当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
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なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

騎兵第六聯隊

熊本市大江には騎兵第六聯隊の兵営がありました。
騎兵第六聯隊跡・馬魂碑(熊本陸軍遺構)
▲兵営跡の開新高校に建つ「騎兵第六聯隊趾」・馬魂碑






熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図★拡大(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮
▲昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮

熊本 第六師團(大江) 遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①野砲兵第六聯隊
騎兵第六聯隊
③歩兵第十三聯隊
④工兵第六聯隊
⑤渡鹿(とろく)陸軍練兵場

名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
カタカナは遺構など、上掲地図参照
騎兵第六聯隊
明治21(1888)年12月1日、騎兵第六大隊第一中隊が編成され山崎町の兵営に入ります。
明治23(1890)年12月1日、第二中隊、明治28(1895)年2月1日、第三大隊が編成され大隊は編成完結(駒澤保定中佐)します。
明治29(1896)年5月19日、聯隊に改編(内田廣徳少佐)され、11月23日(騎兵第六聯隊趾碑の刻字より、『日本騎兵史』では18日)、宮中において軍旗を拝受します。
明治34(1901)年3月23日、大江村の新兵営に転営します。

昭和12(1937)年8月1日、騎兵第六聯隊が支那事變に出征後は騎兵第六聯隊留守隊(のち補充隊)となります。昭和20(1945)年2月28日の留守師團の熊本師管區改編後の隷下部隊に該当部隊が見当たらない事から詳細は不明です。
騎兵第六聯隊 営門(熊本陸軍遺構)
▲現在の大江市民センター前の丁字路付近にあった営門(遺構無し)

戦後の経緯は不明ですが、上掲の昭和22(1947)年の空撮では敷地内に戦災復興住宅の様な建物が多数写っている事から、早い段階で住宅化された様で、現在敷地は開新高校、市立図書館、ハローワーク熊本、一般住宅等になっています。

平成15(2003)年頃まで寄宿舎として利用されていた聯隊本部庁舎(資料には「将校集会所」とありますが、外観・立地から聯隊本部と思われます)が残されていましたが、残念ながら老朽化により破壊されたしまい、現在遺構と呼べる物はありません。
騎兵第六聯隊(本部)1(熊本陸軍遺構)
▲聯隊本部庁舎(崇城大学 磯田桂史准教授撮影『熊本の戦争遺跡』より)

騎兵第六聯隊(本部)2(熊本陸軍遺構)
▲聯隊本部庁舎 別角度(同上)

騎兵第六聯隊(本部)図面(熊本陸軍遺構)
▲聯隊本部庁舎 実測図(同上)

(参考)
輜重兵第四聯隊本部庁舎
▲輜重兵第四聯隊(大阪府堺市)本部庁舎(現存せず)
この建物に類似している事から、上掲騎兵第六聯隊の建物も聯隊本部庁舎と思われます。


ヒ 「騎兵第六聯隊趾」碑
  馬魂碑

騎兵第六聯隊跡・馬魂碑(熊本陸軍遺構)

昭和55(1980)年11月23日、軍旗拝受の日に熊本・大分・宮崎・鹿児島・沖縄各騎六会の合同で建立されました。
「騎兵第六聯隊趾」の揮毫は騎兵第六聯隊補充隊長・森川勇大佐です。

リンクしたYahooの地図の「写真」は、解体前の聯隊本部庁舎が写っています。


衛戍・編成部隊
騎兵第六聯隊(明九〇二二、西部第十九部隊)
明治21(1888)年12月1日、騎兵第六大隊第一中隊が編成され山崎町の兵営に入ります。
明治23(1890)年12月1日、第二中隊、明治28(1895)年2月1日、第三中隊が編成され大隊は編成完結(駒澤保定中佐)します。

明治27(1894)年、7月24日、第六師團に動員下令、8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発します。
9月26日、第六師團は第一・第二師團とともに第二軍(大山巖元帥)戦闘序列に編入されます。
10月23日、大隊からは1個中隊(浅川敏靖大尉)が歩十三とともに熊本を出発し混成第十二旅團を編成し、26日、大隊主力は師團主力とともに熊本を出発し戦略予備としし福岡で待機、第二軍とともに先発した混成第十二旅團は第一師團とともに10月24日、遼東半島花園口に上陸、11月6日、金州城を攻略、中隊は騎兵第一大隊(秋山好古少佐)に属して軍直轄の捜索騎兵隊となり、18日、清国軍と遭遇戦が想起、22日、旅順総攻撃に参加・攻略します。

10月31日、大隊主力は師團主力とともに小倉に集結、明治28(1895)年1月12日、門司に移動、福岡丸・神州丸・姫路丸に分乗し、15日、大連湾に上陸、22日、大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸します。
1月30日、聯合艦隊の援護射撃の元、清国北洋艦隊の要所・威海衛攻略、2月2日、北岸要塞、劉君島、日島攻略戦において捜索警戒にあたります。
4月17日、下関において両国の講和条約が締結され、6月、師團とともに熊本に凱旋し復員します。

明治29(1896)年5月19日、聯隊に改編(内田廣徳少佐)され、11月23日(騎兵第六聯隊趾碑の刻字より、『日本騎兵史』では18日)、宮中において軍旗を拝受します。
騎兵六 軍旗(熊本陸軍遺構)
▲騎兵第六聯隊 軍旗

明治30(1897)年11月10日から13日、筑後平野で行われた大演習に参加します。
明治34(1901)年3月23日、大江村の新兵営に転営します。

明治37(1904)年2月10日、ロシアの強硬な南下政策により、我が国の安全保障を確保すべく明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、27日、動員完結、6月10日、聯隊は師團とともに熊本を出発し、13・14日、長崎を出航、17・18日、遼東半島塩大墺に上陸、馬家屯に集結、6月21日、師團は第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され第三・第四師團とともに北上を開始、聯隊は師團の前方を進撃し捜索警戒にあたり、7月10日、蓋平の戦闘、23日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘に参加します。
8月30日、遼陽會戰において聯隊は騎兵第一旅團(秋山好古少将)に属し軍の左翼前方を進撃、9月1日、首山堡攻撃に際し我が軍の左側背を衝こうする露軍ミシチェンコ騎兵団を牽制、側方から敵情を偵察するとともに敵右側背に脅威を与える活躍をし、4日、遼陽城攻略戦を容易にします。
10月8日、沙河會戰、11日、台子、楊家湾攻略戦、続く沙河対陣では騎兵第一旅團主力の拠点である東李大人屯の守備につき、1月25日、黒溝薹會戰において優勢な露軍の奇襲を受けるも秋山少将の拠点防御により露軍の攻撃を拒止、第八師團(立見尚文中将、弘前)、続く第二・第三・第五師團の増援により露軍を撃退、聯隊は奥保鞏大将から感状を授与されます。

奉天會戰直前に師團に復帰するも、再び騎兵第一旅團の指揮下となり明治38(1905)年3月1日、奉天會戰において奉天北西に進撃し露軍を牽制し反撃してきた露軍を撃退、奉天城攻略後に敗敵を鉄嶺に追撃中、師團に復帰を命ぜられ開原に前進し師團の前方に位置し捜索警戒に当たります。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年3月3日、熊本に凱旋、復員します。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため熊本を出発、16日、龍樹屯に上陸し公主嶺に屯営し匪賊討伐にあたります。

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が開始されたため、居留民と我が国の権益保護のため第六師團は山東省に派遣(第二次山東出兵)され、聯隊からは1個小隊が出征します。

26日、小隊は師團とともに済南に到着し、20日に到着した支那駐屯軍臨時済南派遣隊(3個中隊)と合流、居留民保護にあたりますが、5月3日、国府軍による日本人虐殺陵辱・商店略奪(略奪被害戸数136、被害人員約400:済南事件)をきっかけに我が軍と国府軍と交戦、11日、我が軍は済南城を占領し、国府軍の武装解除にあたります(昭和4年3月28日、日支間の協定締結)。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

昭和6(1931)年11月12~14日、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和6年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発、昭和7(1932)年12月7日、第六師團に動員下令、16日、聯隊は師團とともに熊本を出発、17日、釜山に上陸、20日、奉天に到着、奉天西南方地区の警備・匪賊討伐にあたります。
昭和8(1933)年2月17日、師團とともに満洲國と關東軍の熱河作戰に参加、師團は騎兵第四旅團・騎兵十を指揮下に入れ、騎兵十は師團主力の前方を通遼-開魯-赤峯を進撃、騎兵第四旅團は通遼の南方彰武から赤峯に、騎兵六は師團の進撃路西方の匪賊を掃討し前進、赤峰に達し、師團の開城攻略戦、4月10日、長城線攻略戦に参加します。

4月11日、国府軍は直隷地区に20万の兵を集結、さらに長城線を超え北上を開始したため、關東軍は灤(らん)東作戰を発動、聯隊は師團とともに国府軍を冷口方面の長城を越えて灤河右岸まで撤退させ、19日、長城線に帰還します。
しかし、国府軍は帰還する我が軍を追尾して灤東地区まで侵入して来たため、5月3日、關東軍は關内作戰を発動、8日、聯隊は師團とともに再び進撃を開始しますが、悪路の行軍に苦戦、12日、灤河を渡河、23日、薊運河-懐柔-密雲の線に進撃します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結されます。
9月10日、内地帰還の命を受け、10月14日、熊本に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(8月15日、支那事變と改称)が発生、27日、第六師團に動員下令、31日、動員完結、8月1日、聯隊は師團とともに熊本を出発、同日、門司港を出航、釜山に上陸し、13日、北京東南の側黄村に集結し警備にあたります。

9月14日、保定作戰に参加、永定河を渡河、牛駄鎮、新城、徐州と進撃し、24日、保定城攻略戦に参加します。
10月1日、京漢鉄道を南下、10日、滬河を渡河、同日、石家荘攻略戦に参加、趙県城に集結します。

15日、石家荘周辺に集結、昭和13(1938)年1月19日、石家荘周辺を出発、25日、天津塘沽に集結、26日、第六師團は中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、杭州湾海月奄付近に奇襲上陸します。
師團はクリークに苦戦しながら進撃し、松江付近で国府軍追撃戦、15日、崑山攻略戦に参加します。
12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團とともに嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍を撃破し、11日、国府軍の激烈な攻撃に大きな損害が出るなか、南京城外の国府軍の拠点・雨花台を攻略、12日、野砲六が南京城中華門に砲撃を開始、13日、敵の激烈な抵抗に攻撃は遅滞しますが、遂に中華門城壁一帯を攻略します。

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六(鯖江)が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。

聯隊は中華門外三里店付近に野営の後、15日、蕪湖に移駐し周辺の警備にあたります。

昭和13(1938)年6月、武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。
10月25日、師團は漢口の一角に突入(一番乗り)、26日、漢口市街地を攻略、中支那派遣軍の武漢攻略に貢献します。
武漢攻略後、聯隊は武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月、師團の武寧作戰に参加します。
3月下旬、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加します。

12月24日、重慶(旧国府)軍の冬季反攻を受けますが撃退、集結する重慶軍殲滅のため、第十一軍の第一次陸水作戦に参加します。

昭和15(1940)年9月6日、第十一軍の第一次長沙作戰に向け側背面の脅威を排除するため、師團の大雲山周辺の討伐に参加しますが、不徹底だったため第四十師團が重慶第58軍と不期遭遇戦が想起します。
9月18日、第一次長沙作戰に参加、20日、師團は汨水の左岸に進出、金井を攻略し、25日、重慶第26軍を撃破、27日、重慶第51師を撃破、28日、第四師團により長沙は攻略されます。

昭和15年より、各騎兵聯隊は逐次装甲車装備の捜索聯隊に改編されて行きますが、騎兵六は乗馬騎兵聯隊として存置されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、師團は第十一軍の第二次長沙作戰に参加、新牆河渡河、次いで26日、汨水を渡河、昭和17(1942)年1月1日、第三師團は長沙城に攻撃を開始しますが重慶軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、3日、第六師團も攻撃に加わりますが重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始します。
影珠山付近では重慶軍の追撃・攻囲を受け苦戦しながらも強行突破し、11日、福臨舗付近に集結します。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、第六師團は南方戦線教化のためソロモン方面への転出が決定し、武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、ガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結します。
南方進出にあたり師團隷下部隊の馬匹は全て上海に残置される事になっていたため、騎兵六は上海において師團と分かれ馬匹管理にあたります。

25日、師團はソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、六號輸送船団11隻に分乗し上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。
12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19~24日、逐次ラバウルを経由しブーゲンビル島に向かいます。
師團は船団11隻中4隻を撃沈され、多くの将兵を失う悲運に見舞われながらブーゲンビル島南部のブインに入港します。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、歩二十三第一大隊第二中隊(堀之内正義中尉、聯隊砲1、無線1個分隊配備)は水際で反撃、敵上陸用舟艇数隻を撃破し一時大混乱に陥れますが、圧倒的な兵力差に0700、玉砕してしまいます。
師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)が、敵迫撃砲の集中砲火に第一線の重火器は破壊され損害が増加、濱之上聯隊長は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

第六師團長・神田正種中将はかねて騎兵六を信頼、特に聯隊長・越沢六郎大佐を信頼していた事からブーゲンビル進出後、聯隊を招致、騎兵六は徒歩2個中隊に改編され、11月下旬、師團を追及します。

ブーゲンビル島進出とともに聯隊はアク地區警備隊として師團司令部西方のアクに配置され、米軍の侵攻に備え陣地構築を行います。

昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令されます。
3月8日、準備射撃を実施後、第六師團は3部隊を編成し米軍橋頭保に攻撃を開始します。
聯隊は師團の総攻撃に参加のため北上を開始しますが、タロキナ攻撃の師團主力は敵の航空機・戦車・迫撃砲による弾幕阻止射撃・逆襲に阻まれ攻撃は遅滞、25日、遂に攻撃は中止され甚大な損害(9,548名で作戦に参加した師團は2,398名が散華、3,066名が負傷)が出てしまいます。

3月27日、第十七軍により時期態勢移行の新配置が定められ、越澤支隊(騎兵六基幹、越澤六郎大佐)が撤退援護にあたる中、バカナ山以北に第十七歩兵團が、以南に第六師團が配置され、爾後孤立したブーゲンビル島で自戦自活体制に入ります。
4月21日、越澤支隊は米軍橋頭保のタロキナ南方のカリコバ峠北麓に布陣、指揮下にあった砲兵関係部隊を原隊に復帰させ、歩十三の1個大隊(鏡内大尉)を新たに指揮下に入れ、米軍と接触を保ち飛行場の使用を妨害します。
当初、米軍は積極攻勢に出ませんでしたが、4月中旬から次第に侵攻が活発化、しばしば小戦闘が生起します。
5月20日、米軍はジャバ川付近に上陸を企図したため、支隊は迎撃のためジャバ川左岸に後退し、鏡内大隊を原隊に復帰させます。
5月末、米軍が撤退したため再びカリコバ峠北麓を占領します。
6月30日、歩十三に任務を引き継ぎ、7月3日、アクに復帰、26日、ブイン北方のルイラオに転進します。
昭和20(1945)年3月25日、第十七軍の主陣地であるエレベンタ地区における決戦準備のためツルタイに転進、北地區隊長・知久八萬少将(第十七軍兵器部長)の指揮下に入り陣地構築にあたるなか、8月16日、停戦を迎えます。
8月31日、ツルタイにおいて軍旗決別式を挙行、軍旗を奉焼します。


騎兵第百六大隊(通称号無し)
昭和13(1938)年5月15日、騎兵第六聯隊留守隊により編成(母袋均中佐)、6月2日、漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため留守第六師團により編成された第百六師團に隷属します。
大隊の編成は大隊本部・乗馬2個中隊・機関銃1個小隊でした。

6月2日、師團とともに熊本駅を出発し門司に集結、中支に向かい長江を遡上し江南地区の警備にあたりつつ、応急訓練を実施します。

7月4日、師團は第十一軍戦闘序列に編入され、湖東に集結し、7月24日、九江攻略戦、8月4日、大天山攻略戦に参加しますが、作戦地が山岳地帯のうえ道路が無いため乗馬機動は不可能となり徒歩化して参加します。

9月20日、師團は徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進を開始します。
しかし、作戦地は山岳地帯のうえ泥濘悪路に阻まれ前進は遅滞、28日、補給線が途絶、10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。

31日、第十一軍は師團に第百一師團が攻略した徳安から敗走する支那軍追撃を下命、11月1日、追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に師團とともに参加します。

3月19日、第十一軍隷下の重砲から迫撃砲を含む250門の攻撃準備射撃・渡河支援射撃を受け修水河を渡河、27日、第百一師團が南昌を攻略します。
4月2日、師團の高安城攻略戦に参加します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

聯隊は師團とともに軍主力の会戦援護のため、9月14日、富館付近に進撃、26日、白沙坪、大埠橋攻略戦に参加、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出し捜索警戒にあたります。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に復帰、10月中旬、師團とともにも旧警備地区に復帰します。

11月、第百六師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、師團は南支の第二十一軍戦闘序列に編入、1~3月、汕頭方面での掃討作戦に参加、昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、昭和15(1940)年3月9日、師團とともに熊本に復員、4月17日、第百六師團の廃止に伴い騎兵第百六大隊も廃止されます。


捜索第四十八聯隊(海八九四五)
昭和16(1941)年12月、騎兵第六聯隊補充隊において騎兵第六聯隊の召集将兵を基幹として歩兵第二十三(都城)・歩兵第四十五聯隊(鹿児島)の召集将兵を加えて編成完結(北村九郎中佐)、海南島に進出し、昭和15(1940)年11月30日、臺灣混成旅團を改編した第四十八師團(中川廣中将)に隷属します。

昭和16(1941)年12月6日、師團はフィリピン攻略の第十四軍(本間雅晴中将)の主力として臺灣馬公に集結、22日、ルソン島リンガエン湾に上陸、1月2日、マニラ攻略戦に参加、2月8日、オランダ領インド攻略のため第十六軍(今村均中将)に編入されリンガエン湾出航、3月1日、クラガンに上陸し蘭印作戰に参加、8日、スラバヤを占領し警備にあたります。

昭和17(1942)年9月初旬、師團はガダルカナル島に向かう第三十八師團(佐野忠義中将、名古屋)の任務を引き継ぎチモール島(ポルトガル領、豪蘭が保障占領)に転進が決定、9月5日、先遣隊の歩兵第四十七聯隊(柳勇大佐)第二大隊がディリに上陸し第三十八師團と交替します。
続いて師團主力もディリに上陸、師團の司令部をディリに設置、聯隊は島中央部警備の主力としてオッスに聯隊本部を設置します。

師團は当初進駐の形を採っていましたが、ポルトガル本国が連合軍に協力的な立場であったため、また原住民のポルトガル人襲撃の頻発から師團による警護と集団居住を申請したため、ポルトガル軍の武装解除を実施します。

師團は悪化する戦局に対応するため、同島及び周辺のアル諸島・タニンバル諸島・スンバ島の匪賊討伐、決戦準備中に停戦を迎えます。


主要参考文献
『日本騎兵史』(昭和45年3月 佐久間亮三・平井卯輔 原書房)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『熊本の戦争遺跡』(平成22年12月 創想舎)
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No Title

鎮台からの歴史ある熊本でも、陸軍の遺構は少ないのですね。
逆に言えば、善通寺は残りすぎなんでしょうかねv-218

Re: No Title

kanさん、こんにちは。
そうなんですよ。
今回訪ねた場所で建物は、この後に紹介する歩十三の食堂のみ、その他は門柱と石碑が残っていれば良い方ですね。
観光地化・市街地化している場所はかなり残存度合いは厳しいですね。
我が大阪もしかりです・・・
善通寺は殆どが自衛隊の敷地ですし、余り発展していないのが大きいと思います。
後は自治体や施設を引き継いだ方の姿勢ですね。
観光地化している金沢なども移設も含め比較的残っている方ではないでしょうか。
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