当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

歩兵第十三聯隊

熊本市大江には歩兵第十三聯隊の兵営がありました。
歩兵第十三聯隊 酒保 北東から(熊本陸軍遺構)
▲熊本学園大学内に遺る「酒保」






熊本城周辺の陸軍部隊配置
昭和6年頃の地図★拡大(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國測量部)
▲昭和6年頃の地図(大正15年測量、昭和6年部分修正 大日本帝國陸地測量部)

昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮
▲昭和22(1947)年11月1日の大江村周辺の空撮

熊本 第六師團(大江) 遺構
▲現在の地図に施設を転写したもの

※緑文字が当記事の紹介施設
①野砲兵第六聯隊
②騎兵第六聯隊
歩兵第十三聯隊
④工兵第六聯隊
⑤渡鹿(とろく)陸軍練兵場

名称については一般的な昭和12(1937)年頃のものです。


遺構について※青字は地図にリンクしています
カタカナは遺構など、上掲地図参照
歩兵第十三聯隊
明治8(1875)年4月15日、熊本鎭臺歩兵第二十五大隊を基幹に、3月10日に解隊された歩兵第十一・十九大隊の将校、下士官を加え歩兵第十三聯隊が編成され、熊本城二之丸の兵営に入ります。
明治9(1876)年4月15日、第三大隊が編成され熊本城南の御花畑・旧細川藩邸に分屯(後、二之丸兵営に転営)します。
大正14(1925)年5月29日、渡鹿の旧歩兵第二十三聯隊兵営跡に転営します。
昭和12(1937)年8月1日、歩兵第十三聯隊が支那事變に出征後は歩兵第十三聯隊留守隊(のち補充隊、西部第十六部隊)、熊本師管區歩兵第一補充隊(西部第六十一部隊)の兵営となり停戦を迎えます。
その間、昭和19(1944)年、聯隊無線班が師團通信隊に改称した際に兵営南側が拡張されます。
歩13兵営見取り図
▲兵営見取り図(『歩兵第十三聯隊史』より)
 ※左側が北

戦後、兵営は南九州財務局が管理していましたが、昭和21(1946)年6月、熊本無線電信講習所(昭和24年、国立電波高校、現、熊本高専)が南側の兵舎2棟を校舎として転用(昭和26年、北側の工兵第六聯隊兵営跡に移転)、昭和27(1952)年6月、県立女子大が熊本城本丸から電波高校の跡に移転、同年10月、北側の兵営大半を熊本短大(現、熊本学園大学)が買収し移転し現在に至ります。
昭和55(1980)年4月、熊本女子大が健軍町に移転し兵舎は破壊され、昭和57(1982)年、熊本県立劇場が建てられます。

兵営の遺構としては下記の物が残されています。


ツ 営門門柱
熊本学園大学から北側の産業道路に抜ける道(国家公務員合同宿舎大江住宅と県営山の上団地の間)にあります。
歩兵第十三聯隊 営門門柱 北から(熊本陸軍遺構)
▲現在の営門

歩兵第十三聯隊 営門(熊本陸軍遺構)
▲歩兵第第十三聯隊 営門(撮影時期 不明)

営門は当時の写真を見ると正門門柱2本と袖門門柱1本で構成されていた様ですが、現在は正門門柱1本と袖門門柱1本、周囲の煉瓦塀の一部が残されています。

歩兵第十三聯隊 ツ 営門門柱(西側) 北東から(熊本陸軍遺構)
▲西側(正門門柱) 近影
 門柱に接した塀の一部が残されています。

歩兵第十三聯隊 ツ 営門門柱(東側) 北西から(熊本陸軍遺構)
▲東側(袖門門柱) 近影
 両門柱とも門扉を取り付ける蝶番が残されています。


テ 「皇威無窮」碑
営門跡を入ってすぐ左側の県営団地敷地にあります。
歩兵第十三聯隊 テ 皇威無窮 碑(熊本陸軍遺構)
▲生垣が碑に被っており、非常に見にくいです。

碑文に「熱河河北聖戰記念」とある事から、滿洲事變における熱河作戰・関内作戰参加を記念し建立されました。
「皇威無窮」の文字は時の聯隊長・鷲津平大佐(のち中将)です。

石碑の右側には聯隊の略史が刻まれた「歩兵第十三聯隊兵營跡」、左側にはこの石碑の移設された経緯が刻まれています。
こちらの石碑は当初、聯隊本部庁舎の東側(現在地の南西16m)にありましたが、道路整備により現在地に移設されました。


ト 酒保
熊本学園大学敷地内の北端にあり、昭和34(1959)年6月、大学が廃墟と化していた当建物を購入、改装し現在は第2体育館として使用されています。
歩兵第十三聯隊 酒保 北東から(熊本陸軍遺構)
▲「酒保」 北東から
 鉄筋コンクリート造で、ほぼ原形を留めています。

歩兵第十三聯隊 ト 酒保 玄関 南西から(熊本陸軍遺構)
▲西側入口部分
 西側には写真のように庇が付いていますが、東側は元々ありません。

歩兵第十三聯隊 ト 酒保 内部(熊本陸軍遺構)
▲酒保内部
 現在は道場になっています。

建物は写真のように殆ど装飾が施されていませんが、窓上部、入口支柱、内部隔壁上部に僅かな装飾があります。
歩兵第十三聯隊 ト 酒保 玄関上部(熊本陸軍遺構)
▲ラッパ状の玄関庇の支柱

歩兵第十三聯隊 ト 酒保 入口の天井(熊本陸軍遺構)
▲酒保内部の隔壁上部の飾り

酒保は下記の「ナ 炊事場」と連結して1つの建物を構成しています。
第六師團隷下の部隊で唯一当時のままの場所で残されている建物です。

見学については守衛室で目的を告げ、手続きをしていただければ自由にできます。
ただ、東隣が弓道場なので、見学・撮影の際には気を付けて下さい。



ナ 炊事場
上記の「ト 酒保」と連結して1つの建物を構成しています。
歩兵第十三聯隊 ナ 食堂西面 南西から(熊本陸軍遺構)
▲炊事場 南西から
 西側は駐輪所、南側は校舎、東側はごみ捨て場が密接しており撮影が困難です。

建物西面・東面上部(屋根部)中央に山形の装飾が付いています。

歩兵第十三聯隊 ナ 食堂 内部 南から(熊本陸軍遺構)
▲炊事場内部
 現在は卓球場になっています。

元々、建物南側にも酒保と同様の大きさの建物が連結していたようですが、現在はありません。
歩兵第十三聯隊 ナ 食堂南面 南東から(熊本陸軍遺構)
▲南側の壁に残る建物跡


ニ 将校集会所 裏口
国家公務員合同宿舎大江住宅の東側に土堤の土留、階段が残されています。
歩兵第十三聯隊 ニ 西側(将校集会所)入口(熊本陸軍遺構)
▲裏口 全景

歩兵第十三聯隊 ニ 西側(将校集会所)入口 (2)(熊本陸軍遺構)
▲土塁の土留
 煉瓦を基礎にし、モルタルで覆っています。

歩兵第十三聯隊 兵営北西角 西面の石垣(熊本陸軍遺構)
▲兵営北西側の石積
 兵営当時の物と思われますが、詳細は不明です。


衛戍、編成聯隊
歩兵第十三聯隊(明九〇一八、西部第十六部隊)
慶応4(明治元、1868)年2月20日、明治政府直轄軍として御親兵が創設、明治4(1871)年4月23日、各藩兵からなる東山道(石巻)・西海道(小倉)鎭臺が設置(肥後藩は神谷天也隊長以下約600名を小倉に配置)、7月14日、廃藩置県により、日本全土が明治政府の直轄となり、8月20日、東山道・西海道鎭臺が廃止(9月、藩兵は解散)され東北(仙台)・東京・大阪・鎭西(熊本)の4鎭臺が設置されます。
鎭西鎭臺隷下として熊本には歩兵11個小隊が置かれます。

明治5(1872)年4月1日、鎭西鎭臺は熊本鎭臺に改称され、小隊編成から大隊編成となり熊本に九番大隊(3個小隊)、十一番大隊(8個小隊)が編成、明治6(1873)年1月10日、『徴兵令』が施行され旧士族志願制度から国際情勢に即した国民皆兵制に転換、大隊の名称は「〇番大隊」から「第〇大隊」に改称します。
7月、第九大隊は解隊され、第十九大隊が大阪鎭臺から熊本鎭臺へ転属してきます。

明治7(1874)年2月15日、佐賀の乱に熊本鎭臺歩兵第十一大隊が出動、3月1日、乱を鎮定し熊本に凱旋します。

明治4(1871)年、台湾に漂着した琉球船の漁民が現地の高砂族に殺害された事件を機に我が国は清国と対立、明治7年4月、我が国は西郷従道 海軍少将を臺灣事務都督に任じ、熊本鎭臺司令長官・谷干城少将は臺灣蕃地事務参軍として隷下の歩兵第十九大隊を征討軍に編入します。
16日、征討軍は熊本を出発、瑯湾に上陸し各地を転戦、5月、石門を攻略、8月、大阪鎭臺歩兵第二十二大隊、東京鎭臺歩兵第十一大隊等が熊本鎭臺に転属され熊本鎭臺歩兵第十一大隊とともに台湾に到着、高砂族を鎮定します。
10月、日清両国の講和が成立し、征討軍は凱旋します。
征臺の役により歩兵第十一、第十九大隊が出征したため、徴兵令により歩兵第二十五、第二十六大隊が留守部隊として編成されます。

明治8(1875)年3月10日、熊本鎭臺は歩兵第十一、十九大隊を解隊し、27日、将校、下士官の大半を歩兵第二十五、第二十六大隊に編入し、4月15日、歩兵第二十五大隊を基幹に歩兵2個大隊から成る歩兵第十三聯隊が編成(與倉知実中佐)され(歩兵第二十六大隊を基幹に歩兵第十四聯隊が編成され12月、小倉に転営)、9月9日、宮中において軍旗を拝受します。
歩十三聯隊 軍旗
▲歩兵第十三聯隊 軍旗

明治9(1876)年4月15日、第三大隊が編成されます。
10月24日、『散髪令』、『廃刀令』に反発した神風連の太田黒伴雄ら170余名によって神風連の変が発生、歩兵第十三聯隊兵営及び聯隊長邸が襲撃され、聯隊長・與倉中佐は負傷、邸に保管されていた軍旗が奪われてしまいますが、隈部幸作兵卒が軍旗を奪還、佐武廣命中尉が負傷しながらも軍旗を護り抜きます。
奇襲を受けた聯隊は混乱に陥りますが、邸を脱出した與倉中佐の指揮下、鎭臺隷下部隊とともに態勢を立て直し反撃に転じ、25日、変を鎮定します。

28日、秋月の乱が発生し、聯隊からは2個中隊が久留米に派遣され警戒にあたります。

明治10(1877)年2月15日、西南の役が発生、19日、鎭臺本営の置かれた熊本城天守が消失、22日、熊本城は薩軍の強襲を受け、聯隊長・與倉中佐は段山の戦いで敵弾を受け負傷、同夜、死去し川上操六少佐が指揮を継承します。
熊本鎭臺司令長官・谷干城少将は聯隊を含む鎭臺兵3,000余名とともに籠城、薩軍13,000余名の攻囲を50余日間に渡って耐え抜きます。
4月14日、征討軍の別働第二旅團が薩軍の包囲を突破、15日、征討軍が熊本城に入城、17日、薩軍は熊本城の攻囲を解き、城東に集結、20日、聯隊は追撃に移った鎭臺の最右翼となり城東會戰、三田井、竹田、臼杵、赤松峠、可愛嶽の戦いに参加し薩軍を撃破、明治10(1877)年9月24日、城山の戦いに参加(第一大隊欠)、薩軍総帥・西郷隆盛の自刃により西南の役は終結します。
10月6日、熊本に凱旋します。

明治12(1879)年3月、廃藩置県による琉球藩の沖縄県転換に、聯隊から2個中隊が派遣され首里城を受領します。

明治15(1882)年7月23日、朝鮮で開化党と事大党が対立、暴動に発展(第一次京城事変)し日本公使館が襲撃され邦人14名が殺害されたため、8月3日、熊本鎭臺に動員下令、10日、聯隊は熊本を出発、13日、聯隊は山砲兵第六大隊第一中隊とともに福岡で混成旅團を編成しますが、我が国と清国の介入により暴動は鎮圧されたため、9月4日、混成旅團は解散し熊本に帰還します。

明治17(1884)年7月1日、聯隊から下士・兵卒の一部が転出、新設の歩兵第二十三聯隊第一大隊の要員となります。

明治19(1886)年1月10日、第一大隊第一中隊は対馬に分遣(6月9日、帰還)、5月20日、第二大隊第一中隊は沖縄に分遣されます(この後たびたび、中隊単位で沖縄に分遣されます)。
5月20日、歩兵第十一旅團が編成され、聯隊は歩兵第二十三聯隊とともにその編制に入ります。

明治21(1888)年12月1日、第三大隊が新たに編成されます。

明治27(1894)年7月24日、第六師團に動員下令、8月1日、我が国は清国に対し宣戦布告し、明治二十七八年戰役(日清戦争)が勃発します。
10月23日、聯隊は熊本を出発、26日、熊本を出発した師團主力と福岡で合流し歩兵第二十四聯隊の兵営に入り、戦略予備として待機、訓練にあたり、12月29日、第六師團は第二軍(大山巖元帥)戦闘序列に編入され、31日、福岡を出発します。
明治28(1895)年1月2日、列車で小倉に集結、12日、門司を出航、15日、大連湾に上陸し第二師團とともに山東作戰軍(大山巖元帥)に編入、22日、第六師團は大連を出発し、23日、山東省栄城湾龍睡洞に上陸します。
1月26日、聯隊は師團はとともに龍安荘を出発、1月30日、第六師團は第二師團とともに聯合艦隊の援護射撃の元、清国北洋艦隊の要所・威海衛を攻撃、聯隊は摩天嶺砲台、揚嶺嶺砲台を占領、2月1日、虎山付近の守備にあたります。
2月12日、北洋艦隊は降伏、司令官・丁汝昌は自決します。
2月22日~3月5日、山東作戰軍は旅順に帰還、15日、第一・第二軍は改編され、第六師團は近衛・第四師團とともに第二軍に編入されます。
3月30日、日清間に休戦協定が結ばれ、4月17日、下関において両国の講和条約が締結されます。
9月20日、歩兵第十一旅團は賠償金払込担保として現地残留が決定、聯隊は第三大隊を威海衛守備のため派遣、11月下旬、聯隊主力も威海衛に屯営し守備にあたります。
明治29(1896)年6月5日、威海衛守備の任務が終了、8日、熊本に凱旋、16日、復員完結します。

明治30(1897)年8月31日、台湾守備のため第一大隊(渡邊章少佐)は熊本を出発、第一・第二中隊を台北に本部・第三・第四中隊を大嵙崁に置き土匪討伐にあたります(翌年9月10日、帰還)。

明治30(1897)年11月10日から13日、明治天皇御統監のもと筑後平野で行われた特別大演習に参加します。

明治31(1898)年10月1日、台湾守備隊の編成が改編され、内地各聯隊より混成1個中隊を派遣する事となり、新たに歩十三から派遣された中隊は混成第三旅團に編入、歩兵第六大隊第一中隊(鈴木直義中尉)となり石光見に屯営(1個小隊は恒春に屯営)し南部の土匪討伐にあたります。

明治33(1900)年7月16日、白川が氾濫、聯隊は關口環大尉を水防司令官として奇数中隊を派遣、堤防、橋梁の修理、被災民の救援に当ります。

明治35(1902)年11月10日から14日、明治天皇御統監のもと熊本地区において実施された特別大演習に参加します。

明治37(1904)年2月10日、我が国の安全保障を確保すべく強硬な南下政策を採るロシアに宣戦布告、明治三十七八年戰役(日露戦争)勃発します。
5月19日、第六師團に動員下令、27日、動員完結、6月12日、聯隊は熊本を出発し、13・14日、長崎を出航、17・18日、遼東半島塩大墺に上陸、馬家屯に集結、6月21日、師團は劉家屯に達し第二軍(奥保鞏大将)戦闘序列に編入され第三・第四師團とともに北上を開始、7月10日、蓋平の戦闘、23~24日、大石橋付近の戦闘、31日、海城付近の戦闘、8月27日、鞍山付近の戦闘に参加、ロシア軍を撃破します。
8月30日、遼陽會戰に参加、31日まで首山堡の敵陣を攻撃、敵の激烈な抵抗で大きな損害を出しますが、9月1日、首山堡を占領、10日、浪子街で敵と交戦、占領し守備にあたります。
10月8日、沙河會戰に参加、16日、拉木屯に陣地を構築し沙河対陣に参加、明治38(1905)年3月1日、奉天會戰に参加、5日、沙河右岸の第一線陣地を、7日、漢城堡を占領、10日、渾河左岸の敵は逐次退却を始めたため追撃を開始、逆襲してきた敵を魚鱗堡付近の戦闘で撃破、11日、木廠付近の守備にあたります。
25日、第六師團は第四軍(野津道貫大将)の戦闘序列に入り、5月21日、開原付近に前進し守備に就きます。
5月27日、聯合艦隊が日本海海戦においてロシア・バルチック艦隊を殲滅します。
9月1日、日露両国が休戦議定書に調印、14日、日露講和条約(ポーツマス条約)が締結、明治39(1906)年2月24日、宿営地を出発、3月10日、第一大隊、11日、聯隊本部・第二大隊、12日、第三大隊半分、13日、第三大隊半分が熊本に凱旋、16日、復員完結します。

明治41(1908)年10月1日、聯隊は韓国駐箚のため、熊本を出発、龍山、金城、開城などに屯営、明治43(1910)年5月3・4日、熊本に帰還します。

明治45(1912)年4月2日、第八中隊が臨時朝鮮派遣歩兵第二聯隊に編入され韓国駐箚のため熊本を出発、大正3(1914)年4月24日、熊本に帰還します。

11月25日~大正9(1920)年10月20日、支那における辛亥革命直後の混乱から漢口の総領事・居留民を保護すべく派遣された中支派遣隊(明治44年、第十八師團において編成、大正三四年戰役(第一次世界大戦)勃発により、第十八師團は青島攻略に参加のため、第六師團が交替)に6次に渡り中隊(第七、第四、第十二、第二、第十、第五中隊の順)が派遣されます。

大正5(1916)年4月14日、第六中隊が新設の歩兵第七十八聯隊(朝鮮龍山)に転出します。
大正11(1922)年8月15日、軍縮により第四・八・十二中隊が廃止されます。

大正12(1923)年4月13日、滿州駐箚のため聯隊は第三大隊を留守隊として熊本に残置し第六師團とともに熊本を出発、16日、龍樹屯に上陸し歩兵第十八聯隊(豊橋)から任務を引き継ぎ、匪賊討伐にあたります。

大正13(1924)年10月29日、支那蘇浙方面で奉天、直隷両軍閥の内戦が勃発したため、北支那駐屯軍の増援として聯隊から第一大隊が天津に派遣され警備にあたり、12月6日、師團に復帰、大正14(1925)年5月、熊本に帰還します。

昭和3(1928)年4月19日、国民党革命軍(国府軍:蒋介石)による奉天軍閥(張作霖)の北伐が再開されたため、第六師團は居留民と我が国の権益保護のため山東省に派遣(第二次山東出兵)されます。
19日、聯隊は出動の内命を受領、22日、第三大隊を留守隊として兵営に残置し熊本駅を出発、23日、亜米利加丸・山城丸に分乗し門司を出航、25日、青島に上陸、26日、済南に到着(機關銃隊の一部は師團直轄として博山に移動、5月19日、聯隊に復帰)し、20日に到着した支那駐屯軍臨時済南派遣隊(3個中隊)と合流、居留民保護にあたりますが、5月3日、国府軍による日本人虐殺陵辱・商店略奪(略奪被害戸数136、被害人員約400:済南事件)をきっかけに我が軍は国府軍と交戦、聯隊は無影山、山薬の攻撃、11日、済南城攻略戦に参加し、国府軍の武装解除にあたります(昭和4年3月28日、日支間の協定締結)。
8月16日、師團は済南の守備を第三師團と交替し、26日、済南を出発、9月10日、熊本に帰還します。

昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事件(滿洲事變)が勃発します。

11月12~14日、昭和天皇御統監のもと、熊本で挙行された陸軍特別大演習に参加します。

昭和7(1932)年12月7日、第六師團に動員下令、14日、聯隊の編成完結、15日、聯隊は熊本を出発、17日、釜山に上陸、20日、奉天に到着、歩兵第二十九聯隊(仙台)と交替し吉長、吉敦、拉賓、瀋海の線の警備にあたり、中隊単位で匪賊討伐を行います。

昭和8(1933)年2月17日、第六師團は第十師團(姫路)と警備を交替、張学良に寝返った湯玉麟を討伐し熱河地方の治安回復のため満洲國と關東軍の熱河作戰に参加のため吉林を出発し、北票線朝陽寺に向かいます。
聯隊は師團左縦隊として22日、義州を出発し朝陽寺に宿営、25日、朝陽寺付近で国府軍と交戦を経て朝陽城に入城、3月1日、朝陽を出発、双廟子付近で交戦、2日、老虎山付近で交戦、3日、建平付近で交戦を経て建平城入城、4日、墨水付近で交戦を経て墨水城入城、5日、赤峰に達し師團主力と合流し警備にあたり、15日、赤峰を出発、16日、黒水に到達し第一大隊は黒水警備隊として同地の警備にあたり、17日、聯隊主力は建平の警備にあたります。
3月30日、満洲國と關東軍の長城作戰に参加のため建平を出発、4月9日、六揆子付近、10日、白半峪で敵を撃破し長城を占領、11日、建昌を占領し、同地の警備にあたり、22日、師團の守備配置変更に伴い界嶺口に移駐(第一大隊は抬頭営に移駐)します。

灤河右岸まで撤退させた国府軍は帰還する我が軍を追尾、再び灤東地区まで侵入して来たため、5月3日、關東軍は關内作戰を発動、8日、第六・第八師團は再び進撃を開始、聯隊は8日、五達営付近で国府軍を撃破、12日、灤河を渡河、14日、徐庄付近の戦闘、15日、西山庄付近の戦闘、16日、洪家付近の戦闘に参加、23日、薊運河-懐柔-密雲の線に進撃します。
25日、国府軍が停戦を求めたため、關東軍は作戦行動を停止し、31日、塘沽停戦協定が締結され滿洲事變は終結します。
6月18日、大虎山の警備に就き、9月10日、内地帰還の命を受け、10月1日、熊本に凱旋します。

昭和12(1937)年7月7日、北支事變(9月2日、支那事變と改称)が発生、10日、停戦協定が成立しますが、郎坊事件、広安門事件、通州事件など度重なる支那第二十九軍の違法不法行為により、7月28日、支那駐屯軍(田代皖一郎中将)は攻撃を開始、北京・天津を平定します。

7月27日、第六師團に動員下令、北支那方面軍戦闘序列の支那駐屯軍(香月清司中将)の隷下に入り、31日、応急動員完結、8月1日、聯隊は第二・第三大隊が師團司令部・旅團司令部とともに第一陣として熊本を軍用列車で出発、同日、門司港は出航、釜山に上陸、13日、師團主力は北京東南の黄村に集結しますが、8月中旬からの豪雨により線路状況が悪化、聯隊は止むを得ず天津で下車し、郊外の濁流鎮、馬廠付近の警備にあたり、9月初旬、第十師團と警備を交代し黄村の師團を追及します。
歩兵第十三聯隊 支那事變に出征 12.7月(熊本陸軍遺構)
▲昭和12(1937)年8月1日、県民の歓呼の声に送られて征途に就く歩兵第十三聯隊将兵

9月14日、北支那方面軍の保定作戰に参加、聯隊は歩四十七とともに第一線として野砲兵第六聯隊の援護射撃のもと永定河を渡河、牛駄鎮、新城、徐州を進撃し、24日、保定城を攻略します。
10月1日、第二線の歩兵第三十六旅團(歩四十五、歩二十三)は京漢鉄道を南下、9日、国府軍の激烈な抵抗に苦戦しながらも正定城を占領、聯隊からは第一大隊が攻撃に加わります。
10日、聯隊は工兵第六聯隊を援護し師團主力の滬河渡河を実施、同日、石家荘攻略に参加、趙県城に集結します。

15日、師團隷下部隊は石家荘周辺に集結、昭和13(1938)年1月19日、石家荘周辺を出発、25日、天津塘沽に集結、26日、中支那方面軍戦闘序列の第十軍(柳川平助中将)の隷下となり、塘沽を出航、南鮮の八口浦に集結、11月5日、聯隊は歩四十七とともに朝霧を付いて杭州湾海月奄付近に奇襲上陸し周辺を占領します。

聯隊は左先遣隊(歩十三主力・聯隊長岡本保之大佐)、右先遣隊(歩四十七、歩十三第三大隊・歩十一旅團長・坂井徳太郎少将)としてクリークに苦戦しながら進撃し、右先遣隊は6日、黄浦江を渡河、7日、松江南側の南庫浜・唐子浜を攻略、左先遣隊も金山付近で国府軍約10,000、黄浦江北岸で約3,000を撃破、8日、鉄道線に進撃します。
師團が松江付近を制圧したことにより国府軍は背後に脅威を感じ壊走、師團は追撃戦に以降し15日、崑山を攻略します。

17日、師團は第十軍の作戦地域に復帰する事となり崑山を出発し、進撃してきた経路を逆に青浦、松江を経て嘉善・嘉門付近に集結します。
12月1日、中支那方面軍は国府軍の首都・南京城攻略を下令、師團は嘉善・嘉門付近を出発、強行軍を続け、7日、緑口鎮に進出、将軍山、牛首付近で国府軍を撃破し、10日、南京城外の国府軍の拠点・雨花台に攻撃を開始します。
聯隊は右第一線として、その左に歩四十七、歩二十三、歩四十五、騎六が配置、周辺に野砲六、野重大隊、獨山砲二が配置され攻撃を開始、国府軍の激烈な攻撃に大きな損害が出ますが、11日、雨花台を攻略、12日には南京城中華門に攻撃を開始、13日、敵の激烈な抵抗に攻撃は遅滞しますが、野砲六の砲撃で城壁の一角が崩壊、遂に中華門城壁一帯を攻略します。
歩兵第十三聯隊 南京城中華門攻撃 12.12.12(熊本陸軍遺構)
▲昭和12(1937)年12月12日、南京城中華門を攻撃する歩兵第十三聯隊

13日未明、支那軍の首都保衛軍司令官・唐生智は突然撤退命令を出すとともに逸早く脱出、首都死守を厳命されていた支那兵は混乱し南京城北側の下関を目指し潰走、午前5時、第九師團歩三十六が光華門付近を完全に占領、南京城を攻略します。
師團は中華門外三里店付近に野営の後、15日、歩十三第一大隊を先発として蕪湖に移駐、蕪湖、寧国、太平府付近の警備にあたります。

昭和13(1938)年2月14日、中支那方面軍は解体され、中支那派遣軍(畑俊六大将)が新編されます。

5月、中支那派遣軍の徐州會戰に聯隊を基幹とする坂井支隊(歩十一旅團長・坂井徳太郎少将)が参加、14日、淮南の要所・巣県、盧州で国府軍を撃破します。

6月上旬、師團は武漢作戰の初期作戦である安慶作戰に参加、坂井支隊は先遣隊として盧州を出発し南下西進、6月9日、舒城、13日、桐城、17日、潜山を攻略します。
7月4日、師團は新設された第十一軍(岡村寧次中将)隷下となり、敗走する国府軍を太湖および五家牌楼方面に追撃するとともに、19日、騎六に上石牌を攻略させ、敵の糧食船団を鹵獲、潜山付近に集結しますが、マラリアが発生し戦力が消耗してしまいます。
26日、聯隊は今村支隊(歩十三・山砲4個中隊:歩十一旅團長・今村勝次少将)の主力として太湖を攻略、30日、師團は反撃してきた国府軍28個師を撃破、涼亭河に進撃、8月2日、黄梅を攻略します。
9月6日、牛島支隊(歩二十三・歩四十五・野砲六、山砲兵1個大隊、歩三十六旅團長・牛島滿少将)、今村支隊 (歩四十七、山砲兵1個聯隊)は敵8個師が籠もる敵陣を突破し、牛島支隊は広済を攻略します。
9月29日、今村支隊(歩十三・山砲兵1個聯隊)は揚子江岸の堅陣・田家鎮を攻略します。
10月17日、師團は進撃を開始、敗走する敵を追撃し多量の兵器を鹵獲、25日、遂に漢口の一角に突入(一番乗り)、26日、漢口市街地を攻略、中支那派遣軍の武漢攻略に貢献します。

武漢攻略後、第六師團は武昌周辺の警備に就き、昭和14(1939)年2月、聯隊は第六師團の武寧作戰に参加、第十三師團と警備を交替し若渓付近に集結、3月20日、周辺の敵を撃破し、29日、武寧を攻略、中支那派遣軍の南昌攻略に貢献します。
3月下旬、浦圻、岳州地区の警備に就き、9月23日、国府軍第九戦区軍殲滅のため第十一軍の贛湘會戰に参加、18日、岳州南方に集結し、23日、新檣河岸の敵陣を撃破、敗走する敵を追撃し泪水南方に進撃、新市付近の敵陣地を撃破し、28日、福臨舗付近に進撃し、30日、麻林-金井-献鐘の線を確保します。

12月24日、重慶(旧国府)軍の冬季反攻を受けますが撃退、集結する重慶軍殲滅のため、第十一軍の第一次陸水作戦に参加します。

昭和15(1940)年9月6日、第十一軍の第一次長沙作戰に向け側背面の脅威を排除するため、師團とともに大雲山周辺の討伐を実施しますが、不徹底だったため第四十師團が重慶第58軍と不期遭遇戦が想起します。
9月18日、第一次長沙作戰が発動、20日、師團は汨水の左岸に進出、金井を攻略し、25日、重慶第26軍を撃破、27日、重慶第51師を撃破、28日、第四師團(大阪)により長沙は攻略されます。

昭和16(1941)年12月8日、大東亜戰争が開戦します。

24日、第十一軍の第二次長沙作戰に参加、重慶軍の攻撃下、新牆河を渡河、26日、汨水を渡河、昭和17(1942)年1月1日、第三師團(名古屋)は長沙城に攻撃を開始しますが重慶軍の頑強な抵抗に攻撃は遅滞、3日、第六師團も攻撃に加わりますが重慶軍約30個師が包囲にかかったため、4日、攻撃を中止して反転を開始します。

師團は瀏陽河において第三師團の渡河を援護、影珠山付近では重慶軍の追撃・攻囲を受け苦戦しながらも強行突破し、11日、福臨舗付近に集結、12日、聯隊は師團の後方援護に当たっていましたが、重慶軍に包囲され断薬欠乏のため白兵戦を展開、飛行第五十四戰隊の援護により窮地を脱し、20日、岳陽に復帰します。

4月30日、本土を爆撃(ドーリットル空襲)したB-25が、着陸を予定していた支那空軍の飛行場を覆滅すべく第十一軍・第十三軍による「せ」號作戰(浙贛作戰)に竹原支隊(第六歩兵團長・竹原三郎少将)として参加します。

8月、ソロモン海域でガダルカナル島を巡る戦闘が生起、9月、南方戦線強化のため第六師團はソロモン方面への転出が決定したため、聯隊は武漢に集結します。
11月16日、ソロモン・ニューギニア方面の深刻な戦局を打開するため第八方面軍(今村均中将)が新設、師團は第八方面軍直轄として戦闘序列が令され、ガダルカナル島へ進出のため上海付近に集結、25日、ソロモン方面の作戦を担当する第八方面軍隷下の第十七軍(百武晴吉中将)戦闘序列に編入、12月20日、上海を出航、昭和18(1943)年1月1日~3日、パラオを経由し、1月上旬、トラックに上陸しガダルカナル島への輸送を待ちます。
12月31日、我が軍のガダルカナル島からの撤退が決定したため、師團は北部ソロモンの防衛強化のため、1月19~21日、第六號輸送船團11隻に分乗(途中4隻が撃沈されるも歩十三は損害無し)しブーゲンビル島南部のブインに入港します。

聯隊は第六師團司令部の設置されたエレベンタに聯隊本部を、タイタイに第一大隊を配置し米軍の上陸に備え陣地構築を行います。

6月30日、米第14軍が中部ソロモンのレンドバ島に上陸を開始、今村軍司令官は逆上陸を企図、7月4日、5日、聯隊主力(第一大隊欠)と歩二十三第二大隊は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)の駆逐艦に分乗、途中、米第36.1任務群との間にクラ湾夜戦が生起するなど妨害を受けますが無事コロンバンガラ島に上陸し南東支隊(佐々木登少将、第三十八師團歩兵第二百二十九聯隊基幹)の指揮下に入ります。

7月4日、米軍はニュージョージア島南部のザナナに上陸、翌日に北部のライスにも上陸してきます。
聯隊は逆上陸に備え待機していましたが、佐々木少将は敵上陸部隊攻撃のためニュージョージア島北部に派遣します。
聯隊は密林を進撃しザナナの米軍に夜間斬り込みを実施、米軍を混乱させ戦果を挙げますが夜明けとともに激烈な砲撃を受けたため損害が増加、敵弾の射程外まで退避します。
22日、聯隊は再び攻撃を再開、28日、米第148歩兵連隊に100余名以上の損害を与えトラック15台、速射砲5門を破壊する戦果を挙げますが、米軍の砲撃で聯隊長・友成敏大佐が負傷するなど損害を受けます。
25日、米軍は陸空の火力支援のもと戦車を先頭にムンダに向け侵攻を開始、歩十三・歩二十三・歩二百二十九は肉薄攻撃で反撃を行いますが米軍の圧倒的な物量に次第に損害が増加、8月4日、ムンダ飛行場を失陥してしまいます。
15日、米軍はベララベラ島に上陸を開始、今村中将はニュージョージア島・コロンバンガラ島から転進を決定、30日、ニュージョージア島の聯隊は歩二百二十九とともに大発・小発に分乗しコロンバンガラ島に転進、佐々木少将はコロンバンガラ島の安全確保のため歩十三をアルンデル島に派遣します。
9月15日、聯隊は大発によりアルンデル島に向かいますが、途中米軍に察知されてしまい激烈な砲撃を受け聯隊長・友成敏大佐は散華してしまいますが、同島に上陸した聯隊は米軍に損害を与え侵攻の拒止に成功します。
聯隊はコロンバンガラ島に集結し、9月18日から開始された陸海軍共同のセ號作戰により大発・小発の舟艇機動でブーゲンビル島に転進、第六師團に復帰、戦力回復に努めます。

11月1日、米第1海兵軍団がブーゲンビル島西部タロキナ付近に夜明けとともに上陸を開始、師團長・神田正種中将は歩二十三聯隊長・濱之上俊秋大佐に反撃を命じます(第一次タロキナ攻撃)が、米軍の迫撃砲による連続射撃により再三攻撃は遅滞、歩二十三は敵砲撃射程外に集結し再興を期しますが第八方面軍命令により作戦は中止されます。

昭和19(1944)年2月11日、第十七軍により第二次タロキナ作戦の命令が下令され、聯隊は牟田部隊(聯隊長・牟田豊治大佐)として第一大隊(神埼覚少佐)・第三大隊(鉾ノ原武雄少佐)で米軍橋頭保に対し東側から攻撃する事に決し、第二大隊(内山精一少佐)を北側から攻撃を実施する岩佐部隊(歩二十三基幹、第六歩兵團長・岩佐俊少将)に編入します。

3月1日、第十七歩兵團により編成された井上支隊(第十七師團歩八十一第三大隊長・井上繁雄少佐)は米軍を牽制・陽動のためタロキナ西方のラルマ河河口に向け出発します。
8日、岩佐部隊が軍・師團砲兵隊の準備射撃の後、米軍橋頭保(約2個師団)北側に攻撃を開始したのに続き、10日、牟田部隊は右第一線として第三大隊が六〇〇高地を、左第一線として第一大隊が熊高地に攻撃を開始します。
第三大隊は六〇〇高地の奇襲に成功、兵力が1/3になる損害を受けながらも高地占領に成功します。
さらに12日、真方支隊(歩四十五基幹、聯隊長・真方勲大佐、攻撃開始後の12日に歩八十一第二、歩五十三第三大隊を配属)が北西から攻撃を開始します。

しかし、3方面とも航空機・戦車・迫撃砲を伴う米軍の激烈な逆襲により攻撃は頓挫、神田中将は15日、真方支隊正面に戦力を集中、牟田部隊は岩佐部隊に編入され第二線として待機、第一線部隊の攻撃は順調に推移しますが、またも米軍の戦車をともなう弾幕阻止射撃により攻撃は頓挫し甚大な損害が出てしまい、聯隊の投入は中止、25日、遂に攻撃は中止されます。
師團は9,548名で作戦に参加しますが、2,398名が散華、3,066名が負傷、聯隊は2,500名で参加、524名が散華、701名が負傷の損害が出てしまいます。

3月27日、第十七軍により時期態勢移行の新配置が定められ、越澤支隊(騎兵六基幹、越澤六郎大佐)が撤退援護にあたる中、聯隊は越澤支隊の後方、ジャバ河以南に配置(第一大隊は師團直轄としてエレベンタ)、爾後孤立したブーゲンビル島で自戦自活体制に入ります。

4月21日、越澤支隊が米軍橋頭保のタロキナ南方の最前線カリコバ峠北麓に布陣、歩十三第二大隊(鏡内明大尉、5月20日、聯隊に復帰)が指揮下に入り、米軍と接触を保ち飛行場の使用を妨害します。
6月30日、越澤支隊のアクに転進に伴い、聯隊は任務を引き継ぎ、師團により西地區警備隊(隊長:歩十三聯隊長・牟田大佐)が編成(歩十三600名基幹、野砲六1個大隊400名、輜重六2個中隊200名、師團第一野戰病院180名指揮下)され、北からカリコバ峠に第八中隊、第二大隊をモシナ(敵上陸の恐れがあるジャバに大隊から中隊単位で派遣)、聯隊本部をモシゲタ(同じくマワレカに歩十三・野砲六の大隊・中隊単位で交替に派遣)、第三大隊をトキノト(のちモシゲタに前進、マワレカの守備に)に配置し、米軍の侵攻に備えます。

11月22日、ブーゲンビル島の米第14軍はフィリピン方面へ転出し、オーストラリア軍第2軍団(スタン・S・サビジ中将)に交替します。
25日、豪第2軍団第3師団第29歩兵旅団が南下を開始、第八中隊の守備するカリコバ峠付近に侵攻を開始(中隊は1月下旬、ニギタンに後退)、同日、ジャバ河を越えジャバ(守備の第五中隊、交替に移動中の第七中隊、玉砕)、1月14日、激戦の後、歩十三第三大隊が守備するマワレカが占領され、昭和20(1945)年1月26日、聯隊本部のあるモシゲタに侵攻、30日、豪軍は聯隊後方のトコに上陸してきます。

聯隊は前後に敵を受けながら防衛線を収縮させ豪軍と連日激戦を展開しますが、2月25日、遂にモシゲタを放棄しプリアカ河左岸に後退します。


3月20日、第六師團長・神田正種中将はモシゲタを占領した豪軍が態勢を整理せずに、プリアカ河に侵攻中であるのを見て、準備不十分の敵の前進に乗じた攻撃を勝機と判断、プリアカ河畔において敵の侵攻意図を挫折させ、敵勢力を駆逐するためエレベンタ地区の師團隷下・指揮下全力挙げて短切な反撃を実施するためプリアカ作戰を発動します。

28日、急造の歩兵集成大隊を編成したた野砲六が豪軍前進陣地のパインを急襲し攻略、29日、歩二十三が豪軍拠点の豪州台後方のバラバラを攻略、4月1日未明、歩十三はプリアカ河を渡河、左翼に第一大隊、右翼に第二大隊、聯隊本部・第三大隊は第二大隊に続行し豪州台の東から、さらに歩二十三は西から、野砲六は南から、工六はバラバラからトコ方面(プリアカ河鉄橋を爆破)へ攻撃を開始します。
しかし、天明とともに豪軍の砲撃に阻まれ豪州台攻撃は遅滞、一旦敵の射程圏外へ後退、歩十三第一大隊長・神崎覺少佐が散華するなど大損害を受けてしまいます。

師團は右翼に歩二十三、左翼に歩十三、師團予備に野砲六を配置、火力による支援と奇襲・反復攻撃による豪州台攻略を企図します。
3日、聯隊は左翼に第一大隊、右翼に第三大隊、中央に第二大隊を配置し前進を開始、4日、野砲兵の支援射撃のもと、5日黎明、再び豪州台に攻撃を開始します。
歩十三・二十三は敵第一線を突破しますが、第二線で頑強な鉄条網と戦車を含む強力な銃砲火に阻まれ攻撃は遅滞、損害は増加し歩二十三聯隊長・河野孝次大佐が散華、歩十三聯隊長・牟田大佐は玉砕を覚悟、軍旗旗頭の菊の御紋を師團司令部に後送、軍旗を軍服の下に巻き手榴弾を準備しますが、突撃15分前に神田中将により後退が命じられます。

師團は豪第7歩兵旅団に大損害を与えますが、我が方も歩二十三聯隊長・河野大佐を含む幹部多数、1,000余名の損害を出してしまい、一時的に敵の侵攻を挫折させたものの作戦の初期目的は達成できず、第十七軍主力のあるエレベンタ地区防御陣地完成まで敵の侵攻を拒止するため、ハリハリ河東岸まで防御線を後退させます。
歩十三・二十三は野砲六第三中隊(三好博中佐)の撤退援護を受け、ハリハリ河東岸まで後退、第一大隊はエレベンタに、聯隊主力はハリハリ河東岸のオノ東方地区で休養・再建を実施します。

4月下旬、第十七軍(神田正種中将、4月1日付で第六師團長より昇進)のブーゲンビル島南部のエレベンタ地区での決戦構想に基づき、聯隊は大隊編成(第二大隊は第五、第三大隊は第九中隊に編成、師團残留隊となっていた第一大隊は第一中隊)に改編されます。

4月14日、豪軍は第7歩兵旅団に替わった第15歩兵旅団が侵攻を開始、野砲六第三中隊の守備するパイン、トキノトの陣地に激烈な空襲・砲撃を加え侵攻を開始、歩兵化した野砲六第五中隊(中釜中尉以下50名)と野重四集成1個大隊(100名)は反撃に転じますが戦車と激烈な砲撃に阻まれ玉砕してしまいます。

25日、さらに豪軍は戦車を先頭にボンゴライ河に向け侵攻、苦戦する野砲六救援のため歩十三により編成された木下部隊(木下西舟少佐、歩十三140名、工六20名)・野重四第二大隊(猿渡榮治少佐)はボンゴライ河西岸に渡河、
野砲六とともにし巧みに対戦車砲を隠蔽し反撃、敵戦車数両を撃破、豪軍に損害を与えるも豪軍は増援部隊を投入、機動力を生かしボンゴライ河東岸に迂回、木下部隊の後方に侵入したため、5月22日、部隊は遂に後退します。
6月4日、ハリハリ河の歩二十三が戦車を伴う豪軍により突破されてハリハリ河東岸からモビアイ河西岸まで浸透されてしまいます。

第十七軍は豪軍の侵攻をミオ河西岸で拒止、エレベンタ地区における決戦準備を容易にするためミオ作戰を策定、6月26日、師團はシンガロキに司令部を前進、隷下部隊に攻撃を命じます。

歩十三、歩二十三、野砲六は縦深陣地を構築し、敵戦車を第一目標とし侵攻を続ける豪軍の拒止につとめますが、戦車と敵砲兵の弾幕射撃に徐々に後退、29日、豪軍は歩十三の後方に侵入し補給路が遮断されてしまいます。

6月下旬からの豪雨と師團の挺身攻撃により豪軍の侵攻は遅滞、7月8日、敵中に孤立した歩十三は牟田聯隊長以下残存全兵力200名により特別攻撃隊を編成、タイタイ北方地区において敵補給線の擾乱にあたるなか、8月20日、停戦を迎えます。
24日、ミオ河畔において軍旗を奉焼、71年の聯隊の歴史を閉じました。
約4,000名でブーゲンビル島に進出した聯隊の停戦時の兵力は聯隊長・牟田豊治大佐以下438名でした。


歩兵第百十三聯隊(熊本時代=通称号なし)
昭和13(1938)年5月15日、歩兵第十三聯隊留守隊により編成(田中聖道大佐)、5月23日、宮中において軍旗を拝受、6月2日、漢口に向け進撃を開始した第六師團の後方連絡線確保のため、留守第六師團により6月2日に編成された第百六師團(松浦淳六郎中将)に隷属します。

6月2日、師團とともに熊本駅を出発し門司に集結、中支に向かい長江を遡上し江南地区の警備にあたりつつ、応急訓練を実施します。

7月4日、師團は第十一軍戦闘序列に編入され、聯隊は湖東に集結、7月24日、九江攻略戦、8月4日、大天山攻略戦に参加しますが、作戦地が山岳地帯のうえ道路が無いため輓馬での火砲牽引を断念した野砲兵百六聯隊を工兵第百六聯隊とともに支援、火砲の一部を臂力搬送で前進、金家山攻略戦に参加しますが、国府軍の激烈な攻撃で進撃は遅滞、8月6日、聯隊長・田中大佐以下大隊長など幹部多数が散華、馬鞍山は数次に渡る敵味方の奪還を繰り返す激戦となり、聯隊は九江の戦闘で大きな損害を受けてしまいます。
27日、師團は第十一軍より迫撃砲大隊・重砲兵聯隊の増強を得て、第九師團の前進に呼応し国府軍に攻撃を開始、敵の頑強な抵抗を受けますが、9月1日より攻撃が進展、2日、敵は敗走を始めたため追撃に移行、3日、馬廻嶺に進撃します。
師團は戦力の回復に務めるとともに第十一軍により山砲兵第五十二聯隊の配属を受け、9月20日、徳安攻撃中の第二十七師團の援護を命じられ、25日、馬廻嶺から西進を開始します。

しかし、悪天候による泥濘悪路に阻まれ前進は遅滞、28日、後方連絡線が途絶、さらに航空部隊との連絡も困難となります。
10月3日、有力な国府軍と遭遇し包囲を受けた師團は雷鳴鼓刘に孤立、さらにマラリヤ・大腸炎が蔓延、第十一軍による空中補給を受けるなか、17日、第二十七師團により救出されます。
18日、聯隊は甘木関に集結して補充兵により戦力の回復を図ります。
24日、第百一師團は徳安河の渡河を開始、27日、徳安を攻略します。

31日、第十一軍は師團に第百一師團とともに追撃を下命、11月1日、聯隊は追撃を開始し白槎街に進撃、軍命令により警備にあたり事後の作戦準備を行い、11月下旬、陽新、田家鎮、武穴などに移駐します。

昭和14(1939)年2月中旬、第十一軍の南昌作戦に参加、師團は第百一師團とともに徳安南方に集結、3月19日、修水の渡河準備が完了、20日、渡河、安義及び奉新の敵を追撃中に聯隊長・飯野賢十大佐が散華してしまいます。
23日、安義・奉新を攻略、26日、ジャク江を渡河、師團は27日、浙ジャク鉄道を遮断、第百一師團が南昌を攻略します。
28日、高安方面に国府軍の行動の兆しが表れた、29日、高安に転進し周辺の敵を撃破、4月2日には高安城を攻略します。

中支における中央政権(汪兆銘政権)樹立の政略に寄与すべく、国府軍第九戦区軍を撃滅して蒋介石の抗戦意欲を破砕するため、第十一軍は贛(かん)湘會戰を発動します。

聯隊は師團とともに軍主力の会戦援護のため、9月14日、富館付近に進撃、26日、白沙坪、大埠橋攻略戦に参加、10月4日、石街-沙窩舗の線に進出します。
第十一軍は掃討作戦後、反転を開始し新墻河以北の旧警備地区に転進、10月中旬、師團とともにも旧警備地区の安義地区に復帰します。

11月、第百六師團は内地帰還の内命を受けますが、12月20日、師團は南支の第二十一軍戦闘序列に編入され第三十三師團と警備を交替し南支に移駐、広東・増城周辺の警備に就きます。
昭和15(1940)年2月9日、南支那方面軍が新設、師團はその戦闘序列に編入され、3月4日、汕頭方面での掃討作戦に参加、14日、作戦終了後、昭和15(1940)年3月9日、師團とともに熊本に凱旋し、4月11日、復員完結、17日、第百六師團の廃止に伴い歩兵第百十三聯隊は廃止され、軍旗を奉還します。

9月27日、福岡において再編成(松井秀治大佐)され、再び軍旗を拝受、第五十六師團(渡辺正夫中将)に隷属します。
大東亜戦争開戦とともにビルマ方面作戦に参加、国府軍・英軍と交戦し当地で停戦を迎えます。
(詳細は福岡の探索記事で記載します。)


歩兵第六十四聯隊(旭一一一一、滿洲第十八部隊)
明治38(1905)年7月18日、歩兵第十三聯隊留守隊において編成(太田榮次郎大佐)、8月8日、宮中において軍旗を拝受、第十六師團(山中信儀中将、京都)に隷属します。
8月10日、第四軍(野津道貫大将)戦闘序列に編入され明治三十七八年戰役(日露戦争)に参加のため滿洲に出征しますが、戦役はほぼ終結していたため戦闘に加わることなく、9月5日、講和条約が締結されたため、10月18日、關東総督(大島義昌大将)の隷下に編入され滿洲の警備に当り、明治39(1906)年、内地に帰還、都城に転営し第六師團に転属されます。
大正14(1925)年5月11日、軍縮(宇垣軍縮)により廃止され、軍旗を奉還します。

昭和13(1938)年4月4日、歩兵第十三聯隊留守隊により編成(山縣武光大佐)、軍旗を再拝受し、支那事變による占領地の警備・治安維持を実施するため7月11日、編成完結した第二十三師團(小松原道太郎中将)に隷属します。

編成完結後、師團とともに滿洲國興安省海拉爾(ハイラル)に屯営していた騎兵旅團が支那戦線に出征したため、騎兵旅團の交替として海拉爾の警備にあたります。

昭和14(1939)年5月11日、外蒙軍がノモンハン付近で満洲との国境であるハルハ河を渡河し越境、警備にあたっていた満洲國軍騎兵隊と交戦しノモンハン事件が発生します。

小松原中将はモンゴル軍を駆逐するため東支隊(東八百蔵中佐:師團捜索隊、満洲國軍騎兵隊)を派遣、15日、支隊はノモンハンに到着しますが、蒙古軍は存在しなかったため撤収します。しかし、支隊の帰還後、再び外蒙軍が越境、国境上空では我が軍とソ連軍との空中戦が開始されます。

5月21日、小松原中将は、歩兵第六十四聯隊第三大隊を基幹とする山縣支隊(歩兵第六十四聯隊長・山縣武光大佐:歩六十四第三大隊、東支隊、師團輜重隊、満洲國軍騎兵隊の2,082名)を派遣します。
28日、ソ連・蒙古軍を包囲殲滅するため、東支隊は敵中に陣地を構築、山縣支隊主力も敵第一線陣地を突破し前進を開始しますが、ソ連軍は援軍を投入してきたため前進は遅滞、29日、敵中に孤立した東支隊は東中佐以下220名が玉砕してしまいます。
6月1日、戦線が膠着するなか、山縣支隊は東支隊の生存者を収容し一旦、撤退します。

17日、ソ連軍機が越境し寿寧寺(カンジュル廟)、アルシャンを爆撃を開始したため、關東軍は聯隊を安岡支隊(第一戰車團長・安岡正臣中将:戰車第三・第四聯隊、歩二十六=第七師團)に編入、ハルハ河を渡河(左岸)し敵の退路を断ち、ホルステン川岸で敵を包囲殲滅を企図します。

7月2日、第二十三師團隷下の第二十三歩兵團(小林恒一少将:歩七十一・第七十二聯隊)がハルハ河の渡河を開始、3日、架橋に成功し前進を開始、外蒙騎兵第6師團を後退させますが、ソ連軍増援部隊の装甲車が出現、我が軍は速射砲と火炎瓶による肉薄攻撃により100両余を撃破炎上させるも、我が方も損害が増加、4日、師團に同行し作戦指導に当っていた關東軍参謀副長・矢野音三郎少将の指示によりハルハ川を渡河(右岸)しフイ高地付近に集結します。

一方、ソ連軍もハルハ河を渡河(右岸)し我軍の側撃を企図し、2日に渡河してきます。
安岡支隊の戰車第三・第四聯隊が逆襲しますが、火砲に勝るソ連軍の防御砲火に阻まれ攻撃は進展せず損害が増加、6日、遂に後退、9日、關東軍命令により支隊は解隊され撤退、歩六十四も第二十三師團に復帰します。

5日、師團は安岡支隊の増援・交替としてハルハ川右岸を南下しつつソ連軍陣地に攻撃を開始、敵の砲撃が止む夜間に夜襲を決行、徐々に敵陣地を攻略していきます。

23日、關東軍は一気に敵砲兵力を撃破するため砲兵團(關東軍砲兵司令官・内山英太郎少将)を投入、師團は火砲援護のもと総攻撃を開始しますが、敵陣を見上げる地形に砲兵團は苦戦、また弾薬も不足するに至り次第に敵火砲に押され攻撃は僅かに進展したのみで、26日、攻撃は中止され冬営に向けた陣地構築に移行します。
北から、フイ高地に第二十三師團捜索隊、ホルステン川の北のバルシャガル高地に歩六十四・七十二・野砲十三、ホルステン川南に第八國境守備隊・歩七十一、さらにノモンハンの南65kmのハンダガヤに歩兵二十八(第七師團)が配置されます。

8月4日、ノモンハン戦の指揮のために第六軍(荻洲立兵中将)が新設され、師團は第六軍隷下に編入されます。

8月20日、兵力・物資の集積を着実に行いつつ我が陣地構築を妨害していたソ連軍が兵数に劣る我が軍を包囲殲滅(中央は歩兵で我が軍を拘束、両翼に装甲車を集中し包囲殲滅)するため、爆撃と砲撃の後に本格的な侵攻を開始、最北のフイ高地に位置した師團捜索隊は敵中に孤立し井置栄一中佐は自決、24日夜、生存者が敵の包囲を突破します。

24日、荻洲中将は右翼隊の歩七十一・歩七十二(第二十三歩兵團・小林恒一少将指揮)を歩二十六・歩二十八の守備するホルステン川南のノロ高地に派遣しソ連軍右翼隊に反撃しますが、敵の激烈な攻撃に損害は増加、26日、歩七十一聯隊長・森田徹大佐が散華、30日、聯隊長代理・東宗治中佐は軍旗を奉焼し、残存兵力を率いて突撃、玉砕を遂げてしまいます。

26日、敵戦車の攻勢に北のバルシャガル高地が、27日、南のノロ高地が包囲されてしまい、我が軍はソ連軍に包囲され、個々の陣地も寸断、孤立してしまいます。

26日夜半、ノロ高地の第八國境守備隊長・長谷部理叡大佐は自決、29日夜、バルシャガル高地に孤立した歩六十四では、聯隊長・山縣武光大佐が生存者に敵包囲を突破し後退を命じ、軍旗を奉焼し自決、野砲十三聯隊長・伊勢高秀中佐も脱出に失敗し自決、脱出に成功した生存者はソ連側主張の国境線外において集結、陣地を構築し夜襲による逆襲を企図します。

9月3日、大本營は攻勢作戦の中止を命じ、9月16日、停戦協定が締結します。
我軍の損害は戦死:7,720/戦傷:8,664/戦車損失:約30/航空機損失:180、ソ連軍に与えた損害は戦死:約8,000/戦傷:約16,000名/装甲車両:約400/航空機:約350でした。

大損害を受けた聯隊生存者は師團とともに海拉爾に帰還、戦力の回復を実施、国境警備にあたります。

昭和16(1941)年7月2日、我が政府は御前会議において『情勢ノ推移ニ伴フ帝國國策要綱』を決定、隠密裏に対ソ武力行使準備を整え、独ソ戦の推移が有利に進展した際は武力を行使して北方問題を解決し、北方の安全を確保する方針を決定し、16日、特臨編第三號(第百二次動員)により第二十三師團に臨時動員下令(關東軍特種演習第二次動員)、28日、動員着手、企図を秘匿しつつ逐次応急派兵の態勢に移行するとともに、国境付近の要所確保の準備を開始、7月30~8月8日、編成完結、対ソ戦を見越した準備に着手しますが、8月9日、ソ連軍の西部移駐は予測以下なことから対ソ連開戦は中止され、『帝國陸軍作戰要綱』に基づき情勢の推移を見つつ、引き続き国境防衛の強化・訓練にあたります。

昭和19(1944)年10月11日、臨時編成が下令、23日、第二十三師團は關東軍戦闘序列を離れ、台湾防衛のため第十軍戦闘序列に編入、逐次台湾へ移動を開始しますが、捷一號作戰準備の発令に伴い第十四方面軍(山下奉文大将)に編入され急遽ルソン島への転進が決定します。

11月14日、師團隷下部隊は特殊船「神州丸」、「吉備津丸」、「あきつ丸」、「摩耶山丸」に分乗しヒ八一船團に加わり伊万里湾を出港します。
15日、済州島付近で敵潜「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け「あきつ丸」が轟沈、聯隊は聯隊長・中井春一中佐以下2,046名を失ってしまいます。
17日、敵潜「ピクーダ」の雷撃を受け「摩耶山丸」が轟沈、師團司令部・野砲十七・歩七十二など3,187名を失ってしまいます。
25日、澎湖諸島東方で「神州丸」、「吉備津丸」は船団から分離し、26日、高雄に入港、30日、2隻はタマ三三船團を編成し高雄を出航、12月2日、サンフェルナンドに入港、4日、師團は第十四軍戦闘序列に編入されます。

ルソン島上陸後、聯隊はリンガエン湾に面したシソン西方高地に布陣し陣地構築を開始、米軍の上陸に備えます。

昭和20(1945)年1月4日、米軍機による爆撃、6日からは艦砲射撃が開始され、9日、米軍175,000名がリンガエン湾に上陸を開始、上陸地点近くのダクバンに布陣していた歩七十二第八中隊(塩月少尉)の1個小隊が包囲されたため切込を敢行し玉砕してしまいます。

聯隊はシソンに布陣した僚隊の野砲兵第十七聯隊の支援射撃を受けながら、圧倒的物量を誇る米軍上陸部隊をポソロビオにおいて拒止しますが、次第に敵の激烈な砲爆撃により損害は増加、25日、聯隊の玉砕を憂慮した山下大将により師團主陣地まで後退が下命されます。

2月下旬まで師團隷下部隊は圧倒的兵力の米軍の侵攻に各地で激戦を展開しますが、次第に隷下部隊の陣地は分断・包囲されてしまいます。
2月25日、師團は軍司令部の所在するバギオに続く国道11号に後退し布陣、獨混第五十八旅團とともに挺身切込・肉薄攻撃隊を編成し、米軍の拒止に努めます。

4月26日、軍司令部がバギオからカガヤン渓谷に転進、師團も軍司令部を追及しボコドに布陣、聯隊は追撃の米軍と交戦しつつブログ山南西山麓に布陣、自戦自活体制に移行、陣地構築中の9月10日、停戦を迎えます。


歩兵第四百二十一聯隊(護南二二四〇三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により5月23日、熊本師管區歩兵第一補充隊(西部第六十一部隊/旧歩兵第十三聯隊補充隊)により編成(渡邊美邦大佐)され(5月9日、軍旗を拝受)ます。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十六師團(坪島文雄中将)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である鹿児島県薩摩半島枕崎海岸松崎に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月26日、復員完結します。


歩兵第四百二十四聯隊(護南二二四〇六)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第一次兵備」により5月23日、熊本師管區歩兵第一補充隊(西部第六十一部隊/旧歩兵第十三聯隊補充隊)により編成(榊俊徳中佐)され、6月7日、軍旗を拝受します。

2月28日、軍令陸甲第三十四號『在内地、朝鮮師團、獨立混成旅團及師管區部隊等臨時動員編成改正、称號変更並第三二八次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された沿岸配備師團である第百四十六師團(坪島文雄中将)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である鹿児島県薩摩半島枕崎海岸河辺に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月26日、復員完結します。


歩兵第五百十聯隊(阿蘇三二四〇三)
昭和20(1945)年1月20日、決號作戰(本土決戦)に向け策定された『帝國陸海軍作戰計畫大綱』による「第二次兵備」により4月2日、熊本師管區歩兵第一補充隊(西部第六十一部隊/旧歩兵第十三聯隊補充隊)により編成(森園武夫中佐)され、6月11日、軍旗を拝受します。

4月2日、軍令陸甲第六十一號『第二百一師團等臨時動員、第三三五次復員要領』に基づき、留守第四十六師團により臨時動員された機動打撃師團である第二百六師團(岩切秀中将)に隷属します。

聯隊は師團の作戦地である薩摩半島伊集院に進出、陣地構築中に停戦を迎え、9月27日、復員完結します。


編成(歩兵以外、大隊以下)、補充を担当した部隊
歩兵第百二十三聯隊(靜一一九六二)(昭和13年5月15日)

第六師團第六陸上輸卒隊(波八六二八)(昭和13年9月7日)

第十一軍野戰病馬廠(呂六一一八)(昭和14年8月22日)

歩兵第二百二十五聯隊(冬三五四三)(昭和14年9月13日)

第百四十八停車場司令部(森七〇三四)(昭和16年7月7日)
第百四十九停車場司令部(線三四〇〇六)(昭和16年7月7日)

第十二國境守備隊(城一五二五三・滿洲第九百二十七部隊)(昭和16年7月10日)

第二十野戰貨物廠(岩二六四七)(昭和16年7月16日)

患者輸送第六十一小隊(富七〇〇七)(昭和16年9月24日)
患者輸送第六十二小隊(林七〇〇八)( 〃 )

第十八野戰郵便隊(森七〇五四)(昭和16年11月8日)

第五十一旅團司令部(廣二三〇六)(昭和17年2月2日)
獨立歩兵第九十二大隊(廣七三一二)( 〃 )
  〃 第九十三大隊(廣七三一三)( 〃 )
  〃 第百六大隊(廣七三一七)( 〃 )
第五十一師團病馬廠(廣二三〇九)( 〃 )

獨立歩兵第三百五十四大隊(抜一〇六八五)(昭和19年6月15日)
  〃 第百七十三大隊(抜一〇六八八)( 〃 )
  〃 第百七十四大隊(抜一〇六八九)( 〃 )
歩兵第七十七旅團作業隊(抜一〇六八七)( 〃 )
第百二師團病馬廠(抜一二四二三)( 〃 )

獨立歩兵第百七十五大隊(駿一〇六四一)(昭和19年6月15日)
  〃 第百七十八大隊(駿一〇六四四)( 〃 )
  〃 第三百五十七大隊(駿一七六一六)( 〃 )
第百三師團病馬廠(駿一二五二二)( 〃 )

獨立速射砲第二十大隊(尚武一七六五五)(昭和19年7月21日)

獨立混成第十八聯隊(境七〇六九)(昭和19年6月24日)

歩兵第二百七十八聯隊(英斷一五二五四)(昭和20年1月16日)

第百四十六停車場司令部(榮七〇三八)(昭和20年1月30日)

獨立歩兵第六百七大隊(進撃二三〇五五)昭和20年2月1日
  〃 第六百十大隊 (進撃二三〇五八)( 〃 )
  〃 第六百十三大隊 (進撃二三〇六三)( 〃 )
第百三十三師團病馬廠 (進撃二三〇七〇)( 〃 )

獨立軽装甲車隊(甲一五六五六)(昭和20年2月1日)

警備歩兵第十八大隊(幡七〇六八)(昭和20年2月6日)

第百五十五警備大隊(邱一五〇六七)(昭和20年2月6日)
第百五十八 警備大隊(邱七〇五九)( 〃 )

獨立歩兵第四百六十四大隊(八幡一二八八四)(昭和20年2月17日)

獨立歩兵第五百二十八大隊(震天二三〇八六)(昭和20年4月12日)
  〃 第四百七十七大隊(震天二三一四三)( 〃 )
第二百六師團衛生隊(阿蘇三二四一三)( 〃 )

獨立混成第百二十六旅團司令部(敬忠四二三三七)(昭和20年5月23日)
獨立歩兵第七百五十五 (敬忠四二三三八)( 〃 )
  〃 第七百五十六 (敬忠四二三三九)( 〃 )

第百四十五停車場司令部(榮七〇三七)(昭和20年6月14日)

第百五十停車場司令部(線三四〇〇七)(昭和20年6月14日)

第十七軍馬防疫廠(森七〇五五)(昭和20年7月16日)

第六十一要塞歩兵隊(小笠原要塞配備、詳細不明)


主要参考文献
『歩兵第十三聯隊史』(大正12年2月 帝國聯隊史刊行會)

『歩兵第十三聯隊史』(昭和50年 森田正則)

『わが聯隊―陸軍郷土歩兵聯隊の記録 写真集』(昭和53年10月 ノーベル書房)

『日本陸軍連隊総覧』(平成2年9月 新人物往来社)

『熊本県史 近代編第1~第4』(昭和36~38年 熊本県)

『熊本兵団史 西南の役から第二次世界大戦まで』(昭和51年 熊本日日新聞・熊本兵団史実行委員会)

『旧帝国陸軍部隊一覧表 軍令付特設版』(平成8年 大内那翁逸)

『帝国陸軍編成総覧』(昭和62年12月 上法快男編 芙蓉書房)

陸上自衛隊 北熊本駐屯地 防衛館展示資料
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Author:盡忠報國
大阪在住、遂に40代になってしまった男児です。

 明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達。
 光輝ある精強・帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、そして祖国の弥栄を願い悠久の大義に生きた殉国の英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介するとともに、戦後歪められた先人達、国軍・軍人の名誉を回復する事を目指し記述しています。

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