4月26日、軍司令部がバギオからカガヤン渓谷に転進、師團も軍司令部を追及しボコドに布陣、聯隊はアンドン山付近に配置、自戦自活体制に移行、陣地構築中の9月10日、聯隊長・吉富徳三少将以下数百名が停戦を迎えます。


野砲兵第四十六聯隊(静一一九六五、西部第二十一部隊)
昭和18(1943)年5月14日、野砲兵第六聯隊補充隊を改編し編成、第四十六師團に隷属します。
10月20日、第四十六師團は第十六軍(原田熊吉中将、ジャカルタ)戦闘序列に編入が決定し、30日、第十九軍(北野憲造中将、アンボン)戦闘序列に編入が変更、同日、動員完結します。
師團は海洋師團に改編されたため、聯隊は各大隊を歩兵聯隊砲隊として配属し野砲兵第四十六聯隊は廃止されます。
爾後の師團の行動概要は第四十六師團の項を参照。


第百四十六師團 砲兵隊(護南四二三二五)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により5月23日、熊本師管區砲兵補充隊により編成されます。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十六師團(坪島文雄中将)に隷属します。

砲兵隊は師團の作戦地である鹿児島県薩摩半島枕崎海岸に進出、物資集積中に停戦を迎え、9月25日、復員完結します。


獨立山砲兵第七聯隊(西部一四三五〇)
山砲兵第二百六聯隊(阿蘇一四三五〇)
獨立山砲兵第七聯隊は昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、熊本師管區砲兵補充隊により編成(田島昌治少佐)されます。

4月2日、獨立山砲兵第七聯隊は山砲兵第二百六聯隊に改称、「第二次兵備」により編成された機動打撃師團・第二百六師團(岩切秀中将、第十六方面軍戦闘序列)編合となります。

聯隊は編成完結を待つこと無く主力は人吉盆地、一部は都城、国分付近に集結し訓練を実施、師團の作戦地である薩摩半島伊集院に進出し主力は永吉地区展開、作戦準備中に停戦を迎え、9月27日、復員完結します。


迫撃第二百六聯隊(阿蘇三二四〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により2月28日、迫撃第三聯隊補充隊(福井県鯖江)により編成された迫撃第二十六大隊(中部一五一一九)と、同日、熊本師管區砲兵補充隊により編成された迫撃第三十九大隊により編成(岡本成雄中佐)されます。

4月2日、「第二次兵備」により編成された機動打撃師團・第二百六師團(岩切秀中将、第十六方面軍戦闘序列)編合となります。

聯隊は師團の作戦地である薩摩半島伊集院に進出し作戦準備中に停戦を迎え、9月27日、復員完結します。


主要参考文献
『日本陸軍兵科連隊』(平成6年11月 新人物往来社)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『熊本の戦争遺跡』(平成22年12月 創想舎)
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No title

熊本からです。
白川中学の正門として移設された営門門柱ですが、熊本地震で倒壊したため、門柱の基礎部分を残して撤去されました。Googleストリートビューの画像も倒壊後に更新されています。

No title

吉報です。
今日、白川中学の前を通ったら、門柱の修復作業中であり、3本とも元どおり修復されました。
地震による倒壊で、石の角部分が割れたり、欠けたりしているのですが、それについては地震の記憶として、割れたままにするそうです。

Re: No title

こんにちは。
何時も熊本の情報、ありがとうございます!

撤去されると思っていただけに正に吉報ですね!
他の倒壊した遺構も時間はかかると思いますがぜひ修復して再利用していって欲しいと思います。
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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